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東方不敗(ひがしかた・まさる)

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本編

将棋セット【黒パンとミルク】

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 猫。

 それは人がテーブルに広げて読んでいる雑誌や新聞の上に座り、時にレトロゲーム機へ足を伸ばしてリセットボタンを押す魔性の生き物である。

「にゃー」

 カフェでもそれは変わらなかった。
「降りろバカ猫」
 将棋盤の上で丸くなっているのは三毛猫の『ちはや』だ。
 人に構って欲しいが故の行動なのだろうが、迷惑なことこの上ない。

 将棋でちはやというと楠木正成が活躍した『千早城の戦い』だろう。

 正成は千早城を登ろうとする敵に丸太を落とし、相手は『将棋倒し』になったと『太平記』には記されている。
 1370年には太平記が完成していたことから、およそ650年前にもう将棋倒しという言葉があったのだ。
 ドミノ倒しのルーツが16世紀であることを考えると、意外に歴史が深い。

 なお『と金の遅早(おそはや)』という格言(足が遅いと思って油断していると、想定より早く王手をかけられたりして困るという意味)もあり、だいたいの人はちはやと読んでしまう。

「きしゃー!?」

 むんずとちはやの首根っこを掴んで吊るし上げる。
「ええい、暴れるな! 本ガヤの高級品だぞ。いくらすると思ってる!?」
「え、その将棋盤。そんなに高かったの?」
「見るからに年季が入ってるだろ」
「ただの古い将棋盤かと……」
「……」
 これからは盤駒の手入れもさせよう。
 椿油はまだ残っていただろうか。
 暴れるちはやを外に放り出し、
「じゃあ始めるか」
「お願いしまーす」
 初級者である瑞穂に指導対局を始める。
 客もいないので二人きりだ。
 普通なら駒の動かし方や初期配置から教える所だが、うちではそんな基礎的なことから教えたりはしない。
 だから初歩的なことは印刷して壁に張り出してある。

 麻雀の役や点数計算と同じ要領だ。

 指していれば自然と覚えるだろう。
「自分の思うように指してみろ」
「思うように……」
 初手3六歩。
 飛車の左斜め前の歩を突いた。
 明らかに何も考えてない一手。

「……初手は角の右斜め前か、飛車の正面の歩を突くのが基本だ。『角道を開ける』とか『飛車先を突く』ってやつだな」


・ ・ 歩
歩 歩 ・
・ 角 ・
香 桂 銀

角道を開ける


・ 歩 ・
歩 ・ 歩
・ 飛 ・
銀 桂 香

飛車先を突く


「こう?」
 俺の真似をして角道を開け、飛車先を突き、角の横を金で守る。
「いきなりこう行く手もある」
 こちらの角で相手の角を奪う。
「わ!?」


9 8 7 6 5 4 3 2 1
香 桂 銀 金 王 金 銀 桂 香 一
・ 飛 ・ ・ ・ ・ ・ ▼ ・ 二
歩 歩 歩 歩 歩 歩 ▼ 歩 歩 三
・ ・ ・ ・ ・ ▼ 歩 ・ ・ 四
・ ・ ・ ・ ▼ ・ ・ ・ ・ 五
・ ・ 歩 ▼ ・ ・ 歩 歩 ・ 六
歩 歩 ▼ 歩 歩 歩 ・ ・ 歩 七
・ 馬 ・ ・ ・ ・ ・ 飛 ・ 八
香 桂 銀 金 玉 金 銀 桂 香 九

2二角で8八の角を奪った局面(敵陣に進んだので角は『馬』に成っている)


「慌てるな。銀で角が取れるだろ? これが角交換、角換(かくが)わりとも言う。初期配置ではお互いの角が対角線上にいるから、角道を開けあえば対局開始から4手で角を奪い合い、敵陣に打ちこめる状況になる」
「すごい」

「次は飛車先の歩を突いて相手に取らせろ。この歩はいわば『毛利秀元』、飛車は『長宗我部(ちょうそかべ)盛親』だ」

「は?」
「関ヶ原の戦いだよ。毛利秀元が動かなかったから、毛利家の後ろに布陣していた盛親は身動きが取れず、何もできないまま戦いは終わってしまった」
「つまり飛車先の歩は邪魔な駒ってこと?」
「そういうことだ。歩がなければ飛車はいつでも敵に食らいつける。太閤(たいこう)将棋が有名だな」
「たいこう?」

「秀吉のことだ。普通、格上がハンデとして飛車や角、香車を落とすだろ? でも秀吉は初級者だから駒落ちなんて出きる立場じゃない。そこで考えたのが飛車先の歩を落とす駒落ちだ」

「ハンデになってないじゃない!」
「でも駒落ちには違いないだろ?」
 たぶん後世の作り話だろうが、いかにも秀吉らしいエピソードだ。
「さて……」
 無駄話はここまでにして将棋に戻る。
 敵の正面まで飛車先の歩を進め、歩を取らせる。


香 桂 銀
・ 飛 ・
歩 ・ 歩
・ ・ ・
・ ・ ・
・ ・ 歩
歩 ▼ ・
・ 銀 金
香 桂 ・ 

▼が飛車先の歩
わざと相手に飛車先の歩を取らせる

 そして前線に飛車を走らせ歩を取り返す。
「飛車の頭に歩を打て」
 俺から奪った歩を飛車の前に打つ。
 この歩を取ると金か銀に飛車が取られてしまうので、飛車を自陣に引くしかない。
 俺が飛車を引くと、瑞穂も飛車先を突いて歩を交換した。

 ここは前例に倣って飛車の頭に歩を打ってやりたいところだが、あえて1五に角を打つ。


5 4 3 2 1
王 ・ 銀 桂 香 一
・ ・ 金 ・ ・ 二
歩 歩 ・ ▼ 歩 三
・ ・ 歩 飛 ・ 四
・ ・ ・ ・ 角 五
・ ・ 歩 ・ ・ 六
歩 歩 ・ ・ 歩 七
・ ・ ・ ・ ・ 八
玉 金 銀 桂 香 九

 普通は飛車の頭である▼(2三)に歩を打つ


「え?」
 反射的に飛車を引いた。

 へぼ将棋である。

 初級者にありがちな行動、全体が見えてない証拠だ。
「本当に飛車でいいのか? 角の攻撃範囲をよく見ろ」
「あ」

 俺の角の射程範囲内に瑞穂の玉がいた。

 3マス以上離れていると、初級者はどうしても角の利きを見逃してしまう。
「『王手飛車取り』。将棋で一番格好いい技だ。玉を取られたら負けだから、ここは玉を逃がすしかない。つまり飛車をタダで取られるわけだ。この形は初級者の対局でよく出てくる。覚えとけ」
「うん」
「じゃあサービスだ」
「あ」

 将棋盤を180度回転させる。

 つまり俺が王手飛車取りをかけられた形になった。
「ハンデとして飛車をお前に渡そう。これで俺に勝てたらタダにしてやる。あ、負けても金は払わなくていいぞ。バイト代から引いておくからな」
「ご丁寧にどうも。……前から思ってたんだけど。これって賭け将棋じゃないの?」

「金を賭けなれば大丈夫だ。バラエティ番組で負けた奴が奢らされる企画があるだろ? 『一時の娯楽に供するもの』いわゆる飲食物やたばこみたいに、価値がそんなに高くない消耗品なら賭けてもいいんだよ」

「へー」
「それに食い物が絡むと人は強くなる。『強くなりたければ賭け将棋をしろ』ってな」
「……やっぱり賭け将棋じゃない」
「細かいことはいいんだよ。で、オーダーは?」
「何か変わったものない?」
「黒パンぐらいしかないぞ」
「じゃあミルクとチーズね」

「ハイジか」

「よくわかったわね」
「黒パンにチーズにミルクといったらそれしかないだろ」
 黒パンはライ麦パンだ。
 チーズはラクレットチーズ。
「わ、くさっ!?」
「そのまま食うもんじゃないからな。アニメみたいに溶かすと臭みは消えるぞ」
「へー」

 アニメのハイジでも暖炉であぶっていた。

 そしてとろりと溶けたチーズを黒パンに乗せて食べるのである。
 それがどうしようもなく食欲をそそるのだ。
「じゃあ、あぶるか」
「やりたいやりたい!」
「落とすなよ」
「はーい」
 チーズを串に刺して火であぶり、いい感じに溶けたところで黒パンに乗せる。
「あ、おいしい! ぜんぜん臭くないし。むしろいい匂い」
「だろ?」

 黒パンは固めで酸味があり、黒糖のような後味がする。

 コーヒーならマンデリンやインドネシアがよく合うだろう。
 もちろんチーズとの相性も最高だ。
「なんかちょっと匂いがきつい」
「ヤギの乳だからな」
 ハイジではしぼりたてのものを飲んでいた。

 青臭くて牛乳よりクセが強い。

 いかにも昔のミルクという感じで、素朴な味がする。
「続きだ」
 王手飛車から玉を逃がし、瑞穂が飛車を取る。
 そして俺は端の歩を突き、瑞穂はどこに飛車を打とうかウキウキしていた。
「これでどうだ?」
「え?」
 9五角。
 瑞穂の角に向かって角を打つ。

9 8 7 6 5
香 桂 銀 金 王 一
・ ・ ・ ・ ・ 二
・ ・ ・ 歩 歩 三
歩 ・ 歩 ・ ・ 四
角 ・ ・ ・ ・ 五
・ 角 歩 ・ ・ 六
歩 ・ ・ 歩 歩 七
・ ・ 金 ・ ・ 八
香 桂 銀 ・ 玉 九

 俺の角を取るにしろ、角を後ろに引くにしろ、角交換になる。
 角交換すると自陣に角を打ちこまれるから、初級者にとって角交換は恐い。
 瑞穂は角交換を嫌って角を5三へ突っ込ませ、俺の玉の前に馬を作った。

 へぼ将棋再び。

「だからこの形を覚えとけって言っただろ」
「あ」

 角で瑞穂の玉を取る。

 俺の角は瑞穂の角越しに玉をにらんでいたのだ。
 初級者は自分の角に意識を集中していて、相手の角が自玉をにらんでいるのに気付かない。
「大駒だからって飛車角にばっかり意識を集中してるからこうなる」
「……うう、私のバイト代」
「話を聞け」
 ともかく瑞穂に自腹を切らせてバイト代を浮かせることに成功した。
 そもそも客の一人も来てないのにバイト代を払うのも馬鹿らしい。
 これからもどんどん対局して、バイト代を浮かせよう。


 翌日。
「またお前か」
 今度は俺の座布団の上でちはやが丸くなっていた。
 どけようと首根っこに手を伸ばしたのだが……

「駄目よ!」

「でも俺の座布団が……」
「ちゃんと座布団を片付けてなかったあんたが悪いんでしょ」
「う……」
 やむなく手を引っ込め、薄っぺらな硬い座布団を椅子に敷く。

「……『へぼ将棋、王より飛車を可愛がり』」

「え、なんか言った?」
「なんでもない」
 江戸時代の有名な川柳だ。

 王手飛車取りをかけられているのに、初級者に見捨てられてしまった王さまに同情を禁じ得ない。
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