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第29話 王女、襲来
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「ハル様!」
「え、アリア?……っておい!危なっ!」
西方辺境伯邸の別館、司令部となっている館に入ろうとしたところで後ろから声を掛けられ、振り向いたハルは飛び込んで来た聖女を慌てて受け止める。
「ハル様、ハル様!」
「はいはい……って言うかどうしてアリアがここにいるんだ?」
「翁から急電をもらってな。ハルがついに伴侶を選んだと」
「姫さん?ん?伴侶?俺が?」
アリアの後ろから現れた王女にも驚いた顔を一瞬向けるが、それよりも彼女の言葉に疑問符を浮かべた。
「ああ、だいぶ前だがな。お前のヤニさがった顔を早く見たかったのだが、生憎とアリアはセーガル河戦線だし私も王城を抜け出すことが難しくてな。春の休戦期を待つ他なかった」
「前?急電……?」
「ハル様、ハル様!」
「はいはい、何だアリア、随分甘えっ子にな……ん?」
にやにやする王女をぼんやりした目で眺めていたが、ちょうどアルノによる精神魔法が切れた時期にヴェセルが急電を使っていたことに思い至った。
「あれか!」
状況報告かと思ってつい流してしまったが、確かにヴェセルが王女と聖女に宛てて出していた。まじでそんなことに急電使ったのかよ、と青筋を立てる。
「あんにゃろう……」
「それで?どんな貴族の娘にも靡かなかった素人童貞のお前が見初めた相手とは誰だ?」
仮にも王女、それも年若い美少女が口にして良い言葉ではない。顔つきもニヤニヤといやらしいし。
誰だ王女をこんな性格にしたのは。あ、俺とヴェセルだ。いや、俺が教えたのは戦術や戦技だ、としたら悪いのはヴェセルだ。
そう一瞬で自らの棚上げとヴェセルに対する諸悪の根源認定を済ませると、ハルはくるりと向きを変えて館に駆け込む。
「ヴェセルてめぇ!!」
疾風のように駆けていくハルにしがみついたまま、戦旗のようにはためく聖女を纏わせて。
「……ふむ、やはりあいつも化物だな。ならまあ、化物同士似合いではあるか」
当然のように相手が誰かを知っているカノ王女は、納得したようにうんうんと頷くと降り注ぐガラス片や木片、陶片に様々な資料をひょいひょいと避けながら館に足を向けた。
「まあこの惨状は想定していたが……」
執務室に足を踏み入れた王女は呆れたような視線を床の方へ投げかける。
部屋にいるのはいつもの軍服にローブを引っ掛けた、いつ見ても妙ちくりんだと思うものの本人はいたって真面目なサイケデリックイケイケ爺ヴェセル、そのヴェセルの頭に「それ以上禿げると切ないからやめてやれ」と言いたくなるほどガジガジと噛み付いている聖女アリアテーゼ、そして王女の視線が向いた床に、ヴェセルに踏みつけられて伸びている、執務室の主であり自らを足蹴にしている部下の上官であるハルだった。
「相変わらずヴェセルに勝てんのか、ハル」
「しょうがねぇだろ、千人斬りだぞこいつ。それに俺の武技だってこいつに鍛えられたようなもんだし……ったく、いい加減くたばれ死に損ないめ」
「ふぉっふぉっふぉ、まだまだ弟子に負けるほど老いてはおらんよ、ところで聖女殿、まじで禿げるからほんとやめてくれんかのう」
「……強がるなら最後まで強がれ、翁よ」
「ふぁらふぁひゃふひゃひゃひははい」
「うん、わからん。アリア、いいから離してやれ。本気で翁の毛根が死滅してしまう」
言いながら王女は、生きとし生ける者を祝福する聖女がたとえ毛根と言え死滅させるのは聖女としてどうなんだ、と思った。
逝きとし逝ける者にでもするつもりなのだろうか。
「まったく……ヴェセル様、ハル様にこれ以上の狼藉は許しませんよ」
カノ王女の説得により、ようやく噛みつきをやめた聖女アリアが睨みつける。
「ハルから売って来た喧嘩なんじゃが……ところで参考までにじゃが、許さないとは具体的にどのような?」
「加護を反転させることが出来るようになったんです、私」
「……え」
聞いてはいけないものを聞いてしまったかのように、ヴェセルの動きが止まる。
ハルが興味深そうに黙っていると、
「ですから、様々なものへの加護を反転させることができます」
「……いや、それ……聖女としてどうなんじゃ」
「へぇ、さすがアリアだ。素晴らしいな。もう桧の上枝どころじゃなく俺と同じ黒檜で良いんじゃないか」
「ハル様と同じなんて畏れ多すぎます。黒檜はハル様以外に付与してはなりません」
ハルは感心してまさに出来の良い娘を褒めるかのように相好を崩しているが、床にへばりついたままなので麗しい家族愛という表現がし辛い。何だか微妙な絵面なので、どう口を挟んで良いものかと王女は珍しく困惑の表情を浮かべた。
「毛根どころか、色々なものを死滅させることが出来ますが。ヴェセル様、まずは何を死滅させましょうか」
言いながら犬歯を剥き出しにして威嚇する有様は、到底聖女とは思えない。これでセーガル河戦域では戦場の女神とか言われてるんだから、王室派の腰抜け兵たちとは言え、軍の在り方に疑問を感じてしまう。
毛根?歯茎?ああそれともナニから逝きましょうか、とトンデモないことを口にしながらにじり寄る聖女に、完全に腰が引けるヴェセル。
そんな馬鹿馬鹿しい光景を横目にしつつ、ようやくヴェセルの足元から抜け出してきたハルに、
「お前ならヴェセル自身の強化魔法も解除できたろう」
「……まあな」
「どうしてしなかった、と聞くのは野暮か」
「なんだよ。言いたいことあるなら言えって」
「良いのか言っても。本当に?」
「……やっぱ言わんでいいわ」
「くくっ、男のツンデレは本当に醜いのう」
「相変わらずの性悪っぷりだな、カノ」
「私は王女だぞ?先ほどまでの『姫さん』呼ばわりは百歩譲っても、呼び捨てとは気安いな」
「お前さんがクソガキだった頃から知ってんだ、今更この場で畏まって欲しいのか?なら礼儀に則ってやっても構わないが、その代わりどんな場所でもそうしてやるからな。ああ、そうなったら『王女殿下の幼少期の思い出など』とか聞かれても正直に」
「と、特別に許す!」
そう、調子に乗った悪ガキだった王女の性根を叩き直せとヴェセルに依頼されたハルは、王女の躾係だったと言って良い。
近衛が忖度してくれていることを理解せず調子に乗っていたからとりあえず躾の第一歩と本気で凄んでみたら漏らしたとか、
買い物に現金が必要なことを知らずに結果としては盗み食いになってしまったのに踏ん反り返っていたところを半ケツ出されて叩かれたとか、
湯浴みを嫌って困らされた侍女に頼まれたハルに茹で卵を剥くかのように衣服を剥ぎ取られて芋洗されたりとか。
正直なところ嫁入り前の、しかも王族の子女に対してやるようなことではないが、ヴェセルから好きにやって良いと言われたので好きなようにしてやった。
熱病に冒された時に治療を嫌がって医者の手を煩わせていたところ、これまた下着を剥ぎ取って遠慮もへったくれもなく座薬をぶっすり射し込んだのもハルだ。
だが、それら全てはヴェセルからの依頼というだけでなく、聡明な王女の将来を鑑みての教育であることはカノにだってわかっている。だからファーストキスだってハルにくれてやったのだから。まあ、当の本人は子供らしい愛情表現くらいにしか思っていないようだったが。
そんな訳でカノ王女はポーズとして強気に出たとしても、最終的にはハルに勝てない。
ここで、ハルに強いヴェセル、ヴェセルを震え上がらせるアリア、聖女に友人として言うことを聞かせられるカノ、そのカノが強気に押し通せないハル、という連鎖が完成する。
「で、どうしたんだよ。結局ヴェセルは何て言ってたんだ」
仁王立ちするアリアに土下座で詫びるヴェセルを見て溜飲を下げつつ、ハルはひっくり返った執務机をよっこらせと直すと、椅子に腰掛ける。無事だったソファに王女も腰を下ろすと、
「いや、ハルに春が訪れたとか舐め腐ったことしか書かれていなかったが?」
「は?」
「まあ、前後の文脈からアルノヴィーチェ殿と心を通わせたのかと思ってな、面白そうだから揶揄いに来たのだ」
「……バッカじゃねぇの。そんな下らないことで」
「下らなくありません!」
「わぉ、びっくりした」
いつの間にか机の脇に移動していたアリアが、耳元で憤慨する。
ちなみにヴェセルはまだアリアの許可が出ていないので土下座姿勢だ。
「ハル様と一緒になられるのなら、私にとっても親同然、家族となる方です。簡単に片付けられることではありません」
大げさな、と思うがアリアの目は真剣だし下手なことを言って暴走されても困る。主にヴェセルの弱々しい毛根的に。
が、どう見ても十七歳のアリアより年下、更に言えば十五歳のカノ王女より下にしか見えないアルノが親同然、という表現は違和感しかないのだが。
「まあ王女殿下の予想されている通りじゃよ。聖女殿も安心召されよ……で、そろそろ良いかのう?良い加減足が痺れてきたのじゃが」
「ふむ、ということはまだ何も進展しておらんということだな。さすがは素人童貞クソヘタレ野郎ハルだ」
「おいその言い方やめろ。ていうか仮にも、曲りなりにも、万歩譲っても、どの角度から見てもそう思えなくても王女だろ。もうちょっと表現に気をつけなさい、年頃の乙女がみっともない。まったく、一生懸命育てたのに何でこんな淑女らしくない王女になってしまったのか……誰のせいかねぇ」
と、嘆く振りしてヴェセルをちらと見るが、
「ハルじゃろう」
「ハル様ですね」
「お前だ、ハル」
誰からも賛同を得ることができなかった。
「まあ冗談はここまでとしておいて、だ。私が来たのはそろそろ時計の針でも進めてやろうかと思ったのもあってな」
全員で……王女に聖女、連合軍西方司令官に補佐官という立場が揃ってやるのは異様な光景ではあったが、自業自得と納得して自分たちで執務室を掃除してから、王女が手ずから淹れたお茶で一息つく。
カップを置いた王女が口を開くと、ハルとヴェセルも納得顔を向けた。
「さすがにわかっておるだろう?」
「まあな、正直どんだけ挑発しても引きこもって出て来ないもんだから、こっちも手詰まりだった」
「王族と取り巻きだけで人族を左右しようとする王室派に対し、西方諸王国を取り込んだ緩やかな連合体を推進する融和派唯一の王族が供回りを殆ど連れずにやって来る。殿下には不本意なことながら、担ぎ上げるために接触または無理やり旗頭にするための誘拐を考えるでしょうな」
「とは言え家族である王室を無視しないことは、私が常日頃から公言している。穏やかな接触ではなく無理にでも身柄を確保する方であろうな」
「でもここは西方に対する軍事拠点ですよ。そんなに簡単に動くでしょうか」
「アリアの懸念も最もだがな、西方諸王国が動きやすいように工作はしてある」
「館の周辺はハルと翁の子飼いだろう?軍団単位ではどうなのだ」
アリアは最初から聞き分けの良い子であったし聖女という役割上割と……あくまでもハル本人の認識として、「割と」甘やかしてきたが、カノ王女には軍団単位の戦術から個人技まで徹底的に仕込んでいる。しっかりとその成果は現れており、館に配置した兵が私兵であることは見抜けているようだ。
「国境線に分散して展開しているが、各隊長には適度に穴があるように見せかけさせている。それでも手を出して来なかったのでこれ以上手抜かりさせると単なる間抜けな軍に見えてしまう、と困るレベルには、な」
なるほど、と頷く。
どうやら本当にボーエン公爵たち王室派に扇動された程度であるらしい。まとまってみたは良いが、踏ん切りがつかないのだろう。ひたすら臆病で阿呆なのか、それとも主導できるほどの統率性を備えた人材がいないのかも知れない。
王室派からしてもさっさと蜂起して鎮圧されてくれないと困るのだが、ハルをセーガル河戦線に戻すことを目的とする王女たちとしても現状維持をいつまでも続けられるのは困るのだ。聖女まで投入して前進できないセーガル河に、やはりハルを戻さないと不味いのではないかと彼らが考え始める頃に西方鎮圧でハルが軍功を挙げ、それを以って復帰させることを考えればそろそろタイミング的にも動きがあって欲しい。
カレンからの伝言によれば、こちらに来てからハルが「夜に鳴く鶏亭」に行けないこともあってアルノの苛立ちがかなり怪しいところに来ているとのことでもある。
業を煮やしたアルノの鬱憤晴らしで勇者軍全滅、というのは王室派にとっても融和派にとっても避けたい事態であることは変わりない。
「王女を拐かしたのであれば、攻撃の口実としては十分じゃな」
「だな、正直助かるがカノの安全を……いや問題ないか」
「ないじゃろうな」
ハルの不安そうな目つきは、ちらりと王女を見遣ったその瞬間には霧散し、ヴェセルもまた事も無げに同意する。
その扱いに一言物申したい気持ちもあるが、
「では、殿下にはなるべく隙があるように動いて誘拐されて頂きましょうか」
アリアまでが何でもないように発言するので黙るしかなかった。
が、さすがに続くハルの言葉には苦情を呈する。
「実行犯は絶対に殺すなよ、貴重な証人なんだから。特にカノ」
「何で私なんだ!被害者になるのだぞ!」
とは言え、
「下町をふらふらする度に襲われて、殺すなって言われてるのに次から次へと叩っ斬って捜査の手間を掛けさせたのは誰じゃったかのう」
白い目を向けるヴェセルの言葉通り、説得力は皆無だった。
「え、アリア?……っておい!危なっ!」
西方辺境伯邸の別館、司令部となっている館に入ろうとしたところで後ろから声を掛けられ、振り向いたハルは飛び込んで来た聖女を慌てて受け止める。
「ハル様、ハル様!」
「はいはい……って言うかどうしてアリアがここにいるんだ?」
「翁から急電をもらってな。ハルがついに伴侶を選んだと」
「姫さん?ん?伴侶?俺が?」
アリアの後ろから現れた王女にも驚いた顔を一瞬向けるが、それよりも彼女の言葉に疑問符を浮かべた。
「ああ、だいぶ前だがな。お前のヤニさがった顔を早く見たかったのだが、生憎とアリアはセーガル河戦線だし私も王城を抜け出すことが難しくてな。春の休戦期を待つ他なかった」
「前?急電……?」
「ハル様、ハル様!」
「はいはい、何だアリア、随分甘えっ子にな……ん?」
にやにやする王女をぼんやりした目で眺めていたが、ちょうどアルノによる精神魔法が切れた時期にヴェセルが急電を使っていたことに思い至った。
「あれか!」
状況報告かと思ってつい流してしまったが、確かにヴェセルが王女と聖女に宛てて出していた。まじでそんなことに急電使ったのかよ、と青筋を立てる。
「あんにゃろう……」
「それで?どんな貴族の娘にも靡かなかった素人童貞のお前が見初めた相手とは誰だ?」
仮にも王女、それも年若い美少女が口にして良い言葉ではない。顔つきもニヤニヤといやらしいし。
誰だ王女をこんな性格にしたのは。あ、俺とヴェセルだ。いや、俺が教えたのは戦術や戦技だ、としたら悪いのはヴェセルだ。
そう一瞬で自らの棚上げとヴェセルに対する諸悪の根源認定を済ませると、ハルはくるりと向きを変えて館に駆け込む。
「ヴェセルてめぇ!!」
疾風のように駆けていくハルにしがみついたまま、戦旗のようにはためく聖女を纏わせて。
「……ふむ、やはりあいつも化物だな。ならまあ、化物同士似合いではあるか」
当然のように相手が誰かを知っているカノ王女は、納得したようにうんうんと頷くと降り注ぐガラス片や木片、陶片に様々な資料をひょいひょいと避けながら館に足を向けた。
「まあこの惨状は想定していたが……」
執務室に足を踏み入れた王女は呆れたような視線を床の方へ投げかける。
部屋にいるのはいつもの軍服にローブを引っ掛けた、いつ見ても妙ちくりんだと思うものの本人はいたって真面目なサイケデリックイケイケ爺ヴェセル、そのヴェセルの頭に「それ以上禿げると切ないからやめてやれ」と言いたくなるほどガジガジと噛み付いている聖女アリアテーゼ、そして王女の視線が向いた床に、ヴェセルに踏みつけられて伸びている、執務室の主であり自らを足蹴にしている部下の上官であるハルだった。
「相変わらずヴェセルに勝てんのか、ハル」
「しょうがねぇだろ、千人斬りだぞこいつ。それに俺の武技だってこいつに鍛えられたようなもんだし……ったく、いい加減くたばれ死に損ないめ」
「ふぉっふぉっふぉ、まだまだ弟子に負けるほど老いてはおらんよ、ところで聖女殿、まじで禿げるからほんとやめてくれんかのう」
「……強がるなら最後まで強がれ、翁よ」
「ふぁらふぁひゃふひゃひゃひははい」
「うん、わからん。アリア、いいから離してやれ。本気で翁の毛根が死滅してしまう」
言いながら王女は、生きとし生ける者を祝福する聖女がたとえ毛根と言え死滅させるのは聖女としてどうなんだ、と思った。
逝きとし逝ける者にでもするつもりなのだろうか。
「まったく……ヴェセル様、ハル様にこれ以上の狼藉は許しませんよ」
カノ王女の説得により、ようやく噛みつきをやめた聖女アリアが睨みつける。
「ハルから売って来た喧嘩なんじゃが……ところで参考までにじゃが、許さないとは具体的にどのような?」
「加護を反転させることが出来るようになったんです、私」
「……え」
聞いてはいけないものを聞いてしまったかのように、ヴェセルの動きが止まる。
ハルが興味深そうに黙っていると、
「ですから、様々なものへの加護を反転させることができます」
「……いや、それ……聖女としてどうなんじゃ」
「へぇ、さすがアリアだ。素晴らしいな。もう桧の上枝どころじゃなく俺と同じ黒檜で良いんじゃないか」
「ハル様と同じなんて畏れ多すぎます。黒檜はハル様以外に付与してはなりません」
ハルは感心してまさに出来の良い娘を褒めるかのように相好を崩しているが、床にへばりついたままなので麗しい家族愛という表現がし辛い。何だか微妙な絵面なので、どう口を挟んで良いものかと王女は珍しく困惑の表情を浮かべた。
「毛根どころか、色々なものを死滅させることが出来ますが。ヴェセル様、まずは何を死滅させましょうか」
言いながら犬歯を剥き出しにして威嚇する有様は、到底聖女とは思えない。これでセーガル河戦域では戦場の女神とか言われてるんだから、王室派の腰抜け兵たちとは言え、軍の在り方に疑問を感じてしまう。
毛根?歯茎?ああそれともナニから逝きましょうか、とトンデモないことを口にしながらにじり寄る聖女に、完全に腰が引けるヴェセル。
そんな馬鹿馬鹿しい光景を横目にしつつ、ようやくヴェセルの足元から抜け出してきたハルに、
「お前ならヴェセル自身の強化魔法も解除できたろう」
「……まあな」
「どうしてしなかった、と聞くのは野暮か」
「なんだよ。言いたいことあるなら言えって」
「良いのか言っても。本当に?」
「……やっぱ言わんでいいわ」
「くくっ、男のツンデレは本当に醜いのう」
「相変わらずの性悪っぷりだな、カノ」
「私は王女だぞ?先ほどまでの『姫さん』呼ばわりは百歩譲っても、呼び捨てとは気安いな」
「お前さんがクソガキだった頃から知ってんだ、今更この場で畏まって欲しいのか?なら礼儀に則ってやっても構わないが、その代わりどんな場所でもそうしてやるからな。ああ、そうなったら『王女殿下の幼少期の思い出など』とか聞かれても正直に」
「と、特別に許す!」
そう、調子に乗った悪ガキだった王女の性根を叩き直せとヴェセルに依頼されたハルは、王女の躾係だったと言って良い。
近衛が忖度してくれていることを理解せず調子に乗っていたからとりあえず躾の第一歩と本気で凄んでみたら漏らしたとか、
買い物に現金が必要なことを知らずに結果としては盗み食いになってしまったのに踏ん反り返っていたところを半ケツ出されて叩かれたとか、
湯浴みを嫌って困らされた侍女に頼まれたハルに茹で卵を剥くかのように衣服を剥ぎ取られて芋洗されたりとか。
正直なところ嫁入り前の、しかも王族の子女に対してやるようなことではないが、ヴェセルから好きにやって良いと言われたので好きなようにしてやった。
熱病に冒された時に治療を嫌がって医者の手を煩わせていたところ、これまた下着を剥ぎ取って遠慮もへったくれもなく座薬をぶっすり射し込んだのもハルだ。
だが、それら全てはヴェセルからの依頼というだけでなく、聡明な王女の将来を鑑みての教育であることはカノにだってわかっている。だからファーストキスだってハルにくれてやったのだから。まあ、当の本人は子供らしい愛情表現くらいにしか思っていないようだったが。
そんな訳でカノ王女はポーズとして強気に出たとしても、最終的にはハルに勝てない。
ここで、ハルに強いヴェセル、ヴェセルを震え上がらせるアリア、聖女に友人として言うことを聞かせられるカノ、そのカノが強気に押し通せないハル、という連鎖が完成する。
「で、どうしたんだよ。結局ヴェセルは何て言ってたんだ」
仁王立ちするアリアに土下座で詫びるヴェセルを見て溜飲を下げつつ、ハルはひっくり返った執務机をよっこらせと直すと、椅子に腰掛ける。無事だったソファに王女も腰を下ろすと、
「いや、ハルに春が訪れたとか舐め腐ったことしか書かれていなかったが?」
「は?」
「まあ、前後の文脈からアルノヴィーチェ殿と心を通わせたのかと思ってな、面白そうだから揶揄いに来たのだ」
「……バッカじゃねぇの。そんな下らないことで」
「下らなくありません!」
「わぉ、びっくりした」
いつの間にか机の脇に移動していたアリアが、耳元で憤慨する。
ちなみにヴェセルはまだアリアの許可が出ていないので土下座姿勢だ。
「ハル様と一緒になられるのなら、私にとっても親同然、家族となる方です。簡単に片付けられることではありません」
大げさな、と思うがアリアの目は真剣だし下手なことを言って暴走されても困る。主にヴェセルの弱々しい毛根的に。
が、どう見ても十七歳のアリアより年下、更に言えば十五歳のカノ王女より下にしか見えないアルノが親同然、という表現は違和感しかないのだが。
「まあ王女殿下の予想されている通りじゃよ。聖女殿も安心召されよ……で、そろそろ良いかのう?良い加減足が痺れてきたのじゃが」
「ふむ、ということはまだ何も進展しておらんということだな。さすがは素人童貞クソヘタレ野郎ハルだ」
「おいその言い方やめろ。ていうか仮にも、曲りなりにも、万歩譲っても、どの角度から見てもそう思えなくても王女だろ。もうちょっと表現に気をつけなさい、年頃の乙女がみっともない。まったく、一生懸命育てたのに何でこんな淑女らしくない王女になってしまったのか……誰のせいかねぇ」
と、嘆く振りしてヴェセルをちらと見るが、
「ハルじゃろう」
「ハル様ですね」
「お前だ、ハル」
誰からも賛同を得ることができなかった。
「まあ冗談はここまでとしておいて、だ。私が来たのはそろそろ時計の針でも進めてやろうかと思ったのもあってな」
全員で……王女に聖女、連合軍西方司令官に補佐官という立場が揃ってやるのは異様な光景ではあったが、自業自得と納得して自分たちで執務室を掃除してから、王女が手ずから淹れたお茶で一息つく。
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「さすがにわかっておるだろう?」
「まあな、正直どんだけ挑発しても引きこもって出て来ないもんだから、こっちも手詰まりだった」
「王族と取り巻きだけで人族を左右しようとする王室派に対し、西方諸王国を取り込んだ緩やかな連合体を推進する融和派唯一の王族が供回りを殆ど連れずにやって来る。殿下には不本意なことながら、担ぎ上げるために接触または無理やり旗頭にするための誘拐を考えるでしょうな」
「とは言え家族である王室を無視しないことは、私が常日頃から公言している。穏やかな接触ではなく無理にでも身柄を確保する方であろうな」
「でもここは西方に対する軍事拠点ですよ。そんなに簡単に動くでしょうか」
「アリアの懸念も最もだがな、西方諸王国が動きやすいように工作はしてある」
「館の周辺はハルと翁の子飼いだろう?軍団単位ではどうなのだ」
アリアは最初から聞き分けの良い子であったし聖女という役割上割と……あくまでもハル本人の認識として、「割と」甘やかしてきたが、カノ王女には軍団単位の戦術から個人技まで徹底的に仕込んでいる。しっかりとその成果は現れており、館に配置した兵が私兵であることは見抜けているようだ。
「国境線に分散して展開しているが、各隊長には適度に穴があるように見せかけさせている。それでも手を出して来なかったのでこれ以上手抜かりさせると単なる間抜けな軍に見えてしまう、と困るレベルには、な」
なるほど、と頷く。
どうやら本当にボーエン公爵たち王室派に扇動された程度であるらしい。まとまってみたは良いが、踏ん切りがつかないのだろう。ひたすら臆病で阿呆なのか、それとも主導できるほどの統率性を備えた人材がいないのかも知れない。
王室派からしてもさっさと蜂起して鎮圧されてくれないと困るのだが、ハルをセーガル河戦線に戻すことを目的とする王女たちとしても現状維持をいつまでも続けられるのは困るのだ。聖女まで投入して前進できないセーガル河に、やはりハルを戻さないと不味いのではないかと彼らが考え始める頃に西方鎮圧でハルが軍功を挙げ、それを以って復帰させることを考えればそろそろタイミング的にも動きがあって欲しい。
カレンからの伝言によれば、こちらに来てからハルが「夜に鳴く鶏亭」に行けないこともあってアルノの苛立ちがかなり怪しいところに来ているとのことでもある。
業を煮やしたアルノの鬱憤晴らしで勇者軍全滅、というのは王室派にとっても融和派にとっても避けたい事態であることは変わりない。
「王女を拐かしたのであれば、攻撃の口実としては十分じゃな」
「だな、正直助かるがカノの安全を……いや問題ないか」
「ないじゃろうな」
ハルの不安そうな目つきは、ちらりと王女を見遣ったその瞬間には霧散し、ヴェセルもまた事も無げに同意する。
その扱いに一言物申したい気持ちもあるが、
「では、殿下にはなるべく隙があるように動いて誘拐されて頂きましょうか」
アリアまでが何でもないように発言するので黙るしかなかった。
が、さすがに続くハルの言葉には苦情を呈する。
「実行犯は絶対に殺すなよ、貴重な証人なんだから。特にカノ」
「何で私なんだ!被害者になるのだぞ!」
とは言え、
「下町をふらふらする度に襲われて、殺すなって言われてるのに次から次へと叩っ斬って捜査の手間を掛けさせたのは誰じゃったかのう」
白い目を向けるヴェセルの言葉通り、説得力は皆無だった。
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