BloodyHeart

真代 衣織

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ひび割れる心

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 自宅マンションに帰った羽月は、夕食を取った後から、ずっとタブレットを操作していた。
 バレたなら、芹沢は奴らが逮捕される前に始末するだろう。
 当然、証拠も——。
 先に確保しねぇと……。
 タブレット画面には、電車の路線図上に田内美穂の顔写真、IPアドレスと現れた時間の追跡情報が表示されている。三宅豊が調べ上げた情報だ。
 児童見守り会以外では規則性はなし。場所も時間も三宅豊の言う通りバラバラだった。 
 もう直ぐ大型のクラブイベントがある。
 ドラキュラは、そこで集まった全員を殺すだろう。
 時間がない。
 折角来た芹沢の弱味を逃げられるチャンスだ。
 臓器売買の証拠を掴む。
 田内美穂さえ見付かれば……。
 一体、どこにいる?
 気持ちばかりが焦る。
 羽月は乱される思いに、髪を掻き上げた。
「どうぞ、羽月さん」
 風呂を上がったリリアが、アイスボックスを入れたハイボールを差し出してきた。着ているナイトフェアは、ピンクのロングワンピース。
「気が利くな」
 半分以上飲む。
 羽月の脳が糖分を欲していた。
 羽月が座っているソファーにリリアも腰掛ける。シャンプーの心地良い香りがする。
 リリアにタブレット画面が目に入った。
「あれ? 美穂さんだ」
 思わず口を開いたリリアに羽月は反応する。
「知っているのか? もしや、お前が会ったマダムかっ⁉︎」
 まさかの奇跡に、羽月は驚き詰め寄った。
 不穏な事態が分かる。リリアは動揺する。
「そうですが……。美穂さんが何かしたんですか?」
「間接的に誘拐に関与した。指示役と接触した数少ない一人だから、今探している」
 気持ちを汲み取り、羽月は言葉を選んだが意味はなかった。
 リリアは激しく動揺している。
「今起きている事件って、誘拐殺人の臓器売買ですよね?」
 報道で、リリアは事件の事を知っていた。
「そんな訳ないです! 美穂さんは息子さんを亡くしているんです! 娘さんだって心臓病なんです! 子供を喪う苦しみを、身に染みて分かっているんですっ。そんな人が、子供を殺す人達に協力なんて、する訳ないじゃないですか⁉︎」
 強く否定する。受け入れたくない事実だ。
「子供を亡くす苦しみを、二度も味わいたくない。その気持ちはどうなるんだ?」
 冷静に羽月はリリアと向き合う。羽月の言葉は、リリアを諭すには十分だった。
 羽月は妹を亡くしている。
 リリアは改めて実感した。
「でも……美穂さんは優しい人でした。殺人なんて……そんなの有り得ない!」
 言葉に根拠はない。ただ、受け入れる事が出来ない。それだけだ。
 羽月は容易に見透かす。
 煙草に火を点ける。吐く紫煙に冷徹な溜息が出た。
「ただの願望だよな? 事実を歪めようとしている。視界が歪もうが、事実は変わらないんだぜ?」
 呆れているのか?
 嫌でも分かる。
「ご、ごめんなさい。でも……悪人に協力するとは思えない。本当に親切な人でした」
 リリアは潤む瞳で訴える。
「殺人を犯すのは素行が悪いからじゃない。正当防衛も委託殺人も、復讐劇だって起きている」
 羽月は冷やかに指摘する。
 実際に、戦争では至って普通の若者だった軍人が、数多の人を殺していた。
 リリアだって知っている。直接目にした事実でもある。
 説得力のある言葉だ。
 否定出来ない事実——。
   リリアは体ごと羽月の方を向き、正座する。
「ならば、私が会って話します! 美穂さんを説得して、連れて来ます」
 受け入れる為に、リリアは覚悟を決めようとした。
「居場所だけお知えな。後は引っ込んでろ」
 羽月は突き放す。
「何でですか?」
 リリアは悲しくなる。
「そんな動揺している状態じゃ無理だ。迷惑なんだよ」
 更に睨みまで入れられた。
 リリアは前回、誰も説得出来なかった事を思い出した。
 そして机を蹴られ、激しく叱責された苦い思い出……。
「確かに、この前は誰も説得出来ませんでした。でも……私は直接聞きたい」
「お前の願望に付き合ってやる暇はねぇよ」
 言葉どころか吐く煙草の煙さえ、リリアには突き刺さるようだ。
「仰る通りです。でも……親切にして貰った誠意は示さないといけないからっ——」
 消化し切れない思いが渦巻く。
 リリアは言葉を絞り出す。
「仕方ねぇガキだなっ——」
 煙草を消し、羽月はテーブルを前にずらした。
「この場に、あいつらがいなくて良かった」
 言い終わると、羽月は体ごとリリアの方を向く。
 リリアは恐怖に目を瞑る。
 腕を掴まれた。
 直後、逞しい胸が顔に当たる。
 リリアは優しく抱き締められていた。
「辛いんだろ? 今は泣いていい」
 大人の優しい眼差しが、子供の弱々しい瞳を包み込む。
 リリアの目に涙が溢れた。
 言葉にされた事実は頭では理解出来た。
 だが、心はそうもいかないのだ。
 とても親切にされた思い出がある。
 突き付けれた現実は、思いを打ち砕かなければ受け入れられないものだった。
 心は、ひび割れるように酷く痛んで——。
「ごめんなさいっ……」
 日々、命を懸けている羽月に、迷惑は掛けたくなかったが、優しい温もりにリリアの涙は止まらない。
「いいんだよ。まだ無理するな。心が保たなくなる」
 髪を撫でる手すら優しく羽月は言う。
 リリアに見えないその瞳は、どこかとても淋しそうだった。
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