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第1章:希代の聖女

第8話 エルメーテ公爵家(3)

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 案内されたのは、ベッドルームやリビング、小さなダイニングやキッチンまで付いている大きな部屋だった。

 よく見るとウォークインクローゼットまで付いている。

 エリゼオ公爵家で詰め込まれていた、ベッドだけの小さな部屋とは比べ物にならなかった。

「うわぁ……立派な部屋ですね。こんな部屋が私の物になるんですか?」

 レイチェルがおかしそうに口元を隠して微笑んでいた。

「ええ、その通りです。仮にも公爵令嬢なのですから、このぐらいの待遇は当然ですよ」

 その当然の待遇さえ耐え与えられなかった前回の人生は、いったいなんだったのか。

 最初から私は使い捨てのこまでしかなかったのだと理解してしまい、どこか虚しい想いで愛想笑いを返していた。

「まずは採寸を済ませてしまいましょう。聖女の法衣がお好みでしたらそのままでも構いませんが、公爵令嬢たるもの着るものにも気を配る必要があります」

 ドレスを一着作るまで、最短でも一か月はかかるらしい。

 なので採寸だけでもさっさと済ませ、発注をしてしまいたいらしかった。

 今日は法衣でも構わないと言われたけれど、明日以降は仕立て直したドレスをできれば来て欲しいというのがお父様の意向だそうだ。

 前回の人生ではいつも聖女の法衣――つまり、今着ている服だった。

 子供用なのでサイズは違うがデザインは一緒。十年間着慣れた服だ。

 こちらの方が正直言って落ち着くのだけれど、お父様が着替えて欲しいと言うのであればそれに従うまでだろう。

「では採寸をお願い致します。どの部屋に行けばよろしいのでしょうか」

 私がそう応えると、レイチェルがまたおかしそうに口元を隠して微笑んでいた。

「貴族たるもの、使用人や従者に敬語など使わぬものですよ? ただ命じればよろしいのです。
 元々平民だったお嬢様にはまだ難しいかもしれませんが、ゆっくりと慣れていってください。
 ――採寸はこの部屋で行いますので、お嬢様はこのままお待ち下さい」

 ああ、そう言えばそんな事も勉強したっけ。

 でもエリゼオ公爵家では下手したてに出ないと、従者たちが言うことを聞いてくれなかったんだよね。

 ついつい癖で敬語を使ってしまった。

「……わかりました。ではこの部屋で待っています」

 レイチェルが部屋を辞去して人を呼びに行った。

 私はリビングの木椅子に腰を下ろし、窓からの眺めを視界に納めていた。

 二階の角部屋で南向きの窓。明るい陽光がさんさんと部屋に降り注いでいた。

 そんなお日様の光を、レースのカーテンが遮っている。

 季節は春の終わりで、バルコニーに出るには少し寒そうだ。

 この聖女の法衣はあったかそうに見えて、案外冷える。下に着こめば問題ないのだけれど、今は肌着の上に着ているだけなので外に出る気はなかった。

 見下ろす庭には花壇があり、庭師が手入れをしている最中のようだ。

 比較的寒いこの地方では、まだチューリップが見頃だ。赤や白、黄色い花が花壇をにぎわせていた。

 ぼーっと窓の外を眺めていると、開け放たれていた扉がノックされて振り向いた。

 ノックした人間の顔を見た途端、私の思考は停止していた。

「おにい……さま」

「少し話をしたいのだが、構わないか?」

 まだ十歳の子供だけれど、面影は充分にあった。

 前回の人生で私を睨み続けていた青年が今、目の前に居る。

 緊張感で手に汗を握りながら、私は平静を装って返事をする。

「ええ、構いませんわ。どんなご用でしょうか」

 アンリ兄様は無表情なまま無造作に近寄ってきて、リビングの木椅子に腰かけた。

「先ほどはきちんと挨拶ができなかったからな。
 改めて自己紹介をしよう。アンリ・デディオム・エルメーテだ」

 充分、嫌というほど存じ上げておりますとも!

 ……でも、さっき挨拶は澄ませたのに、本当に何の用なんだろう?

「シトラス・ファム・エストレル・ミレウス……エルメーテですわ。
 それでお兄様は、どんなお話でこちらに見えたのかしら」

 うっかり元々の名前ガストーニュを名乗りそうになって、慌てて取り繕った。

 アンリ兄様は、少し言いづらそうに話を切り出してきた。

「その『お兄様』という呼び名なのだが……」

「ああっ! もしかしてお気にさわりましたか?! ではこれからはアンリ様とお呼び――」
「いや、お兄様で構わない。だが両親が健在なのに、突然養子にもらわれる事になっただろう?
 シトラスの正直な感想を聞きたい。違和感などはないのか?」

 そんなことを言われても、前回の人生では不本意な相手を『お父様』だの『お兄様』だのと無理やり呼ばせられていたのだ。

 今回は少し怖いけれど、不本意とは言い切れない相手と言えた。つまり『マシ』な方だ。

「違和感がないと言えば嘘になります。
 ですが聖女として認定された以上、貴族社会に身を置く事が国によって決められています。
 それに不満を言っても仕方ないと、理解はしていますわ」

 何よりお父さんやお母さんも、この屋敷に住み込みで働くことになった。

 お父さんは兵士として、お母さんは使用人として働くらしい。

 二人が生きて傍に居てくれるなら、それだけで大抵のことは我慢できる気がしていた。

「そうか、シトラスは大人なのだな。私だったら意地でも父や兄などとは呼ばなかっただろう」

 アンリ兄様は無表情なまま、私にそう告げた。

 なんとも感情を読み取りづらい人だ。今どんな感情で言葉をつむいでいるのか、さっぱりわからない。

 こういうところが『冷血貴公子』と呼ばれた理由だったのかもしれない。


 それきりアンリ兄様は黙り込み、会話が途切れてしまっていた。

 ……ああもう! 空気が重たい!

 黙って私の顔を見てないで、何か話題を振って欲しいんだけど?!

 そうやって見つめられてると、前回の人生のトラウマが刺激されて落ち着かない気分になってくるよ?!


 私が困り果てて愛想笑いを浮かべていると、レイチェルが侍女たちを従えて部屋に戻ってきた。

「あら、アンリ様。お嬢様と会話をお楽しみでしたか?」

 たの! しんで! ない!

 私は心の中で、無言の突っ込みを入れていた。

「これからシトラスお嬢様の採寸を行います。男性であるアンリ様は、室外へ出て頂かなければなりません。
 七歳とはいえお嬢様も淑女、むやみに男性に肌を見せるものではありませんからね?」

「……わかった、今回はこれで失礼する」

 そう告げると、アンリ兄様はさっさと部屋から居なくなってしまった。

 嫌なプレッシャーから解放された私は、大きなため息をついていた。

「まったく……何がしたかったのかしら」

「え? 会話をお楽しみだったのではなかったのですか?」

「最初に少し言葉を交わしたきりで、あとはひたすら無言で睨まれてただけでしたわ。
 空気が重たくて、どうしたらいいのか途方に暮れてましたのよ?」

 何かを悟ったかのようにレイチェルが半笑いを浮かべていた。

「アンリ様は社交場でも言葉が少なく、ご令嬢方を困らせていると耳にしたことがあります。
 見目麗しく文武に秀でた方なのですが、その影響で公爵令息だと言うのに婚約話の一つも上がってこないと旦那様が笑っておりました。
 しかし、それほど長く見つめられていたのですか? そのような話はさすがに初耳ですが」

 私はもう一度ため息をつきながら応える。

「きっと農民の娘が公爵令嬢になったのが珍しいのですわ。
 でも私の顔などを見て、何が面白いのかしら……」

 レイチェルがまじまじと私の顔を見つめてつぶやく。

「なるほど、お嬢様もご自覚がおありでないタイプですのね。
 これは中々に男泣かせな女性になりそうです」

「どういう意味でして?!」

「いえ、そのままの意味ですがお気になさらず。
 ――さぁ、採寸を始めましょう」

 男泣かせの意味はよく分からないけど、女泣かせという言葉ぐらいは知っている。

 確か不誠実な男性のことをそう言うのだと、前の人生で聞いたことがあった。

 その逆の意味だと考えると、結構失礼な言葉じゃないかな?!

 私は唇を尖らせながら、レイチェルたちに手伝ってもらいつつ服を脱いでいった。
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