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狐の章 1
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とある江戸の街はずれに、あやかし甘味処と揶揄されている場所があった。
正式名称はおりん甘味処なのだが、この店を切り盛りする女主人の凛は変わり者として有名だった。
凛の年齢は20歳。
凛は13歳の頃から、この甘味処を切り盛りしているが周囲の期待とは異なり結婚や子育てには縁がなかった。
世間では、嫁に行き遅れていると言われる年齢だ
しかし、凛が変わり者としてよく知られているのは、愛想笑いひとつせず、いつもツンとしているからだった。
黙っていれば見目麗しく、誰もが見惚れてしまう美しさを持っている。
腰まである艶やかな黒髪と、琥珀色にきらめく瞳が特徴的な女で、控えめな雰囲気と憂いをまとった姿に、男たちは一度は必ず恋煩いを経験する。
ところが口説きに甘味処へ足を運ぶと、恋の病は一瞬で吹き飛んでしまう。
凛は笑わず、ポイっとお品書きを卓の上に放り捨てていく。
客がめげずに注文しても、凜は鋭い眼差しで客も見つめ、不愉快だと言わんばかりに乱暴に甘味を置いていく。
しかしその一口を食べれば、誰もがあまりの美味しさに驚かされる。
女なのに気難しい職人気質で可愛げの欠片もない。
「なるほど、だからお凛は行き遅れなのか」と誰もが納得する所以である。
さらに補足をつけるなら、凛は甘味処を切り盛りしているにもかかわらず、稼ぎ時の祭りにすら滅多に露店を出さない。
祭りの時期は数多くの商売人たちが出店して、声を張り上げて客を我先にと呼び込むのが普通である。
今回の稲荷祭りでも、凛は露店を出さなかった。
街はずれにあっても、太鼓や笛、三味線などの音は風に乗って運ばれてくる。
聞こえてくるのは稲荷神社の祭りで演奏される『稲荷祭囃子』の音楽だ。
神社を称える内容や祭りの様子を歌い、賑やかさと喜びに満ち溢れた音が聞こえてきても凛の心はまったく浮かれていない。
当然、このようなめでたい日に無愛想な女主人しかいない甘味処まで足を運ぶ人間はいない。
凛は炊事場で炭火をおこしていた。
煙が舞い上がる中、蓋をした鍋の蒸気が漂い、豊かな香りが広がる。
凛の手は麻の布で火傷をしないように守られていた。
調理している時の凛は穏やかな表情で、心地よい待ち時間を過ごしているようだ。
そこへ駆け込んできたのが、旦那に浮気をされて嫉妬と悲しみに苛まれているお紺だった。
お紺は化け狐の中でも、人間に扮するのがうまいほうだが、感情が高ぶってくると尻尾を出してしまう。
凜はすすり泣くお紺を残して、炊事場へと戻った。
蒸しあがったばかりのもち米から立ちのぼる甘い香りが、凜の笑みを深めた。
凛は丁寧にもち米をすりつぶし、香ばしい香りが立ち上るなかでおはぎの仕込みを始めた。
熱々のもち米を手早くこね上げ、そのほどよい温かさに心がほぐれていく。
一つ、また一つと手を動かし、凛はおはぎを並べていく。
おはぎの形状は整然と整えられ、その一つ一つが心をくすぐるような美味しさを約束している。
最後にきな粉をまぶして出来上がりだ。
お紺は、おはぎの甘い香りに気づいて泣き止んでいた。
凜が卓に運んできたおはぎを頬張り、お紺は幸せそうに微笑んだ。
口の中では、きな粉の香ばしさが広がり、もちもちとした食感がじんわりと広がる。
甘さは控えめでありながら、ほんのりとした優しい味わいが舌を包み込む。
お紺は、おはぎを食べ終えるとすぐにお代わりを催促した。
凜は、少しだけ元気を取り戻したお紺の顔をみて、満足そうに追加のおはぎを取りに行こうとする。
「ちょいとお嬢!」
凛のことをお嬢と呼んで飛び込んできたのは、勝手に居ついて甘味処の手伝いをするようになった押しかけ店員の三之助だった。
三之助は鋭い眼光と厳つい表情が特徴的な20代半ばの男だ。
今は着物に帯の着流し姿をしているが、仮にふんどし一丁の姿になっても様になってしまうほどの美丈夫である。
ここに女性客がいれば黄色い声援で埋め尽くされたことだろう。
しかし凜は三之助を見て露骨に眉をひそめた。
「なんで露店に来てくれないんですか!」
「私が人混みを嫌っていることは知っているでしょう。露店で甘味を売りたいなら奥におはぎがあるから持っていきなさいな」
三之助は人付き合いを避ける凛に代わって、甘味処の営業活動を行っている。
凛にとって三之助という人物は、雇うつもりはないと言って追い返したはずなのに、勝手に居ついて働いている奇妙な男だ。
三之助が居座るようになってから1年が経過している。
凜は追い返すことも面倒になり、三之助のことは放置して好きにやらせるようになったのだ。
お紺は三之助を見つめて、感嘆の息を漏らした。
「相変わらず、顔だけはいい男だねぇ」
「お紺さん、顔だけってぇのは余計っす」
三之助は苦笑したが、お紺は含み笑いを浮かべた。
「だってさねぇ…三之助はんは、お凛ちゃんのことしか頭にないじゃないか」
「お紺さん、三之助はタチの悪い付きまといなんだ。どうにかしとくれ」
凜が心底迷惑そうに三之助のことを説明する。
お紺は「仲のよろしいことで」と恨めしそうにつぶやいた。
正式名称はおりん甘味処なのだが、この店を切り盛りする女主人の凛は変わり者として有名だった。
凛の年齢は20歳。
凛は13歳の頃から、この甘味処を切り盛りしているが周囲の期待とは異なり結婚や子育てには縁がなかった。
世間では、嫁に行き遅れていると言われる年齢だ
しかし、凛が変わり者としてよく知られているのは、愛想笑いひとつせず、いつもツンとしているからだった。
黙っていれば見目麗しく、誰もが見惚れてしまう美しさを持っている。
腰まである艶やかな黒髪と、琥珀色にきらめく瞳が特徴的な女で、控えめな雰囲気と憂いをまとった姿に、男たちは一度は必ず恋煩いを経験する。
ところが口説きに甘味処へ足を運ぶと、恋の病は一瞬で吹き飛んでしまう。
凛は笑わず、ポイっとお品書きを卓の上に放り捨てていく。
客がめげずに注文しても、凜は鋭い眼差しで客も見つめ、不愉快だと言わんばかりに乱暴に甘味を置いていく。
しかしその一口を食べれば、誰もがあまりの美味しさに驚かされる。
女なのに気難しい職人気質で可愛げの欠片もない。
「なるほど、だからお凛は行き遅れなのか」と誰もが納得する所以である。
さらに補足をつけるなら、凛は甘味処を切り盛りしているにもかかわらず、稼ぎ時の祭りにすら滅多に露店を出さない。
祭りの時期は数多くの商売人たちが出店して、声を張り上げて客を我先にと呼び込むのが普通である。
今回の稲荷祭りでも、凛は露店を出さなかった。
街はずれにあっても、太鼓や笛、三味線などの音は風に乗って運ばれてくる。
聞こえてくるのは稲荷神社の祭りで演奏される『稲荷祭囃子』の音楽だ。
神社を称える内容や祭りの様子を歌い、賑やかさと喜びに満ち溢れた音が聞こえてきても凛の心はまったく浮かれていない。
当然、このようなめでたい日に無愛想な女主人しかいない甘味処まで足を運ぶ人間はいない。
凛は炊事場で炭火をおこしていた。
煙が舞い上がる中、蓋をした鍋の蒸気が漂い、豊かな香りが広がる。
凛の手は麻の布で火傷をしないように守られていた。
調理している時の凛は穏やかな表情で、心地よい待ち時間を過ごしているようだ。
そこへ駆け込んできたのが、旦那に浮気をされて嫉妬と悲しみに苛まれているお紺だった。
お紺は化け狐の中でも、人間に扮するのがうまいほうだが、感情が高ぶってくると尻尾を出してしまう。
凜はすすり泣くお紺を残して、炊事場へと戻った。
蒸しあがったばかりのもち米から立ちのぼる甘い香りが、凜の笑みを深めた。
凛は丁寧にもち米をすりつぶし、香ばしい香りが立ち上るなかでおはぎの仕込みを始めた。
熱々のもち米を手早くこね上げ、そのほどよい温かさに心がほぐれていく。
一つ、また一つと手を動かし、凛はおはぎを並べていく。
おはぎの形状は整然と整えられ、その一つ一つが心をくすぐるような美味しさを約束している。
最後にきな粉をまぶして出来上がりだ。
お紺は、おはぎの甘い香りに気づいて泣き止んでいた。
凜が卓に運んできたおはぎを頬張り、お紺は幸せそうに微笑んだ。
口の中では、きな粉の香ばしさが広がり、もちもちとした食感がじんわりと広がる。
甘さは控えめでありながら、ほんのりとした優しい味わいが舌を包み込む。
お紺は、おはぎを食べ終えるとすぐにお代わりを催促した。
凜は、少しだけ元気を取り戻したお紺の顔をみて、満足そうに追加のおはぎを取りに行こうとする。
「ちょいとお嬢!」
凛のことをお嬢と呼んで飛び込んできたのは、勝手に居ついて甘味処の手伝いをするようになった押しかけ店員の三之助だった。
三之助は鋭い眼光と厳つい表情が特徴的な20代半ばの男だ。
今は着物に帯の着流し姿をしているが、仮にふんどし一丁の姿になっても様になってしまうほどの美丈夫である。
ここに女性客がいれば黄色い声援で埋め尽くされたことだろう。
しかし凜は三之助を見て露骨に眉をひそめた。
「なんで露店に来てくれないんですか!」
「私が人混みを嫌っていることは知っているでしょう。露店で甘味を売りたいなら奥におはぎがあるから持っていきなさいな」
三之助は人付き合いを避ける凛に代わって、甘味処の営業活動を行っている。
凛にとって三之助という人物は、雇うつもりはないと言って追い返したはずなのに、勝手に居ついて働いている奇妙な男だ。
三之助が居座るようになってから1年が経過している。
凜は追い返すことも面倒になり、三之助のことは放置して好きにやらせるようになったのだ。
お紺は三之助を見つめて、感嘆の息を漏らした。
「相変わらず、顔だけはいい男だねぇ」
「お紺さん、顔だけってぇのは余計っす」
三之助は苦笑したが、お紺は含み笑いを浮かべた。
「だってさねぇ…三之助はんは、お凛ちゃんのことしか頭にないじゃないか」
「お紺さん、三之助はタチの悪い付きまといなんだ。どうにかしとくれ」
凜が心底迷惑そうに三之助のことを説明する。
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