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聖女編
幼き日のセリーヌ:6
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洞窟内を一時間ほど歩き回っただろうか。
入ってきた穴を見つける。夕暮れのオレンジの光が差し込んでいる。
「そなたら、神聖な洞窟にたいそうな穴ぼこを開けてくれおって……」
「ご、ごめんなさい」
「冗談じゃ」
リーベルの冗談は分かりにくい。セリーヌは本気で申し訳なく思ったのに。
「そなたらはこの洞窟に入ってから、どのくらい歩いた?」
「ええっと……体感じゃ、一時間も歩かなかったんじゃないかな」
「ひとまずことが起こった現場に行ってみよう」
「えっ。でも、もしまたあの黒い影がいたら……」
「丸一日が経っておるのじゃ。黒い影が何であれ、ずっとそこにとどまっておるということもないじゃろう。何かあったらわしが追い払ってやる。なんなら指切りをしてやってもよいぞ」
リーベルはそう言ったが、やっぱり不安だった。
でも、行って確認しないことには何も始まらない。私が言ったから、リーベルもわざわざついてきてくれたんだ。
セリーヌはそう自分に言い聞かせ、あの恐ろしい出来事が起こった場所へと足を踏み出した。
分かれ道の手前だったことをリーベルに告げると、リーベルは道を行ったり来たりしながら地形を調べているようだった。
「おそらくここらではないかの」
先導するリーベルに続くと、あの分かれ道の手前に到着した。今にも黒い影が飛び出してきそうな気がして、心臓が早鐘をつく。
でもここには、黒い影も、ディナンドもいなかった。
ここにディナンドがいないことは薄々分かっていた。けれど改めてその事実を目の当たりにすると、絶望を突き付けられているような気分になる。
「兄上、一体どこへ行ってしまったの……?」
セリーヌは分かれ道の前で、呆然と立ち尽くしていた。
「戻ろう。きっともう日が暮れている」
しばらくすると、リーベルが促すようにそう言った。
リーベルに促されて洞窟を出て、再び家へと入る。
家の中は暖かく、洞窟の中が思っていたより寒かったことを知った。
リーベルは湯を沸かし、セリーヌに暖かいお茶を出してくれた。城で飲むような、薄造りのティーカップに入った紅色のお茶とは違う。ぽってりとした作りの大きなカップに、濃い茶色のお茶が注がれていた。それは香ばしくほっこりとした味で、体の芯から温まるような気がした。
リーベルは、セリーヌに無理に帰れなどとは言わなかった。それがありがたくもあったが、かえって気を使われているようで居心地が悪くもあった。
「私、帰る。ありがとうございました」
少しだけ残っていたお茶を一気に飲み干すと、セリーヌは椅子から立ち上がった。
そしてぺこ、と頭を下げる。
しかしリーベルから返事は帰ってこない。セリーヌがそっと頭を上げると、リーベルは心配そうな顔をしていた。
「いいのか? もう外は真っ暗じゃ、今晩はうちでゆっくりして、明日の朝帰ってもよいのじゃぞ」
リーベルはそう言った。義理で言っているのではなく、本心からそう言っているようだった。
セリーヌはその言葉に甘えたい気持ちもあったが、首を横に振る。
「いいの。きっとみんな心配してると思うから。それに、もしかして兄上は一足先に帰ってるのかもしれないし」
「確かにそれはそうじゃが……うむ、あい分かった。いち早くそなたの兄上に会えるよう祈っておる」
リーベルはまだ心配そうな顔をしていたが、一応は納得したようだった。
リーベルは腰をさすりながら立ちあがると、玄関扉へと向かう。セリーヌも慌ててリーベルを追いかけた。
わざわざ外まで見送りに来たリーベルに、セリーヌは微笑んだ。
「それじゃあ、ありがとう、リーベル……さん?」
同じぐらいの年に見えるが、実年齢を考えてなんとなくさんをつける。
「うむ。ではさらばじゃ。また暇になったらいつでもおいで、年寄りは時間を持て余しておるからのう」
本当なのか冗談なのか分からない言葉に、セリーヌはまた苦笑した。でも時間があったら、またお礼を言いに来ようと思った。
セリーヌは目を閉じて、精神を集中する。空間魔法を使うためだ。セリーヌも一応空間魔法の使い手だった。
移動はいつもディナンドに任せていたので、セリーヌは数えるほどしか空間魔法を使ったことがない。少し不安だったが、今ディナンドはいない。自分でやるしかないのだ。
セリーヌが詠唱の言葉を口にすると、少しの浮遊感の後、とすん、とつま先が地面に着地した感触があった。
セリーヌはおそるおそる目を開ける。無事周囲の景色は切り替わっていた。
セリーヌが転移先に選んだのは自室だった。
城の皇帝とその親類が住む区画の、そのさらに奥まった部屋。セリーヌの部屋はそこにあった。日中は南向きの窓から光が差し込み気持ちがよいのだが、今はその代わりに柔らかな月光が差し込んでいる。
セリーヌはそっと部屋の扉を開け、辺りの様子を伺う。
耳をそばだてても、あわただしい足音や飛び交う声は聞こえてこない。遠くの方で、かすかに物音が聞こえるくらいだ。いつも通りの城だった。
「……どういうことかしら?」
セリーヌは、今頃城は大変な騒ぎになっているのだとばかり思っていた。
予想と違う事態に拍子抜けしたが、それよりも心配が勝る。
セリーヌにはあの後授業があったはずで、普段遅刻すらしたことのないセリーヌがそれをすっぽかせば、多少なり騒ぎになるはずだった。
それに加え、皇太子であるディナンドまで姿が見つからないのだ。城の者たちが黙ってじっとしているわけがない。
けれど事実として、城はいつも通り静かだ。
言いようのない不気味さに、セリーヌは眉根を寄せた。
セリーヌは足音を殺しながら、そっと部屋を出た。そして居住区の廊下を突っ切る。その途中、誰一人としてすれ違うことはなかった。
居住区を抜け、政治が行われる場である中央に差し掛かろうかというところで、入り組んだ通路の先にディナンドの姿が見えた気がした。
まさか。セリーヌはそう思ったが、足を止め、おそるおそる引き返す。そして分かれ道の向こう側をじっと見る。
そこには赤茶の髪に、セリーヌと同じ緋色の瞳をした、ディナンドの姿があった。
ディナンドは月明りに照らされながら、ぼうっと窓の外を眺めている。
「兄上!」
気付けばセリーヌはそう叫んでいた。ディナンドがハッとしたような表情を浮かべる。
しかし次の瞬間、ディナンドは姿を消していた。
「……えっ?」
駆け寄ろうとしてスカートの裾を持ち上げていた手が離れ、ぱさりと衣擦れの音がする。
数秒、あるいは数分が経ってから、ディナンドは空間魔法を使って姿を消したのだと理解する。
けれど、今はそんなことはどうでもいい。問題は、なぜディナンドがセリーヌを避けるような真似をしたかだ。
「どうして……?」
セリーヌは思わずそう呟く。無人の廊下に、自分の声がやけに大きく聞こえた。
私は兄上のことをずっと心配して、探していたのに。どうして逃げるの? どうして私を置いていったの? 無事なら無事だと、城に帰っていると教えてくれなかったの?
何もかも訳が分からなくて、セリーヌはその場で立ち尽くすことしかできなかった。
その時、どこかから足音が聞こえてきて、セリーヌはやっと我に帰った。
足音が近づいてくる。居住区の近くにいるということは、従者の誰かだろうか。
「あら、セリーヌ様。このようなところでどうされたのです。お部屋でお休みになられていたのでは?」
予想通り、現れたのはセリーヌ付きの従者の一人だった。彼女は従者の中でもかなりの古参で、セリーヌが生まれる前から城に仕えていると聞く。
そんな彼女がさも当たり前のことのようにそう言うもので、セリーヌはぽかんとするしかなかった。
しかし従者はそんなセリーヌの様子はよそに言葉を続ける。
「少しは具合がよくなったのかもしれませんが、あんまり動き回っちゃいけませんよ。まだお部屋でお休みになったほうがよろしいわ」
従者はくどくどと説教するようにそう言って、軽くセリーヌの背を押す。
事態がまったく呑み込めない。
「ど、どういうこと?」
やっとのことでそう言うと、従者は不可解そうな顔をした。
「どういうことも何も、セリーヌ様、中庭でお倒れになったんでしょう。ディナンド様が、セリーヌ様をお部屋まで運んでくださったんだとお聞きしましたわ。真面目なのはよいことですが、根を詰めすぎるのも考えものですわよ」
はぁ、と小さくため息をついて従者はそう言う。
中庭で倒れて、それをディナンドが運んだ。まったくもって身に覚えのない事実だ。
ディナンドがその嘘を流布させたのは明らかだ。それ以外にセリーヌが城にいないことを知っていて、なおかつそんな大胆な嘘をつけるのはディナンドしかいない。
セリーヌが予想した流れはこうだった。
洞窟で黒い影に襲われた後、セリーヌを洞窟の入り口に寝かせ、ディナンドは一足先に城へ帰る。
そしてセリーヌの授業の時刻になり、セリーヌを探し回っていた従者たちに、『セリーヌは中庭で倒れ、部屋で休んでいる』という嘘をついた。
それで従者たちはセリーヌが自室にいるものと勘違いし、授業をいくつすっぽかしても、城内で姿が見えずとも騒ぎにならずに済んだのだろう。
「セリーヌ様? 大丈夫ですか? ほら、やっぱりまだ休まれていないといけないじゃありませんの」
従者はそう言って、半ば無理やりセリーヌを部屋へと連れていく。
セリーヌにしっかりと首元まで布団をかけさせて、従者は部屋から出て行った。
騒ぎになっていなかった理由は分かった。あの後の流れの予想もついた。
けれどディナンドの意図だけが見えてこない。
一体、ディナンドはどうしてしまったというのだろう。
「私はずっと……心配して、どうしようかと思っていたのに……」
◇
それからはあの日の事件のことなどなかったかのように、いつも通りの日常が流れていた。朝起き、座学、剣術、魔法の授業を受け、時々公の場に出て皇女としての責務を果たす。今まで生きてきた十二年間と同じ。
そんな日々の中でただ一つ、ディナンドが徹底的にセリーヌを避けることだけが異質だった。
セリーヌとディナンドは仲のいい双子だった。優秀な兄にセリーヌは思うところがないわけではなかったが、それでもディナンドのことはいい兄だと思っていたし、ディナンドもまた妹であるセリーヌを大事に思っていた、はずだったのだ。
けれどそんな日々はまやかしだったのかと思うほどに、今のセリーヌとディナンドの仲は冷えきっていた。というより、会う機会がないのだ。
セリーヌの行動を予想した上で避けているのか、中庭や通路で出くわすことはほとんどないし、もし出くわしても空間魔法で一瞬で姿を消してしまう。
唯一公の場では顔を合わせることもあったが、ディナンドはセリーヌと目を合わせすらしない。話しかけてみても、まるで最初から聞こえていないかのように反応すら見せてくれない。
初めの頃こそ変わり果てた兄にセリーヌは絶望していたが、いつしかそれにも慣れ、当たり前になっていった。
そしてあの事件の日から数か月が経ち――あの強烈な記憶も薄れ始めた頃。
「……この声は」
あの日のように中庭で本を読んでいたセリーヌは、紙面から顔を上げた。
どこかから、かすかに歌声が聞こえてくる。
――兄上の声だ。
セリーヌは本を読んでいたのも忘れて立ち上がり駆け出す。
声が聞こえてくる場所は案外すぐに見つかった。
セリーヌは、あの空き部屋の扉の前に立ち尽くしていた。
歌声が聞こえてくるのはその中からだった。
セリーヌは一度大きく息を吸った後、そっと慎重に扉を開ける。
そこには確かに兄の姿があった。壁にもたれかかり、窓の外を眺めながら歌っている。
この数か月の間に少し背が伸びただろうか。
ディナンドはまだセリーヌに気が付いていない。また逃げられるかもしれない、なんて考えは全部どこかへ飛んで行って、セリーヌは一歩を踏み出す。
歌の旋律が変わる。どこかものさびしいメロディを、ディナンドの声が歌い上げる。
けれど、セリーヌは違和感を覚えずにはいられなかった。
「……誰?」
セリーヌは思わずそう口にしていた。
歌は中断され、ディナンドがセリーヌを見る。
その緋色の目はガラス玉みたいに透明で、とらえどころがなかった。
その目にセリーヌが映った瞬間、ディナンドは微笑んだ。
「兄上じゃ、ない」
そう呟いた次の瞬間、セリーヌは走り出していた。考える暇もなく体が勝手に動いていた。
あんなの兄上じゃない。セリーヌの頭の中で、その考えだけがぐるぐると渦巻く。
それに、あんな歌は聞いたことがない。昔、古くからある合唱団が歌っていた、古い民謡の響きと似ていた。
その時ディナンドはいなかったし、ディナンドがその民謡を歌っているところも聞いたことがない。
それに何より、歌い方が全く違う。
兄上は、あんなに恐ろしいほどの静けさを感じるような歌い方じゃない。
もっとのびやかで、力強くて、でも繊細で。そんな歌い方だった。
どうして。どうして。それだけが頭の中を占めていた。
セリーヌはしばらくの間走り続けて、やっと立ち止まった。いくつも通路を曲がったのか、あの空き部屋はもう見えない。セリーヌはその場にへたり込んだ。
セリーヌにあの部屋に引き返す勇気はなかったし、引き返したところでディナンドはもういない。
きっと、あの日のことのせいだ。あの時、兄上に何かあったんだ。
セリーヌはそう確信した。
「……明日、なんとしてでも兄上に会って、話をしなくっちゃ。怖いけど、私が逃げてちゃ始まらない」
セリーヌは深呼吸をしてから、自分に言い聞かせるようにそう言った。
ディナンドを探すためなら、城中を駆け回るのも厭わない覚悟だ。とにかく話をしなくてはならない。そんな使命感がセリーヌを突き動かしていた。
この後はまた授業の予定がぎっしり詰まっている。捜すのならば、少しだけ授業の少ない明日だ。
セリーヌはそう決心して立ち上がった。
しかしその翌日、ディナンドは唐突に姿を消した。継承権を放棄するとの書置きを残して。
結局セリーヌの決心は果たされることなく、あのガラス玉のような目をして歌っていた、まるで他人のようなディナンドが、セリーヌが見た最後の兄だった。
入ってきた穴を見つける。夕暮れのオレンジの光が差し込んでいる。
「そなたら、神聖な洞窟にたいそうな穴ぼこを開けてくれおって……」
「ご、ごめんなさい」
「冗談じゃ」
リーベルの冗談は分かりにくい。セリーヌは本気で申し訳なく思ったのに。
「そなたらはこの洞窟に入ってから、どのくらい歩いた?」
「ええっと……体感じゃ、一時間も歩かなかったんじゃないかな」
「ひとまずことが起こった現場に行ってみよう」
「えっ。でも、もしまたあの黒い影がいたら……」
「丸一日が経っておるのじゃ。黒い影が何であれ、ずっとそこにとどまっておるということもないじゃろう。何かあったらわしが追い払ってやる。なんなら指切りをしてやってもよいぞ」
リーベルはそう言ったが、やっぱり不安だった。
でも、行って確認しないことには何も始まらない。私が言ったから、リーベルもわざわざついてきてくれたんだ。
セリーヌはそう自分に言い聞かせ、あの恐ろしい出来事が起こった場所へと足を踏み出した。
分かれ道の手前だったことをリーベルに告げると、リーベルは道を行ったり来たりしながら地形を調べているようだった。
「おそらくここらではないかの」
先導するリーベルに続くと、あの分かれ道の手前に到着した。今にも黒い影が飛び出してきそうな気がして、心臓が早鐘をつく。
でもここには、黒い影も、ディナンドもいなかった。
ここにディナンドがいないことは薄々分かっていた。けれど改めてその事実を目の当たりにすると、絶望を突き付けられているような気分になる。
「兄上、一体どこへ行ってしまったの……?」
セリーヌは分かれ道の前で、呆然と立ち尽くしていた。
「戻ろう。きっともう日が暮れている」
しばらくすると、リーベルが促すようにそう言った。
リーベルに促されて洞窟を出て、再び家へと入る。
家の中は暖かく、洞窟の中が思っていたより寒かったことを知った。
リーベルは湯を沸かし、セリーヌに暖かいお茶を出してくれた。城で飲むような、薄造りのティーカップに入った紅色のお茶とは違う。ぽってりとした作りの大きなカップに、濃い茶色のお茶が注がれていた。それは香ばしくほっこりとした味で、体の芯から温まるような気がした。
リーベルは、セリーヌに無理に帰れなどとは言わなかった。それがありがたくもあったが、かえって気を使われているようで居心地が悪くもあった。
「私、帰る。ありがとうございました」
少しだけ残っていたお茶を一気に飲み干すと、セリーヌは椅子から立ち上がった。
そしてぺこ、と頭を下げる。
しかしリーベルから返事は帰ってこない。セリーヌがそっと頭を上げると、リーベルは心配そうな顔をしていた。
「いいのか? もう外は真っ暗じゃ、今晩はうちでゆっくりして、明日の朝帰ってもよいのじゃぞ」
リーベルはそう言った。義理で言っているのではなく、本心からそう言っているようだった。
セリーヌはその言葉に甘えたい気持ちもあったが、首を横に振る。
「いいの。きっとみんな心配してると思うから。それに、もしかして兄上は一足先に帰ってるのかもしれないし」
「確かにそれはそうじゃが……うむ、あい分かった。いち早くそなたの兄上に会えるよう祈っておる」
リーベルはまだ心配そうな顔をしていたが、一応は納得したようだった。
リーベルは腰をさすりながら立ちあがると、玄関扉へと向かう。セリーヌも慌ててリーベルを追いかけた。
わざわざ外まで見送りに来たリーベルに、セリーヌは微笑んだ。
「それじゃあ、ありがとう、リーベル……さん?」
同じぐらいの年に見えるが、実年齢を考えてなんとなくさんをつける。
「うむ。ではさらばじゃ。また暇になったらいつでもおいで、年寄りは時間を持て余しておるからのう」
本当なのか冗談なのか分からない言葉に、セリーヌはまた苦笑した。でも時間があったら、またお礼を言いに来ようと思った。
セリーヌは目を閉じて、精神を集中する。空間魔法を使うためだ。セリーヌも一応空間魔法の使い手だった。
移動はいつもディナンドに任せていたので、セリーヌは数えるほどしか空間魔法を使ったことがない。少し不安だったが、今ディナンドはいない。自分でやるしかないのだ。
セリーヌが詠唱の言葉を口にすると、少しの浮遊感の後、とすん、とつま先が地面に着地した感触があった。
セリーヌはおそるおそる目を開ける。無事周囲の景色は切り替わっていた。
セリーヌが転移先に選んだのは自室だった。
城の皇帝とその親類が住む区画の、そのさらに奥まった部屋。セリーヌの部屋はそこにあった。日中は南向きの窓から光が差し込み気持ちがよいのだが、今はその代わりに柔らかな月光が差し込んでいる。
セリーヌはそっと部屋の扉を開け、辺りの様子を伺う。
耳をそばだてても、あわただしい足音や飛び交う声は聞こえてこない。遠くの方で、かすかに物音が聞こえるくらいだ。いつも通りの城だった。
「……どういうことかしら?」
セリーヌは、今頃城は大変な騒ぎになっているのだとばかり思っていた。
予想と違う事態に拍子抜けしたが、それよりも心配が勝る。
セリーヌにはあの後授業があったはずで、普段遅刻すらしたことのないセリーヌがそれをすっぽかせば、多少なり騒ぎになるはずだった。
それに加え、皇太子であるディナンドまで姿が見つからないのだ。城の者たちが黙ってじっとしているわけがない。
けれど事実として、城はいつも通り静かだ。
言いようのない不気味さに、セリーヌは眉根を寄せた。
セリーヌは足音を殺しながら、そっと部屋を出た。そして居住区の廊下を突っ切る。その途中、誰一人としてすれ違うことはなかった。
居住区を抜け、政治が行われる場である中央に差し掛かろうかというところで、入り組んだ通路の先にディナンドの姿が見えた気がした。
まさか。セリーヌはそう思ったが、足を止め、おそるおそる引き返す。そして分かれ道の向こう側をじっと見る。
そこには赤茶の髪に、セリーヌと同じ緋色の瞳をした、ディナンドの姿があった。
ディナンドは月明りに照らされながら、ぼうっと窓の外を眺めている。
「兄上!」
気付けばセリーヌはそう叫んでいた。ディナンドがハッとしたような表情を浮かべる。
しかし次の瞬間、ディナンドは姿を消していた。
「……えっ?」
駆け寄ろうとしてスカートの裾を持ち上げていた手が離れ、ぱさりと衣擦れの音がする。
数秒、あるいは数分が経ってから、ディナンドは空間魔法を使って姿を消したのだと理解する。
けれど、今はそんなことはどうでもいい。問題は、なぜディナンドがセリーヌを避けるような真似をしたかだ。
「どうして……?」
セリーヌは思わずそう呟く。無人の廊下に、自分の声がやけに大きく聞こえた。
私は兄上のことをずっと心配して、探していたのに。どうして逃げるの? どうして私を置いていったの? 無事なら無事だと、城に帰っていると教えてくれなかったの?
何もかも訳が分からなくて、セリーヌはその場で立ち尽くすことしかできなかった。
その時、どこかから足音が聞こえてきて、セリーヌはやっと我に帰った。
足音が近づいてくる。居住区の近くにいるということは、従者の誰かだろうか。
「あら、セリーヌ様。このようなところでどうされたのです。お部屋でお休みになられていたのでは?」
予想通り、現れたのはセリーヌ付きの従者の一人だった。彼女は従者の中でもかなりの古参で、セリーヌが生まれる前から城に仕えていると聞く。
そんな彼女がさも当たり前のことのようにそう言うもので、セリーヌはぽかんとするしかなかった。
しかし従者はそんなセリーヌの様子はよそに言葉を続ける。
「少しは具合がよくなったのかもしれませんが、あんまり動き回っちゃいけませんよ。まだお部屋でお休みになったほうがよろしいわ」
従者はくどくどと説教するようにそう言って、軽くセリーヌの背を押す。
事態がまったく呑み込めない。
「ど、どういうこと?」
やっとのことでそう言うと、従者は不可解そうな顔をした。
「どういうことも何も、セリーヌ様、中庭でお倒れになったんでしょう。ディナンド様が、セリーヌ様をお部屋まで運んでくださったんだとお聞きしましたわ。真面目なのはよいことですが、根を詰めすぎるのも考えものですわよ」
はぁ、と小さくため息をついて従者はそう言う。
中庭で倒れて、それをディナンドが運んだ。まったくもって身に覚えのない事実だ。
ディナンドがその嘘を流布させたのは明らかだ。それ以外にセリーヌが城にいないことを知っていて、なおかつそんな大胆な嘘をつけるのはディナンドしかいない。
セリーヌが予想した流れはこうだった。
洞窟で黒い影に襲われた後、セリーヌを洞窟の入り口に寝かせ、ディナンドは一足先に城へ帰る。
そしてセリーヌの授業の時刻になり、セリーヌを探し回っていた従者たちに、『セリーヌは中庭で倒れ、部屋で休んでいる』という嘘をついた。
それで従者たちはセリーヌが自室にいるものと勘違いし、授業をいくつすっぽかしても、城内で姿が見えずとも騒ぎにならずに済んだのだろう。
「セリーヌ様? 大丈夫ですか? ほら、やっぱりまだ休まれていないといけないじゃありませんの」
従者はそう言って、半ば無理やりセリーヌを部屋へと連れていく。
セリーヌにしっかりと首元まで布団をかけさせて、従者は部屋から出て行った。
騒ぎになっていなかった理由は分かった。あの後の流れの予想もついた。
けれどディナンドの意図だけが見えてこない。
一体、ディナンドはどうしてしまったというのだろう。
「私はずっと……心配して、どうしようかと思っていたのに……」
◇
それからはあの日の事件のことなどなかったかのように、いつも通りの日常が流れていた。朝起き、座学、剣術、魔法の授業を受け、時々公の場に出て皇女としての責務を果たす。今まで生きてきた十二年間と同じ。
そんな日々の中でただ一つ、ディナンドが徹底的にセリーヌを避けることだけが異質だった。
セリーヌとディナンドは仲のいい双子だった。優秀な兄にセリーヌは思うところがないわけではなかったが、それでもディナンドのことはいい兄だと思っていたし、ディナンドもまた妹であるセリーヌを大事に思っていた、はずだったのだ。
けれどそんな日々はまやかしだったのかと思うほどに、今のセリーヌとディナンドの仲は冷えきっていた。というより、会う機会がないのだ。
セリーヌの行動を予想した上で避けているのか、中庭や通路で出くわすことはほとんどないし、もし出くわしても空間魔法で一瞬で姿を消してしまう。
唯一公の場では顔を合わせることもあったが、ディナンドはセリーヌと目を合わせすらしない。話しかけてみても、まるで最初から聞こえていないかのように反応すら見せてくれない。
初めの頃こそ変わり果てた兄にセリーヌは絶望していたが、いつしかそれにも慣れ、当たり前になっていった。
そしてあの事件の日から数か月が経ち――あの強烈な記憶も薄れ始めた頃。
「……この声は」
あの日のように中庭で本を読んでいたセリーヌは、紙面から顔を上げた。
どこかから、かすかに歌声が聞こえてくる。
――兄上の声だ。
セリーヌは本を読んでいたのも忘れて立ち上がり駆け出す。
声が聞こえてくる場所は案外すぐに見つかった。
セリーヌは、あの空き部屋の扉の前に立ち尽くしていた。
歌声が聞こえてくるのはその中からだった。
セリーヌは一度大きく息を吸った後、そっと慎重に扉を開ける。
そこには確かに兄の姿があった。壁にもたれかかり、窓の外を眺めながら歌っている。
この数か月の間に少し背が伸びただろうか。
ディナンドはまだセリーヌに気が付いていない。また逃げられるかもしれない、なんて考えは全部どこかへ飛んで行って、セリーヌは一歩を踏み出す。
歌の旋律が変わる。どこかものさびしいメロディを、ディナンドの声が歌い上げる。
けれど、セリーヌは違和感を覚えずにはいられなかった。
「……誰?」
セリーヌは思わずそう口にしていた。
歌は中断され、ディナンドがセリーヌを見る。
その緋色の目はガラス玉みたいに透明で、とらえどころがなかった。
その目にセリーヌが映った瞬間、ディナンドは微笑んだ。
「兄上じゃ、ない」
そう呟いた次の瞬間、セリーヌは走り出していた。考える暇もなく体が勝手に動いていた。
あんなの兄上じゃない。セリーヌの頭の中で、その考えだけがぐるぐると渦巻く。
それに、あんな歌は聞いたことがない。昔、古くからある合唱団が歌っていた、古い民謡の響きと似ていた。
その時ディナンドはいなかったし、ディナンドがその民謡を歌っているところも聞いたことがない。
それに何より、歌い方が全く違う。
兄上は、あんなに恐ろしいほどの静けさを感じるような歌い方じゃない。
もっとのびやかで、力強くて、でも繊細で。そんな歌い方だった。
どうして。どうして。それだけが頭の中を占めていた。
セリーヌはしばらくの間走り続けて、やっと立ち止まった。いくつも通路を曲がったのか、あの空き部屋はもう見えない。セリーヌはその場にへたり込んだ。
セリーヌにあの部屋に引き返す勇気はなかったし、引き返したところでディナンドはもういない。
きっと、あの日のことのせいだ。あの時、兄上に何かあったんだ。
セリーヌはそう確信した。
「……明日、なんとしてでも兄上に会って、話をしなくっちゃ。怖いけど、私が逃げてちゃ始まらない」
セリーヌは深呼吸をしてから、自分に言い聞かせるようにそう言った。
ディナンドを探すためなら、城中を駆け回るのも厭わない覚悟だ。とにかく話をしなくてはならない。そんな使命感がセリーヌを突き動かしていた。
この後はまた授業の予定がぎっしり詰まっている。捜すのならば、少しだけ授業の少ない明日だ。
セリーヌはそう決心して立ち上がった。
しかしその翌日、ディナンドは唐突に姿を消した。継承権を放棄するとの書置きを残して。
結局セリーヌの決心は果たされることなく、あのガラス玉のような目をして歌っていた、まるで他人のようなディナンドが、セリーヌが見た最後の兄だった。
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帰ってきた場所:1
誤字報告
多分、ここが攻め込むだとか物騒なこと → 攻め込む時 or 攻め込み時
第二話
旦那さまを及びしましょうか。
↓
旦那さまをお呼びしましょうか。
ですか?