背徳のスプリンター

プラセボ効果

『告白』大嶋豊

  私は羽生さんの部屋でいきなり、こう告げました。「ドーピングしませんか？」と。国内では無敵を誇る羽生さんですが、世界大会となると途端にダメになる。恐らく、幼い頃から自分の前に人が走っている経験がゼロに近いからなんでしょうね。オリンピックの1次予選は圧勝しましたが、2次予選にピーター・ダグラスと同じ組になり、完全にフォームを崩したんです。このままではダメだと感じた私は、何かしなければならないと思いました。それで思い付いたのが「ドーピングしませんか？」なんです。訳の分からない事を言われれば、他の選手の事なんて気にせず走れるかも知れないと考えたんです。私はプライベートでも羽生さんと交流があったのですが、そんな事を言えば絶交されるかも知れません。でも、そんなのはオリンピックのメダルに比べれば小さな事で、いずれ分かってもらえる日が来ると思っていました。まあ、その為に急いでこの本を書き上げたってのもあります。話を戻しますが、私は羽生さんへ、検査に引っ掛からない興奮剤の新薬を飲まないかと薦めたんです。羽生さんは激昂して私の右手を叩き、ドーピング薬の入った袋を払い落としました。さすがだ、カッコ良い！  と感じましたね。当分、会話もしてくれなくなるかも知れないと思いましたが、この1件が世界大会で良い成績を残せないジンクスを打ち破ってくれれば、と考えました。え？  もし、薬を飲んだらどうするんだって？  もちろん、私はそんな薬を持っていません。ただのラムネを透明のジップ付き袋に入れて、それらしく渡そうとしたんです。まあ、万が一飲んだらプラセボ効果というものがあります。人間の体って不思議なもので、能力が上がる薬だと信じて飲めば、ただのラムネでも何故か効果があるんですよね。


翌年

「羽生さん、行きましょう」
「ああ」
俺は大嶋に先導されて控え室を出た。

  あの日、自殺を思いとどまれて本当に良かった。俺はウイスキーのキャップを空けた後、睡眠薬を飲むのを止める事が出来たんだ。死ぬのが怖くなったというのもあるのかも知れないが、自殺は逃げだと悟った。自殺をしても何も解決しない。家族や親族には迷惑を掛ける事になったが、自分の口から、大嶋が用意した偽のドーピング薬を飲んだという事を世間に告白した。自分への罰として、恥を晒さらして生きていく選択をしたんだ。過あやまちの1つや2つ、誰にだってある。大事なのはこれからだ。俺は引退を先送りにし、国民や家族に認めてもらう為、1年間、必死でトレーニングに励んだ。これが羽生飛鳥の集大成だ。
  競技場に入ると、眩まばゆい光と歓声が俺を包み込んだ。

「世界陸上男子100メートル1次予選。帰って来た背徳のスプリンター羽生飛鳥、第1組から早々と登場です」


了