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第2部 神の愛娘

第2章 雨に滅んだ街 5

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 翌朝。
 トリニティは神殿の復旧作業のため、慣れぬ手つきで水桶を運んだ。こんな事をするのは生まれて初めてのことで、すぐに掌に豆が出来て痛んだが、それでもこんな自分にも出来ることがあると喜びに胸を満たして、懸命に作業に従事した。

 井戸は神殿の中庭ではなく、奥まった場所の小さな広場にあった。そこに妹のセリスが控えていて、次に水桶を取りに来る者の為に井戸から水を汲んでいるはずだった。
 柱と柱の間から井戸が見え、その隣に水桶を脇に置いて所在無げに立つセリスの姿が見えた。
 旅で汚れたパリウムではなく、ぺプロスを纏っている。なんの染色もない毛織物だが、ドレープが美しい。日の光の中に立っているので、ぺプロスの白が目に眩しかった。
 さらりと流れる癖のない白銀の髪が風に揺れるその様は──天使や悪魔を別として──きっと、人間の中では格別に清楚で美しいだろう。姉のトリニティが見ても、そう思えるのだから、男たちの目には尚更だと思われた。
 柱の向こうの影から、ルイスが先に現れた。二人ともトリニティには気付いていないようだが、閑静な場所なので彼らの声はトリニティのところまで十分に届いた。
「どうしたんですか姫君」
 ルイスはやけに紳士的な態度でセリス王女に近づき、脇の水桶を覗き込んだ。
「ひと休憩ですか」
「……不器用で……何度やっても、上手く汲めませんの」
 水桶の中身は空っぽか、少量の水しか入っていないのだろう。ルイスが請合うように頷いた。
「俺が汲みますよ」
「まあ、ありがとうございます」
 男の力であっという間に水が汲み上げられると、セリスははにかむ様に微笑んだ。男ならきっと、誰でもうっとりするような微笑だ。事実、ルイスの鼻が倍の長さに伸びた、とトリニティは判じた。
「いいっていいって。じゃ!」
 片手をあげてルイスが去ってゆく。その頃にはもうトリニティは井戸のすぐ近くまで来ていた。
「あら」
 セリスが気付いて振り返った。にっこりと微笑む。
「水なら汲み終わっていますわ」
 つい今しがたルイスが汲んでくれた水だ。トリニティは既に何度かここで水を受け取っているが──妹のペプロスを上から下まで満遍なく眺めた──セリスの手も、服も、どこにも水しぶき一つついていないし、汗一つかいている様子もない。
「……さっきからこの調子でやってたのね」
 ギロリと睨みあげても、堪えた風もなく涼やかに微笑んでいる。
「何のことでしょう」
「他の連中は騙せても、あたしには通用しないわよ! あんたってば……十年も修道院に入ってたのに、その性根は結局治らなかったのね!」
    トリニティが噛み付くように言っても、セリス王女の相好は崩れない。そっと片手を頬にあて、そして──。
「お姉さまの方こそ。八年も塔に幽閉されていて、その傍若無人な態度は改まりませんでしたのね」


 二人の間に長い沈黙が落ちた。


 普通は他人に向かって言う事も憚られるそんなセリフをさらりと言っておいて、妹王女は相変わらず涼やかで儚げな笑みを崩さない。
「わたくし驚きましたわ。お姉さまが城を抜け出されたと聞いた時には。……わたくしがもしお姉さまの立場でしたら、きっと塔から出るなんて事は考えられませんもの。醜く老いたその姿を人目に晒すなんて……」
 セリス王女の可憐な紫の瞳が、無邪気にトリニティを見つめる。これだけの毒を含んだセリフを語りながら、妹王女は本当に──無邪気そのものだ。
 瞳に込める色には何の悪意もないし、声色には嫌味な響きさえない。
 ただ幼い子供が毒のある言葉を意図せず無邪気に語るように──まさにそんな感じで、セリス王女は話すのだ。
 ──だからこそ、最悪なのよ。そうトリニティは思った。
 妹は昔からこうだ。修道院に入れられた頃はまだ妹は六歳だった。あの頃なら、それも『子どもだから』で済まされたろう。だが今は違う。いま妹は十六歳で、もう大人だ。大人でこれでは害悪にしかならない。
 しかも始末の悪いことに、妹のこの性格を知る者は少ない。
 トリニティは声をひねり出すように言った。
「あんたねぇ……! 修道院では『分別』ってものを教えなかったの?」
 姉に言われて、セリス王女はやや不快そうに眉を寄せた。
「自分の立場を悪くしてまでついて来た妹に、そんな言葉しか掛けられませんの? ──わたくしが助けを勇者ワーナーに求めなければ、お姉さまは今頃ドンジョンで儚くなってましたのよ?」
 これには返す言葉もなく、トリニティは唸った。
 その通りだ。
「そ、それについては……礼を言うわ」
「あら」セリス王女はちょっと肩を竦めた。「相変わらず矜持が高くていらっしゃるのね。……妹には頭も下げられませんの? それともそんな必要もないとでも?」
「そ、そんなことないわ!」
「そうじゃありませんの。妹にきちんとお礼の言葉も言えないなんて。なんてつまらない矜持でしょう」
 さらりと妹に言われて、トリニティはさらに言葉を詰まらせた。癪に障ることこの上ないが、その通りだから言い返せない。
「捨ててしまった方がよろしいんじゃありませんの?」
「そ、その」震える手を握り締め、トリニティは深々と頭を垂れた。「助けてくれてありがとう。お礼を言うわ」
 怒りに震える声で何とかその言葉をひねり出す。腹が立つのは図星を指されたからだ。本当は自分で分かっていることだから、ここで怒りに身を任せて妹に乱暴な口のきき方をすれば、それは単なる八つ当たりに過ぎないことになる。
 そんなことは、それこそ自分の矜持が許さなかった。
「よろしくてよ」
 セリス王女がにこやかに微笑んで満足そうに頷いた。
「たった一人の妹ですもの。姉を助けるのは当然のことですわ」
 何の裏も含むところもない笑みだ。
 トリニティはそろり、と息を吐き出して体の緊張を解いた。
「修道院から呼び戻されたのね」
 本当はもっと早くに。きっと一番最初に聞くべきはずのことだったが、たったいま妹に一蹴されたばかりの矜持が邪魔をして言えなかった言葉だった。
「ええ。──きっとまた、わたくしを誰かと結婚でもさせようというんですわ。……かなり話が進んでいるのではないかしら。だから邪魔になったお姉さまを早急に処分して、嫡子を継がせたかったのでは」
 セリス王女は六歳の時に政治上の婚姻をしている。……結局、それがもとで修道院に入れられるようなことになったのだが。
「第二王女なんて政治の道具でしかないと、分かってはいますけれど」セリス王女は無造作に髪を掻き揚げた。「本当に──馬鹿みたいですわ」
 終わりの言葉は、真実、彼女の言葉だろう。
「証……欲しいの?」
 トリニティが言うと、セリスは拗ねた様にそっぽを向いた。
「いりません。──わたくし、嫡子になりたければ、そんなものなくてもなって見せますわ」
「……でしょうね……」
 トリニティは溜息をついた。妹は昔からこうだった。外見とは裏腹に豪胆で行動力に富む。
「──でも、本当にいいの?」
「……何がですの?」
「城の方よ。あなたまで出て行ったことは、お父様ももう知ってるでしょ? お父様はきっと許さないわ」
「──」
 セリス王女は何の心配もしていなさそうに再び微笑んだ。
「大丈夫ですわよ。わたくし、お姉さまと違って、ちゃんと上手くやれますもの」
「そりゃあ、あんたは世渡り上手でしょうけど……。お父様までその手は通じないんじゃないの?」
 父親は妹の性格を知る僅かな人数のうちの一人だ。
「大丈夫ですわ」
 セリス王女はもう一度、鷹揚に微笑んだ。あまり状況を把握していないような妹の様子にトリニティは溜息をついた。
「──城はどうなってるのかしら。勇者ワーナーは?」
 トリニティは城に思いを馳せ、空の遠くを見上げた。
 本当に多くの事がいっぺんに流れた。
 流れすぎて、トリニティの頭の中ではまだ整理さえついていない。だがたぶん。きっと。時はあまり待ってはくれず、それらの事は早急に整理検討し、決めてしまわなくてはいけないのだろう。

 空は晴れ渡り、雲ひとつない。
 地上に生きる人間の想いなど一向に意に介さず世界は今日も巡っていた。

(続く)
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