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5巻
5-3
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◇ ◇ ◇
「あのときのことを思い出すと今でも震えが止まらないの」
セリナさんはそう言うと視線を机上に落として、自分を落ち着かせるように深呼吸した。
ここまでだけでもすさまじい話だった。まさか、セリナさんたちがあの洞窟へ行っていたなんて。
俺は黙って話の続きを待った。
セリナさんは落ち着きを取り戻したのか、一息つくとまた続きを語り始めた。
◇ ◇ ◇
セリーヌが目を開けると、木目調の天井が最初に目に入った。やけに頭がぼうっとしていた。
どうやら自分はベッドに寝かされているようだと気付いたのは、セリーヌが目を覚ましてから随分時間が経ってからのことだった。
思考力が戻ってきた頃、隣に小柄な人物がいることにセリーヌはやっと気が付いた。
まさか人がいるとは思っていなかったので、セリーヌは飛び起きた。
「おや、目を覚ましたか。どこか痛むところは?」
彼女はゆっくりと振り向くと、優しい声でそう言った。どうやら編み物をしていたらしく、手には編針が握られている。
老獪な仕草や口調に反した若い容姿にセリーヌは面食らった。見た目はセリーヌと同年代か少しだけ上くらいに見える。
けれど、やっぱり声はしわがれている。セリーヌはどれくらいの年齢なのかさっぱり予想がつかなかった。
でも悪い人ではなさそうだ。そう思って、セリーヌは肩の力を抜いた。
「大丈夫か?」
長い間セリーヌが黙っていたせいか、少女は心配そうにそう言う。
セリーヌは中途半端だった体勢から姿勢を正すと、彼女に向き合う。
「うん、大丈夫。痛いところは……」
ない、と答えようとした瞬間、後頭部がズキンと脈打った。その痛みで、堰を切ったように記憶が映像のように思い出される。
聖女。洞窟。黒い影。
「そうだ、兄上、兄上は!?」
セリーヌは今どこにいるのかも忘れてそう叫ぶ。しかし立ち上がろうとした瞬間、肩に手がかかる。その手はセリーヌと同じぐらい小さかった。
「落ち着け。深呼吸をするんじゃ」
「兄上が! 兄上が、影に呑み込まれて……!」
「分かった。分かった。だがひとまず座って、順に説明するのじゃ」
何を悠長に。セリーヌはそう思ったが、少女の表情を見て反抗する気は失せた。少女はとても優しい目でセリーヌを見つめていた。
セリーヌはもう一度ベッドに腰かける。少女はそれでいい、という風に頷いた。
「ゆっくりでいい。順を追って、落ち着いて話すのじゃよ」
彼女はゆっくりと言い聞かせるようにセリーヌにそう言った。
「そなたの兄が影に呑み込まれる前、そなたは何をしておった? ゆっくり思い出してごらん」
「影……黒い影に襲われる前」
「そうそう。その調子じゃぞ」
パニックになりそうな気持ちを抑え、セリーヌは懸命に記憶を手繰る。
「私たち、洞窟にいたはず。それで中を歩いてたら、いきなり黒い影みたいなものに襲われてっ……!」
またさっきと同じ光景が蘇ってきて、息が苦しくなる。
いつの間にか少女はセリーヌの背に手を回してさすっていた。
「無理をするな。ゆっくり呼吸をするんじゃ。息を吸って……吐いて」
言われた通りに息を吸い、吐く。それを三回ほど繰り返すと、セリーヌはなんとか平静を取り戻した。少女の手が背中から離れていく。
「そ、それで。そう、洞窟の中で、いきなり黒い影みたいなものに襲われたの。それで……私が影に呑み込まれそうになったとき、兄上が私を突き飛ばして、頭をぶつけて意識を失った。でもどうして私、助かったんだろう……逃げられなかったのに」
セリーヌが途切れ途切れに話す声に、少女は懸命に耳を傾けていた。
セリーヌが話し終えて少しして、少女が口を開く。
「わしがそなたを見つけたとき、そなたは近くの洞窟の入り口にもたれておったんじゃ」
「え……?」
まるでわけが分からなかった。セリーヌは今の今まで意識がなかったはずだ。頭をぶつけたあと、無意識に洞窟の外まで逃げ出したというのか。
それともまさか、なんとか助かったディナンドが、セリーヌを運び出したとでも?
だとしたら、ディナンドはどこへ行ってしまったのか。
どちらにせよ、セリーヌにはにわかに信じがたかった。
少女は神妙な顔でセリーヌを見つめている。
「とにかく、そなたの事情は分かった。兄上のことも。しかし、わしがそなたを見つけてから、丸一日が経っておるのじゃ」
少女はなんとも言えない表情でそう言った。セリーヌは愕然とした。
自分は丸一日も眠り続けていたというのか。
セリーヌが何も言えないでいると、代わりに少女が話を続ける。
「じゃから兄上が助かっておったとして、もう別の場所におるかもしれぬ。それに、その体で捜しに行くのは得策とは言えぬな」
「で、でも! もしかすると兄上は、まだあの洞窟の中にいるかもしれないのです!」
セリーヌは必死にそう言う。ディナンドがあの影に呑み込まれてしまったことも、ディナンドが姿を消したことも、どちらも信じたくなかった。
少女はセリーヌのあまりの剣幕にたじろいだが、すぐに諦めたような顔をした。
「分かった、分かった。仕方ない、わしが連れて行ってやろう。その代わり、必ずわしの言うことを聞くこと。いいな?」
セリーヌは頷いた。今はディナンドを捜しに行くことが最優先だ。
「少し待っとれ。すぐに準備を整えるからの。それにしても、黒い影か……どうにも不穏じゃな」
少女はそう言いながら、部屋の奥へ消えていった。
しばらくがさごそと何かを漁るような音がしたあと、古ぼけた杖とランタンを携えた少女が出てくる。
そこでなんとなく少女の名前を呼ぼうとして、セリーヌはやっと、名前を聞いていないことに気付いた。
そういえば自分も名乗っていないから、少女はずっと、セリーヌのことを『そなた』と呼んでいた。
「あ、あの」
「なんじゃ?」
少女は杖の様子を確かめるように、二度、三度と振りながら答える。
「あなたの名前、聞いてなかったなと思って。私はセリーヌ」
「セリーヌか。わしはリーベル、このエルフの里の長老をしておる」
セリーヌは気が動転していて気付かなかったが、言われてみれば少女の耳は尖っている。なるほど、彼女は長命種であるエルフだったのか、とセリーヌは内心納得した。見た目の割に高齢なため、外見と言動が一致しないのだ。
「さぁ、自己紹介が済んだところで行こうか。洞窟はすぐそこにあるからの。あ、体が辛くなったら無理せず言うんじゃぞ、おぶってやるからの」
あまり背格好の変わらない彼女が自分のことを背負えるとは思えなかったが、セリーヌはひとまず頷いておく。
リーベルの家を出ると、辺りは夕闇に包まれていた。
城を出たのは昨日の昼過ぎであったはず。今はその日の夕方ではなく、一日後の夕方なのだろう。セリーヌはそう思うと、なんだか変な感じがした。
「直に暗くなる。急ごう」
リーベルはそう言って歩みを速める。金具の緩んだランタンが、歩みに合わせてガチャガチャと音を立てた。
洞窟に着く。洞窟の入り口は蔦で覆われていて、一見しただけでは奥まで続いているなどと思わない。
「本来なら立ち入りは禁じられているのじゃが、今回は特別じゃ。まぁ伝統として残っておるだけだから、これを機に廃止してしまってもいいかもしれぬな……」
リーベルは半ば独り言のようにそう呟きながら、蔦を引きちぎった。洞窟の入り口が現れる。
丘の側面にぽっかりと空いたその穴は、縦横ともに一メートルと少しぐらいで、セリーヌやリーベルでも背を屈めて通らないといけないぐらいだった。大人だったら、完全に屈まないと通れないだろう。
立ち入り禁止だと言っていた割には、リーベルは躊躇いなく洞窟の中に入っていく。
セリーヌもそのあとに続く。
少し進んだだけで、外の光が届かなくなり、辺りが暗くなってくる。
「――――」
リーベルが何かを話しながら、すいすいと軽やかに杖を振るう。
セリーヌには聞きなれない響きだったが、言葉のように聞こえた。
歌うような心地いい響きに耳を傾けていると、突然、今まで暗かった目の前が明るくなった。
セリーヌは瞬きをしながら辺りを見回して、ランタンに火が灯っていることに気が付いた。
ランタンの中で、火の玉が煌々と輝いている。その炎は、ディナンドが洞窟の中で作り出したものとそっくりだった。
炎なのだから、誰が灯そうと同じような見た目になる。それは分かっていた。けれどそれを見ていると、セリーヌはなんだか物悲しいような気分になる。
「今のは?」
兄のことから気を逸らそうと、セリーヌはリーベルの背に質問する。
見たことのない技に、聞いたことのない言葉。生み出されたものはセリーヌもよく知るものだが、一体リーベルがしたことはなんなのだろうか。
「魔法じゃ、魔法。そなたも使うじゃろ?」
リーベルは振り返らないままそう言った。
「魔法? でも、私たちの魔法とは全然違ったよ。私たちの魔法は、あんな歌うような詠唱の仕方じゃない」
「ああ、そういえば、わしらの魔法とそなたらの魔法は少々勝手が違うんじゃったな。すまぬすまぬ、すっかり忘れておった! ついにボケたかもしれん」
リーベルは笑いながらそう言ったが、セリーヌはツッコむにツッコめず、曖昧に笑った。
ランタンの明かりを頼りに、セリーヌとリーベルは洞窟の中を進んでいく。
「……水の音?」
ぴちゃん、ぴちゃん、と水の滴るような音と、川のせせらぎとよく似た音が聞こえる。
ランタンの頼りない明かりで照らし出されている洞窟内を、目を凝らしてじっと見る。
「何をしておる。早く来んか」
セリーヌがリーベルのもとへ駆け寄ると、また歌うような文句が聞こえる。瞬間、パキパキと何かが凍り付く音が聞こえた。セリーヌも氷魔法の使い手だから、リーベルが水溜まりを凍らせていることがすぐに分かった。
暗いせいでよく分からなかったが、さっきまで地面だと思っていたものは、静まり返った水溜まりだった。
リーベルが凍り付いた水溜まりに一歩踏み出す。氷は薄い見た目に反して丈夫なようで、割れることはない。セリーヌも恐る恐るリーベルのあとに続く。厚い靴底を通しても、足の裏にひんやりと冷気が伝わってくる。
パキ、パキ、パキ。リーベルの歩みに合わせて水溜まりが凍り付いていく。
同じ氷の魔法でも、セリーヌのものとは全然違う。
氷魔法は通常、水属性と風属性が合わさって発動する。
だから本来ならばセリーヌは火、地、水、風の四大属性のうち、水属性と風属性の魔法も扱えるはずなのだが、何故だか使えなかった。初めて魔法を使ったときから今まで、セリーヌが四大属性の魔法を扱えたことはただの一度もない。
比較的得意な氷魔法だって、粗削りで拙いものだ。とても繊細なコントロールはできない。
剣術が得意なことと少しだけ空間魔法が使えることが唯一の救いだったが、それでも周りが求めるものとは大きな差がある。
セリーヌは氷魔法を極めようとしたのだが、その道のりは困難を極めていた。最近、やっと氷塊だけでなく、少し複雑な形を作ったり、もともとある水を凍らせたりすることができるようになったぐらいだった。
リーベルの魔法によって凍っていく水面に、セリーヌは見惚れた。
(薄い氷なのに丈夫で、さらに歩みに合わせて凍っていくなんて、なんて繊細な魔法なんだろう)
魔法に見惚れているうちに、いつの間にか、セリーヌは向こう岸についていた。
「そなたはこの水溜まりより奥で倒れたのか?」
「多分……」
「ふむ……やはり妙じゃな」
「どうかしたの?」
「さっき、そなたは洞窟の入り口にもたれていたと言っただろう。だが洞窟の中にはそなたと兄上しかいなかった。そなたがもうろうとしたままなんとか出口まではいずってきた線も考えておったんだが……この水溜まりより先であったならそれはないな。意識のないまま泳ぐのも、魔法を使うのも不可能に近いからの」
リーベルは今渡ってきた水溜まりを見つめながらそう言った。魔法は既に解けて、氷は水に戻っている。
ランタンを水面に近付けても、底は見えない。相当深そうだった。
「なら、誰かが私を運んだっていうの……?」
「そうかもしれぬ」
リーベルは冷静な声でそう言う。
「……でも、あり得ないわ。もし兄上が私を運んでくれたなら、今も私の側にいるはずだもの。兄上が私を置いてどこかへ行ってしまうなんて、そんなことあるわけない」
セリーヌは自分でも、そう思い込もうとしているのが分かったが、そう考えなければ自分を保てなかった。
「だからといって、この洞窟内に第三者がいたと思うのか?」
「それはっ……! でも、いたかもしれないじゃない!」
思わず声を荒らげてしまって、セリーヌはハッとする。リーベルの視線がやけに気になって目を逸らした。
「冷静に考えるのじゃ、セリーヌ。兄君を信じたい気持ちはようく分かる。けれど、ひとまず現状を呑み込まないことには、状況の整理も、調査のしようもない」
リーベルは淡々とそう言う。言葉は優しいが、声はいっそ酷なぐらい冷静だった。
セリーヌは悲しいような腹が立つような感情に苛まれる。
「じゃが、そなたの言う通り、兄君がなんの事情もなくそなたを置いていったとは考えづらい」
「……事情って?」
「たとえば、敵に追われていたとか。それだったらそなただけ洞窟の外に残して、自らが囮になったという説明もできる」
セリーヌはその状況を想像してしまって息を呑む。ディナンドは躊躇いもなくそういう決断をするだろう。
「でも、私が気を失う前、兄上は黒い影に呑み込まれかけていたの。あの状態から逃げ出せたかしら……」
「セリーヌ」
リーベルに名前を呼ばれてセリーヌは顔を上げる。
「わしが悪かった。辛いことを聞いてすまぬ。まずは洞窟内を捜すのが先じゃったな」
リーベルが急にしおらしい態度になる。
どこかから空気の流れを感じて、頬が冷たい。そこでセリーヌは初めて泣いていたことに気が付いた。
この年にもなって、人前で泣くなんて恥ずかしいと、セリーヌはごしごしと乱暴に涙を拭った。
洞窟内を一時間ほど歩き回っただろうか。
セリーヌは、ディナンドと一緒に入ってきた穴を見つけた。夕暮れのオレンジの光が差し込んでいる。
「そなたら、神聖な洞窟に大層な穴ぼこを開けてくれおって……」
「ご、ごめんなさい」
「冗談じゃ」
リーベルの冗談は分かりにくい。セリーヌは本気で申し訳なく思ったのに。
「そなたらはこの洞窟に入ってから、どのくらい歩いた?」
「ええっと……体感じゃ、一時間も歩かなかったんじゃないかな」
「ひとまずことが起こった現場に行ってみよう」
「えっ。でも、もしまたあの黒い影がいたら……」
「丸一日が経っておるのじゃ。黒い影が何であれ、ずっとそこにとどまっておるということもないじゃろう。何かあったらわしが追い払ってやる。なんなら指切りをしてやってもよいぞ」
リーベルはそう言ったが、セリーヌはやっぱり不安だった。
でも、行って確認しないことには何も始まらない。自分が言ったから、リーベルもわざわざついてきてくれたのだ。
セリーヌはそう自分に言い聞かせ、あの恐ろしい出来事が起こった場所へ足を踏み出した。
分かれ道の手前だったことをリーベルに告げると、リーベルは道を行ったり来たりしながら地形を調べているようだった。
「おそらくここらではないかの」
先導するリーベルにセリーヌが続く。すると、あの分かれ道の手前に到着した。今にも黒い影が飛び出してきそうな気がして、セリーヌの心臓が早鐘を打つ。
でもそこには、黒い影も、ディナンドもいなかった。
そこにディナンドがいないことは薄々分かっていた。けれど改めてその事実を目の当たりにすると、セリーヌは絶望を突き付けられているような気分になった。
「兄上、一体どこへ行ってしまったの……?」
セリーヌは分かれ道の前で、呆然と立ち尽くしていた。
「戻ろう。きっともう日が暮れている」
しばらくすると、リーベルが促すようにそう言った。
そうして二人は洞窟を出て家に帰った。
家の中は暖かく、セリーヌは洞窟の中が思っていたより寒かったことを知った。
リーベルは湯を沸かし、セリーヌに暖かいお茶を出してくれた。
城で飲むような、薄作りのティーカップに入った紅茶とは違う。ぽってりとした作りの大きなカップに、濃い茶色のお茶が注がれていた。それは香ばしくほっこりとした味で、セリーヌは体の芯から温まるような気がした。
リーベルは、セリーヌに無理に帰れなどとは言わなかった。セリーヌはそれがありがたかったのだが、気を遣われているようで居心地が悪いような気がした。
「私、帰る。ありがとうございました」
少しだけ残っていたお茶を一気に飲み干すと、セリーヌは椅子から立ち上がった。
そしてぺこ、と頭を下げる。
しかしリーベルは返事をしない。セリーヌがそっと頭を上げると、リーベルは心配そうな顔をしていた。
「いいのか? もう外は真っ暗じゃ、今晩はうちでゆっくりして、明日の朝帰ってもよいのじゃぞ」
リーベルはそう言った。義理で言っているのではなく、本心からそう言っているのだった。
セリーヌはその言葉に甘えたい気持ちもあったが、首を横に振る。
「いいの。きっと皆、心配してると思うから。それに、もしかして兄上は一足先に帰ってるのかもしれないし」
「確かにそれはそうじゃが……うむ、あい分かった。いち早くそなたの兄君に会えるよう祈っておる」
リーベルはまだ心配そうな顔をしていたが、一応は納得したようだった。
リーベルは腰をさすりながら立ちあがると、玄関扉へ向かう。セリーヌも慌ててリーベルを追いかけた。
わざわざ外まで見送りに来たリーベルに、セリーヌは微笑んだ。
「それじゃあ、ありがとう、リーベル……さん?」
同じぐらいの年に見えるが、セリーヌは実年齢を考えてなんとなく『さん』をつける。
「うむ。ではさらばじゃ。また暇になったらいつでもおいで。年寄りは時間を持て余しておるからのう」
本当なのか冗談なのか分からない言葉に、セリーヌはまた苦笑した。でも時間ができたら、お礼を言いに来ようと思った。
セリーヌは目を閉じて、精神を集中させる。空間魔法を使うためだ。
移動はいつもディナンドに任せていたので、セリーヌは数えるほどしか空間魔法を使ったことがない。少し不安だったが、今ディナンドはいない。自分でやるしかないのだ。
セリーヌが魔法を詠唱すると、少しの浮遊感のあと、とすん、とつま先が地面に着地した感触があった。
セリーヌは恐る恐る目を開ける。無事周囲の景色は切り替わっていた。
セリーヌが転移先に選んだのは自室だった。
城の、皇帝とその親族が住むエリアの、さらに奥。セリーヌの部屋はそこにあった。日中は南向きの窓から光が差し込んで気持ちがよいのだが、今はその代わりに柔らかな月光が差し込んでいる。
セリーヌはそっと部屋の扉を開け、辺りの様子をうかがう。
耳をそばだてても、慌ただしい足音や飛び交う声は聞こえてこない。遠くのほうで、微かに物音が聞こえるくらいだ。いつも通りの城だった。
「……どういうことかしら?」
セリーヌは、今頃城は大変な騒ぎになっているのだとばかり思っていた。
予想と違う事態に拍子抜けしたが、それよりも心配が勝る。
セリーヌにはあのあと授業があったはずで、普段遅刻すらしたことのないセリーヌがそれをすっぽかせば、多少なり騒ぎになるはずだった。
それに加え、皇太子であるディナンドまで姿が見つからないのだ。城の者たちが気が付かないはずも、気が付いて黙ってじっとしているはずもない。
けれど事実として、城はいつも通り静かだ。
言いようのない不気味さに、セリーヌは眉根を寄せた。
セリーヌは足音を殺しながら、そっと部屋を出た。そして居室の並ぶ廊下を突っ切る。その途中、誰一人としてすれ違うことはなかった。
居室のある廊下を抜け、政務が行われている議場のある城の中心部に差しかかろうかというところで、入り組んだ通路の先にディナンドの姿が見えた気がした。
まさか。セリーヌはそう思ったが、足を止め、恐る恐る引き返す。そして分かれ道の向こう側をじっと見る。
そこには赤茶の髪に、セリーヌと同じ緋色の瞳をした、ディナンドの姿があった。
ディナンドは月明りに照らされながら、ぼうっと窓の外を眺めている。
「兄上!」
気付けばセリーヌはそう叫んでいた。ディナンドがハッとしたような表情を浮かべる。
しかし次の瞬間、ディナンドは姿を消していた。
「……えっ?」
駆け寄ろうとしてスカートの裾を持ち上げていたセリーヌの手が離れ、ぱさりと衣擦れの音がする。
数秒が経ってから、ディナンドは空間魔法を使って姿を消したのだとセリーヌは理解する。
けれど、今はそんなことはどうでもいい。問題は、何故ディナンドがセリーヌを避けるような真似をしたかだ。
「どうして……?」
セリーヌは思わずそう呟く。無人の廊下に、自分の声がやけに大きく聞こえる。
(私は兄上のことをずっと心配して、捜していたのに。どうして逃げるの? どうして私を置いていったの? 無事なら無事だと、城に帰っていると教えてくれなかったの?)
何もかもわけが分からなくて、セリーヌはその場で立ち尽くすことしかできなかった。
そのとき、どこかから足音が聞こえてきて、セリーヌはやっと我に返った。
足音が近付いてくる。居室の近くにいるということは、従者の誰かだろうか。
「あのときのことを思い出すと今でも震えが止まらないの」
セリナさんはそう言うと視線を机上に落として、自分を落ち着かせるように深呼吸した。
ここまでだけでもすさまじい話だった。まさか、セリナさんたちがあの洞窟へ行っていたなんて。
俺は黙って話の続きを待った。
セリナさんは落ち着きを取り戻したのか、一息つくとまた続きを語り始めた。
◇ ◇ ◇
セリーヌが目を開けると、木目調の天井が最初に目に入った。やけに頭がぼうっとしていた。
どうやら自分はベッドに寝かされているようだと気付いたのは、セリーヌが目を覚ましてから随分時間が経ってからのことだった。
思考力が戻ってきた頃、隣に小柄な人物がいることにセリーヌはやっと気が付いた。
まさか人がいるとは思っていなかったので、セリーヌは飛び起きた。
「おや、目を覚ましたか。どこか痛むところは?」
彼女はゆっくりと振り向くと、優しい声でそう言った。どうやら編み物をしていたらしく、手には編針が握られている。
老獪な仕草や口調に反した若い容姿にセリーヌは面食らった。見た目はセリーヌと同年代か少しだけ上くらいに見える。
けれど、やっぱり声はしわがれている。セリーヌはどれくらいの年齢なのかさっぱり予想がつかなかった。
でも悪い人ではなさそうだ。そう思って、セリーヌは肩の力を抜いた。
「大丈夫か?」
長い間セリーヌが黙っていたせいか、少女は心配そうにそう言う。
セリーヌは中途半端だった体勢から姿勢を正すと、彼女に向き合う。
「うん、大丈夫。痛いところは……」
ない、と答えようとした瞬間、後頭部がズキンと脈打った。その痛みで、堰を切ったように記憶が映像のように思い出される。
聖女。洞窟。黒い影。
「そうだ、兄上、兄上は!?」
セリーヌは今どこにいるのかも忘れてそう叫ぶ。しかし立ち上がろうとした瞬間、肩に手がかかる。その手はセリーヌと同じぐらい小さかった。
「落ち着け。深呼吸をするんじゃ」
「兄上が! 兄上が、影に呑み込まれて……!」
「分かった。分かった。だがひとまず座って、順に説明するのじゃ」
何を悠長に。セリーヌはそう思ったが、少女の表情を見て反抗する気は失せた。少女はとても優しい目でセリーヌを見つめていた。
セリーヌはもう一度ベッドに腰かける。少女はそれでいい、という風に頷いた。
「ゆっくりでいい。順を追って、落ち着いて話すのじゃよ」
彼女はゆっくりと言い聞かせるようにセリーヌにそう言った。
「そなたの兄が影に呑み込まれる前、そなたは何をしておった? ゆっくり思い出してごらん」
「影……黒い影に襲われる前」
「そうそう。その調子じゃぞ」
パニックになりそうな気持ちを抑え、セリーヌは懸命に記憶を手繰る。
「私たち、洞窟にいたはず。それで中を歩いてたら、いきなり黒い影みたいなものに襲われてっ……!」
またさっきと同じ光景が蘇ってきて、息が苦しくなる。
いつの間にか少女はセリーヌの背に手を回してさすっていた。
「無理をするな。ゆっくり呼吸をするんじゃ。息を吸って……吐いて」
言われた通りに息を吸い、吐く。それを三回ほど繰り返すと、セリーヌはなんとか平静を取り戻した。少女の手が背中から離れていく。
「そ、それで。そう、洞窟の中で、いきなり黒い影みたいなものに襲われたの。それで……私が影に呑み込まれそうになったとき、兄上が私を突き飛ばして、頭をぶつけて意識を失った。でもどうして私、助かったんだろう……逃げられなかったのに」
セリーヌが途切れ途切れに話す声に、少女は懸命に耳を傾けていた。
セリーヌが話し終えて少しして、少女が口を開く。
「わしがそなたを見つけたとき、そなたは近くの洞窟の入り口にもたれておったんじゃ」
「え……?」
まるでわけが分からなかった。セリーヌは今の今まで意識がなかったはずだ。頭をぶつけたあと、無意識に洞窟の外まで逃げ出したというのか。
それともまさか、なんとか助かったディナンドが、セリーヌを運び出したとでも?
だとしたら、ディナンドはどこへ行ってしまったのか。
どちらにせよ、セリーヌにはにわかに信じがたかった。
少女は神妙な顔でセリーヌを見つめている。
「とにかく、そなたの事情は分かった。兄上のことも。しかし、わしがそなたを見つけてから、丸一日が経っておるのじゃ」
少女はなんとも言えない表情でそう言った。セリーヌは愕然とした。
自分は丸一日も眠り続けていたというのか。
セリーヌが何も言えないでいると、代わりに少女が話を続ける。
「じゃから兄上が助かっておったとして、もう別の場所におるかもしれぬ。それに、その体で捜しに行くのは得策とは言えぬな」
「で、でも! もしかすると兄上は、まだあの洞窟の中にいるかもしれないのです!」
セリーヌは必死にそう言う。ディナンドがあの影に呑み込まれてしまったことも、ディナンドが姿を消したことも、どちらも信じたくなかった。
少女はセリーヌのあまりの剣幕にたじろいだが、すぐに諦めたような顔をした。
「分かった、分かった。仕方ない、わしが連れて行ってやろう。その代わり、必ずわしの言うことを聞くこと。いいな?」
セリーヌは頷いた。今はディナンドを捜しに行くことが最優先だ。
「少し待っとれ。すぐに準備を整えるからの。それにしても、黒い影か……どうにも不穏じゃな」
少女はそう言いながら、部屋の奥へ消えていった。
しばらくがさごそと何かを漁るような音がしたあと、古ぼけた杖とランタンを携えた少女が出てくる。
そこでなんとなく少女の名前を呼ぼうとして、セリーヌはやっと、名前を聞いていないことに気付いた。
そういえば自分も名乗っていないから、少女はずっと、セリーヌのことを『そなた』と呼んでいた。
「あ、あの」
「なんじゃ?」
少女は杖の様子を確かめるように、二度、三度と振りながら答える。
「あなたの名前、聞いてなかったなと思って。私はセリーヌ」
「セリーヌか。わしはリーベル、このエルフの里の長老をしておる」
セリーヌは気が動転していて気付かなかったが、言われてみれば少女の耳は尖っている。なるほど、彼女は長命種であるエルフだったのか、とセリーヌは内心納得した。見た目の割に高齢なため、外見と言動が一致しないのだ。
「さぁ、自己紹介が済んだところで行こうか。洞窟はすぐそこにあるからの。あ、体が辛くなったら無理せず言うんじゃぞ、おぶってやるからの」
あまり背格好の変わらない彼女が自分のことを背負えるとは思えなかったが、セリーヌはひとまず頷いておく。
リーベルの家を出ると、辺りは夕闇に包まれていた。
城を出たのは昨日の昼過ぎであったはず。今はその日の夕方ではなく、一日後の夕方なのだろう。セリーヌはそう思うと、なんだか変な感じがした。
「直に暗くなる。急ごう」
リーベルはそう言って歩みを速める。金具の緩んだランタンが、歩みに合わせてガチャガチャと音を立てた。
洞窟に着く。洞窟の入り口は蔦で覆われていて、一見しただけでは奥まで続いているなどと思わない。
「本来なら立ち入りは禁じられているのじゃが、今回は特別じゃ。まぁ伝統として残っておるだけだから、これを機に廃止してしまってもいいかもしれぬな……」
リーベルは半ば独り言のようにそう呟きながら、蔦を引きちぎった。洞窟の入り口が現れる。
丘の側面にぽっかりと空いたその穴は、縦横ともに一メートルと少しぐらいで、セリーヌやリーベルでも背を屈めて通らないといけないぐらいだった。大人だったら、完全に屈まないと通れないだろう。
立ち入り禁止だと言っていた割には、リーベルは躊躇いなく洞窟の中に入っていく。
セリーヌもそのあとに続く。
少し進んだだけで、外の光が届かなくなり、辺りが暗くなってくる。
「――――」
リーベルが何かを話しながら、すいすいと軽やかに杖を振るう。
セリーヌには聞きなれない響きだったが、言葉のように聞こえた。
歌うような心地いい響きに耳を傾けていると、突然、今まで暗かった目の前が明るくなった。
セリーヌは瞬きをしながら辺りを見回して、ランタンに火が灯っていることに気が付いた。
ランタンの中で、火の玉が煌々と輝いている。その炎は、ディナンドが洞窟の中で作り出したものとそっくりだった。
炎なのだから、誰が灯そうと同じような見た目になる。それは分かっていた。けれどそれを見ていると、セリーヌはなんだか物悲しいような気分になる。
「今のは?」
兄のことから気を逸らそうと、セリーヌはリーベルの背に質問する。
見たことのない技に、聞いたことのない言葉。生み出されたものはセリーヌもよく知るものだが、一体リーベルがしたことはなんなのだろうか。
「魔法じゃ、魔法。そなたも使うじゃろ?」
リーベルは振り返らないままそう言った。
「魔法? でも、私たちの魔法とは全然違ったよ。私たちの魔法は、あんな歌うような詠唱の仕方じゃない」
「ああ、そういえば、わしらの魔法とそなたらの魔法は少々勝手が違うんじゃったな。すまぬすまぬ、すっかり忘れておった! ついにボケたかもしれん」
リーベルは笑いながらそう言ったが、セリーヌはツッコむにツッコめず、曖昧に笑った。
ランタンの明かりを頼りに、セリーヌとリーベルは洞窟の中を進んでいく。
「……水の音?」
ぴちゃん、ぴちゃん、と水の滴るような音と、川のせせらぎとよく似た音が聞こえる。
ランタンの頼りない明かりで照らし出されている洞窟内を、目を凝らしてじっと見る。
「何をしておる。早く来んか」
セリーヌがリーベルのもとへ駆け寄ると、また歌うような文句が聞こえる。瞬間、パキパキと何かが凍り付く音が聞こえた。セリーヌも氷魔法の使い手だから、リーベルが水溜まりを凍らせていることがすぐに分かった。
暗いせいでよく分からなかったが、さっきまで地面だと思っていたものは、静まり返った水溜まりだった。
リーベルが凍り付いた水溜まりに一歩踏み出す。氷は薄い見た目に反して丈夫なようで、割れることはない。セリーヌも恐る恐るリーベルのあとに続く。厚い靴底を通しても、足の裏にひんやりと冷気が伝わってくる。
パキ、パキ、パキ。リーベルの歩みに合わせて水溜まりが凍り付いていく。
同じ氷の魔法でも、セリーヌのものとは全然違う。
氷魔法は通常、水属性と風属性が合わさって発動する。
だから本来ならばセリーヌは火、地、水、風の四大属性のうち、水属性と風属性の魔法も扱えるはずなのだが、何故だか使えなかった。初めて魔法を使ったときから今まで、セリーヌが四大属性の魔法を扱えたことはただの一度もない。
比較的得意な氷魔法だって、粗削りで拙いものだ。とても繊細なコントロールはできない。
剣術が得意なことと少しだけ空間魔法が使えることが唯一の救いだったが、それでも周りが求めるものとは大きな差がある。
セリーヌは氷魔法を極めようとしたのだが、その道のりは困難を極めていた。最近、やっと氷塊だけでなく、少し複雑な形を作ったり、もともとある水を凍らせたりすることができるようになったぐらいだった。
リーベルの魔法によって凍っていく水面に、セリーヌは見惚れた。
(薄い氷なのに丈夫で、さらに歩みに合わせて凍っていくなんて、なんて繊細な魔法なんだろう)
魔法に見惚れているうちに、いつの間にか、セリーヌは向こう岸についていた。
「そなたはこの水溜まりより奥で倒れたのか?」
「多分……」
「ふむ……やはり妙じゃな」
「どうかしたの?」
「さっき、そなたは洞窟の入り口にもたれていたと言っただろう。だが洞窟の中にはそなたと兄上しかいなかった。そなたがもうろうとしたままなんとか出口まではいずってきた線も考えておったんだが……この水溜まりより先であったならそれはないな。意識のないまま泳ぐのも、魔法を使うのも不可能に近いからの」
リーベルは今渡ってきた水溜まりを見つめながらそう言った。魔法は既に解けて、氷は水に戻っている。
ランタンを水面に近付けても、底は見えない。相当深そうだった。
「なら、誰かが私を運んだっていうの……?」
「そうかもしれぬ」
リーベルは冷静な声でそう言う。
「……でも、あり得ないわ。もし兄上が私を運んでくれたなら、今も私の側にいるはずだもの。兄上が私を置いてどこかへ行ってしまうなんて、そんなことあるわけない」
セリーヌは自分でも、そう思い込もうとしているのが分かったが、そう考えなければ自分を保てなかった。
「だからといって、この洞窟内に第三者がいたと思うのか?」
「それはっ……! でも、いたかもしれないじゃない!」
思わず声を荒らげてしまって、セリーヌはハッとする。リーベルの視線がやけに気になって目を逸らした。
「冷静に考えるのじゃ、セリーヌ。兄君を信じたい気持ちはようく分かる。けれど、ひとまず現状を呑み込まないことには、状況の整理も、調査のしようもない」
リーベルは淡々とそう言う。言葉は優しいが、声はいっそ酷なぐらい冷静だった。
セリーヌは悲しいような腹が立つような感情に苛まれる。
「じゃが、そなたの言う通り、兄君がなんの事情もなくそなたを置いていったとは考えづらい」
「……事情って?」
「たとえば、敵に追われていたとか。それだったらそなただけ洞窟の外に残して、自らが囮になったという説明もできる」
セリーヌはその状況を想像してしまって息を呑む。ディナンドは躊躇いもなくそういう決断をするだろう。
「でも、私が気を失う前、兄上は黒い影に呑み込まれかけていたの。あの状態から逃げ出せたかしら……」
「セリーヌ」
リーベルに名前を呼ばれてセリーヌは顔を上げる。
「わしが悪かった。辛いことを聞いてすまぬ。まずは洞窟内を捜すのが先じゃったな」
リーベルが急にしおらしい態度になる。
どこかから空気の流れを感じて、頬が冷たい。そこでセリーヌは初めて泣いていたことに気が付いた。
この年にもなって、人前で泣くなんて恥ずかしいと、セリーヌはごしごしと乱暴に涙を拭った。
洞窟内を一時間ほど歩き回っただろうか。
セリーヌは、ディナンドと一緒に入ってきた穴を見つけた。夕暮れのオレンジの光が差し込んでいる。
「そなたら、神聖な洞窟に大層な穴ぼこを開けてくれおって……」
「ご、ごめんなさい」
「冗談じゃ」
リーベルの冗談は分かりにくい。セリーヌは本気で申し訳なく思ったのに。
「そなたらはこの洞窟に入ってから、どのくらい歩いた?」
「ええっと……体感じゃ、一時間も歩かなかったんじゃないかな」
「ひとまずことが起こった現場に行ってみよう」
「えっ。でも、もしまたあの黒い影がいたら……」
「丸一日が経っておるのじゃ。黒い影が何であれ、ずっとそこにとどまっておるということもないじゃろう。何かあったらわしが追い払ってやる。なんなら指切りをしてやってもよいぞ」
リーベルはそう言ったが、セリーヌはやっぱり不安だった。
でも、行って確認しないことには何も始まらない。自分が言ったから、リーベルもわざわざついてきてくれたのだ。
セリーヌはそう自分に言い聞かせ、あの恐ろしい出来事が起こった場所へ足を踏み出した。
分かれ道の手前だったことをリーベルに告げると、リーベルは道を行ったり来たりしながら地形を調べているようだった。
「おそらくここらではないかの」
先導するリーベルにセリーヌが続く。すると、あの分かれ道の手前に到着した。今にも黒い影が飛び出してきそうな気がして、セリーヌの心臓が早鐘を打つ。
でもそこには、黒い影も、ディナンドもいなかった。
そこにディナンドがいないことは薄々分かっていた。けれど改めてその事実を目の当たりにすると、セリーヌは絶望を突き付けられているような気分になった。
「兄上、一体どこへ行ってしまったの……?」
セリーヌは分かれ道の前で、呆然と立ち尽くしていた。
「戻ろう。きっともう日が暮れている」
しばらくすると、リーベルが促すようにそう言った。
そうして二人は洞窟を出て家に帰った。
家の中は暖かく、セリーヌは洞窟の中が思っていたより寒かったことを知った。
リーベルは湯を沸かし、セリーヌに暖かいお茶を出してくれた。
城で飲むような、薄作りのティーカップに入った紅茶とは違う。ぽってりとした作りの大きなカップに、濃い茶色のお茶が注がれていた。それは香ばしくほっこりとした味で、セリーヌは体の芯から温まるような気がした。
リーベルは、セリーヌに無理に帰れなどとは言わなかった。セリーヌはそれがありがたかったのだが、気を遣われているようで居心地が悪いような気がした。
「私、帰る。ありがとうございました」
少しだけ残っていたお茶を一気に飲み干すと、セリーヌは椅子から立ち上がった。
そしてぺこ、と頭を下げる。
しかしリーベルは返事をしない。セリーヌがそっと頭を上げると、リーベルは心配そうな顔をしていた。
「いいのか? もう外は真っ暗じゃ、今晩はうちでゆっくりして、明日の朝帰ってもよいのじゃぞ」
リーベルはそう言った。義理で言っているのではなく、本心からそう言っているのだった。
セリーヌはその言葉に甘えたい気持ちもあったが、首を横に振る。
「いいの。きっと皆、心配してると思うから。それに、もしかして兄上は一足先に帰ってるのかもしれないし」
「確かにそれはそうじゃが……うむ、あい分かった。いち早くそなたの兄君に会えるよう祈っておる」
リーベルはまだ心配そうな顔をしていたが、一応は納得したようだった。
リーベルは腰をさすりながら立ちあがると、玄関扉へ向かう。セリーヌも慌ててリーベルを追いかけた。
わざわざ外まで見送りに来たリーベルに、セリーヌは微笑んだ。
「それじゃあ、ありがとう、リーベル……さん?」
同じぐらいの年に見えるが、セリーヌは実年齢を考えてなんとなく『さん』をつける。
「うむ。ではさらばじゃ。また暇になったらいつでもおいで。年寄りは時間を持て余しておるからのう」
本当なのか冗談なのか分からない言葉に、セリーヌはまた苦笑した。でも時間ができたら、お礼を言いに来ようと思った。
セリーヌは目を閉じて、精神を集中させる。空間魔法を使うためだ。
移動はいつもディナンドに任せていたので、セリーヌは数えるほどしか空間魔法を使ったことがない。少し不安だったが、今ディナンドはいない。自分でやるしかないのだ。
セリーヌが魔法を詠唱すると、少しの浮遊感のあと、とすん、とつま先が地面に着地した感触があった。
セリーヌは恐る恐る目を開ける。無事周囲の景色は切り替わっていた。
セリーヌが転移先に選んだのは自室だった。
城の、皇帝とその親族が住むエリアの、さらに奥。セリーヌの部屋はそこにあった。日中は南向きの窓から光が差し込んで気持ちがよいのだが、今はその代わりに柔らかな月光が差し込んでいる。
セリーヌはそっと部屋の扉を開け、辺りの様子をうかがう。
耳をそばだてても、慌ただしい足音や飛び交う声は聞こえてこない。遠くのほうで、微かに物音が聞こえるくらいだ。いつも通りの城だった。
「……どういうことかしら?」
セリーヌは、今頃城は大変な騒ぎになっているのだとばかり思っていた。
予想と違う事態に拍子抜けしたが、それよりも心配が勝る。
セリーヌにはあのあと授業があったはずで、普段遅刻すらしたことのないセリーヌがそれをすっぽかせば、多少なり騒ぎになるはずだった。
それに加え、皇太子であるディナンドまで姿が見つからないのだ。城の者たちが気が付かないはずも、気が付いて黙ってじっとしているはずもない。
けれど事実として、城はいつも通り静かだ。
言いようのない不気味さに、セリーヌは眉根を寄せた。
セリーヌは足音を殺しながら、そっと部屋を出た。そして居室の並ぶ廊下を突っ切る。その途中、誰一人としてすれ違うことはなかった。
居室のある廊下を抜け、政務が行われている議場のある城の中心部に差しかかろうかというところで、入り組んだ通路の先にディナンドの姿が見えた気がした。
まさか。セリーヌはそう思ったが、足を止め、恐る恐る引き返す。そして分かれ道の向こう側をじっと見る。
そこには赤茶の髪に、セリーヌと同じ緋色の瞳をした、ディナンドの姿があった。
ディナンドは月明りに照らされながら、ぼうっと窓の外を眺めている。
「兄上!」
気付けばセリーヌはそう叫んでいた。ディナンドがハッとしたような表情を浮かべる。
しかし次の瞬間、ディナンドは姿を消していた。
「……えっ?」
駆け寄ろうとしてスカートの裾を持ち上げていたセリーヌの手が離れ、ぱさりと衣擦れの音がする。
数秒が経ってから、ディナンドは空間魔法を使って姿を消したのだとセリーヌは理解する。
けれど、今はそんなことはどうでもいい。問題は、何故ディナンドがセリーヌを避けるような真似をしたかだ。
「どうして……?」
セリーヌは思わずそう呟く。無人の廊下に、自分の声がやけに大きく聞こえる。
(私は兄上のことをずっと心配して、捜していたのに。どうして逃げるの? どうして私を置いていったの? 無事なら無事だと、城に帰っていると教えてくれなかったの?)
何もかもわけが分からなくて、セリーヌはその場で立ち尽くすことしかできなかった。
そのとき、どこかから足音が聞こえてきて、セリーヌはやっと我に返った。
足音が近付いてくる。居室の近くにいるということは、従者の誰かだろうか。
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