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大嶋豊
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コンコンコン
ドアがノックされたようだ。
「はい?」
「大嶋です。羽生さん、ちょっとお話良いですか?」
こんな話し掛け難いタイミングで来るなんて、さすがはプロだと感じながら俺は思い腰を上げ、ドアを開けに行く。
ガチャ
ドアを開けると、神妙な面持ちで大嶋が立っていた。
「どうした?」
「ちょっと中でお話良いですか?」
「ああ」
俺は大嶋を部屋に入れ、何か飲み物でも出そうかと思った時だった。
「羽生さん……ドーピングしませんか?」
「は?」
何かの聞き間違いだと思った。ドーピングを……何だって?
「羽生さん。検査に引っ掛からない興奮薬があります。使いませんか?」
「バカかお前……」
どうも冗談では無いらしい。顔が真剣だ。
「今回の大会で引退するつもりですよね? 今のままだと、気持ち良く引退するってのは無理です。後味の悪い引退レースになっちゃいます」
「バカ過ぎる……ドーピングした方が後味が悪くなるだろ!」
俺は語気を強めて言った。
「検査に引っ掛からない新薬です。これを飲めば銀メダル……いや、ダグラスにも勝てるかも知れません」
大嶋はポケットから透明のジップ付き袋を取り出し、俺に差し出した。錠剤が1粒入っているのが見える。
バシッ
俺は右手で大嶋が差し出した右手を叩いた。錠剤の入った袋は壁に当たった後、ゆっくりと床に落ちた。
「出ていけ」
俺は首をクイッとドアの方へ動かし、静かに言い放った。
「すみません……。羽生さん、頑張ってください」
大嶋は一礼をして部屋を出ていった。
あいつは一体何がしたかったんだ? 専属トレーナーがドーピングを薦めるなんて……。検査に引っ掛からない新薬だって? そんな物が蔓延したらスポーツ界はどうなるんだ?
俺の頭の中は、色んな事が駆け巡って訳が分からなくなった。さっきまでは、ふざけた事を言う大嶋に腹が立っていたが、あいつは何の考えも無く、こんな事を言うやつじゃない。間違った結論だとしても、俺の事を考えて言ってくれた事なのだろう。俺が今大会を最後に引退するという雰囲気を感じ取れる程の間柄なのだから……。
翌日、準決勝
昨日の一件があったからなのか、俺は吹っ切れた感がある。ウォーミングアップでも体が軽い。そして……。
「遂に日本のエース羽生の登場です。男子100m準決勝最終第3組。上位2着までなら決勝進出、3着以下なら他の組のタイムと比べて上位2名までが決勝進出です。現在のところ、10秒01であれば3着でもタイムで決勝進出になります。羽生のベストタイムは9秒97なので、充分可能性はあります。羽生、歴史を変えてくれ!」
「On your mark……Set……」パン!
勢いよく飛び出し、ギアをチェンジする。2レーンというのが功を奏したのか、視界には横の人物が入らない。いける!
俺はゴールを駆け抜けた。かなり接戦だったのは間違い無いが、横を見る余裕は無かったので何着かは分からない。だが、今年1の走りが出来た。これでダメなら悔いは無いという達成感がある。電光掲示板にタイムと順位が表示された。
2着……10秒15
実は第9レーンの選手が9秒台で抜けていて、2着争いは3人がほぼ同時入線だったようだ。
「決勝進出おめでとうございます!」
男性インタビュアーが笑顔で駆け寄ってきた。俺も笑顔でいくつか質問に答えたが、心ここにあらずといった感じだった。何と答えたのか覚えていない。
「ありがとうございました。決勝も頑張ってください!」
俺は一礼をして競技場を後にした。控え室に戻るとチームメイトからも祝福を受ける。だが、その温かい拍手さえも気持ちがこもっていないような感じを受けてしまう。もちろん笑顔で対応したが、心の中はその表情と全く反対の事を考えていた。
10秒15だって? 遅すぎる……。最高の走りが出来たと思ったんだが……。
タイム的には決勝へ上がれるレベルでは無い。第3組が遅すぎただけだ。今まで目立ったスランプも無く、順調に来ていたのに、俺は初めて自分の能力が下がっているのではないかと感じた。
100m決勝
「さあ、日本のエース羽生の登場です。オリンピック男子100mでの決勝進出は日本人2人目となる快挙。羽生のベストタイムは9秒97。自身の持つ日本記録の更新となるか」
「ダグラス以外は混戦ですからね。何が起こるか分かりませんよ。銀メダルも充分考えられます」
「頑張れ羽生! オリンピック100m初のメダルを取ってくれ!」
「On your mark……Set……」パン!
「羽生好スタート……羽生先頭……羽生先頭……あーっとダグラスは足を痛めたか?! 羽生良い……羽生良い……行けるか? 残せるか? ゴール! どうだ~! 混戦……大混戦……分かりません。メダルは確実か?! ダグラスはレースを中断しています。肉離れでしょうか?! あっ、ビデオが流れるようです……いや~、微妙……分かりません。4人がほぼ同時です……えっ?! 勝った! やった! 羽生金メダル~! タイムは9秒96! 日本記録を更新しました! 羽生男泣き~! 両手で顔を覆って泣き崩れています。やりました! 羽生金メダル~!」
勝ったのか? 遂にオリンピックで金メダルを取れたのか? 俺は顔を覆っている指の隙間から電光掲示板を見た。9秒96……日本記録更新だ。だが、これは俺の力では無い……。
薬の力だ……。
そう……俺は薬に手を出してしまった。検査に引っ掛からない新薬という誘惑に負けてしまった。普通の心理状態であればドーピングに手を染める事は無いが、ベストレースが出来たと思った準決勝でタイムが上がらず、精神的に追い込まれてしまった。何もせず、ただ断トツのドベで恥を掻いて、日本国民を落胆させるぐらいなら、検査に引っ掛からない薬を飲んで、メダル争いをした方がマシだと思ってしまったんだ。魔が差すというのはこういう事なんだと身をもって思い知った。だが今、冷静になって思う。明らかに間違った判断だったと。ドーピングをした時点で、どの選手よりも劣っているのだと気がついた。だが、もう遅い。こうなってしまったからには金メダリストとして振る舞わないといけない。とにかく、ドーピングがバレた時、トラブルを少なくするよう努めなければ……。
ドアがノックされたようだ。
「はい?」
「大嶋です。羽生さん、ちょっとお話良いですか?」
こんな話し掛け難いタイミングで来るなんて、さすがはプロだと感じながら俺は思い腰を上げ、ドアを開けに行く。
ガチャ
ドアを開けると、神妙な面持ちで大嶋が立っていた。
「どうした?」
「ちょっと中でお話良いですか?」
「ああ」
俺は大嶋を部屋に入れ、何か飲み物でも出そうかと思った時だった。
「羽生さん……ドーピングしませんか?」
「は?」
何かの聞き間違いだと思った。ドーピングを……何だって?
「羽生さん。検査に引っ掛からない興奮薬があります。使いませんか?」
「バカかお前……」
どうも冗談では無いらしい。顔が真剣だ。
「今回の大会で引退するつもりですよね? 今のままだと、気持ち良く引退するってのは無理です。後味の悪い引退レースになっちゃいます」
「バカ過ぎる……ドーピングした方が後味が悪くなるだろ!」
俺は語気を強めて言った。
「検査に引っ掛からない新薬です。これを飲めば銀メダル……いや、ダグラスにも勝てるかも知れません」
大嶋はポケットから透明のジップ付き袋を取り出し、俺に差し出した。錠剤が1粒入っているのが見える。
バシッ
俺は右手で大嶋が差し出した右手を叩いた。錠剤の入った袋は壁に当たった後、ゆっくりと床に落ちた。
「出ていけ」
俺は首をクイッとドアの方へ動かし、静かに言い放った。
「すみません……。羽生さん、頑張ってください」
大嶋は一礼をして部屋を出ていった。
あいつは一体何がしたかったんだ? 専属トレーナーがドーピングを薦めるなんて……。検査に引っ掛からない新薬だって? そんな物が蔓延したらスポーツ界はどうなるんだ?
俺の頭の中は、色んな事が駆け巡って訳が分からなくなった。さっきまでは、ふざけた事を言う大嶋に腹が立っていたが、あいつは何の考えも無く、こんな事を言うやつじゃない。間違った結論だとしても、俺の事を考えて言ってくれた事なのだろう。俺が今大会を最後に引退するという雰囲気を感じ取れる程の間柄なのだから……。
翌日、準決勝
昨日の一件があったからなのか、俺は吹っ切れた感がある。ウォーミングアップでも体が軽い。そして……。
「遂に日本のエース羽生の登場です。男子100m準決勝最終第3組。上位2着までなら決勝進出、3着以下なら他の組のタイムと比べて上位2名までが決勝進出です。現在のところ、10秒01であれば3着でもタイムで決勝進出になります。羽生のベストタイムは9秒97なので、充分可能性はあります。羽生、歴史を変えてくれ!」
「On your mark……Set……」パン!
勢いよく飛び出し、ギアをチェンジする。2レーンというのが功を奏したのか、視界には横の人物が入らない。いける!
俺はゴールを駆け抜けた。かなり接戦だったのは間違い無いが、横を見る余裕は無かったので何着かは分からない。だが、今年1の走りが出来た。これでダメなら悔いは無いという達成感がある。電光掲示板にタイムと順位が表示された。
2着……10秒15
実は第9レーンの選手が9秒台で抜けていて、2着争いは3人がほぼ同時入線だったようだ。
「決勝進出おめでとうございます!」
男性インタビュアーが笑顔で駆け寄ってきた。俺も笑顔でいくつか質問に答えたが、心ここにあらずといった感じだった。何と答えたのか覚えていない。
「ありがとうございました。決勝も頑張ってください!」
俺は一礼をして競技場を後にした。控え室に戻るとチームメイトからも祝福を受ける。だが、その温かい拍手さえも気持ちがこもっていないような感じを受けてしまう。もちろん笑顔で対応したが、心の中はその表情と全く反対の事を考えていた。
10秒15だって? 遅すぎる……。最高の走りが出来たと思ったんだが……。
タイム的には決勝へ上がれるレベルでは無い。第3組が遅すぎただけだ。今まで目立ったスランプも無く、順調に来ていたのに、俺は初めて自分の能力が下がっているのではないかと感じた。
100m決勝
「さあ、日本のエース羽生の登場です。オリンピック男子100mでの決勝進出は日本人2人目となる快挙。羽生のベストタイムは9秒97。自身の持つ日本記録の更新となるか」
「ダグラス以外は混戦ですからね。何が起こるか分かりませんよ。銀メダルも充分考えられます」
「頑張れ羽生! オリンピック100m初のメダルを取ってくれ!」
「On your mark……Set……」パン!
「羽生好スタート……羽生先頭……羽生先頭……あーっとダグラスは足を痛めたか?! 羽生良い……羽生良い……行けるか? 残せるか? ゴール! どうだ~! 混戦……大混戦……分かりません。メダルは確実か?! ダグラスはレースを中断しています。肉離れでしょうか?! あっ、ビデオが流れるようです……いや~、微妙……分かりません。4人がほぼ同時です……えっ?! 勝った! やった! 羽生金メダル~! タイムは9秒96! 日本記録を更新しました! 羽生男泣き~! 両手で顔を覆って泣き崩れています。やりました! 羽生金メダル~!」
勝ったのか? 遂にオリンピックで金メダルを取れたのか? 俺は顔を覆っている指の隙間から電光掲示板を見た。9秒96……日本記録更新だ。だが、これは俺の力では無い……。
薬の力だ……。
そう……俺は薬に手を出してしまった。検査に引っ掛からない新薬という誘惑に負けてしまった。普通の心理状態であればドーピングに手を染める事は無いが、ベストレースが出来たと思った準決勝でタイムが上がらず、精神的に追い込まれてしまった。何もせず、ただ断トツのドベで恥を掻いて、日本国民を落胆させるぐらいなら、検査に引っ掛からない薬を飲んで、メダル争いをした方がマシだと思ってしまったんだ。魔が差すというのはこういう事なんだと身をもって思い知った。だが今、冷静になって思う。明らかに間違った判断だったと。ドーピングをした時点で、どの選手よりも劣っているのだと気がついた。だが、もう遅い。こうなってしまったからには金メダリストとして振る舞わないといけない。とにかく、ドーピングがバレた時、トラブルを少なくするよう努めなければ……。
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