mistress

桜 詩

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第四章

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ベッドの横に人影を感じて、エレナは目が覚めた。
揺らめく明かりに灯され、浮かび上がるのは男性の姿。
「ライアン…?」
エレナは掠れた声を出した。
「目が覚めたんだな…」
薄暗闇に目が慣れると、優しく笑むライアンの顔が眼に映る。
「水は?」
いるかと問われて、うなずくとライアンは手ずからコップに注いで渡してくれた。
ゆっくり、少しずつ飲むと吐いてひりついた喉に通る水が心地よい。
「来てくれたのね?」
エレナはそっと、ライアンの手に自分の手を差し入れた。
大きな手が、滑り込んできた手を握ると温もりが伝わる。
「私に黙ってるように口止めをしたと聞いた…」
エレナはばつが悪くて俯いた。
「分かってる、私と私の家族気を使ったね?」
「ごめんなさい…」
「謝らなくてもいい。気を使わせたのは私が至らないせいだ、すべてを捨ててもいいと言っておきながら、情けない事だ」
自嘲ぎみに嗤うライアンは優しくエレナの肩を抱きよせて、
「すぐに結婚をしよう」
ライアンは囁いた。
「明日にでもすぐに」
「でも…まだ…それにそんなにすぐには無理よ」
「すでに、離婚は正式になっている。陛下に頼んで受理をしてもらうよ」
貴族の結婚は告知が必要で、国王の許可がいる。
明日、という事はすべて飛ばして行う公爵としての権力を行使するつもりなのだろう…
ライアンは自信家な笑みを浮かべてエレナを安心させた。
「だけど、式は難しい…先になっても構わないか?」
エレナは驚いた。
「式なんて…出来ないわ」
初婚でもなく、愛人からの妻になるのに、神の前を歩いて誓うなんて出来そうもない。
「…まあ、今はそれで良いか…」
ライアンは笑うと
「エレナ。私はとても喜んでいる…この年で子供に恵まれるとは、考えてもいなかった」
エレナが不安視していたこと。
「私の子供を産んでほしい。そして一緒に育てよう」
エレナはライアンの首に抱きついて、涙を流した。この涙は何だろう…。嬉しくて安心して、そして、辛い過去の思い出が…。
噴出する様々な想いがエレナから涙を溢れ出させた。

「…アップルガース伯爵夫人が、ものすごい顔で睨んでいた」
思い出した様に屈託なく笑うと、
「こんなに泣かせてしまうと、また怒鳴られそうな気がする」
とくっくっと笑った。
「エレナ、ブルーウィング・ホールに引っ越さないか?あそこなら静かで良いと思う」
あの思い出の華麗な屋敷。
「わかったわ、そうする」
「体調が落ち着いたら引っ越そう」
ライアンが言い、エレナをベッドに横たえると、
「安心して眠るといい。今夜は伯爵夫人も客間にいる」
エレナは子供のように丸くなって、再び眠りに落ちた。

かくして、ライアンは彼らしい手法を使いエレナ・ヘプバーンとの婚姻も秘密裏に成立させた。

しかしまだ表面上はエリザベスが妻であり、彼女をエスコートして王宮の大舞踏会には向かうこととなったのだ。
王の元へ挨拶をするまでは、エリザベスは微笑み、ライアンの隣にいたが、それ以降は顔すら見せようとせずにいた…。
仕方ないかとライアンは思い苦笑した。
今年の社交シーズンもあと僅か…もう少しだ。

大舞踏会から、少したったある日…
エレナは、不審な人物がうろうろしているとジェフリーから聞かされた。
ふと見ると、それはルナだった。

なぜ?ここに?フェリクスも、ライアンもここには慎重に来ていて、これまで1度も噂になっていないと言うのに…。
エレナは、思いきって声をかけに行くことにした。
幸い、昼過ぎには体調は落ち着くようになってきていた。

「…うちにご用なんでしょう?」
声をかけると、ルナは文字通り飛び上がった。
反応が素直すぎて可愛らしい。少し笑ってしまう。
振り向いた顔は、薔薇色の頬をして透き通るような肌で水が弾むような美しさ。
「ずっと門の前を行きつ戻りつしてる女性が居ると聞いたの」
「あっ…」
真っ赤になる顔すら可愛らしい。
「ごめんなさい。不審でしたね…」
「オペラの時のお礼、とおっしゃる訳ではないんでしょう?ちょうどお茶にするところでしたの。お入りください」
何があってここに来たのか?エレナはルナと話したかった。
「聞きたいことがあるのでしょう?」
お茶を出しながら伺うように聞いて見ると、
「フェリクス様は貴女を知ってるのに、声をかけませんでした…」
あら…この子もフェリクスが好きなんだ…と姉としては大変嬉しく、これでフェリクスとエレナを疑って来たのだと核心を得た。
「オペラの時ね?」
「そうです、驚いた顔をしていました」
ルナの真っ直ぐな気性にエレナは好感と共に、大変な子だなとも思った。
この真っ直ぐさは、小ずるさを知った女にはすこし眩しすぎる。
「貴女はちょっと知っているだけの人に会えば必ず声をかけるかしら?」
「…どうでしょう…」
エレナは可笑しくなった。
「ねぇ、貴女が恋人と出掛けて、恋人がちょっと知っているだけの未亡人にわざわざ声をかけたらどうする?」
「すぐにどんな関係か聞きます」
吹き出しそうになるのを堪える。
「そうね」
きっとルナはそうするだろう。だけど、いったいどれくらいの人がそうできる?
「貴女はとっても素直ね」
爆笑したくなるのを堪えるのに必死だった。
「この近所の人が」
…ドナ夫人でしょうね… 
「貴女にはパトロンが居ると、夜に通う男性がいて、朝に1度みたその人は、若くて見目のよい貴公子だったと」
あの夫人の目は、やはり恐ろしい。
なんて事だ…。そのどちらもフェリクスか?それとも、夜の方はライアンか…?
「未亡人がこんなところで一人で住んでいれば色々な噂が立つものね」
くすっと笑った。
「ここの持ち主はウィンスレット公爵よ」
「え?」
「私の亡き夫は、ウィンスレット公爵の知人だったの。財産がなく路頭に迷っていたので、ここに住まわせてくれたの」
少しの真実と、設定上の嘘。
「つまり、パトロンはウィンスレット公爵、なのですか?」
…違うというか、なんというべきか、
「はたからみれば愛人だと言われても仕方ないわね」
ああ…嘘だ。
「実際金銭的な援助を受けているもの。ご子息のフェリクス卿とは誓って、貴女が疑うような関係はないわ」
きっぱりと言いきった。
これは本当。
ルナは、もうひとつの疑問を気にしているのだろう。
「1度、朝に服が汚れたそうでここを思い出して来られた事があったわ」
これも本当。
「彼は清廉潔白で誠実な青年だと思うわ。安心して?」
ここはまず自信をもって保証出来る。

ルナは素直にエレナの話を受けとめて、しばらく話して帰っていった。けれど、いきなり疑いを確認しに家を訊ねるなんて思いきった事をする少女なんだろう。
「あのどこかに引っ越しを?」
「ええ、その予定なの」
ルナに微笑むと
「おしゃべりが出来て楽しかったわ。フェリクス卿とお幸せに」
と、さよならを告げた。
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