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第2話 暗黒街の女将

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 通りを木枯らしが吹いている。

 こんな日は古い知人が訪ねてきそうだな。

 そんなことを考えながら、宿屋の女将マダム・クインが通りを眺めていると、黒い衣服を着た妙齢の女性がやって来るのが見えた。

 マダム・クインはその見覚えのある銀髪に思わず目を凝らして、次いでギョッとした。

「フィオナ!? あんたフィオナじゃないの。いったいどうしたの?」

「すみません。しばらく泊めていただけませんか?」

「泊めるって……。あなたグリフィスと結婚したんじゃ……」

 そこまで言ってマダム・クインはハッとした。

 フィオナの顔色。

 元々血色のあまりよくなかった顔がすっかり青ざめている。

 唇は噛み締めたのか紫色に充血していた。

 何かあったのだ。

 2度と立ち寄らないと決めたクインの宿屋をもう一度訪れなければならないような何かが。

「入りなさい」

 マダム・クインは何も聞かずフィオナを招き入れた。

 フィオナは彼女の心遣いに感謝した。



 マダム・クインはフィオナを食卓に通すと、温かいスープを差し出した。

 フィオナは震えていて、いかにも寒そうだったから。

 だが、彼女が震えているのは寒さ以外にも原因があるのは明らかだった。

 実際にフィオナはスープに口を付けても具合が良くなる気配はなかった。

「ごめんね。部屋が片付くまでもう少し待ってくれる?」

「いえ、突然、訪れたのはこちらなので」

「それで? どうしたの急に。ラルフと喧嘩でもした?」

「実は……先ほど婚約破棄を言い渡されました」

 マダム・クインは他人事ながら息が詰まりそうになった。

 学院時代からフィオナのことをよく知っている彼女は、フィオナの置かれた立場をよくわかっていた。

「そう。それはなんと言えばいいか。言葉も見つからないわ」

「ええ。そういうことなので、家にも帰れなくなりました。もう来ないと言ってしまった手前、申し上げにくいのですが、私にはあなた以外頼れる人がいません。またここに泊めていただけますか?」

 確かにここ暗黒街に逃げれば、一時的に資産を凍結して時間稼ぎができる。

 まだ結婚していない貴族がよく使う手だった。

「もちろん。あなたさえよければいつでも歓迎するわ。知っているでしょう? ここがどういう場所か」

「ええ。ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」

 フィオナは少し落ち着いたのかスープを口に運んでホッと一息ついた。



 マダム・クインはフィオナを空き部屋に案内した。

 食事をとって寝床を確保して安心したのか、フィオナはだいぶ顔色をよくして部屋へと入っていった。

 部屋にフラフラと吸い込まれていく彼女を見送りながら、マダム・クインは責任を感じていた。

 というのも彼女が実家から排除された一因はマダム・クインにもあるからだ。

 フィオナに学院の職を薦めたのは他でもない彼女だった。

 フィオナがこの宿屋に訪れたのは、まだ彼女が成人して間もない頃。

 ここで働かせて欲しいと申し出てきたのだ。

 クインは彼女の身なりを一目見て不審に思った。

 お貴族様と言えないまでもそれなりの資産家のご令嬢に見える。

 とてもこのようなところで働くような女には思えない。

 クインが遠回しに探りを入れると、彼女は頬に貼られたガーゼを剥がしてみせた。

 彼女の頬に刻まれた黒い紋様を見て、クインはすべてを察した。

 フィオナは生まれつき呪いに憑かれやすい体質なのだ。

 良家の親御さんからすれば、世間体を気にして表に出したくない娘だろう。

 普通の店で雇ってもらえないと考えるのも頷ける。

 クインは彼女の面倒を見てやることにした。

 あぶれ者でも世話してやる彼女の懐の深さは、界隈では有名だった。

 フィオナもそれを聞きつけてここに来たのだろう。

 暗黒街と境を接するこの宿屋は、来る者拒まず、去る者追わずをモットーにしていた。

 顔の広いクインは、すぐにその情報網を使ってフィオナの実家について調べてみた。

 すると彼女の実家が思った以上に複雑であることがわかった。

 彼女はレイス家当主の亡くなった前妻の娘で、後妻とその娘に疎まれていること。

 フィオナの呪い憑きの体質のせいで、当主も彼女を嫁に出すのは避けたがっていること。

 これらのフィオナの背景を知ってクインは他人事ながら胸を痛めた。

 クインの見る限り、フィオナはあまり感情を表に出さないが、心根の優しい娘だった。

 フィオナがここで働き始めてから数ヶ月経った頃、クインの元に耳寄りな情報が舞い込んできた。

 学院の黒魔導師が呪いを採取したがっている。

 呪い憑きを弟子に取りたがっているというのだ。

 本来、高額な料金を支払わなければならない呪いの治療を無料で受けられる上に、魔導師の職を得られるかもしれない。

 クインはフィオナにこれを薦めた。

 フィオナは迷ったが、引き受けることを決心したようだ。

 宿屋の仕事に暇を取り、学院に通い始めた。



 フィオナが学院に通い始めてすぐにクインは彼女の異変に気づいた。

 頬に貼っていたガーゼが消えている。

 黒い紋様もすっかり消えていた。

「もう治してもらえたの?」

 クインがそう聞くと、「自分で治した」とフィオナはしれっと答えた。

 すぐに学院きっての天才黒魔導師が現れたと、街にも噂が聞こえてきた。

 だが、それがまずかったようだ。

 フィオナの実家は、彼女のこの進路がお気に召さなかったようだ。

 元々、実家では存在しない子扱いされていたフィオナだが、いよいよ居場所をなくしてしまった。

 フィオナは感情を表に出さなかったが、クインには落ち込んでいるのが手に取るようにわかった。

 フィオナは学院に篭って研究に没頭するようになった。

 フィオナの黒魔導師としての名声が上がれば上がるほど、フィオナの気分は暗くなっていった。

 クインがフィオナの去就についてヤキモキしていると、急転直下のような話が舞い降りてきた。

 フィオナが結婚すると言い始めたのだ。

 お相手はグリフィス家の次男ラルフだという。

 フィオナとラルフ。

 この取り合わせを聞いた時、クインは嫌な予感がした。

 何組もの新郎新婦の仲人を務めてきたお見合いおばさん特有の直感である。

 ラルフは口が上手く軽薄なことで有名だった。

 一方のフィオナは天才肌とはいえ、その根っこの部分では手堅い性格だった。

 クインにはどうしてもこの2人の結婚生活が上手くいく未来が見えなかった。

 かと言って、ようやく掴んだ幸せに水を差すのも野暮だろう。

 2人の相性に関する不安は心の奥底に閉じ込めて、フィオナに一つだけ聞いておいた。

 学院を退職することについてだ。

「いいの? せっかく魔導師として認められたのに。学院の職を棒に振っちゃって」

「はい。ラルフと結婚するなら、父も家に帰ってきていいと言ってくれたんです」

 フィオナの父親は数年前から不治の病に伏せっていた。

 死を間際にして、突然、実の娘が可愛く思えてきて、フィオナに財産を継がせたくなったのだ。

「そう。それなら迷う理由はないわね。家族円満なのが一番だわ」

「ただ、もうここには来れなくなりました」

 ラルフの両親がマダム・クインの宿屋に出入りすることに関して嫌な顔をしているということだった。

 さんざん世話になったのに恩を返せず申し訳ない、とフィオナは言った。

「私のことは気にする必要はないわ。せっかく掴んだ幸せなんだから離しちゃダメよ」

「はい」

 2人は抱き合って別れた。

 その後、マダム・クインは自分にできる範囲でフィオナとグリフィス家の噂を追っていた。

 婚約したにもかかわらず、いつまでも結婚したという報告がないのが気になったが、知らせのないことはいいことだと思い、やがてクインもフィオナのことを忘れつつあったのだが、まさかこんなことになっているとは。

 ラルフに婚約破棄されたことで彼女は実家に戻ることも家督を継ぐことも叶わなくなった。

 学院に復帰することもまず叶わないだろう。

 あそこはポスト争いが激しく、滅多に外の者を雇わない。

 なんの伝手もないフィオナが職を得られたのは奇跡に近いことだった。

 ましてや一度職を辞した者を雇うことなど……。

 これでフィオナは天涯孤独の身となってしまった。

 あの意思の強いフィオナがあそこまで弱々しくなっている姿を見ることになるとは。

 これからあの可哀想な子はどうなるのだろう。

「それにしても、ラルフめ。あの忌々しい貴族の次男坊が!」

 あれだけフィオナに期待させておいて婚約破棄するとは。

 ラルフにとっては遊びの気紛れでも、フィオナにとってはようやく掴んだ希望の糸だったのに。

 クインは腹立ち紛れに椅子の足を蹴らずにはいられなかった。



 フィオナは案内された部屋でベッドの中に潜り込み、ようやく張り詰めていた気分が和らいでいくのを感じた。

 もはや実家よりも慣れ親しんでしまったこの宿屋。

 このあと自分はどうなるのだろう?

 魔導学院への復帰は望み薄だ。

 マダム・クインは雇ってくれるだろうか?

 彼女が変わらぬ態度で迎えてくれたのには本当に安心した。

 感謝の気持ち以外の何物もない。

 慣れ親しんだこの宿屋の少し古い木の匂いを感じているうちに眠気が忍び寄ってくるのを感じた。

 これからのことを考えると、不安に押し潰されそうだったが、一つだけ確かなことがある。

 もう男には期待しない。

 自分の力だけで生きていく。

 その後、フィオナは泥のように眠った。

 今日1日神経をすり減らすことがあまりに多すぎた。
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