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終わる商会と始まりと
6 アップルジャック商会。
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現在の会長であるイヴォンがものの見事に傾けてしまったアップルジャック商会は、実は創業百余年であり、そのイヴォンが三代目となってやっと老舗と謂われるようになった商会である。
なので、それほど歴史がある商会というわけではない。
最初は初代のニコラスが、空腹に喘いで腐り掛けのリンゴを口にし、だがそれが発酵してアルコールを含んでるのに気付いたのが切っ掛けであった。
元々この商業都市グレンカダムの周辺地域では地味にリンゴが栽培されており、それの加工品もそれなりに取り扱っている。
そしてそれはあくまでも「それなり」であって、特産と言えるほどではない。
そのことに目を付けたニコラスは、父親から地酒の製造を手伝わされていたこともあり、見様見真似でリンゴを使った酒を作り始めた。
因みに地酒の無断製造は違法である。
まぁ趣味で作って自分で嗜む程度ならば、自己責任ということで法に触れることはないが。
その酒造りは当然難航したのだが、あるときニコラスが一人の森妖精と出会ったことで、事態が一変する。
その森妖精はやたらと口が悪く、そして態度もその辺にいる粋がったバカ僧のようであったが、植物に関しての知識が凄まじく豊富であり、また発酵や熟成の知識も飛び抜けていた。
その彼の協力を得て、遂にリンゴ酒が完成したのだ。
完成したリンゴ酒の名を付けるにあたり、ニコラスはその森妖精の名を貰おうと提案したのだが、
「あらあら~、何処に行ったかと思ったらこんなところまで遊びに来ていたのね~。本当に困った人ね~。ごめんなさいね~、迷惑掛けていなかった~? さあ帰りましょうね~。あらあら~、どうして偉大なる黒のジャックの名を語っているのかしら~? これは後で『お・し・お・き♡』が必要かしら~?」
などとの~んびりな口調なくせにやたらと体術が優れている、その森妖精の妻を名乗る女性が、暴れる彼を物理的に黙らせて引き摺りながら連れ去って行ったという。
その口の悪い森妖精は、自身をジャックと名乗っていた。
そんな出来事に呆気に取られ、だがそれでも彼がしてくれたことには感謝していた。
だから、姓のないニコラスはその出来たばかりのリンゴ酒を商標登録するとき、自分を助けてくれたリンゴと彼に敬意を表し、自身をこう名乗った。
――ニコラス・アップルジャック――と。
そして商業ギルドへリンゴ酒を商標登録し、それを扱う商会として、アップルジャック商会を立ち上げたのである。
アップルジャック商会が取り扱っている商品はそんなわけでリンゴ酒なのだが、それは現在のようにアルコール度数が高いものではなく、元々はシードルと呼ばれるただのリンゴジュースを濃縮、発酵させて作ったアルコール度数の低いものであった。
それは現在も飲み口が良いためそれなりに人気があり、大々的にではないがそれなりに出荷している。
更にそれと同じように、シードルを二次発酵させることで炭酸ガスを含ませたスパークリング・シードルも、地味に人気だ。
余談だが、同等の工程を経て、だがアルコールは発生していない炭酸ガスを含む混濁したアップル・サイダーも、実は人気があったりする。
つらつらと並べたが、判り易く表記すると、以下のようになる。
リンゴを絞って濃縮還元させ、濾過して不純物を取り除いた「アップルジュース」。
それを濾過せずにアルコールが出ないように発酵させて炭酸ガスを含ませる「アップル・サイダー」。
アップルジュースを濃縮、発酵させてアルコールを発生させる「シードル」。
シードルを更に発酵させて炭酸ガスを発生させる「シードル・スパークリング」。
シードルをアルコール度数が高くなるまで濃縮して更に発酵させ、蒸留、醸造するリンゴ酒――商品名が商会を代表する銘の「ジャック・ブランデー」。
ニコラスはそれらアルコール度数の少ない酒や、ジュースやサイダーなどの製造には殆ど興味を示さず、只々度数の高い酒――ブランデーの製造に力を入れていた。
何故なら、自分が呑みたいから!
ニコラス・アップルジャックは、ただの酒好き飲兵衛だった。
そして二代目となる息子のカルヴァドスは、受け継いだ酒造を守りながらもリンゴを使った様々な加工食品を開発し、世に送り出した。
当初カルヴァドスは家業を継ぐ気はなく、趣味が高じて料理人となっていた。
それにニコラスも、カルヴァドスに家を継がせるなど一切考えておらず、ぶっちゃけ今現在自分が酒を呑めればそれで良いし、一代で商会が無くなっても構わないとすら考えていた。
もしこの酒蔵を欲しいと言う者がいたら、売り払ってしまっても良いとすら豪語する有様である。
つまりニコラスは、酒が呑めれば後はどーでも良いと考えている、刹那的な男であった。
それとカルヴァドスが家を継ぐ気がほぼ無かった理由として、彼は下戸であったのである。つまり、酒好き飲兵衛のニコラスとは、まるで正反対だったのだ。
だがそのカルヴァドスにも転機が訪れた。
帰省したあるとき、例によって昼日中から酒を呑んでいるニコラスに言われた一言、
「酒は人生を豊かにしてくれる。それが味わえないお前は人生の半分は損をしている」
それは完全に主観である。
カルヴァドスから言わせれば、酒代を使わないで済むし酩酊しないで正しく思考を巡らせられて時間を無駄にしないし、なにより酔っ払って他人に迷惑を掛けないから、酒を呑まないということは人生の倍以上得をしているのだ。
それにその程度で半分も損する人生など、それこそ大したことのない薄っぺらなものであるし、その程度の考えしか持てない人生なら半分どころか全損で損をしている。
そう捲し立てて激しく親子喧嘩を始めてしまい、最終的には「酒なんぞより旨い物を作ってやる!」と吐き捨てて、当時の彼が振る舞える最高の料理やデザートを作ってニコラスに提供したという。
結果的にはそれが切っ掛けで、アップルジャック商会は食品部門を打ち立て、更なる発展を遂げたのだった。
そして――三代目となったイヴォンだが、誰に似たのかはたまた誰にも似なかったのか、ニコラスのような商才もカルヴァドスのような料理の才も持ち合わせておらず、だが大手商会の跡取り息子として育った所為か放蕩の限りを尽くしていた。
だが不思議と異性間のトラブルはなく、そして無駄遣いをしているにも関わらず金銭面でも困窮するでもなく、そういうところだけは巧く立ち回っていた。
そして運命の日、イヴォンを一人の少女が訪ねて来た。
彼女は二ヶ月前よりこの商業都市グレンカダムに滞在していると言い、更に来たばかりの日にやたらと景気良く店の客全員に酒を振る舞う男に促されるまま、口当たりの良いジャック・ブランデーのカクテルを大量に呑んでしまって泥酔したという。
そして気付いた時にはベッドに寝ており、更に自分を相手に励んでいるイヴォンがいたと言った。
証拠の品として差し出したのが、アップルジャック商会役員のバッヂであり、それは丁度二ヶ月前にイヴォンが紛失した物だった。
心当たりがありまくるイヴォンは慌てて取り繕うのだが、自分が誘われたと言った瞬間、
「処女の小娘がお前みたいな調子の良いだけのバカ僧なんぞ誘惑するかー!」
一瞬にしてイヴォンの懐に飛び込み、僅か数センチメートルの間合いで拳を叩き込んだという。
その衝撃はイヴォンの体内に浸透し、更に威力が背に抜けその背の衣服のみが弾けるという、その道の達人ですら有り得ないものだった。
拳を突き出し呼吸を整えるその少女を見て、ニコラスの妻であるレミーが、まるで熱に浮かされているかのように頬を染めながら少女の手を取り、
「貴女、ウチに嫁に来なさい。ううん、来るべきよ! あの素行不良な莫迦孫を黙らせるのは貴女しかいないわ!」
などととんでもないことを言い始めたという。
だがそれはその少女にとっても好都合で、そもそもこの二ヶ月もの間は日雇いでしか働けていないため、定職は有り難かった。
それに――その少女は妊娠していたのである。
証拠がないと喚くイヴォンだが、ニコラスやカルヴァドスは既にイヴォンを見限っているため一切相手にはぜず、その少女をイヴォンの妻としたのだった。
因みに寝室は別で、この事件が起きて以降、イヴォンの部屋には外鍵が掛けられたという。
その少女――白金に輝き美しく流れる癖のない髪と、光の加減で色が変わる不思議な翠瞳が神秘的で、更にその容姿も神々しいばかりに美しかったために、ニコラスからは「バカ孫には勿体ない」と言われ、カルヴァドスに至ってはあと二十年早く出会いたかったと無念の涙を落とし、更には二人目の妻じゃダメかと妻のカミュに大真面目に相談して、「気持ちは判るけどダメよ」と窘めらるという珍事が起きたという。
その提案に関しては、別に少女はどっちでも良く、強いて言うならイヴォンの妻になるくらいなら料理上手で人間的にもしっかりしているカルヴァドスでも良いかなーとか考えていたりもしたらしいが。
その少女は、エセルと名乗った。
そしてその時に身籠っていたのが、のちのシェリーではない。
残念ながら、そのときの子は死産であった。
何故そのようになったのか、それは後に語る機会があるだろう。
そのような理由でアップルジャック商会に、一応は三代目の妻として入ったのだが、いきなりは何も判らないために、取り敢えずは下働きとしたのだ。
だが程なくして、カルヴァドスがニコラスに不可解なことを伝えた。
エセルが自分に様々な調理方法や菓子のアイデアを出して来る――と。
最初は素人娘の戯言だと思っていたが、可愛い嫁の言うことを聞くのも一興かと試しにやってみたところ、驚くほど美味しく出来上がったという。
まずエセルはパンを焼こうとしているカルヴァドスへ、牛の乳を容器に入れてひたすら振って出来た物を混ぜ込み、捏ねて空気を抜いた後に一時間放置して、膨らんだそれを成形したら更に一時間放置してから焼成すると良いと言った。
物凄い手間なのだが、牛の乳から取れるもの――バターは前もって作れば良いし、生地から焼成まで全て一人でやるのではなく、それぞれを専門にして流れ作業でやれば効率が良いと、妙に慣れた様子で料理人達に指示を出し始めた。
当然、なにも知らない小娘がと反感はあったが、余裕がないわけでもないからやってみようというカルヴァドスからの鶴の一声で、取り敢えずお試しということでやってみた。
結果、今までにないほど美味なパンが出来上がり、その美味過ぎるパンの製法を教示したエセルへ一斉に平伏したという。
その他にもエセルは色々な便利グッズやら新製品やらのアイデアを多数打ち出し特許を得て、これよりアップルジャック商会は黄金期を迎え、その規模を拡大して各地に支店を設けるまでに至ったのである。
だが十年前にニコラスが天寿を全うし、そして四年前に商品の移送中の事故によりエセルが帰らぬ人となり、その悲しみのためか更にカルヴァドスまでもが病に伏せて早過ぎる生涯を閉じてしまい、商会の全権はイヴォンに渡った――
以前の商会は前述した通りに各地に支店があり、そして主力であるリンゴ酒は元より食料品や食器類、まだ台所用品や調理用品、更にそれの便利グッズなども取り扱っていた。
その売り上げは他の追随を許さないほどであり、そしてエセル主導による商品開発も多数行われ、更に特許を取得することでその収益は莫大になっており、あと百年はなにもせずとも安泰だと言われていた。
だが実際は、エセルが齎した財産を、彼女亡き後に夫であるイヴォンが食い潰し、挙句種々様々あった特許でさえ売り払うという目も当てられない状態になってしまう。
そう――何もしないで余計なことをしたのである。
そのイヴォンだが、商業ギルドの黒い手帳に名を連ねられていることを、知る者は少ない。
例えまた商売を開始しようと登録しようとしても、ギルドからの補助は一切出ないのである。
そしてそれはまた、別の話し。
なので、それほど歴史がある商会というわけではない。
最初は初代のニコラスが、空腹に喘いで腐り掛けのリンゴを口にし、だがそれが発酵してアルコールを含んでるのに気付いたのが切っ掛けであった。
元々この商業都市グレンカダムの周辺地域では地味にリンゴが栽培されており、それの加工品もそれなりに取り扱っている。
そしてそれはあくまでも「それなり」であって、特産と言えるほどではない。
そのことに目を付けたニコラスは、父親から地酒の製造を手伝わされていたこともあり、見様見真似でリンゴを使った酒を作り始めた。
因みに地酒の無断製造は違法である。
まぁ趣味で作って自分で嗜む程度ならば、自己責任ということで法に触れることはないが。
その酒造りは当然難航したのだが、あるときニコラスが一人の森妖精と出会ったことで、事態が一変する。
その森妖精はやたらと口が悪く、そして態度もその辺にいる粋がったバカ僧のようであったが、植物に関しての知識が凄まじく豊富であり、また発酵や熟成の知識も飛び抜けていた。
その彼の協力を得て、遂にリンゴ酒が完成したのだ。
完成したリンゴ酒の名を付けるにあたり、ニコラスはその森妖精の名を貰おうと提案したのだが、
「あらあら~、何処に行ったかと思ったらこんなところまで遊びに来ていたのね~。本当に困った人ね~。ごめんなさいね~、迷惑掛けていなかった~? さあ帰りましょうね~。あらあら~、どうして偉大なる黒のジャックの名を語っているのかしら~? これは後で『お・し・お・き♡』が必要かしら~?」
などとの~んびりな口調なくせにやたらと体術が優れている、その森妖精の妻を名乗る女性が、暴れる彼を物理的に黙らせて引き摺りながら連れ去って行ったという。
その口の悪い森妖精は、自身をジャックと名乗っていた。
そんな出来事に呆気に取られ、だがそれでも彼がしてくれたことには感謝していた。
だから、姓のないニコラスはその出来たばかりのリンゴ酒を商標登録するとき、自分を助けてくれたリンゴと彼に敬意を表し、自身をこう名乗った。
――ニコラス・アップルジャック――と。
そして商業ギルドへリンゴ酒を商標登録し、それを扱う商会として、アップルジャック商会を立ち上げたのである。
アップルジャック商会が取り扱っている商品はそんなわけでリンゴ酒なのだが、それは現在のようにアルコール度数が高いものではなく、元々はシードルと呼ばれるただのリンゴジュースを濃縮、発酵させて作ったアルコール度数の低いものであった。
それは現在も飲み口が良いためそれなりに人気があり、大々的にではないがそれなりに出荷している。
更にそれと同じように、シードルを二次発酵させることで炭酸ガスを含ませたスパークリング・シードルも、地味に人気だ。
余談だが、同等の工程を経て、だがアルコールは発生していない炭酸ガスを含む混濁したアップル・サイダーも、実は人気があったりする。
つらつらと並べたが、判り易く表記すると、以下のようになる。
リンゴを絞って濃縮還元させ、濾過して不純物を取り除いた「アップルジュース」。
それを濾過せずにアルコールが出ないように発酵させて炭酸ガスを含ませる「アップル・サイダー」。
アップルジュースを濃縮、発酵させてアルコールを発生させる「シードル」。
シードルを更に発酵させて炭酸ガスを発生させる「シードル・スパークリング」。
シードルをアルコール度数が高くなるまで濃縮して更に発酵させ、蒸留、醸造するリンゴ酒――商品名が商会を代表する銘の「ジャック・ブランデー」。
ニコラスはそれらアルコール度数の少ない酒や、ジュースやサイダーなどの製造には殆ど興味を示さず、只々度数の高い酒――ブランデーの製造に力を入れていた。
何故なら、自分が呑みたいから!
ニコラス・アップルジャックは、ただの酒好き飲兵衛だった。
そして二代目となる息子のカルヴァドスは、受け継いだ酒造を守りながらもリンゴを使った様々な加工食品を開発し、世に送り出した。
当初カルヴァドスは家業を継ぐ気はなく、趣味が高じて料理人となっていた。
それにニコラスも、カルヴァドスに家を継がせるなど一切考えておらず、ぶっちゃけ今現在自分が酒を呑めればそれで良いし、一代で商会が無くなっても構わないとすら考えていた。
もしこの酒蔵を欲しいと言う者がいたら、売り払ってしまっても良いとすら豪語する有様である。
つまりニコラスは、酒が呑めれば後はどーでも良いと考えている、刹那的な男であった。
それとカルヴァドスが家を継ぐ気がほぼ無かった理由として、彼は下戸であったのである。つまり、酒好き飲兵衛のニコラスとは、まるで正反対だったのだ。
だがそのカルヴァドスにも転機が訪れた。
帰省したあるとき、例によって昼日中から酒を呑んでいるニコラスに言われた一言、
「酒は人生を豊かにしてくれる。それが味わえないお前は人生の半分は損をしている」
それは完全に主観である。
カルヴァドスから言わせれば、酒代を使わないで済むし酩酊しないで正しく思考を巡らせられて時間を無駄にしないし、なにより酔っ払って他人に迷惑を掛けないから、酒を呑まないということは人生の倍以上得をしているのだ。
それにその程度で半分も損する人生など、それこそ大したことのない薄っぺらなものであるし、その程度の考えしか持てない人生なら半分どころか全損で損をしている。
そう捲し立てて激しく親子喧嘩を始めてしまい、最終的には「酒なんぞより旨い物を作ってやる!」と吐き捨てて、当時の彼が振る舞える最高の料理やデザートを作ってニコラスに提供したという。
結果的にはそれが切っ掛けで、アップルジャック商会は食品部門を打ち立て、更なる発展を遂げたのだった。
そして――三代目となったイヴォンだが、誰に似たのかはたまた誰にも似なかったのか、ニコラスのような商才もカルヴァドスのような料理の才も持ち合わせておらず、だが大手商会の跡取り息子として育った所為か放蕩の限りを尽くしていた。
だが不思議と異性間のトラブルはなく、そして無駄遣いをしているにも関わらず金銭面でも困窮するでもなく、そういうところだけは巧く立ち回っていた。
そして運命の日、イヴォンを一人の少女が訪ねて来た。
彼女は二ヶ月前よりこの商業都市グレンカダムに滞在していると言い、更に来たばかりの日にやたらと景気良く店の客全員に酒を振る舞う男に促されるまま、口当たりの良いジャック・ブランデーのカクテルを大量に呑んでしまって泥酔したという。
そして気付いた時にはベッドに寝ており、更に自分を相手に励んでいるイヴォンがいたと言った。
証拠の品として差し出したのが、アップルジャック商会役員のバッヂであり、それは丁度二ヶ月前にイヴォンが紛失した物だった。
心当たりがありまくるイヴォンは慌てて取り繕うのだが、自分が誘われたと言った瞬間、
「処女の小娘がお前みたいな調子の良いだけのバカ僧なんぞ誘惑するかー!」
一瞬にしてイヴォンの懐に飛び込み、僅か数センチメートルの間合いで拳を叩き込んだという。
その衝撃はイヴォンの体内に浸透し、更に威力が背に抜けその背の衣服のみが弾けるという、その道の達人ですら有り得ないものだった。
拳を突き出し呼吸を整えるその少女を見て、ニコラスの妻であるレミーが、まるで熱に浮かされているかのように頬を染めながら少女の手を取り、
「貴女、ウチに嫁に来なさい。ううん、来るべきよ! あの素行不良な莫迦孫を黙らせるのは貴女しかいないわ!」
などととんでもないことを言い始めたという。
だがそれはその少女にとっても好都合で、そもそもこの二ヶ月もの間は日雇いでしか働けていないため、定職は有り難かった。
それに――その少女は妊娠していたのである。
証拠がないと喚くイヴォンだが、ニコラスやカルヴァドスは既にイヴォンを見限っているため一切相手にはぜず、その少女をイヴォンの妻としたのだった。
因みに寝室は別で、この事件が起きて以降、イヴォンの部屋には外鍵が掛けられたという。
その少女――白金に輝き美しく流れる癖のない髪と、光の加減で色が変わる不思議な翠瞳が神秘的で、更にその容姿も神々しいばかりに美しかったために、ニコラスからは「バカ孫には勿体ない」と言われ、カルヴァドスに至ってはあと二十年早く出会いたかったと無念の涙を落とし、更には二人目の妻じゃダメかと妻のカミュに大真面目に相談して、「気持ちは判るけどダメよ」と窘めらるという珍事が起きたという。
その提案に関しては、別に少女はどっちでも良く、強いて言うならイヴォンの妻になるくらいなら料理上手で人間的にもしっかりしているカルヴァドスでも良いかなーとか考えていたりもしたらしいが。
その少女は、エセルと名乗った。
そしてその時に身籠っていたのが、のちのシェリーではない。
残念ながら、そのときの子は死産であった。
何故そのようになったのか、それは後に語る機会があるだろう。
そのような理由でアップルジャック商会に、一応は三代目の妻として入ったのだが、いきなりは何も判らないために、取り敢えずは下働きとしたのだ。
だが程なくして、カルヴァドスがニコラスに不可解なことを伝えた。
エセルが自分に様々な調理方法や菓子のアイデアを出して来る――と。
最初は素人娘の戯言だと思っていたが、可愛い嫁の言うことを聞くのも一興かと試しにやってみたところ、驚くほど美味しく出来上がったという。
まずエセルはパンを焼こうとしているカルヴァドスへ、牛の乳を容器に入れてひたすら振って出来た物を混ぜ込み、捏ねて空気を抜いた後に一時間放置して、膨らんだそれを成形したら更に一時間放置してから焼成すると良いと言った。
物凄い手間なのだが、牛の乳から取れるもの――バターは前もって作れば良いし、生地から焼成まで全て一人でやるのではなく、それぞれを専門にして流れ作業でやれば効率が良いと、妙に慣れた様子で料理人達に指示を出し始めた。
当然、なにも知らない小娘がと反感はあったが、余裕がないわけでもないからやってみようというカルヴァドスからの鶴の一声で、取り敢えずお試しということでやってみた。
結果、今までにないほど美味なパンが出来上がり、その美味過ぎるパンの製法を教示したエセルへ一斉に平伏したという。
その他にもエセルは色々な便利グッズやら新製品やらのアイデアを多数打ち出し特許を得て、これよりアップルジャック商会は黄金期を迎え、その規模を拡大して各地に支店を設けるまでに至ったのである。
だが十年前にニコラスが天寿を全うし、そして四年前に商品の移送中の事故によりエセルが帰らぬ人となり、その悲しみのためか更にカルヴァドスまでもが病に伏せて早過ぎる生涯を閉じてしまい、商会の全権はイヴォンに渡った――
以前の商会は前述した通りに各地に支店があり、そして主力であるリンゴ酒は元より食料品や食器類、まだ台所用品や調理用品、更にそれの便利グッズなども取り扱っていた。
その売り上げは他の追随を許さないほどであり、そしてエセル主導による商品開発も多数行われ、更に特許を取得することでその収益は莫大になっており、あと百年はなにもせずとも安泰だと言われていた。
だが実際は、エセルが齎した財産を、彼女亡き後に夫であるイヴォンが食い潰し、挙句種々様々あった特許でさえ売り払うという目も当てられない状態になってしまう。
そう――何もしないで余計なことをしたのである。
そのイヴォンだが、商業ギルドの黒い手帳に名を連ねられていることを、知る者は少ない。
例えまた商売を開始しようと登録しようとしても、ギルドからの補助は一切出ないのである。
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