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終 : “信”の一字

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 年月は移ろい、天正十八年(一五九〇年)六月。信忠存命時から、天下は大きく様変わりを遂げていた。
 織田信長・信忠父子を一挙に亡き者にした光秀だが、唐突な返り忠に賛同する者は少なかった。身内とも言える長岡藤孝は嫡男・忠興ただおきと共に剃髪ていはつして明智方に与しない姿勢を鮮明にし、筒井順慶も一時協力的な姿勢を見せるも領国に引き返してしまった(順慶が洞ヶ峠ほらがとうげまで進軍したもののそこで様子見していた逸話から、日和見することを“洞ヶ峠を決め込む”と表現されるようになった……とされる)。政権基盤を固められない光秀に、思いがけない報せが入る。毛利の大軍と対峙していた羽柴勢が、もうすぐそこまで迫っているというのだ。
 秀吉には、二つの幸運があった。まず一つに、毛利家と和睦の交渉が進められていたこと。本能寺の変の翌日には備中高松城主の清水宗治が切腹に同意したのもあり、あとは領地の境界線を詰めるだけだった。もう一つは、変の報せを敵より早く入手したこと。光秀が毛利家に送った密使が誤って羽柴方の陣地に迷い込んでしまい、運良く捕縛したのだ。三日深夜には本能寺の変を知った秀吉は直ちに毛利方と講和を結び、謀叛人・明智光秀を討つべく畿内へ戻る事を決断した。
 決断を下した秀吉は行動が早かった。毛利方に情報が漏洩しないよう間道も含めて封鎖すると共に、懐刀の黒田孝高に毛利方の交渉窓口である安国寺恵瓊と会談させ、領土の割譲で大幅に譲歩する代わりに宗治の切腹を四日に行わせる事で合意を無ばせた。天正十年六月四日、湖上で宗治が自刃したのを見届けた秀吉は、撤退を開始。徒士かちの円滑な移動をさまたげる武器や鎧は回収した上で海上輸送し、走りながらでも食べられる握り飯や替えの草履を沿道沿いに用意させるなど最大限の手当をした結果、驚異的な速度で進軍した羽柴勢は六月七日に姫路へ到着した。播磨まで戻った秀吉は大坂に居た神戸信孝・丹羽長秀勢と合流、畿内の有力国人も加わり大軍勢で京を目指した。
 想定を遥かに上回る早さで姿を現した羽柴勢に、光秀は準備もろくに出来ないまま迎え撃つしかなかった。羽柴勢は約四万、対する明智勢は約一万五千。数的不利を少しでも埋めるべく、大軍が展開しにくい地形の山崎に陣を構えた。十三日さるの正刻(午後四時)、天王山を巡る攻防をキッカケに開戦。明智勢も善戦したものの時間の経過と共に兵数で圧倒する羽柴勢が優位に立ち、一刻に及ぶ激戦の末に勝利した。光秀は再起を図るべく近江坂本へ逃れる途中、小栗栖おぐりすの地で落ち武者狩りに遭い、自害。本能寺の変から僅か十日余りでの転落劇となった一方、主君の仇討ちを果たした秀吉は織田家中で存在感を大いに高めた。
 天正十年六月二十七日。今後の織田家の方針について話し合うべく、清州城にて重臣会議が開かれた。まず冒頭に信忠の死で空席となった弾正忠家の家督について議題に上がり、筆頭家老の柴田勝家は先日の戦いにも参戦した神戸信孝を推したが、『筋目を通すべき』とする秀吉が信忠の遺子・三法師を推して列席する丹羽長秀・池田恒興も秀吉の案に賛同したので三法師が家督を継ぐ事に決まった。但し、三法師はまだ三歳の幼子で、実権は秀吉が握る形だった。
 三法師の後見人として秀吉が織田家の主導権を握る事に反発した勝家は同じく秀吉に危機感を抱いた織田(清州会議の後に復姓)信孝・滝川一益と協力して対峙していく姿勢を鮮明にした。天正十一年(一五八三年)四月二十日の賤ヶ岳しずがたけの戦いで勝家を破った秀吉は、名実共に信長亡き後の天下人になった。織田家を併呑へいどんする形で天下第一の勢力に伸し上がった秀吉は、信長が成し遂げられなかった天下統一へ向けて邁進していく事となる。
 そして……天正十七年(一五八九年)十月、関東の雄・北条家が関白・豊臣(天正十四年(一五八六年)九月九日に改姓)秀吉が発した惣無事令そうぶじれいを破ったとして、北条征伐を決定。諸大名に対して出兵の準備をするよう命じた。天正十八年二月から順次関東へ向け諸大名が出陣し、その規模は二十万という途方もない大軍勢となった。秀吉率いる本軍は三月二十九日に北条方の重要拠点である箱根の山中城を半日で落とし、四月四日には北条家の居城である小田原城を包囲した。
 信濃の国人・真田昌幸も、前田利家や上杉景勝などと共に別動隊として従軍。城主である北条家一門や重臣達は小田原城に詰めていたのもあるが、破竹の勢いで上野国や武蔵国にある北条方の城を次々と攻略していった。六月二十二日、別動隊は武蔵国東部の八王子に進軍し八王子城を囲んだ。昌幸が率いる真田勢も数こそ少ないがこれに加わっている。
源三郎げんさぶろう
 昌幸が呼ぶと、側に居た青年が「はっ」と応じる。
 真田“源三郎”信幸のぶゆき。永禄九年の生まれで二十五歳。昌幸の長男であり跡取りである。昨年には“徳川四天王”の一人で豊臣秀吉から“天下無双”と称賛された本多“平八郎”忠勝の娘・小松姫を家康の養女という形でめとっており、寄親よりおやである家康からも期待をかけられる武将だった。
「暫し、陣を離れる。留守は任せた」
 まるでそこら辺に散歩へ出掛けるような気軽さで告げる昌幸。こういう事に慣れているのか、信幸に驚きはない。
「承知しました。……して、何方どちらへ?」
 答えてくれないと分かっていながら、一応は確認をする信幸。すると、昌幸は「ふふっ」と笑いを零した。
「なぁに、近くに古い知り合いが居るから会いに行くだけだ」
 遠出したついでに、という軽い調子で昌幸は答える。それに対し、ハァーッと抗議と苦労の含んだ溜め息を吐く信幸。
「……仮にも敵地なのですから、兵は連れて行って下さいね」
「分かっておる。五十くらい貰っていくぞ」
 信幸が釘を刺すと、昌幸も身辺警護に手勢を同行させると明言した。“お忍びだから”と単身でふらっと出掛けかねないので、兵を連れて行くと約束しただけでも信幸は良しとした。
 半刻後、目立たないよう陣を抜けた昌幸は、八王子の郊外へ向かった。豊臣方の軍勢が侵攻してきたものの、火事場泥棒のように出てくる野伏のぶせりや盗みを働く者が居るようには見えない。北条家の統治がしっかりしていて、治安が良い証だ。
 昌幸が辿り着いたのは、曹洞宗の心源院しんげんいん
「お主達はここで待っておれ」
「しかし……!!」
 門前で待つよう命じられ、反発する部下達。寺の中とは言え、北条家と敵対する大名の当主が護衛も付けずに一人で入るのは流石に不用心過ぎる。もし万一の事があったらと考えると、到底承服出来ない。
 すると、昌幸は穏やかな声で言った。
「案ずるな。別に敵地へ乗り込む訳ではない。神聖な境内けいだいで襲うような輩もおるまい」
 それでも反論しようとする部下を押し切り、昌幸は一人で敷地内へ入っていってしまった。大人数が一挙に入れば寺側も“攻めてきた”と誤解する可能性があり、追いかけたくても出来なかった。
 寺の敷地に足を踏み入れた昌幸に、寺の住職が慌てた様子で飛び出してきて用向きを訊ねた。寺の外には六文銭ろくもんせんの紋が入った旗を掲げる手勢が控えていたのもあり、焼かれたり押し入られたりする事を恐れていた。それに対し、昌幸は鷹揚おうように明かした。
貴山きざんを害するつもりは更々ありません。離れにられる御方に会いに来ただけです」
 その答えを聞いて、住職は心の底から安堵した表情を浮かべる。驚かせた事を軽く詫びた昌幸は、離れの方へと向かう。
 少し歩けば、小さないおりが見えてきた。昌幸がその敷地に近付こうとしたその時、建物の中から不意に影が現れた。
「止まれ! ここが何方どなたのお住まいか知っての狼藉ろうぜきか!」
 寺男てらおとこおぼしき作務衣さむえ姿の男が、刀を手にただす。返答如何いかんによっては斬るという剣幕だ。
 明らかに警戒心を露わにする男に対し、昌幸は穏やかな口調で答える。
「怪しい者ではない。こちらにわす庵主あんじゅ様に会いに来ただけだ。『喜兵衛が来た』と伝えてもらえれば分かる」
 ピリピリした雰囲気を刺激しないよう、朗らかに話す昌幸。男は警戒を緩めないながらも、一旦庵の中へ入っていく。
 程なくして、庵から水色の頭巾を被った人が出てきた。その後ろには、先程の作務衣姿の男が刀を収めて付き従っている。
 昌幸はにこやかな笑みを浮かべ、頭巾の人へ向けてうやうやしく頭を下げる。頭巾の人は軽やかな足取りで近付くと、声を発した。
「これはこれは、安房守殿。いつ以来の再会となりましょうか」
「天正九年の正月、高遠城に薩摩守様(仁科盛信の官名)へ年賀の挨拶に伺った時ですから……かれこれ九年になりますかな」
 昌幸の答えに驚いた様子を見せる頭巾の人。やりとりをしている二人の空気は先程とは一転して和やかそのものだ。
「庵主様もお元気そうで何より。それにしても、相変わらずお美しい」
「安房守殿もお変わりないようで。この尼をたぶらかしたら山手殿に言い付けますよ?」
「これはいかん。それだけはご勘弁を」
 一本取られたとばかりに、自らのひたいをペチリと叩く昌幸。二人の軽妙なやりとりに、作務衣姿の男も毒気を抜かれたようだ。
 雑談を交えながら、昌幸は庵の中に通される。同じく尼姿の侍女が白湯を持ってきても、二人の会話はまだ続く。昌幸の妻・山手殿の近況や息子達の話題が中心で、どちらかと言えば“庵主”と呼ばれた尼の方が聞きたがっている様子だった。
「安房守殿のご活躍は、こちらにも届いておりますよ」
「いやいや、とんでもない。取るに足らない弱小勢力が生き残りの為に懸命に足掻あがいただけです」
 庵主の言葉に、謙遜する昌幸。しかし、本能寺の変の後から昌幸は上信じょうしん地方で帰趨きすうを決める重要な鍵として八面六臂はちめんろっぴの活躍を見せていた。
 天正十年六月二日に信長・信忠が光秀により討たれると、統治を始めてまだ日の浅い旧武田領は大混乱に陥った。上野国と信濃国の一部を治め関東方面を任されていた滝川一益は、信長横死おうしの報を受け対応をガラリと変えた北条家と一戦交えるも、大敗。多くの将兵を失い、伊勢へ引き揚げた。信濃の一部を治めていた森長可や毛利長秀も土地勘の無い土地を死守するのは困難と判断、領地を放棄して旧領に戻っている。一方、甲斐の大半を与えられた河尻秀隆は武田家旧臣を中心とした一揆により六月十九日に自害に追い込まれていた。
 本能寺の変を発端にした混乱で、甲信上の三ヶ国は空白地帯となった。この状況に“関東だけでなく、あわよくば甲信も手に入れたい”北条、“東へ勢力を伸ばしたい”徳川、“謙信の時以来となる信濃・上野の領土回復を目論む”上杉の三勢力による争奪戦が勃発した。
 まず始めに動いたのは、徳川家康。本能寺の変の時には少ない供廻りで堺に滞在しており、明智の軍勢に見つかれば全滅の可能性もある状況にある中で、険しい道の続く伊賀を経由して三河へ生還。盟友・信長の弔い合戦を行うべく軍勢を率いて西に向かったが尾張国鳴海なるみの地で秀吉から光秀を討った旨を伝えられ、矛先を西から東へ切り替えた。家康は秘かに武田家旧臣へ一揆を起こすよう煽動する傍ら、将来的に徳川家の家臣にする約束をばら撒いた。徳川家では家康が信玄を尊敬して武田家旧臣を多く召し抱えていたのもあり、甲斐にある旧臣達も家康の求めに応じた。こうした働きかけもあって秀隆を亡き者にすると、家康は家臣の武田家旧臣を先発させて自らも八千の兵を率いて甲斐へ入った。
 ただ、北条家も動きが早かった。滝川一益を追い払った北条家は上野の国衆を懐柔して自陣営に取り込み、続けて西に兵を進めた。そこで北信濃の奪還に燃える上杉勢とぶつかるも、先を急ぎたい北条家は上杉方へ『北信濃は譲渡するから、それ以上進まないで欲しい』と申し入れ、合意に至った。北条家は中信濃から南へ軍を進めた。
 甲斐を手にする事は出来た家康だったが、同じく甲斐へ侵攻してきた北条家嫡男・氏直の軍勢と睨み合いとなった。思うように動けない中で信濃は段々と北条色に染められていく様に焦りを抱いた家康は、一計を案じた。北条方にくだった武田家旧臣を、調略で引きがしにかかったのだ。その対象は武田攻めで加増を受けた木曾義昌、それに直近で急速に影響力を増した真田昌幸だ。
 武田家が滅亡したのに伴い、昌幸は一益の与力に転落。苦労して手に入れた沼田領も没収されてしまった。そんな昌幸に転機となったのが、本能寺の変だ。信長の威光で成り立っていた統治は根底から崩れ去り、旧武田領の信濃・上野国で大規模な地殻変動を起こした。昌幸は一益の退去を受けて沼田領を回復する一方、森長可や毛利長秀が退去して仕える主を失った国人を自らの傘下に取り込んだのである。この結果、混乱に乗じる形で勢力を急伸長させた昌幸は、信濃・上野に跨る地域を押さえる重要人物として、三勢力から一目いちもく置かれる存在に躍り出たのだ。
 昌幸も、自らがこの戦いで勝敗を左右する鍵になっていることを理解していた。当初は北信濃へ侵攻してきた上杉家にくだったが、上野国内で北条家が優勢になると七月九日に北条方へ鞍替えし、さらに徳川家から調略の誘いがあると“自分を高く売れる”と九月下旬に徳川方へ鞍替えした。昌幸の離反で後背をおびやかされることとなった北条勢は、長期の滞陣は困難と判断。天正十年十月二十七日、北条家と徳川家で和議が結ばれた。
 俗に“天正壬午じんごの乱”と呼ばれる一連の戦はこれで終結……とはいかなかった。徳川家康が北条氏直と結んだ和議の中で、『信濃は徳川のもの、上野は北条のもの』とされたのだ。上野国の沼田領は昌幸が独力で得た地であり、勝手に『北条のものとなったから渡せ』と言われても到底納得が出来なかった。おまけに、家康は昌幸に対して事前の相談も沼田領の代わりの土地についても提示が無かった。明らかに見下されていると憤慨した昌幸は、秘かに復讐の準備に入った。
 天正十一年、昌幸は『上杉家に備える為に城が必要だ』と家康に進言。強力な兵を擁する上杉家が仮に信濃へ侵攻してきた場合、真田家がまず引き受けるので家康も“もありなん”と考えた。北条家とは関係を修復したものの織田家中の争いを制した羽柴秀吉が日に日に影響力を増してきており、北へ割ける余力はなかった。沼田領を取り上げた後ろめたさもあってか、吝嗇りんしょくな家康には珍しく昌幸の要求を呑んだ。経費は徳川家が負担し、昌幸は自らの知恵を詰め込んだ城造りに熱中した。
 徳川方と約定を交わしてから二年余り、天正十三年(一五八五年)になっても上野割譲が履行されない事に苛立ちを抱いた北条家は家康に沼田領を引き渡すよう迫った。家康は昌幸に沼田領を手放すよう命じるも、拒否。それどころか、次男の“源次郎げんじろう信繁のぶしげを人質に差し出して上杉方に鞍替えしてしまった。虚仮こけにされた家康は激怒し、八月に真田追討の兵を送った。その数、約七千。対する真田勢は約二千と、数の上では圧倒的に劣っていた。
 うるう八月二日。上田城の攻撃を開始した徳川勢は、数的優位もあり当初は順調に進んだ。しかし、城の奥まで引き付けた真田勢が猛反撃に転じると形勢は悪くなり、一旦城の外に出て態勢を立て直そうとした。そこへ上流でき止めていた神川かんがわの水が濁流となって徳川の将兵を呑み込み、結果的に千を超える使者を出す大敗を喫した。家康が指揮を執ってない戦とは言え、この前年には総勢十万の羽柴勢に負けなかった徳川勢を打ち破った事実に変わりはなく、昌幸の名が全国に知られるキッカケとなった。
 その後、昌幸は羽柴家へ鞍替えし、家康も容易に手が出せなくなった。天正十四年に家康も秀吉に臣従すると、昌幸は徳川家の与力に付けられた。徳川家の実質的な家臣の位置付けとなり、昌幸の嫡男・信幸が本多忠勝の娘を家康の養女という形で結婚したのも関係を深める狙いが込められていた。
 本能寺の変以降、コロコロと仕える主を変える昌幸の態度を快く思わない者も少なくなくなかった。しかし、天正十年当時の昌幸が置かれた立場を鑑みれば致し方ない面もある。取るに足らない国人勢力の真田家が強大な三勢力による熾烈しれつな縄張り争いに巻き込まれ、一つ選択を誤れば滅んでいたかも知れない状況の中で勢力を伸ばしたのは昌幸の才覚にるところが大きかった。天正壬午の乱で徳川家を勝利に導き、侵攻してきた徳川勢を寡勢でしりぞけた手腕が評価されたことから、昌幸は“表裏比興ひきょうの者”と呼ばれていた。
 その昌幸だが、今回の北条攻めの発端になっている。天正十年に徳川家と約束した沼田領割譲が果たされないまま約六年半が経ち、北条家は外交僧の板部岡いたべおか江雪斎こうせつさいを天正十七年二月に上洛させ、秀吉に裁定を仰いだ。秀吉が出した惣無事令で、武力による領土境界線の変更は帝からまつりごとを任された関白・豊臣秀吉への敵対行為と捉えられた。実際、天正十四年には惣無事令を破ったとして九州を席巻する勢いだった島津家討伐を秀吉が決定、翌天正十五年(一五八七年)に島津家は降伏に追い込まれている。討伐の名目にされる事は避けたい北条家は正攻法で沼田領を得ようとしたのだ。この訴えに対し、真田方の主張も聞いた上で、秀吉は『沼田領は北条家のもの。但し、名胡桃なぐるみ城一帯は真田家のもの』とする裁定を下した。
 北条方に配慮された裁定だが、名胡桃城だけ真田家のものにされた事は不満だった。そこで、北条家は名胡桃城を守る家臣を調略し、その家臣の手引きで天正十七年十一月三日に北条方の兵を城内に引き入れて名胡桃城を占領してしまったのだ。この一事で北条家は上野国全土を手中に収めた訳だが、惣無事令違反に怒った秀吉は北条攻めを決定した。一連の流れに昌幸も一枚噛んでおり、敢えて領土の一部を真田領にする事で北条家が攻める動機を作ったのだ。今回の北条攻めは秀吉と昌幸の合作と言ってもいい。
「時に、安房守殿」
「何ですかな? 庵主様」
「その“庵主様”という呼び方は他人行儀で嫌です。私には“信松尼しんにょうに”という名があるのですから、そう呼んで下さいな」
 信松尼。落飾らくしょく前の名は、松姫。天正十年の秋に出家した信松尼は心源院の離れで一緒に甲斐から逃れてきた遺子達を育てながら慎ましく暮らしていた。
「信松尼様も髪を下ろさなくとも、縁談はありましたでしょうに」
 武田家は滅んだが、清和源氏の血を継ぐ松姫を迎え入れたいと考える者は幾らでも居ただろう。出家当時は二十二歳、十五歳が女性の結婚適齢期を考えればやや年増ではあるものの、結婚を躊躇するような年齢でもない。信長の妹・市は二十一歳で浅井長政に嫁いだ例もある。
 すると、信松尼は静かに首を振った。
「私には、兄様達から託された幼子達を育てていく使命があります。それに、亡くなられた方々の菩提を弔うことも」
 今年十六歳になった兄・盛信の嫡男・信基のぶもと(勝五郎が元服)や小督、勝頼の娘・貞など、信松尼には守らなければならない存在が何人も居た。信松尼がどこかへ嫁げば、年端も行かない遺子達を育てる人が居なくなる。信基は体が弱く武家へ仕官して仁科家を再興させる事も難しい以上、信松尼だけが頼りだった。考えた結果、仏門に入り俗世から離れた環境で幼子達を育てていく事にしたのだ。松姫が織田家に嫁ぐと決めたのは嫡男の信忠だったこともあるが、幼い姫御や侍女も一緒に迎え入れられるだけの財力と天下随一の勢力を誇っていた要素も大きく、国人勢力ではそこまでの余裕も望めないので縁談を断ったのだ。
「それに……安房守殿を始めとした武田家にゆかりのある方々から支援もありますので、贅沢さえしなければ暮らしていけます。本当に、感謝しかありません」
 武田家の一門で生き残ったのは松姫や共に逃れた者達くらいで、武田家旧臣達も主家は滅んだが松姫達の生活を秘かに援助していた。その者達の多くは甲斐や信濃を地盤としており、決して生活が裕福とは言えない中でも送ってくれた。金銭だけでなく米や野菜の場合もあるが、そうした気遣いに信松尼は頭が下がる思いだった。
「感謝など、畏れ多い。……我等は、亡き御屋形様から受けた恩を、少しでもお返ししたいだけです。それと、埋め合わせになるかも分かりませんが、せめてもの罪滅ぼしも」
 それまでの飄々とした口振りから一転して、しんみりとした口調で話す昌幸。
 八年前、本意でなくても自らの家を存続させる為に織田家へ屈した者や、御家存亡の危機を知りながらも情勢や遠方にあるなどして駆け付けられなかった者が、結果的に生き残った。武田家の崩壊は先代信玄がこの世を去った時から始まったかも知れないが、皆が皆“武田憎し”で離れた訳ではないのだ。だからこそ、偉大な君主の忘れ形見である信松尼を援助する者が跡を絶たなかった。
 特に、昌幸は忸怩じくじたる思いを人一倍抱えていた。織田勢の侵攻で形勢が圧倒的不利な中、昌幸は自領の上野国に勝頼を迎え入れて再起を図るよう進言した。しかし、譜代でない点や本貫の地である甲斐を離れたくない点、遠方である点などから勝頼は選択しなかった。その後、勝頼は頼った筈の小山田信茂の裏切りに遭い、無念の死を遂げている。救えた筈の命を失い、昌幸の心の中にはずっと後悔の念が残っていた。
「他の旧臣達も、お変わりないですか?」
「はい。駿府左大将さだいしょう(徳川家康の官名)様は武田家旧臣をよく遇して下さるお蔭で、皆健やかに暮らしております」
 元亀三年に三方ヶ原で武田勢に大敗を喫した家康だが、それ以前から信玄のことを尊敬していた。天正壬午の乱で傘下に入った武田家旧臣を冷遇せず、天正十三年に重臣・石川数正が羽柴家へ出奔すると軍制を武田家の兵法に変更している。また、武田家旧臣の一部は家康お気に入りの家臣・井伊直政の下に組み入れ、武田家随一の強さを誇った山県昌景にあやかり軍装を赤一色に統一させるなど、武田家を畏敬いけいする姿勢を崩さなかった。家康のこうした配慮もあり、くだったとは言え肩身の狭い思いを旧臣達はしていなかった。
「安房守殿」
「はい」
「此度の戦、北条はどうなりますか?」
 少しだけ不安そうに訊ねる信松尼。甲斐から逃れてきた松姫一行を受け入れてくれた北条家に、少なからず恩を感じていた。天正十五年の九州攻めでは島津家に薩摩・大隅の二ヶ国が安堵された前例があり、北条家も大幅な減封げんぽうで済ませて欲しいと願っていた。
 白湯を一口飲んだ昌幸は、曇った表情で答える。
「残念ながら……北条家は関白殿下に詫びを入れる時機を逸してしまいました」
 島津家は北条家と同じ“惣無事令違反”で討伐されたが、置かれた状況が全く異なる。島津家の時は東国に敵を抱え臣従してきた家康から人質を預かったものの完全に気を許せず、可能ならば早く切り上げたい思惑があった。そして、島津家の当主・義久もギリギリのところで頭を丸めて降伏したことで、秀吉も許している。対して、西国は平定して後顧の憂いを絶っている秀吉に、急ぐ理由はない。おまけに、まだ臣従していなかった奥羽の伊達政宗や最上もがみ義光よしあきも小田原に参陣しており、天下統一の障壁となっているのは北条家のみとなっていた。加えて、秀吉の度重なる上洛要請を無視してきた北条家の心象はとても悪く、関東の大部分を治める北条家に寛大な処分で済ませては戦後に働いてくれた者達に恩賞として与える土地も減ってしまう。一大事業の総仕上げとして、北条家には滅んでもらうしかなかった。
「こればかりはどうにもなりません。……お力になれず、申し訳ありません」
 信松尼の心中を察し、頭を下げる昌幸。それに対し、信松尼は静かに首を振った。
「いいのです。……これで、この国から戦が無くなるのであれば」
 うれいを帯びた顔で、ポツリと漏らす信松尼。その言葉に、この御方も戦で運命を大きく変えられたのだと昌幸は改めて思い知らされた。武田攻めで慕っていた兄を、半年後には十年以上の歳月を経て対面を果たした婚約相手を、それぞれ失っている。応仁元年の応仁の乱を発端とした百年以上に渡る乱世に嫌気を差している大勢の者は、平穏を望んでいるのだ。自分と同じような悲しい思いをしてほしくないのが信松尼の願いなのだろう。
 本能寺の変で起きた混乱を利用して伸し上がった昌幸も、信松尼の気持ちは理解出来た。この百年余り、あまりにも多くの血が流れてきた。信松尼のように悲しむ人々のことを思えば、ここで終止符を打つべきだ。その想いを託された昌幸は、気持ちを引き締め直した。
 器の中身を一気に飲み干した昌幸は、やおらかに切り出した。
「……ちと長居をし過ぎましたな。そろそろおいとま致します」
「あら? もっとお話したかったのに」
 引き留めようとする信松尼に、昌幸は心底申し訳なさそうに言った。
「すみませぬ。あまり帰りが遅くなると口うるさい息子に叱られますので」
 生真面目な性格の信幸に一言断りを入れているものの、いつまでも陣を離れていたら帰った時に小言が多くなるのは容易に想像がつく。名残惜しいけれどこの辺りで切り上げるのが吉だ。
 ゆっくりと立ち上がり外へ出ようとした昌幸へ、「安房守殿」と声が掛かる。
「また、いつでも顔を見せに来て下さい。私は大歓迎です」
「……はい」
 信松尼の呼び掛けに、昌幸はにこやかな笑みで応じてから辞していった。
 庵を出た昌幸は、門前で待たせていた手勢と共に自陣へ戻る。その途上、馬上で揺られる昌幸はある事を考えていた。
(……あの者、別に知らぬ仲でもあるまいに。まぁ、別に構わぬが)
 昌幸の指す“あの者”とは、一体誰のことだろうか。それは当事者にしか分からなかった。
 この後、翌日には八王子城を攻略した昌幸は、おし城へ転戦。そこで終戦を迎えている。この昌幸は十年後に再び徳川家を相手に大立ち回りを演じることになるのだが、それはまた別の話――。

 北条家滅亡後、信松尼は心源院を出て御所水ごしょみずの草庵に移り住んだ。そこで近所の子ども達に読み書きを教えたりかいこを育てて織物を編んだりして生計を立てたという。時を同じくして徳川家も関東へ移封いほう、八王子領は武田家旧臣・大久保(旧姓土屋)長安ながやすが治める事となり、共に入封してきた武田家旧臣と共に信松尼を支援した。信基・貞姫を送り出し、以降はずっと八王子で暮らしたとされる。
 さて。信松尼の“信”だが……武田家の通字から取ったとも、婚約相手である信忠から取ったとも、受け取れる。真実は果たして、どちらか。……明らかにするのは野暮というものか。






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墨笑
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『家族愛と人の心』『個性と社会性』をテーマにした三国志の大河小説です。 三国志を知らない方も楽しんでいただけるよう意識して書きました。 全体の文量はかなり多いのですが、半分以上は様々な人物を中心にした短編・中編の集まりです。 本編がちょっと長いので、お試しで読まれる方は後ろの方の短編・中編から読んでいただいても良いと思います。 おすすめは『小覇王の暗殺者(ep.216)』『呂布の娘の嫁入り噺(ep.239)』『段煨(ep.285)』あたりです。 本編では蜀において諸葛亮孔明に次ぐ官職を務めた許靖という人物を取り上げています。 戦乱に翻弄され、中国各地を放浪する波乱万丈の人生を送りました。 歴史ものとはいえ軽めに書いていますので、歴史が苦手、三国志を知らないという方でもぜひお気軽にお読みください。 ※人名が分かりづらくなるのを避けるため、アザナは一切使わないことにしました。ご了承ください。 ※切りのいい時には完結設定になっていますが、三国志小説の執筆は私のライフワークです。生きている限り話を追加し続けていくつもりですので、ブックマークしておいていただけると幸いです。

剣客逓信 ―明治剣戟郵便録―

三條すずしろ
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞:痛快! エンタメ剣客賞受賞】 明治6年、警察より早くピストルを装備したのは郵便配達員だった――。 維新の動乱で届くことのなかった手紙や小包。そんな残された思いを配達する「御留郵便御用」の若者と老剣士が、時に不穏な明治の初めをひた走る。 密書や金品を狙う賊を退け大切なものを届ける特命郵便配達人、通称「剣客逓信(けんかくていしん)」。 武装する必要があるほど危険にさらされた初期の郵便時代、二人はやがてさらに大きな動乱に巻き込まれ――。 ※エブリスタでも連載中

【架空戦記】蒲生の忠

糸冬
歴史・時代
天正十年六月二日、本能寺にて織田信長、死す――。 明智光秀は、腹心の明智秀満の進言を受けて決起当初の腹案を変更し、ごく少勢による奇襲により信長の命を狙う策を敢行する。 その結果、本能寺の信長、そして妙覚寺の織田信忠は、抵抗の暇もなく首級を挙げられる。 両名の首級を四条河原にさらした光秀は、織田政権の崩壊を満天下に明らかとし、畿内にて急速に地歩を固めていく。 一方、近江国日野の所領にいた蒲生賦秀(のちの氏郷)は、信長の悲報を知るや、亡き信長の家族を伊勢国松ヶ島城の織田信雄の元に送り届けるべく安土城に迎えに走る。 だが、瀬田の唐橋を無傷で確保した明智秀満の軍勢が安土城に急速に迫ったため、女子供を連れての逃避行は不可能となる。 かくなる上は、戦うより他に道はなし。 信長の遺した安土城を舞台に、若き闘将・蒲生賦秀の活躍が始まる。

土方歳三ら、西南戦争に参戦す

山家
歴史・時代
 榎本艦隊北上せず。  それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。  生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。  また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。  そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。  土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。  そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。 (「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です) 

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