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第1章:エスケープ

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 赤いワンピース少女が両手を持ち上げて香澄に向けた。

 怯える香澄が「ひっ」と身を縮める。

 ため息をついた晴臣が少女に告げる。

花連かれん、疲れてる人間を脅かすんじゃない」

「はーい」

 少女――花連がつまらなそうにカウンターに向き直った。

 晴臣がコップに注いだ牛乳を、花連の前に差し出す。

 花連は美味しそうに牛乳を飲み始めた。

 香澄がおずおずと尋ねる。

「あの……この子は?」

 晴臣が眉をひそめて微笑んだ。

「ごめんね、驚かせて。
 『猫又』の花連。常連客だよ。
 ――これはお詫びのケーキだから、遠慮せず食べて」

 晴臣がカウンターキッチンの冷蔵庫から、ショートケーキを取り出して香澄の前に置いた。

 香澄はフォークを手に取り、イチゴに突き刺して口に運ぶ。

 新鮮なイチゴの酸味と甘みが、香澄の疲れを癒していく。

「美味しい……これ、高いんじゃないの?」

「気にしないで。そんなに高い物じゃないし」

 嬉しそうに微笑む晴臣が、香澄を見つめていた。

 香澄は少し恥ずかしくなり、ちまちまとショートケーキを口にしていく。

 上品だが確かな甘み。柔らかいスポンジもしっとりとしている。

 あっという間にショートケーキとサンドイッチを食べ終わった香澄が、小さく息をついた。

「美味しかった」

 コーヒーを口にする香澄に、晴臣が告げる。

「仕事で辛いこと、あったんでしょ。
 愚痴で良ければ聞くよ」

 温かいコーヒー、温かい微笑みと言葉。

 香澄は視界がにじんでいき、堤防が決壊するかのように言葉を吐き出していった。

 晴臣は優しい笑顔で、ただ黙って香澄の愚痴を聞き続けた。




****

 香澄が愚痴を言い終わる頃、花連が退屈そうに告げる。

「そんな仕事、辞めちゃえばいーじゃーん」

 ハンカチで涙を拭いながら、香澄が鼻声で応える。

「そんなことできないよ。
 家賃だって払えなくなるし……」

 香澄は田舎から出てきて、大学生の時から一人暮らしだ。

 就職するまでは仕送りでやりくりしていたが、今は自力で支払っている。

 就職して半年では、失業保険も出ない。

 今の仕事を放り出すわけにもいかなかった。

 香澄の愚痴を聞いた花連が、唇を尖らせて告げる。

「だって、仕事で貢献できてないんでしょ?
 自分でも向いてないって思うんでしょ?
 それなら無理しても、誰も幸せになれないよ?」

「それは……そうかも、しれないけど……」

 晴臣が穏やかな声で告げる。

「待ってて、今オーナーを呼んであげる。
 きっと君の助けになってくれると思う」

 きょとんとする香澄の前で、晴臣がスマホを取り出して画面をタップしていた。

「……すぐ来てくれるって。
 それまでコーヒーでも飲んで待ってて」

「はぁ……」

 香澄がハンカチに目を落とすと、マスカラが付いてるのに気が付いた。

 涙を改めて拭いながら、香澄が席を立つ。

「化粧室、どこですか」

「ああ、奥の扉だよ」

 手で示された扉に向かい、香澄は化粧バッグを持って歩きだした。




****

 香澄が化粧室から出ると、カウンターには見知らぬ老人が座っていた。

 老人は香澄が出て来るのに気が付くと、笑顔を向けて告げる。

「あんたが迷い人か?
 儂がオーナーの草薙卓也だ。
 話は聞かせてもらったよ」

 香澄が戸惑いながら応える。

「水無瀬香澄です……それで、どんなご用でしょう?」

 草薙がコーヒーを天井に掲げながら告げる。

「ここは『マヨヒガ』――人生に迷った者を受け入れる場所だ。
 住む場所がないなら、私が提供しよう。
 働き口も、斡旋してやれるぞ?」

 香澄は小首をかしげながら尋ねる。

「なんですか、その『マヨヒガ』って。
 就職斡旋って、どういう意味ですか?」

 草薙が残念そうに眉をひそめた。

「なんじゃ、知らんのか。
 『あやかし』が住む里、それがマヨヒガだ。
 人間が迷い込むこともある――あんたみたいにな」

 きょとんとする香澄に、晴臣が告げる。

「ここなら家賃は無料。光熱費も無料だよ。
 消耗品は、働いて得たお金で買ってもらう感じかな。
 宅配便も届くから、暮らしていく上で不自由はないよ」

 香澄が困惑しながら尋ねる。

「それで、仕事というのは?
 いかがわしい事じゃないですよね?」

 草薙が楽しそうに笑いながら応える。

「この喫茶店で従業員でもするといい。
 気力が回復したら、就職活動を開始すればいいさ。
 そうやって暮らしてる人間がここには何人かいる」

 有難い申し出だった。

 喫茶店の従業員くらいなら、香澄でもできる気がした。

 少なくとも、今の技術職よりは向いているだろう。

 消耗品の出費程度なら、バイトで充分賄える。

 だが、今の仕事を放り出すことに気が引けていた。

 離職するにも、『辞めます』と伝えて『はいそうですか』と辞められるわけがない。

 仮に辞められても、再就職が厳しいのは目に見えていた。

 口をつぐむ香澄を見て、草薙がうなずきながら告げる。

「色々と不安ごとはあるだろう。
 だが儂が全部面倒を見よう。
 会社への離職手続きも、新しい働き口の紹介も、きちんとするとも。
 今のあんたは疲れ切っとる。
 まずはそれを癒しなさい」

 立ちすくむ香澄が、再び涙ぐんでうつむいた。

 こんなに優しい言葉をかけてもらうのはいつ以来だったか。

 ささくれだった心が、じんわりと癒されて行く。

 草薙や花連、晴臣は、そんな香澄を優しい眼差しで見守っていた。




****

 草薙からパンフレットを受け取り、香澄は会計を済ませた。

「あとはそのパンフレット通りにするといい。
 あんたはただ、家で待ってるだけだ」

 晴臣が「ちょっと貸して」と香澄の手からパンフレットを抜き取った。

 その隅に、晴臣が番号をボールペンで記していく。

「何かあったら、いつでも連絡して」

 パンフレットを香澄に返す晴臣を、花連が指をさして笑っていた。

「晴臣、おっくれてる~!
 今はね、こうするんだよ!
 ――香澄、メッセ交換しよ!」

 花連が香澄にスマホの画面を見せつける。

 そこには定番のメッセージングアプリの画面が映っていた。

「い、いいけど……」

 香澄もスマホを取り出し、花連と連絡先の交換をしていく。

「晴臣、早くスマホだしてー!」

 花連に急かされるように、晴臣もスマホを取り出した。

「僕はまだ、詳しいことはわからないんだけど」

「もー! この前、教えてあげたでしょ!」

 花連が晴臣のスマホを操作し、香澄のスマホと連絡先を交換する。

「――これでよし!
 いつでもなんでも、言いたいことがあれば聞いてあげるよ!」

 花連は得意げな笑顔を香澄に向けた。

 香澄はスマホを胸に抱きしめ、その笑顔に微笑んだ。




****

 店を出た香澄は、振り返って喫茶店を眺めた。

 そこには確かに店があり、隣にはマンションのエントランスがある。

 ――確かここは、ずっと工事中だったっけ。

 その前はテナントが入らず、何年も空き家だったビルだ。

 さきほどの出来事が夢だったんじゃないかと、街灯でパンフレットを読んでいく。

 そこには引っ越しから離職手続き、国民年金の免除申請に至るまで、全て書かれている。

 香澄がやることは、ただ家で待つことだけらしい。

 通知音が鳴り、香澄がスマホを取り出した。

 どうやら花連が、グループメッセージのメンバーに香澄を加えたらしい。


花連:あとは安心して待ってて!

晴臣:僕らを信じて。


 香澄は胸が熱くなりながら、メッセージを打ち込んでいく。


香澄:ありがとう。


 香澄は帰宅する間、なんどもグループメッセージの画面を見返した。

 その日は就職以来初めて、軽い足取りで家に向かった。
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