私の好きの壁とドア

木魔 遥拓

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五十九話『見ていたのは』

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 夕日の茜色が校舎を照らす放課後。八戸波先生に渡す予定のクッキーを鞄に入れたまま、私は一人で図書室に来ていた。
 いつかの日と同じで、私が何か行動を起こそうと思った日に限って、八戸波先生は他の生徒に囲まれてしまう。人混みかき分けて渡すのは無理だが、机に仕込むくらいはできそうだと思いながら、実行には移さなかった。
 先生が気づくとは限らないし、感想もらえるかどうかも怪しいんだよね。食べてくれたら私のだって、気づいてくれそうだって思うのは自信過剰がすぎるし。
(やっぱり美味いな、古町のクッキーは)
 褒められたことを思い出すと、自惚れも些か現実味を帯びている。そんな錯覚をしてしまう。
「返却お願いします」
 借りていた本を返却して、元あった棚に戻す。大まかな場所は記憶しているが、細かい配置は覚えていないので毎回番号と並び順を確認する。似たジャンルの本のはずなのに、不思議と隣の本に興味が湧かない。と言うより、そもそも本に意識を持って行けていない。
 雪菜先輩に頼めば一年生のフロアに来てはくれると思うけれど、本音を聞いているから頼りたくない。知らなかったとはいえ、あの時先輩を頼ったこと、今でも後ろめたい。
 私の頭の中は、八戸波先生にクッキーを渡すことと、雪菜先輩の罪悪感でいっぱいだった。
 時間稼ぎで訪れた図書室で、スマホのメモを開いて八戸波先生から教えてもらった本のタイトルを確認する。図書室に置いてある本は六冊。いくら本に気が向かなくても、原因の一つである先生が絡んでいる分いくらか興味を惹かれる。小さい頃幾度となく繰り返した「神様の言うとおり」に従って、スマホの画面に触れることなく一段、また一段と指を動かす。
 ……今日はこの本にしよう。『シャイの花弁』。先生はダブルミーニングって言ってたな。
 無作為に選んだ本を借りて図書室から退室した。八戸波先生は一人になっただろうか。そんなことを考えながら、遠巻きに聞こえる部活動の聞きながら教室に戻る。
「帰りにコンビニ寄るー?」
「なんか新作出たっけ?」
 教室の前の廊下から聞こえた話し声に、私は急ブレーキをかけた。意味もなく壁に背を預けて隠れる。壁の端から現れた生徒の集団は、パタパタを音を立てて廊下を下っていく。私が教室を離れる前に八戸波先生を取り囲んでいた生徒たちだ。
 彼女たちの足音がほぼ聴こえなくなった頃、隠れていたのが嘘のように足音を立てて教室へと歩いた。理由もなく焦る足を止めることなく教室に入った。
 教室には先生が一人、教卓で何か作業をしていた。どこか怠そうにペンを動かしている。
「お疲れ様です、先生」
「ん? 古町か。なんだ、忘れ物でもしたのか?」
「えっと、そんな感じです」
 適当な理由を吐き、ありもしない忘れ物を机から取り出して鞄にしまう。教科書とノート、今日の自主勉強で使う予定はない。鞄にしまって八戸波先生にチラリと視線を向けると、作業を再開していた。私はクッキーの入った袋を鞄の上の方に引っ張り出してから、鞄を肩にかけて先生に近づいた。
「何してるんですか?」
「ああ。なんてことない雑事だよ。教務員室でもいいんだが、小難しい話で揉めてるから逃げてきた」
「それ、先生も聞いてないとダメなやつなんじゃ」
 さてな? と、とぼけた表情で八戸波先生は肩を竦めた。私の疑いの目で見つめると「流石にその辺の分別はついてるよ」と、あくまで自分とは関係ない話であると主張する。私も先生がサボるとは思っていないけれど、サボらないとも思えない。
 まあ、どっちでもいいか。先生と二人になる時間ができたわけだし。
「先生、あの。よかったら、これ。たくさん作ったので」
 赤いリボンが付いた袋を取り出して八戸波先生に差し出す。本音こそ隠したままなものの、嘘は言っていない。実際、夢国さん、七津親子、先輩たち、友杉姉妹、先生。人生で一番多く作った自覚がある。さらにいえば、羊羹も先生以外の分作っている。
「なんか。毎度毎度もらってばかりだな、俺は」
 そう言って八戸波先生は袋を手に取った。中のクッキーを見ているはずのその目は、どこか遠くを見ているようにも見える。偶然一緒に買い物をしたあの日の目に似ている。
 似ている、けど。違う。悲しみの中に、決意があるというか、受け止めているような、そんな感じがする。
「ぁ……」
 不意に溢れそうになった言葉は、肺を潰されるようにして遮られた。訊くのはここしかないと思う私と、今訊く必要はないと、逃げようとする私。知りたがっているのに、たった一言が怖い。吐き出す空気を失った言葉が喉に詰まる。
 ここで逃げたら、私はきっと二度と訊けない。私は先生の全部を知りたい。それが無理だとわかっていても、知れることは知りたい。
「先、生」
 詰まっていた言葉の始まりを無理やり捻り出し、大きく息を吸う。肺に溜まった空気は、続きを紡ぐことを拒むように肺の底へと沈もうとする。
 だめ。ここで、逃げない。ずっと抱えてるモヤモヤを終わらせるんだ。
「教さんって、どんな人なんですか?」
 詳細に訊けば途中で止まると感じた私は、前置きも脈絡もなく本題を口にした。喉の詰まりは解消されたが、今度は空気を取り込めなくなった。呼吸が苦しく、体が震えているのがわかる。
 八戸波先生は驚いた顔をすると、額に握った右手を当てて俯くと、大きなため息を吐いた。数秒の沈黙の後、先生は振り払うように頭を左右に振ってから話し始めた。
「教は妹だ。兄貴はいないかったが、妹はいた。うるさくて、我儘で、お人好しで……」
 先生は言葉を止めて私のことをジッと見つめた。そのさきの言葉を、私は察していた。それが、訊いた理由だったから。

「お前にそっくりなんだ。驚くくらいにな」

 予想していた言葉。そうなるだろうとわかっていた言葉。けれど、動揺するし困惑もする。確かめた真実に心臓がギュッと締め付けられる。不安が溢れ出しそうなほど心の底から湧き上がってくる。胸元のリボンを握りしめながら、返そうと思っていた言葉を口にする。
「私は、私だけです。教さんは、教さんだけなんです」
 元はと言えば、私が悪ふざけで「お兄ちゃん」なんて言ったことがいけなかったんだ。それなのに、こんな被害者づらしたことしか言えないなんて。最低だ、私。
「私を。見て、欲しいです。先生」
 慟哭に転じそうな思いを聴いた八戸波先生はゆっくりと立ち上がり、私の頭をそっと撫でた。いつもの少し荒っぽい手ではなく、花に触れるようにそっと、優しく。確かめるように。
「一度も重ねなかった。とは、言えない」
 受け入れ難い言葉に、リボンを握りしめる力が強くなる。全身が硬直したように力が入る。
「でも、もう間違えない。古町からハッキリ言われて、俺もハッとしたよ」
 俯いた顔をあげて八戸波先生の顔を見上げると、申し訳なさそうな笑顔を浮かべていた。「すまなかったな」という言葉に私は首を振り、もう一度俯いた。そして、そっと右の手の小指を立てて差し出す。
「約束、ですよ?」
 その行動に八戸波先生は何を言うこともなく、右手の小指を立ててそっと絡めてくれた。子供じみた指切りげんまん。その時の先生の瞳は、寂しそうなものではあったがしっかりと私のことを見てくれていた。
 十秒にも満たない時間絡ませた指を解く。感情の波が落ち着いて冷静になると、恥ずかしさが一気に込み上げてきた。重ねた言葉の数は大したことないが、その一つ一つが重たい。水族館の時も恥ずかしかったし緊張したが、あの時は本音を隠していた。今回は「好き」こそ伝えられていないものの、深いところで燻っていた本音だった。
 私を見て欲しいとか。結構なこと言っちゃってない? 私。
「では、先生。また明日。……さようなら」
「おう。気をつけて帰れよ、古町。また明日な」
 別れの挨拶を済ませて、昇降口まで向かう。靴を履き替えて駅まで歩いた。急ぐことなく、まだ少し整理のついていない感情を抱きながら電車に揺られる。何事もなく降車し、家の鍵を探り始めたところでハッと気がついた。
 そうだ。クッキーと羊羹、志穂ちゃんと沙穂さんに届けないと。
 自分の家を通り過ぎて、さらに数十分歩く。志穂ちゃんの家のインターホンを押すと、中から少しドタドタした音が聞こえた。
「おっす、琉歌。スイーツデリバリーご苦労さまー! 新作ゲーム買ったから超語りた……。少し話そうぜ?」
「うん。ありがとう、志穂ちゃん」
 志穂ちゃんは私の消化しきれていない感情を察して話を聞いてくれた。些細なことでも気づいてくれるし、寄り添ってくれる。お節介だとかお人好しだとか言う人もいるけれど、私はそんな志穂ちゃんに救われている。先ほどのことを話すと、話終わるまで志穂ちゃんは静かに話を聞いてくれた。
「なるほど。流石に想定の外だわ」
「うん。もう気にしてない、って言ったら嘘になっちゃうけれど。先生も約束してくれたから」
 不安が全部消えたわけじゃない。ショックがなかったわけじゃない。けれど、小指に残った八戸波先生との約束確かめると、少し心が落ち着いた。
「琉歌は強いな」
「そんなことないよ」
 志穂ちゃんの言葉にはにかみながら答えると、志穂ちゃんは私の顔を自分の胸に埋めてそっと抱きしめてきた。あまりの唐突さに、体が少し硬直した。
「志穂ちゃん?」
「……頑張ったご褒美素直に受け取れい。姉貴帰ってきたら、一緒に茶しばこうぜ。琉歌のお菓子で」
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