幸福な蟻地獄

みつまめ つぼみ

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第3章:幸福の象徴

68.幸福の象徴

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 由香里ゆかりとティアの居る教室に踏み込むと、床に由香里ゆかりが倒れ込んでいた。

 お腹を押さえてつらそうにしてる――出血?! 怪我でもしたのか?! この部屋で?!

 ティアが治癒の異能で由香里ゆかりを癒してるみたいだけど、由香里ゆかりの様子は変わりがないみたいだ。

 ……ただの怪我じゃない、のか?

 俺は頭が真っ白になって、呆然と光景を見つめていた。

 背後で湖八音こやね先生がデュカリオンと通話をしている声が聞こえた。

「はい、そうです……わかりました。
 竜端たつはしさん、すぐにデュカリオンが検査車両を回してくれるそうです」

 俺は真っ白な頭のまま、由香里ゆかりを見つめて黙って頷いた。




****

 白衣のデュカリオンが現れ、真剣な顔で俺に告げる。

「すぐに検診をするから、君は談話室で待っていて」

 デュカリオンは職員と一緒に担架で由香里ゆかりを連れていった。


 俺は女子たちと談話室で、デュカリオンと由香里ゆかりが戻ってくるのを待っていた。

 重たい沈黙が続く中、ようやくデュカリオンが姿を現す。

 深刻な顔のデュカリオンが俺に告げる。

悠人ゆうと由香里ゆかりの部屋に来て欲しい」

 俺は黙って頷いて、席を立った。




****

 ベッドに寝かされている由香里ゆかりは、もう落ち着いたみたいだ。

 だけど不安気な表情で、俺を見つめていた。

「大丈夫か、由香里ゆかり。もうつらくないか?」

「はい、もう痛みはないです。ティアが癒してくれたからだと思いますけど」

 ベッドサイドの椅子に腰を下ろし、由香里ゆかりの手を握ってやる。

 背後からデュカリオンが告げる。

「これから大切な話をするから、二人ともそのままで聞いて欲しい」

 俺は振り返ってデュカリオンを見つめた。

「なんだよ、大切な話って」

 デュカリオンは少しためらった後、由香里ゆかりに告げる。

「残念だったね」

 由香里ゆかりが呆然とつぶやく。

「どういう……ことですか」

「早期流産だよ。君のお腹の子供は、流れてしまった」

 俺は慌てて由香里ゆかりに振り返る――彼女の顔から、血の気が一瞬で引いていた。

 俺の手を、由香里ゆかりが強く握りしめてくる。

「……う、そ」

 デュカリオンは眉をひそめ、つらそうに告げる。

「嘘ではないよ。
 おそらく染色体異常だろうね。
 この時期までの流産は珍しい話じゃない。
 君のせいではないから、決して自分を責めないようにね」

 ……妊婦って、由香里ゆかりだったのか。

 デュカリオンが穏やかに微笑んで告げる。

「今は心と体を癒すことを考えなさい。
 君は若い。まだいくらでもチャンスはあるんだ。
 ――お大事にね」

 デュカリオンは白衣を翻し、部屋から去っていった。

 俺は泣き崩れる由香里ゆかりの肩を抱きしめながら、彼女が泣き疲れて眠るまでそばに居た。




****

 空気の重たい夕食になり、俺たちは言葉少なく食事を口に運んでいく。

 瑠那るなが眉をひそめ、涙ぐんで告げる。

「今が八週目ぐらいでさ。十二週目になったら悠人ゆうとに教える予定だったんだよ」

「なんで、すぐに教えてくれなかったんだよ……」

「デュカリオンの指示だよ。
 たぶんあの人、こうなることがわかってたんじゃないかな。
 元々、十二週目の安定期になるまで、流産の可能性って高いらしいし」

 俺はうつむいてスープの皿に目を落としていた。

 それで一番不安定に見えたのか?

 妊娠してる身体でも、愛を求める自分を抑えられないことに、自己嫌悪でも感じてたのだろうか。

 だとしたら、そんな身体にしてしまった俺にだって、責任があるんじゃないのか?

 今まで最善を尽くしてきたつもりだった。それが間違ってたんだろうか。

 悩む俺に、瑠那るなが告げる。

「十二週目になったら悠人ゆうとに伝えるんだって、喜んでたんだよ。
 『もうすぐ教えられる』って、毎日言っててさ」

 あとたった四週間、だけどそれは叶わぬ夢と消えちまった。

 楽しみに待っていた分だけ、由香里ゆかりのダメージは大きいかもしれない。

 俺は味のしない夕食を口に放り込みながら、自分の不甲斐なさに腹を立てていた。




****

 それからの由香里ゆかりは、とても不安定になった。

 一日を休養にあてたあと戻ってきたゆかりの顔から、笑顔が消えていた。

 暗い顔で、必要最小限の言葉だけを交わしていく。

 心細いのか俺の後をついて回り、そばから離れようとしなかった。

 そして時々、思い出したかのように号泣するのだ。

 俺も、女子たちも必死に慰めた。けどやっぱり、心の傷は深いみたいだ。


 夕食後の午後七時、俺は憂鬱な気分で由香里ゆかりのドアをノックした。

 ドアの中から現れたのは、いつもと変わらぬ彼シャツ姿の由香里ゆかり

「なぁ由香里ゆかり、今夜は早く寝るんだ。
 眠りだけが、お前の心を癒すはずだ。
 だから今夜は――」

「――嫌です! 今夜も全てを忘れさせてください! 何もかも、つらいことを全部です!」

 不安定に泣き叫ぶ由香里ゆかりを抱き止めながら、俺は小さく息をつき、部屋の中に入っていった。


 その晩、由香里ゆかりは今まで以上に俺の愛を求めた、

 体力の限界を超えてもまだ、俺の愛を貪り続けた。

 俺にできるのは、精一杯大切に慈しんでやることだけだった。

 ようやく眠りに落ちた由香里ゆかりを見守りながら、俺は時間ギリギリまで、その頭を撫でていた。

「……もう、優衣ゆいのところに行かないと。ごめんな」

 俺はそっと、気配を殺して由香里ゆかりの部屋から立ち去った。




****

 悠人ゆうとは女子たちと一緒に由香里ゆかりを支え、ようやく彼女にわずかな笑顔が戻る頃、もう季節は年末を目前に控えていた。

 年内最後、金曜日の週末モニタリングを終えて、日曜日の大晦日おおみそかを迎えた。

 七人が談話室に集まり、年末特番を流しながら過ごしていく。

 誰もモニターなんて見ていない。ただのBGVだ。

 四月に出会ってからから今日までの九か月間、いったいどれだけの出来事があったのか。

 そんなことを仲間たちと、思い出として語っていく。

 つらかった記憶や悲しかった記憶も、今では笑い話に出来ていた。

 うれしかった記憶や楽しかった記憶は、今も鮮明に残っている。

 一緒に過ごした日々の気持ちを共有した七人は、まるでひとつの群体のような集団だった。

 悠人ゆうとを中心として、女子が笑いあう。そんな仲間たちだ。

 楽しかった日々を口にするたびに、由香里ゆかりの笑顔には力が戻っていった。回復の兆候だ。

 瑠那るな由香里ゆかりの笑顔を微笑んで見つめながら、心の底から安堵していた。

 優衣ゆい瑠那るな美雪みゆき由香里ゆかりは、幼馴染の四人組のまま、ここに居た。

 ガラティアは変わらず、純粋で無邪気な笑顔を周囲に振りまいている。

 セレネは新顔だが、もうすっかりメンバーの一人として馴染んでいた。

 彼女たちを見守る悠人ゆうとの表情も明るい。彼の太陽のような慈しみが、女子全員を照らし出していた。

 瑠那るなが守りたいと願った絆はそのままに、さらなる絆もここには在った。

 なんて心地の良い世界だろう。瑠那るなは自分の心が満たされて行くのを見つめ、満足感を覚えていた。


 もうすぐ年が変わる。

 ふと、瑠那るな携帯端末デバイスがメッセージ着信を知らせた。フライングの挨拶にしては早すぎる――デュカリオンだ。


『週末のモニタリングのことで話があるんだけど、落ち着いて聞いて欲しい』


 瑠那るなの心臓が締め付けられるように苦しくなった。

 この話の流れ――まさか。


『君から高濃度の妊娠ホルモンが検出された。
 この濃度は薬の副作用から逸脱した数値だ。
 次のモニタリングでエコー検査を行うけど、おそらく妊娠で間違いないと思う。
 彼に知らせるかは、君の判断に任せるよ』


 新しい避妊薬も、まだ完全には副作用を抑えられていなかった。

 そしてついに『その日』が、瑠那るなに訪れたのだ。

 瑠那るなは震える指で、返信をタップしていく。


(何週目?)

『四週目か五週目ぐらいだろう』

(わかった)

『ごめんね、年末最後のメッセージがこんなことで。
 よいお年を』


 瑠那るなはため息をついて、携帯端末デバイスをテーブルに置いた。

 今回、悠人ゆうとに知らせるかは、瑠那るなに任せると言われた。

 前回と違って、十二週目を待たずに知らせても構わない――そういうデュカリオンの判断だろう。

 あとは、瑠那るなが知らせたいかどうかだ。

 ――知らせるか、黙ってるか。

 しばらく悩んでいると、年末特番が新春特番に切り替わった。

 周囲で仲間たちが、悠人ゆうとと共に新年を祝っている。

 祝いの言葉が飛び交う部屋で、瑠那るなの胸に湧き出る思いがあった。

 ――ああ、私も悠人ゆうとから妊娠を祝われたいな。

 驚くほど素直にそう思えた。

 あの太陽のような慈しみに、子供ができたことでお返しをしたかった。

 悠人ゆうと瑠那るなにも新年の挨拶を告げる。

「あけましておめでとう!」

「うん、おめでとう――ねぇ、ちょっと話があるから、部屋の外に行かない?」

 瑠那るなの言葉に、悠人ゆうとはすぐに頷いて、部屋の外に向かった。

 ――大丈夫、悠人ゆうとを今度こそ、喜ばせてみせる。

 由香里ゆかりと同じように、自分を抑えられず自己嫌悪になるかもしれない。

 やっぱりだめで、同じように不安定になるかもしれない。

 一抹の不安が胸に去来する。

 それでもこの場には、確かに求めていた『幸せ』があった。

 ここに居る仲間となら、必ず『幸せ』な未来を掴めると思えた。

 一見すると安定した人生――その実、かごの中のモルモット。そんなことは、全員わかっていた。

 それでも私たちは確かに今、『幸せ』なのだ。

 この『幸せ』を象徴する子供が今、瑠那るなのお腹の中に居る。

 この象徴を、無事に産み育てたかった。

 『幸せ』を確信した瑠那るなは立ち上がり、悠人ゆうとが待つ廊下に続くドアに手をかけた。
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