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第6章:聖女の使命

第58話 禁句

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 朝食が終わり、部屋へ戻る途中のアンリにレナートが声をかける。

「アンリ様、少しお時間をよろしいでしょうか」




 サロンの一室に二人の姿があった。

「そうか、お前もシトラスから教えてもらったのか」

「その話は本当のことだと思いますか? お嬢様の悪夢ではないのですか?」

「過去、何度か未来を言い当て、悲劇を回避してきてる。
 実績があるんだよ。だから、彼女が二度目の人生を送っているのは確かだ」

「……我々に、何かできることはないのですか。
 あれほど苦しむのを、ただ見守るだけなのですか」

「その方法は私も模索中だ。
 だがもう、魔神が復活する未来はこないはずだ。
 だからシトラスには、一人の貴族令嬢として生きて欲しいと、父上たちも願っている」

「お嬢様は、貴族の世界をひどく嫌悪されています。
 そんな世界で生きることが、あの人の幸せなのですか?」

「希代の聖女であることは変えられない。
 そうなると、貴族社会から離れることは難しい。
 ならば父上のような強い貴族の庇護ひごを受けて生きて行くのが、望める最善だろう」

「……お嬢様は、男性に対しても失望を覚えていらっしゃるようです。
 このままでは、幸福な婚姻など夢物語ですよ」

 アンリが微笑みを見せた。

「ならば私がかっさらうまでだ。
 私がめとり、家を捨てて田舎に引きこもる。
 あとはシトラスがそれに納得してくれるだけなんだがな」

 レナートが困ったように微笑んだ。

「あなたにそんな選択肢があるなら、私にだってチャンスはある。
 同じようにお嬢様をさらい、田舎で暮らしてみせましょう。
 貴族ではない私の方が、そんな暮らしに慣れています」

「それも、シトラスを納得させられればだがな。
 ――シトラスは今でも、聖女の重責を感じている。
 そんな彼女が人々の救済を捨てて田舎に引きこもるなど、認めることはないだろう。
 一時的な里帰りとして、彼女の心を癒したことはあった。あれが限界だ」

 アンリが時計を見て告げる。

「私はそろそろ戻る。
 お前も彼女を救う方法がないか、考えておいて欲しい。
 良い案を思いついたら教えてくれ」

 アンリが立ち上がり、サロンから出ていった。

 レナートもソファから立ち上がり、シトラスの居る方向を見上げる。

「彼女を救う方法か……俺に見つけられるといいのだがな」

 レナートもゆっくりとサロンを出て、シトラスがこもる工房へと向かっていった。




****

 聖水製作で力を使い果たした私は、また今日もふわふわとした浮遊感を感じていた。

 あーなつかしー。久しぶりだな、運ばれてる間に意識が戻るの。

 階段を上り、ベッドに寝かされる。

 そして――唇に柔らかい感触があった。

「愛しています、お嬢様」

 私はあわてて跳び起きて、目の前のレナートの顔を見た。

「レナート?! 今何をしたの?!」

 レナートがいたずらっ子のように微笑みながら応える。

「起きていたなら、理解できたのではありませんか?」

「寝ている淑女の、唇を奪ったというの?!」

 信じられない……そんな不誠実な人だったなんて。

 レナートが片手をあげ――あれ? なんで手袋脱いでるの?

 その指が私の唇にそっとれた。

 それはさっきの感触と同じ物。

「……私をだましたの? なんで?」

「お嬢様の意識の有無が、なんとなくわかりました。
 今回は起きてらっしゃると思ったので、先日の仕返しをさせていただきました。
 これで一勝一敗ですね」

「くっ! 確かに昨日は私が悪かったと思いますけど!
 こんな悪質な悪ふざけじゃなかったですわよ?!」

 レナートが澄まし顔で応える。

「充分に悪質です。もう少しご自分がどれだけ『はしたない』ことをしてらしたか、ご自覚ください。
 公爵令嬢のなさることではありませんよ? もっと慎み深く行動なさってください」

 くそう……何も言い返せない。

 私はベッドから起き上がり、ソファに歩いて行った。

「もういいわ! それより紅茶を――」

 視界が暗くなり、足がもつれた。

 気が付いた時には、私はレナートに抱きとめられていた。

「――ごめんなさい、ただの立ちくらみよ」

「お嬢様、なぜ毎日、それほど消耗するまで聖水を作り続けるのですか」

「この家に居ながら人々を救う、たったひとつの道だからよ。
 お父様たちは私を外に出したくないみたいなの。
 そして私は人々を救わなければならない。
 お互いの妥協点が、この聖水作りなのよ」

 私を外敵から守り、私の時間が救済に奪われないようにしながら、私の希望も叶えるという妥協点。

 毎日聖水を作って居れば、半日は休息しなければならない。

 その休息の時間が、私の貴族令嬢としての時間なのだから。

 レナートがためらいがちに口を開く。

「アンリ様から事情は伺っています。
 しかし今は事情が変わりました。
 そこまでして聖水を作る必要はなくなったはずです」

「聖水を作らないなら、私は各地を巡って、困っている人たちに奇跡を与えていくだけよ。
 お父様たちは、そんなことを認めては下さらないでしょうけどね」

「ですから! なぜそこまでして人々を救おうとするのですか!」

 私はレナートの目を見て微笑んだ。

「私が聖女だからよ。
 困っている人が居て、それを救う力が私にあるなら、私はその力を行使するだけ。
 人々を救うのに、『救いたいから』以上の理由が必要かしら?」

 レナートが悔しそうに歯を噛み締めた。

「人間など、救う価値がないのではなかったのですか」

 ――やめて。

「レナート? 昨晩のことは忘れなさい。あれはただのたわごと。作り話よ」

「あなたがそこまでして救う価値が、人間にあると本当に思うんですか?!」

 ――やめて!

「黙りなさいレナート」

「あなたは自分の人生を生きるべきだ! 人々など見捨てて――」
「もうやめて! それ以上言わないで!」

 『人々を見捨てる』――それだけは、言っちゃいけなかった。

 私の心を、人間への失望が満たしていく。

 心が凍り付いて行く錯覚を覚えながら、私は憎しみを込めた目でレナートをにらみ付けていた。

「……レナート、レイチェルを呼びなさい。あなたを私の専属から外します」

 私ににらまれたレナートは、泣きそうな顔で私を見つめていた。

「……そう、動けないのね。いいわ、私が自分で伝えてきます。
 解雇されるかどうかは、お父様次第よ。せいぜい聖神様に祈っておくことね」

 私はよろけながらも立ち上がり、支えてくるレナートの手を振りほどいて部屋の外へ歩いて行った。




****

 昼食も断り、私は窓辺の椅子で体を休めていた。

 空虚な気持ちで窓の外を眺め、春の風に身を任せる。

「シトラス、ちょっといいかしら」

 振り向くと、入り口にお母様が立っていた。

「なんでしょうか、お母様」

 お母様は私の傍まで歩いてきて、私の手を握った。

「どうかレナートを許してあげて。
 あの子が口走ってしまったことは、あなたにとって禁句だったかもしれない。
 だけどあなたを救いたいという願いは、周りのみんなが思っていることなの」

 私は心が氷になったような気分でお母様の顔を見る。

「申し訳ありません、お母様。そのお言葉に従うことは、私にはできません」

「あの子はまだ子供よ。一度や二度の間違いくらいは起こしてしまう。
 あなたが救いたいという人間にレナートが入っているなら、あの子の心も救ってあげられないかしら。
 このままでは、レナートが間違った道へ進んでしまう。それは決して良いことではないわ」

「何をおっしゃられても、私の意志は変わりません。
 あのような言葉を口にしてしまう人間を、私の傍に置かないでください。迷惑です」

 お母様が泣きそうな顔で私を見つめてきた。

 泣きたいのは、こっちだ。

「……わかったわ。私では力不足なのね」

 お母様はそれだけ言うと、静かに部屋から出ていった。




****

 窓の外で、チューリップが揺れている。

 貴族令嬢のドレスのように、ゆらゆら、ゆらゆら。

 それを遠い世界の景色のように、私は見下ろしていた。

 扉がノックされ、誰かが近づいてくる気配がする。

 ……今度は誰が来るというの。

「あらー、あなたこんな立派な部屋に住んでるのね。初めて来ちゃったわ」

 あわてて振り向く――お母さん?!

「なんでお母さんが?!」

 お母さんがお日様のような笑顔で私に告げる。

「どうしたの? シトラス。あなたらしくないわよ?
 そんなに冷たい空気をまとうだなんて、そんな子に育てた覚えはないわ」

 私は我慢できずに泣き出していた。

「だって! しょうがないじゃない! お母さんに育ててもらった記憶なんて、もう思い出せないくらい昔なんだもん!
 お母さんが知るシトラスは、もう居ないんだよ!」

 お母さんが私の頭を包み込むように抱きしめてきた。

「いいえ、あなたはシトラス。私とギーグの娘よ。
 私たちの子供は、人にそんな冷たくする子じゃないわ。
 大丈夫、シトラスは優しい子だもの。
 あなたなら、誰かを許すことなんて簡単にできるはずよ」

 そう、なのかな……

 お母さんの胸の中から、そっと顔を見上げた。

 お母さんの笑顔はいつもあたたかい。

 見ている人を幸せにしてくれる笑顔だ。

「どうしてお母さんはそんな風に笑えるの?」

「私が幸せだからよ? 愛しい夫と愛しい娘が居る。これ以上何か必要かしら?」

「私の幸せって、どこかにあるのかな」

「いくらでも見つけられるはずよ?
 シトラスを大切に思ってくれる人の存在を思い出して。
 そんな人たちが傍にいるなら、それはきっと幸せよ」

「……そんな人が、許せない言葉を口にしたら、私はどうしたらいいの?」

「どうしてその言葉を許せないんだと思う?」

「……言って欲しくなかったから」

「どうして言って欲しくないのかしら」

「……認めたく……ないから……」

「つまり、あなたの代わりに言ってくれたのね。優しい子よ?
 そんな子を、許してあげられないの?

 ……優しさから言ってしまえば、それは許されるべきなのだろうか。

 それで相手がいくら傷付いても?

 ……でもお母さんなら、きっと笑って許してしまうだろう。

 それは間違いないと思える。

「どうしてお母さんはそんなに誰かを許せるの?」

 お母さんが耳元でそっとささやいてくる。

「それはね……誰にも期待してないからよ?」

 驚いて、お母さんの目を見つめた。

 そこには変わらないお母さんの笑顔。

「人間なんて、期待してもしょうがないじゃない。
 どんなに信じても、いつかは裏切るわ。
 人間の価値なんてその程度のもの。
 聖女が自分を犠牲にして救う必要なんて、ないじゃない?」

 私は強烈に嫌な気配を感じて、あわててお母さん――いや、その人から離れた。

「あなたは誰?! 何者なの?!」

 お母さんだった人は、とても楽しそうに醜悪な笑顔を浮かべながら、日の光に消えて行った。


 私は呆然と、お母さんだったものが消えた跡を見つめていた。

「なん……だったの……」

 その言葉に応える人はいなかった。
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