61 / 71
第6章:聖女の使命
第58話 禁句
しおりを挟む
朝食が終わり、部屋へ戻る途中のアンリにレナートが声をかける。
「アンリ様、少しお時間をよろしいでしょうか」
サロンの一室に二人の姿があった。
「そうか、お前もシトラスから教えてもらったのか」
「その話は本当のことだと思いますか? お嬢様の悪夢ではないのですか?」
「過去、何度か未来を言い当て、悲劇を回避してきてる。
実績があるんだよ。だから、彼女が二度目の人生を送っているのは確かだ」
「……我々に、何かできることはないのですか。
あれほど苦しむのを、ただ見守るだけなのですか」
「その方法は私も模索中だ。
だがもう、魔神が復活する未来はこないはずだ。
だからシトラスには、一人の貴族令嬢として生きて欲しいと、父上たちも願っている」
「お嬢様は、貴族の世界をひどく嫌悪されています。
そんな世界で生きることが、あの人の幸せなのですか?」
「希代の聖女であることは変えられない。
そうなると、貴族社会から離れることは難しい。
ならば父上のような強い貴族の庇護を受けて生きて行くのが、望める最善だろう」
「……お嬢様は、男性に対しても失望を覚えていらっしゃるようです。
このままでは、幸福な婚姻など夢物語ですよ」
アンリが微笑みを見せた。
「ならば私がかっさらうまでだ。
私が娶り、家を捨てて田舎に引きこもる。
あとはシトラスがそれに納得してくれるだけなんだがな」
レナートが困ったように微笑んだ。
「あなたにそんな選択肢があるなら、私にだってチャンスはある。
同じようにお嬢様をさらい、田舎で暮らしてみせましょう。
貴族ではない私の方が、そんな暮らしに慣れています」
「それも、シトラスを納得させられればだがな。
――シトラスは今でも、聖女の重責を感じている。
そんな彼女が人々の救済を捨てて田舎に引きこもるなど、認めることはないだろう。
一時的な里帰りとして、彼女の心を癒したことはあった。あれが限界だ」
アンリが時計を見て告げる。
「私はそろそろ戻る。
お前も彼女を救う方法がないか、考えておいて欲しい。
良い案を思いついたら教えてくれ」
アンリが立ち上がり、サロンから出ていった。
レナートもソファから立ち上がり、シトラスの居る方向を見上げる。
「彼女を救う方法か……俺に見つけられるといいのだがな」
レナートもゆっくりとサロンを出て、シトラスがこもる工房へと向かっていった。
****
聖水製作で力を使い果たした私は、また今日もふわふわとした浮遊感を感じていた。
あーなつかしー。久しぶりだな、運ばれてる間に意識が戻るの。
階段を上り、ベッドに寝かされる。
そして――唇に柔らかい感触があった。
「愛しています、お嬢様」
私はあわてて跳び起きて、目の前のレナートの顔を見た。
「レナート?! 今何をしたの?!」
レナートがいたずらっ子のように微笑みながら応える。
「起きていたなら、理解できたのではありませんか?」
「寝ている淑女の、唇を奪ったというの?!」
信じられない……そんな不誠実な人だったなんて。
レナートが片手をあげ――あれ? なんで手袋脱いでるの?
その指が私の唇にそっと触れた。
それはさっきの感触と同じ物。
「……私を騙したの? なんで?」
「お嬢様の意識の有無が、なんとなくわかりました。
今回は起きてらっしゃると思ったので、先日の仕返しをさせていただきました。
これで一勝一敗ですね」
「くっ! 確かに昨日は私が悪かったと思いますけど!
こんな悪質な悪ふざけじゃなかったですわよ?!」
レナートが澄まし顔で応える。
「充分に悪質です。もう少しご自分がどれだけ『はしたない』ことをしてらしたか、ご自覚ください。
公爵令嬢のなさることではありませんよ? もっと慎み深く行動なさってください」
くそう……何も言い返せない。
私はベッドから起き上がり、ソファに歩いて行った。
「もういいわ! それより紅茶を――」
視界が暗くなり、足がもつれた。
気が付いた時には、私はレナートに抱きとめられていた。
「――ごめんなさい、ただの立ち眩みよ」
「お嬢様、なぜ毎日、それほど消耗するまで聖水を作り続けるのですか」
「この家に居ながら人々を救う、たったひとつの道だからよ。
お父様たちは私を外に出したくないみたいなの。
そして私は人々を救わなければならない。
お互いの妥協点が、この聖水作りなのよ」
私を外敵から守り、私の時間が救済に奪われないようにしながら、私の希望も叶えるという妥協点。
毎日聖水を作って居れば、半日は休息しなければならない。
その休息の時間が、私の貴族令嬢としての時間なのだから。
レナートがためらいがちに口を開く。
「アンリ様から事情は伺っています。
しかし今は事情が変わりました。
そこまでして聖水を作る必要はなくなったはずです」
「聖水を作らないなら、私は各地を巡って、困っている人たちに奇跡を与えていくだけよ。
お父様たちは、そんなことを認めては下さらないでしょうけどね」
「ですから! なぜそこまでして人々を救おうとするのですか!」
私はレナートの目を見て微笑んだ。
「私が聖女だからよ。
困っている人が居て、それを救う力が私にあるなら、私はその力を行使するだけ。
人々を救うのに、『救いたいから』以上の理由が必要かしら?」
レナートが悔しそうに歯を噛み締めた。
「人間など、救う価値がないのではなかったのですか」
――やめて。
「レナート? 昨晩のことは忘れなさい。あれはただのたわごと。作り話よ」
「あなたがそこまでして救う価値が、人間にあると本当に思うんですか?!」
――やめて!
「黙りなさいレナート」
「あなたは自分の人生を生きるべきだ! 人々など見捨てて――」
「もうやめて! それ以上言わないで!」
『人々を見捨てる』――それだけは、言っちゃいけなかった。
私の心を、人間への失望が満たしていく。
心が凍り付いて行く錯覚を覚えながら、私は憎しみを込めた目でレナートを睨み付けていた。
「……レナート、レイチェルを呼びなさい。あなたを私の専属から外します」
私に睨まれたレナートは、泣きそうな顔で私を見つめていた。
「……そう、動けないのね。いいわ、私が自分で伝えてきます。
解雇されるかどうかは、お父様次第よ。せいぜい聖神様に祈っておくことね」
私はよろけながらも立ち上がり、支えてくるレナートの手を振りほどいて部屋の外へ歩いて行った。
****
昼食も断り、私は窓辺の椅子で体を休めていた。
空虚な気持ちで窓の外を眺め、春の風に身を任せる。
「シトラス、ちょっといいかしら」
振り向くと、入り口にお母様が立っていた。
「なんでしょうか、お母様」
お母様は私の傍まで歩いてきて、私の手を握った。
「どうかレナートを許してあげて。
あの子が口走ってしまったことは、あなたにとって禁句だったかもしれない。
だけどあなたを救いたいという願いは、周りのみんなが思っていることなの」
私は心が氷になったような気分でお母様の顔を見る。
「申し訳ありません、お母様。そのお言葉に従うことは、私にはできません」
「あの子はまだ子供よ。一度や二度の間違いくらいは起こしてしまう。
あなたが救いたいという人間にレナートが入っているなら、あの子の心も救ってあげられないかしら。
このままでは、レナートが間違った道へ進んでしまう。それは決して良いことではないわ」
「何を仰られても、私の意志は変わりません。
あのような言葉を口にしてしまう人間を、私の傍に置かないでください。迷惑です」
お母様が泣きそうな顔で私を見つめてきた。
泣きたいのは、こっちだ。
「……わかったわ。私では力不足なのね」
お母様はそれだけ言うと、静かに部屋から出ていった。
****
窓の外で、チューリップが揺れている。
貴族令嬢のドレスのように、ゆらゆら、ゆらゆら。
それを遠い世界の景色のように、私は見下ろしていた。
扉がノックされ、誰かが近づいてくる気配がする。
……今度は誰が来るというの。
「あらー、あなたこんな立派な部屋に住んでるのね。初めて来ちゃったわ」
あわてて振り向く――お母さん?!
「なんでお母さんが?!」
お母さんがお日様のような笑顔で私に告げる。
「どうしたの? シトラス。あなたらしくないわよ?
そんなに冷たい空気をまとうだなんて、そんな子に育てた覚えはないわ」
私は我慢できずに泣き出していた。
「だって! しょうがないじゃない! お母さんに育ててもらった記憶なんて、もう思い出せないくらい昔なんだもん!
お母さんが知るシトラスは、もう居ないんだよ!」
お母さんが私の頭を包み込むように抱きしめてきた。
「いいえ、あなたはシトラス。私とギーグの娘よ。
私たちの子供は、人にそんな冷たくする子じゃないわ。
大丈夫、シトラスは優しい子だもの。
あなたなら、誰かを許すことなんて簡単にできるはずよ」
そう、なのかな……
お母さんの胸の中から、そっと顔を見上げた。
お母さんの笑顔はいつもあたたかい。
見ている人を幸せにしてくれる笑顔だ。
「どうしてお母さんはそんな風に笑えるの?」
「私が幸せだからよ? 愛しい夫と愛しい娘が居る。これ以上何か必要かしら?」
「私の幸せって、どこかにあるのかな」
「いくらでも見つけられるはずよ?
シトラスを大切に思ってくれる人の存在を思い出して。
そんな人たちが傍にいるなら、それはきっと幸せよ」
「……そんな人が、許せない言葉を口にしたら、私はどうしたらいいの?」
「どうしてその言葉を許せないんだと思う?」
「……言って欲しくなかったから」
「どうして言って欲しくないのかしら」
「……認めたく……ないから……」
「つまり、あなたの代わりに言ってくれたのね。優しい子よ?
そんな子を、許してあげられないの?
……優しさから言ってしまえば、それは許されるべきなのだろうか。
それで相手がいくら傷付いても?
……でもお母さんなら、きっと笑って許してしまうだろう。
それは間違いないと思える。
「どうしてお母さんはそんなに誰かを許せるの?」
お母さんが耳元でそっと囁いてくる。
「それはね……誰にも期待してないからよ?」
驚いて、お母さんの目を見つめた。
そこには変わらないお母さんの笑顔。
「人間なんて、期待してもしょうがないじゃない。
どんなに信じても、いつかは裏切るわ。
人間の価値なんてその程度のもの。
聖女が自分を犠牲にして救う必要なんて、ないじゃない?」
私は強烈に嫌な気配を感じて、あわててお母さん――いや、その人から離れた。
「あなたは誰?! 何者なの?!」
お母さんだった人は、とても楽しそうに醜悪な笑顔を浮かべながら、日の光に消えて行った。
私は呆然と、お母さんだったものが消えた跡を見つめていた。
「なん……だったの……」
その言葉に応える人はいなかった。
「アンリ様、少しお時間をよろしいでしょうか」
サロンの一室に二人の姿があった。
「そうか、お前もシトラスから教えてもらったのか」
「その話は本当のことだと思いますか? お嬢様の悪夢ではないのですか?」
「過去、何度か未来を言い当て、悲劇を回避してきてる。
実績があるんだよ。だから、彼女が二度目の人生を送っているのは確かだ」
「……我々に、何かできることはないのですか。
あれほど苦しむのを、ただ見守るだけなのですか」
「その方法は私も模索中だ。
だがもう、魔神が復活する未来はこないはずだ。
だからシトラスには、一人の貴族令嬢として生きて欲しいと、父上たちも願っている」
「お嬢様は、貴族の世界をひどく嫌悪されています。
そんな世界で生きることが、あの人の幸せなのですか?」
「希代の聖女であることは変えられない。
そうなると、貴族社会から離れることは難しい。
ならば父上のような強い貴族の庇護を受けて生きて行くのが、望める最善だろう」
「……お嬢様は、男性に対しても失望を覚えていらっしゃるようです。
このままでは、幸福な婚姻など夢物語ですよ」
アンリが微笑みを見せた。
「ならば私がかっさらうまでだ。
私が娶り、家を捨てて田舎に引きこもる。
あとはシトラスがそれに納得してくれるだけなんだがな」
レナートが困ったように微笑んだ。
「あなたにそんな選択肢があるなら、私にだってチャンスはある。
同じようにお嬢様をさらい、田舎で暮らしてみせましょう。
貴族ではない私の方が、そんな暮らしに慣れています」
「それも、シトラスを納得させられればだがな。
――シトラスは今でも、聖女の重責を感じている。
そんな彼女が人々の救済を捨てて田舎に引きこもるなど、認めることはないだろう。
一時的な里帰りとして、彼女の心を癒したことはあった。あれが限界だ」
アンリが時計を見て告げる。
「私はそろそろ戻る。
お前も彼女を救う方法がないか、考えておいて欲しい。
良い案を思いついたら教えてくれ」
アンリが立ち上がり、サロンから出ていった。
レナートもソファから立ち上がり、シトラスの居る方向を見上げる。
「彼女を救う方法か……俺に見つけられるといいのだがな」
レナートもゆっくりとサロンを出て、シトラスがこもる工房へと向かっていった。
****
聖水製作で力を使い果たした私は、また今日もふわふわとした浮遊感を感じていた。
あーなつかしー。久しぶりだな、運ばれてる間に意識が戻るの。
階段を上り、ベッドに寝かされる。
そして――唇に柔らかい感触があった。
「愛しています、お嬢様」
私はあわてて跳び起きて、目の前のレナートの顔を見た。
「レナート?! 今何をしたの?!」
レナートがいたずらっ子のように微笑みながら応える。
「起きていたなら、理解できたのではありませんか?」
「寝ている淑女の、唇を奪ったというの?!」
信じられない……そんな不誠実な人だったなんて。
レナートが片手をあげ――あれ? なんで手袋脱いでるの?
その指が私の唇にそっと触れた。
それはさっきの感触と同じ物。
「……私を騙したの? なんで?」
「お嬢様の意識の有無が、なんとなくわかりました。
今回は起きてらっしゃると思ったので、先日の仕返しをさせていただきました。
これで一勝一敗ですね」
「くっ! 確かに昨日は私が悪かったと思いますけど!
こんな悪質な悪ふざけじゃなかったですわよ?!」
レナートが澄まし顔で応える。
「充分に悪質です。もう少しご自分がどれだけ『はしたない』ことをしてらしたか、ご自覚ください。
公爵令嬢のなさることではありませんよ? もっと慎み深く行動なさってください」
くそう……何も言い返せない。
私はベッドから起き上がり、ソファに歩いて行った。
「もういいわ! それより紅茶を――」
視界が暗くなり、足がもつれた。
気が付いた時には、私はレナートに抱きとめられていた。
「――ごめんなさい、ただの立ち眩みよ」
「お嬢様、なぜ毎日、それほど消耗するまで聖水を作り続けるのですか」
「この家に居ながら人々を救う、たったひとつの道だからよ。
お父様たちは私を外に出したくないみたいなの。
そして私は人々を救わなければならない。
お互いの妥協点が、この聖水作りなのよ」
私を外敵から守り、私の時間が救済に奪われないようにしながら、私の希望も叶えるという妥協点。
毎日聖水を作って居れば、半日は休息しなければならない。
その休息の時間が、私の貴族令嬢としての時間なのだから。
レナートがためらいがちに口を開く。
「アンリ様から事情は伺っています。
しかし今は事情が変わりました。
そこまでして聖水を作る必要はなくなったはずです」
「聖水を作らないなら、私は各地を巡って、困っている人たちに奇跡を与えていくだけよ。
お父様たちは、そんなことを認めては下さらないでしょうけどね」
「ですから! なぜそこまでして人々を救おうとするのですか!」
私はレナートの目を見て微笑んだ。
「私が聖女だからよ。
困っている人が居て、それを救う力が私にあるなら、私はその力を行使するだけ。
人々を救うのに、『救いたいから』以上の理由が必要かしら?」
レナートが悔しそうに歯を噛み締めた。
「人間など、救う価値がないのではなかったのですか」
――やめて。
「レナート? 昨晩のことは忘れなさい。あれはただのたわごと。作り話よ」
「あなたがそこまでして救う価値が、人間にあると本当に思うんですか?!」
――やめて!
「黙りなさいレナート」
「あなたは自分の人生を生きるべきだ! 人々など見捨てて――」
「もうやめて! それ以上言わないで!」
『人々を見捨てる』――それだけは、言っちゃいけなかった。
私の心を、人間への失望が満たしていく。
心が凍り付いて行く錯覚を覚えながら、私は憎しみを込めた目でレナートを睨み付けていた。
「……レナート、レイチェルを呼びなさい。あなたを私の専属から外します」
私に睨まれたレナートは、泣きそうな顔で私を見つめていた。
「……そう、動けないのね。いいわ、私が自分で伝えてきます。
解雇されるかどうかは、お父様次第よ。せいぜい聖神様に祈っておくことね」
私はよろけながらも立ち上がり、支えてくるレナートの手を振りほどいて部屋の外へ歩いて行った。
****
昼食も断り、私は窓辺の椅子で体を休めていた。
空虚な気持ちで窓の外を眺め、春の風に身を任せる。
「シトラス、ちょっといいかしら」
振り向くと、入り口にお母様が立っていた。
「なんでしょうか、お母様」
お母様は私の傍まで歩いてきて、私の手を握った。
「どうかレナートを許してあげて。
あの子が口走ってしまったことは、あなたにとって禁句だったかもしれない。
だけどあなたを救いたいという願いは、周りのみんなが思っていることなの」
私は心が氷になったような気分でお母様の顔を見る。
「申し訳ありません、お母様。そのお言葉に従うことは、私にはできません」
「あの子はまだ子供よ。一度や二度の間違いくらいは起こしてしまう。
あなたが救いたいという人間にレナートが入っているなら、あの子の心も救ってあげられないかしら。
このままでは、レナートが間違った道へ進んでしまう。それは決して良いことではないわ」
「何を仰られても、私の意志は変わりません。
あのような言葉を口にしてしまう人間を、私の傍に置かないでください。迷惑です」
お母様が泣きそうな顔で私を見つめてきた。
泣きたいのは、こっちだ。
「……わかったわ。私では力不足なのね」
お母様はそれだけ言うと、静かに部屋から出ていった。
****
窓の外で、チューリップが揺れている。
貴族令嬢のドレスのように、ゆらゆら、ゆらゆら。
それを遠い世界の景色のように、私は見下ろしていた。
扉がノックされ、誰かが近づいてくる気配がする。
……今度は誰が来るというの。
「あらー、あなたこんな立派な部屋に住んでるのね。初めて来ちゃったわ」
あわてて振り向く――お母さん?!
「なんでお母さんが?!」
お母さんがお日様のような笑顔で私に告げる。
「どうしたの? シトラス。あなたらしくないわよ?
そんなに冷たい空気をまとうだなんて、そんな子に育てた覚えはないわ」
私は我慢できずに泣き出していた。
「だって! しょうがないじゃない! お母さんに育ててもらった記憶なんて、もう思い出せないくらい昔なんだもん!
お母さんが知るシトラスは、もう居ないんだよ!」
お母さんが私の頭を包み込むように抱きしめてきた。
「いいえ、あなたはシトラス。私とギーグの娘よ。
私たちの子供は、人にそんな冷たくする子じゃないわ。
大丈夫、シトラスは優しい子だもの。
あなたなら、誰かを許すことなんて簡単にできるはずよ」
そう、なのかな……
お母さんの胸の中から、そっと顔を見上げた。
お母さんの笑顔はいつもあたたかい。
見ている人を幸せにしてくれる笑顔だ。
「どうしてお母さんはそんな風に笑えるの?」
「私が幸せだからよ? 愛しい夫と愛しい娘が居る。これ以上何か必要かしら?」
「私の幸せって、どこかにあるのかな」
「いくらでも見つけられるはずよ?
シトラスを大切に思ってくれる人の存在を思い出して。
そんな人たちが傍にいるなら、それはきっと幸せよ」
「……そんな人が、許せない言葉を口にしたら、私はどうしたらいいの?」
「どうしてその言葉を許せないんだと思う?」
「……言って欲しくなかったから」
「どうして言って欲しくないのかしら」
「……認めたく……ないから……」
「つまり、あなたの代わりに言ってくれたのね。優しい子よ?
そんな子を、許してあげられないの?
……優しさから言ってしまえば、それは許されるべきなのだろうか。
それで相手がいくら傷付いても?
……でもお母さんなら、きっと笑って許してしまうだろう。
それは間違いないと思える。
「どうしてお母さんはそんなに誰かを許せるの?」
お母さんが耳元でそっと囁いてくる。
「それはね……誰にも期待してないからよ?」
驚いて、お母さんの目を見つめた。
そこには変わらないお母さんの笑顔。
「人間なんて、期待してもしょうがないじゃない。
どんなに信じても、いつかは裏切るわ。
人間の価値なんてその程度のもの。
聖女が自分を犠牲にして救う必要なんて、ないじゃない?」
私は強烈に嫌な気配を感じて、あわててお母さん――いや、その人から離れた。
「あなたは誰?! 何者なの?!」
お母さんだった人は、とても楽しそうに醜悪な笑顔を浮かべながら、日の光に消えて行った。
私は呆然と、お母さんだったものが消えた跡を見つめていた。
「なん……だったの……」
その言葉に応える人はいなかった。
188
お気に入りに追加
1,628
あなたにおすすめの小説
タダ働きなので待遇改善を求めて抗議したら、精霊達から「破壊神」と怖れられています。
渡里あずま
ファンタジー
出来損ないの聖女・アガタ。
しかし、精霊の加護を持つ新たな聖女が現れて、王子から婚約破棄された時――彼女は、前世(現代)の記憶を取り戻した。
「それなら、今までの報酬を払って貰えますか?」
※※※
虐げられていた子が、モフモフしながらやりたいことを探す旅に出る話です。
※重複投稿作品※
表紙の使用画像は、AdobeStockのものです。
聖女召喚に巻き込まれた挙句、ハズレの方と蔑まれていた私が隣国の過保護な王子に溺愛されている件
バナナマヨネーズ
恋愛
聖女召喚に巻き込まれた志乃は、召喚に巻き込まれたハズレの方と言われ、酷い扱いを受けることになる。
そんな中、隣国の第三王子であるジークリンデが志乃を保護することに。
志乃を保護したジークリンデは、地面が泥濘んでいると言っては、志乃を抱き上げ、用意した食事が熱ければ火傷をしないようにと息を吹きかけて冷ましてくれるほど過保護だった。
そんな過保護すぎるジークリンデの行動に志乃は戸惑うばかり。
「私は子供じゃないからそんなことしなくてもいいから!」
「いや、シノはこんなに小さいじゃないか。だから、俺は君を命を懸けて守るから」
「お…重い……」
「ん?ああ、ごめんな。その荷物は俺が持とう」
「これくらい大丈夫だし、重いってそういうことじゃ……。はぁ……」
過保護にされたくない志乃と過保護にしたいジークリンデ。
二人は共に過ごすうちに知ることになる。その人がお互いの運命の人なのだと。
全31話
投獄された聖女は祈るのをやめ、自由を満喫している。
七辻ゆゆ
ファンタジー
「偽聖女リーリエ、おまえとの婚約を破棄する。衛兵、偽聖女を地下牢に入れよ!」
リーリエは喜んだ。
「じゆ……、じゆう……自由だわ……!」
もう教会で一日中祈り続けなくてもいいのだ。
【完結】『飯炊き女』と呼ばれている騎士団の寮母ですが、実は最高位の聖女です
葉桜鹿乃
恋愛
ルーシーが『飯炊き女』と、呼ばれてそろそろ3年が経とうとしている。
王宮内に兵舎がある王立騎士団【鷹の爪】の寮母を担っているルーシー。
孤児院の出で、働き口を探してここに配置された事になっているが、実はこの国の最も高貴な存在とされる『金剛の聖女』である。
王宮という国で一番安全な場所で、更には周囲に常に複数人の騎士が控えている場所に、本人と王族、宰相が話し合って所属することになったものの、存在を秘する為に扱いは『飯炊き女』である。
働くのは苦では無いし、顔を隠すための不細工な丸眼鏡にソバカスと眉を太くする化粧、粗末な服。これを襲いに来るような輩は男所帯の騎士団にも居ないし、聖女の力で存在感を常に薄めるようにしている。
何故このような擬態をしているかというと、隣国から聖女を狙って何者かが間者として侵入していると言われているためだ。
隣国は既に瘴気で汚れた土地が多くなり、作物もまともに育たないと聞いて、ルーシーはしばらく隣国に行ってもいいと思っているのだが、長く冷戦状態にある隣国に行かせるのは命が危ないのでは、と躊躇いを見せる国王たちをルーシーは説得する教養もなく……。
そんな折、ある日の月夜に、明日の雨を予見して変装をせずに水汲みをしている時に「見つけた」と言われて振り向いたそこにいたのは、騎士団の中でもルーシーに優しい一人の騎士だった。
※感想の取り扱いは近況ボードを参照してください。
※小説家になろう様でも掲載予定です。
好きな人に『その気持ちが迷惑だ』と言われたので、姿を消します【完結済み】
皇 翼
恋愛
「正直、貴女のその気持ちは迷惑なのですよ……この場だから言いますが、既に想い人が居るんです。諦めて頂けませんか?」
「っ――――!!」
「賢い貴女の事だ。地位も身分も財力も何もかもが貴女にとっては高嶺の花だと元々分かっていたのでしょう?そんな感情を持っているだけ時間が無駄だと思いませんか?」
クロエの気持ちなどお構いなしに、言葉は続けられる。既に想い人がいる。気持ちが迷惑。諦めろ。時間の無駄。彼は止まらず話し続ける。彼が口を開く度に、まるで弾丸のように心を抉っていった。
******
・執筆時間空けてしまった間に途中過程が気に食わなくなったので、設定などを少し変えて改稿しています。
無一文で追放される悪女に転生したので特技を活かしてお金儲けを始めたら、聖女様と呼ばれるようになりました
結城芙由奈
恋愛
スーパームーンの美しい夜。仕事帰り、トラックに撥ねらてしまった私。気づけば草の生えた地面の上に倒れていた。目の前に見える城に入れば、盛大なパーティーの真っ最中。目の前にある豪華な食事を口にしていると見知らぬ男性にいきなり名前を呼ばれて、次期王妃候補の資格を失ったことを聞かされた。理由も分からないまま、家に帰宅すると「お前のような恥さらしは今日限り、出ていけ」と追い出されてしまう。途方に暮れる私についてきてくれたのは、私の専属メイドと御者の青年。そこで私は2人を連れて新天地目指して旅立つことにした。無一文だけど大丈夫。私は前世の特技を活かしてお金を稼ぐことが出来るのだから――
※ 他サイトでも投稿中
【コミカライズ決定】地味令嬢は冤罪で処刑されて逆行転生したので、華麗な悪女を目指します!~目隠れ美形の天才王子に溺愛されまして~
胡蝶乃夢
恋愛
婚約者である王太子の望む通り『理想の淑女』として尽くしてきたにも関わらず、婚約破棄された挙句に冤罪で処刑されてしまった公爵令嬢ガーネット。
時間が遡り目覚めたガーネットは、二度と自分を犠牲にして尽くしたりしないと怒り、今度は自分勝手に生きる『華麗な悪女』になると決意する。
王太子の弟であるルベリウス王子にガーネットは留学をやめて傍にいて欲しいと願う。
処刑された時、留学中でいなかった彼がガーネットの傍にいることで運命は大きく変わっていく。
これは、不憫な地味令嬢が華麗な悪女へと変貌して周囲を魅了し、幼馴染の天才王子にも溺愛され、ざまぁして幸せになる物語です。
【完結】聖女になり損なった刺繍令嬢は逃亡先で幸福を知る。
みやこ嬢
恋愛
「ルーナ嬢、神聖なる聖女選定の場で不正を働くとは何事だ!」
魔法国アルケイミアでは魔力の多い貴族令嬢の中から聖女を選出し、王子の妃とするという古くからの習わしがある。
ところが、最終試験まで残ったクレモント侯爵家令嬢ルーナは不正を疑われて聖女候補から外されてしまう。聖女になり損なった失意のルーナは義兄から襲われたり高齢宰相の後妻に差し出されそうになるが、身を守るために侍女ティカと共に逃げ出した。
あてのない旅に出たルーナは、身を寄せた隣国シュベルトの街で運命的な出会いをする。
【2024年3月16日完結、全58話】
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる