信忠 ~“奇妙”と呼ばれた男~

佐倉伸哉

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六 : 大志 - (12) 信忠と信長

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 一旦岐阜へ戻った信忠は毛利攻めに参加すべく、準備に追われた。武田攻めの時とは異なり予備軍扱いなので、家中からの反発も少なかった。信忠は先日の武田攻めで地元に残った者や被害の少なかった者を優先し、なるべく負担が少なくなるよう配慮した。信忠にとって吉報だったのは、療養していた為に武田攻めは不参加だった斎藤利治が今回の毛利攻めに同行するとのことだった。
 すぐに動ける兵を多く抱える織田家でも、流石に二・三日で一千の兵が出撃完了とはいかない。そこで信忠は先に少ない供廻りを連れて上洛し、京で兵の到着を待つ事にした。岐阜から京までは全て織田領で、敵や野盗に襲われる心配がないので大勢の兵を連れて行かなくても安全に通行出来るのが大きかった。
 支度を終えた信忠は、一足先に上洛すべく五月二十日に岐阜を出発。途中、父に会うべく安土に立ち寄った。

 天正十年五月二十日、昼。安土城に出仕した信忠は天主の最上階に案内された。
「お待たせ致しました」
 一言断りを入れてから部屋に入る信忠。父は南蛮渡来の椅子に座り、外の景色を眺めていた。この日は天気が良く、外から入ってくる風を感じている。案内してきた小姓は信忠を送り届けると下の階へ下がっていった。室内には父の他に誰も居ない。どうやら一人のようだ。
「……うむ」
 信忠が入室したのを一瞥いちべつした父は、目線で向かいの椅子に座るよう促す。それに従い信忠は椅子に腰を下ろすと、本題に入った。
「上様の御指図の通り、毛利攻めの支度を整えて参りました。私は先に上洛し、朝廷への根回しを行いたいと思います」
 五年前の十月に従三位・左近衛中将に任じられた信忠だが、それ以降参内する機会に恵まれなかった。信忠の管轄は東国で、三木城や有岡城攻めで西国に出征しているものの京にじっくり腰を据える暇などなく、ほぼ素通りしていた。その為に朝廷対策が後回しになっていたが、この機会に公家衆や帝の周辺の者達と顔を合わせておこうと信忠は考えていた。
 それに対し、父はいなも言わない。信忠の顔をじっと見つめるだけだ。そして、段々と眉間にしわが寄っていく。信忠の方は型通りの報告をしているだけで、父の気分を害するような発言も態度も一切していない。気分屋の父ではあるが、自らに何の非もないのにムスッとされるのは正直なところ訳が分からなかった。
 暫く無言の時が続いたが、やがて父はいらついたようにハァと一つ息を吐いてから口を開いた。
「……なぁ勘九郎よ。お主、俺の後を継ぐのだよな?」
 唐突にぶつけられた質問に、信忠は困惑しながら答える。
「はぁ……上様より家督を継いでおりますゆえ、左様に心得ておりますが」
 織田家の家督は天正三年十一月に譲られ、今年で七年目になる。“後を継ぐ”は天下人の座を指しているのだろう。
 信忠自身、考えていない訳ではない。意識していないと言えば嘘になる。何となく、自分なりに“こういう風にしたい”と温めているものはある。しかし、その想いは他人に知られてはならないと信忠は考えていた。天下人になるのは、即ち“父に取って代わる”と同義。自らの地位をおびやかす存在を最も恐れる父にその意思すら嗅ぎ取られてはならないと強く戒めていた。実際に、野心の牙を隠し切れなかった義弟の徳川信康は始末されている。匂わせる事自体が罪なのだ。
 そんな気持ちを知ってか知らずか、苛立ちを隠さず父はさらにただす。
「俺が居なくなれば、お主が代わりを務めなければならない。それは分かっておるな?」
「はい。それは承知しておりますが……」
 もう一歩踏み込んできた父に、信忠は明確な返答を避けた。父がもし仮にこの場で『俺は隠居する!』と宣言すれば、信忠はつつしんで天下人の座を受けるが、当の本人にその気など更々ないのだから『天下人の座をください、なりたいです』と信忠の方から口が裂けても言えない。言えばその瞬間から“自らの地位を狙う不届者”と認定され、首をねられる。
 しかし、煮え切らない態度に終始する信忠に父の苛立ちが頂点に達した。
「では訊ねるが! お主が天下人になったらこの国をどうするつもりだ!!」
 激昂げっこうした強い口調で問い詰める父に、信忠は思わず息を呑んだ。これまで野心を持つ者は“敵”と見做みなして排除してきた父が、今は胸襟きょうきんひらいて野心を示せと言うのだ。
 ここで、信忠は父の苛立ちの正体をようやく掴んだ。
(……父上は、私に天下人になる気概きがいがあるか確かめたいのだ)
 父は今年四十九歳になった。父が特に気に入っている『敦盛』の一節にある“人間五十年”まで、あと一年。天下布武の実現は道半ばながら、手の届くところまで来ている。節目の五十歳が迫り、自分の次について意識せざるを得ないのだろう。先日の武田攻めの折にも『天下人の座をくれてやる』と発言したのも、同じ理由から出たと考えればに落ちる。
 このまま順当にいけば、父の跡を継ぐのは自分だ。しかし、父の目から見て“相応しくない”と断じれば、躊躇なく廃嫡される。次男の信意は伊賀攻めの失態で“愚鈍”の烙印を押されたが、三男の信孝は対抗馬になるかも知れない。四国攻めの総大将に任じたのも、信孝の器量を見定める糸が含まれていると捉えていいだろう。その信孝が駄目でも、父には幼い男子や一門の者は大勢居るので後継候補が誰も居なくなる心配はない。
 この返答次第で、今まで積み上げてきた地位を失う恐れがある。信忠にとって、人生最大の切所せっしょだ。
「――それはまだ申し上げられません」
 毅然きぜんと言い切る信忠。直後、父のこめかみに青筋が立ち、腰を浮かせようとするのが見える。
 一見すれば逃げとも受け止められかねない発言だが、信忠にははっきりとした理由があった。父が喋り出すよりも先に、信忠は間髪入れずに言葉を継ぐ。
「私はまだ、上様から天下布武を果たした後のことを伺っておりません。それを踏まえた上でお答え致します」
 信忠の言葉に、父は浮かせかけた腰を下ろす。こめかみに浮かんでいた青筋も消え、冷静さを取り戻している様子だ。
 そもそも、信忠はどうして天下布武を目指しているのか父の口から聞いた事が無い。そして、天下布武を成し遂げた後の事も。何らかの目的があって天下布武を早急に達成したいのは信忠も薄々勘付いていたが、流石に『人間は五十年しか生きられないから』なんて短絡的な理由ではないと思っている。
 今現在の当事者である父が明かしていないのに、その次の世代を担う自分に考えを質すのは順序が違う。信忠はそう考えていた。
「……良かろう。ならば話してやる」
 信忠の指摘は筋が通っていると判断した父はそう答えると、スッとまぶたを閉じた。ゆっくり大きく息を吸い、細く長く吐き出すのを何度か繰り返す。心を落ち着かせると共に、自らの考えをまとめているように信忠の目には映った。父は天才的な思考を持つ傍ら、自らの考えを他人に理解してもらう為の説明が苦手だ。言葉数が少ないがゆえ機微きびな部分まで伝わらず、誤って受け止められたり父と他者で齟齬そごが生じたりする事も珍しくない。それを自覚しているからこそ、時間を掛けて言葉に置き換えようとしてくれている。それだけの刺客を自分が持っていると思うと、信忠は少し嬉しくなった。
 ややあって、父は瞼を上げる。覚悟を決めた表情で、ゆったりと語り出した。
「天下布武を果たした後に数年の準備期間を経てから、異国へ兵を送る」
 その言葉に、信忠は驚きで目をいた。
 まさか、この国を飛び出して異国に攻め込むとは想像もしていなかった。それがもし実現すれば、これまでの戦を遥かに超える大きな規模となる。日ノ本は四方を海に囲まれているので、他国を攻めるには大量の船が必要だ。兵站も距離が長くなり、運搬に費用も時間も余計に掛かる。兵の数も桁違いに多くなるのは明白だ。
 さらに、父は続ける。
「勘九郎よ。異国では宣教師が吉利支丹を増やした後に、本国から軍隊を送り込みその国を乗っ取るやり方が横行しているそうだ」
「な……!!」
 父の口から明かされた衝撃の事実に、信忠も言葉を失う。
「まさか……あの者達はあくまで布教が目的で、そんな大それた事を隠し持っているとは思えませんが……」
 信忠は以前会った事があるフロイスやヴァリニャーノの顔を思い浮かべながら、俄かには信じがたいという風に否定する。しかし、父は静かに首を振る。
「その敬虔な聖職者だが、裏では商人とつるんで我が国の民を奴隷として送り出しているらしい。……伝兵衛のように、な」
 さらなる真実を突き付けられ、信忠は息を呑んだ。苦しんでいる民に救いの手を差し伸べるフリをして、悪い商人と結託して人身売買の片棒を担いでいるとは。
 父もこの事実を苦々しく思っているようで、顔を歪めながら言葉を重ねる。
「皆、目先の利益にばかり目がくらんで奴等の本当の目的が見えておらぬ。隙を見せる者が悪いが、このまま放置しておれば近い将来に我が国は南蛮の属国に成り下がってしまう。それだけは是が非でも避けなければならない」
 強い決意を瞳に宿しながら父は明言する。信忠もそれに同意だ。
 野心を抱いて吉利支丹の数を増やしているとしても、それを止める術はない。それどころか、下手に抑え込もうとすれば「弾圧だ!」と反発を招いてしまう。宗教が民衆にとって心のどころとなっているのは周知の事実で、それを利用すれば一揆を扇動する事だって可能だ。それこそ、石山本願寺みたいに。吉利支丹の場合は迫害されている信徒を救う事が軍勢を送り込む大義名分になり得るから、余計に厄介である。
 今もしも異国の軍勢が攻めて来たとしても、対処するのは当事国のみ。隣接する国は傍観するが、次に矛先を向けられるのが自分達だとは考えない。長年敵対してきたがゆえに、共闘して異国の軍勢を追い払おうとはならないのだ。もっと高みから日ノ本全体の将来を考える者が増えない限り、他国の侵略で隷属する可能性が高い。
 だが、一方で疑問も湧いた。
れど、天下布武を成し遂げたとしても、兵や民が疲弊していては外敵に攻め込まれても対処が出来ないのでは?」
 国を守る事は重要だが、一つにまとめる事を優先するあまり国力が低下しては元も子もないのではないか? と信忠は考える。戦が続けば土地は荒れ、人心はすさみ、結果的に国の力が落ちてしまう。それを信忠は危惧していた。
「だからこそ、一刻も早く戦を終わらせて国を一つにまとめるのだ。全国でバラバラになっているこよみを統一し、為替を固定し、非効率な座や組合を廃し、関を取っ払う。国が潤う仕組みを日ノ本の隅々まで行き渡らせ、国力を高めるのと並行して鉄砲や大筒を大量に生産し、大船おおぶねを建造させ、全てが万事整い次第に一気呵成で出撃する」
 一時的に国力が落ちようとも、早期にこの国を統一する方が国益に資すると父は説く。尾張で成功した手法を全国津々浦々に広め、商いを奨励させて民の生活を向上させ、国全体の力を高めた上で攻勢に出る支度を整える。父はそこまで見越して計画を立てていた。
「しかしながら、我等が海を渡る大義はないように思えますが……」
 異国の侵攻を防ぐのは理解出来る。ただ、異国へ攻める時の大義名分はどうするのか。信忠はその点を懸念していた。
 天下布武を目指すのは末端の兵にも受け入れられる。百年近くに渡り続いている乱世に皆うんざりし、泰平を望んでいるからだ。けれど、天下布武を達成した後に「異国を攻める!」と宣言して、どれだけの者が賛同してくれるか。秀吉のように下賤げせんの身から一国一城の主になる大望たいぼうを抱く者は歓迎するだろうが、戦に飽き飽きしている者は嫌がるに違いない。乗り気にならない者達を如何いかにその気にさせるかが成功の鍵となるだろう。
 その指摘に対し、父ははっきりとした口調で答えた。
「相手が攻めて来るのを待っていれば、いつか必ず押し込まれる。我が国を守りたいのであれば一歩でも外に出て戦う、これが織田の流儀ぞ」
 織田弾正忠家が守護代の家老の家柄から尾張を代表する戦国大名になったのは、信忠の祖父・信秀の頃から“戦う時は自領の外で”という考え方が大きかった。自領の内で戦えば地の利を得られるが、敵を撃退したとしても農地は荒れ家は焼かれ領民は避難を余儀なくされるなど、損失は必ず発生してしまう。逆に言えば、敵地に攻め込めば仮に敗れたとしても作物の実入りを減らし復興に金を出させ人心は離れるので、結果的には敵の力を削ぐ事に繋がる。何度も何度も撥ね返されても信秀はめげずに食らい付き、最後は勝ちを得ていた。これを積み重ねた事で尾張を統べるのみならず西三河に版図を拡げ、美濃へ手を伸ばす程の一大勢力に成長させたのだ。熱田や津島といった商業地から入る運上金を原資に信秀は積極的な外征を続けたからこそ、弾正忠家は飛躍を遂げた訳である。
 信秀の方針を、父である信長も踏襲した。弾正忠家内部の争いを制した信長は、尾張国内で対立する勢力へ攻勢をかけ、尾張再統一を果たした。それだけに留まらず、隣国の美濃を手中に収めんと挑戦を続けた。最初の内は全く歯が立たなかったけれど、立て直す暇を与えず攻め続け、美濃も織田のものとした。“戦う時は自領の外で”を貫き通したからこそ、今の織田家があると言っても過言ではない。
「南蛮の者共がそうしたように、我等も大船を仕立てて攻勢に出る。それこそ我が国を守る唯一の手段だ」
 力強く宣言する父。その顔は興奮しているのか、紅潮こうちょうしている。
 今、この国で異国の侵攻を真剣にうれいているのは、父しか居ないと思う。他の大名達は自領の拡大のみを考え、大局的な視点で我が国の未来を語れる者は存在しないだろう。天下布武を果たした後も具体的な構想を持って動こうとしている父の言葉には説得力があった。
 武家同士の争いに敗れた方は、悲惨な現実が待っている。財産や穀物は根こそぎ奪われ、若い女子おなごは飢えた獣と化した男共の欲望のけ口にされ、人民は家畜同然に売買されるか奴隷のようにき使われる。狭い島国の中で繰り広げられている小競り合いでこの有様だから、国全体になればもっと大変な事になる。異国の者共が攻め寄せてくる前に“何とかしないと”と父が焦るのも、信忠には理解出来る。
 そんな父は、とんでもない重圧と戦っていたに違いない。天下人は帝を除けばこの国の頂点に君臨する存在。胸中きょうちゅうを誰かに打ち明けることも、弱みを見せることも、相談することさえ許されない。一人で全てを抱え、決めていかなければいけないのだ。その苦しさや辛さは、父にしか分からない。悩みに悩み抜いた末に、攻められる前に攻めると決めたのだ。その覚悟に、信忠も真正面から向かい合わなければならないという気持ちになる。
「……上様の御考えは、よく分かりました」
 そう答えた信忠は、それきり口をつぐでしまった。父の想いに対して、軽々けいけいに返してはならないと感じていた。
 この国のく末が、自らの肩に重くし掛かる。手を一つでも誤れば、この国で暮らす全ての人々を破滅へ突き落とすかも知れない。そう考えただけで、息苦しさを覚える。父はいつもこの重圧と重責に耐えていたのか。
 しかし……信忠も、父の後継者になる自覚を常に持って今日まで生きてきた。天下布武の先の構想を披露してくれた事に対して、全力で応える義務がある。
 自分の中で考えをまとめ、気持ちを落ち着けた信忠は、父に正対する形でゆっくりと語り始めた。
「真に壮大な計画だと思います。実現すれば我が国は海の向こうにも領地を有する、南蛮にも引けを取らない強くて豊かな国となりましょう」
 まず信忠は、率直な感想を述べた。父の想定通りに事が運べば、南蛮の国々と同様に自国以外にも版図を持つ事となる。家臣や兵達は日ノ本を統一した後も働き場が与えられ、国が拡がればその分だけ民も潤う。夢は広がるばかりだ。
 信忠が共感を示すと、父も少し誇らしげに胸を張る。一人で導き出した考えを賛同され、嬉しいのだろう。天下人とはつくづく孤独なものだと改めて思い知らされる。
 本当に素晴らしい構想だと思う。しかし。
「――ですが」
 ここが切所だと腹に力を込める信忠。一つ間を挟んでから、強い決意を持ってはっきりと告げる。
「私は、上様の夢を受け継ぐつもりはありません」
 その瞬間、父の表情がガラリと変わるのが見て取れた。父の顔には“お主は、何を言っているのだ”とはっきり書かれていたが、怯むことなくさらに続ける。
「長きに渡り戦乱の世が続いた影響で、人民は疲弊しきっております。私が天下人になった暁には、まず商いを奨励させ、荒れた田畑をよみがえらせ、失った国力の回復を優先させます」
 父の考えが間違っているとは思わない。しかしながら、優先順位が違うと信忠は考える。
 外敵の侵攻に備えるにも、活力が必要となる。民の体力だけでなく、生活を下支えする経済、物を生み出す気力が充実していなければ、どんなに立派な理想を掲げても絵に描いた餅だ。父は数年の猶予を経てから国外へ打って出ると言うけれど、とてもではないがそんな短い期間で国力が回復するとは思えない。
 まず何よりも優先すべきは、身も心も疲れ果てている民の生活を建て直すこと。信忠はこの点だけはどうしても譲れなかった。
「ならば、南蛮の者共の手当ては如何いかがする。明日にも海を埋め尽くす大船団が押し寄せるかも知れないのだぞ。その対策こそ喫緊の課題ではないのか!」
 色をして反論する父。自らの考えを否定されて怒っているのではなく、そんな悠長に構えている暇はないと強い口調で主張する。
 これまでの信忠なら、父に逆らうような事は一切しなかった。気分屋で癇癪かんしゃく持ちな父は、頭に血がのぼれば手を出すだけでなく時には刀のつかに手を掛けることもある。身の安全を保つ為には父を怒らせない事、それを第一に今日こんにちまで過ごしてきた。互いの考えが相容れない場合、激昂した父に斬られるかも知れない。幸か不幸か、今この場に居るのは父子二人だけ。刀を抜かれたら、それまでだ。
 しかし、例え刀を抜かれて自らの喉元に突きつけられても、信忠は自らの考えを曲げるつもりはなかった。父の肩にこの国で暮らす全ての人々の未来が懸かっているのと同じように、信忠の肩にも全く同じ未来が懸かっている。怒る父を前にしても、全く怯むことなく信忠は真っ向から対峙する。
「だからこそ、国を豊かにして敵が付け入る隙を無くすことが先決です。敵も“くみしにくい”と判断すれば、攻める事を躊躇しましょう。刃を隠しながら外国と上手に付き合うことこそ肝要かと」
 頭は冷静に、それでいて言葉の一つ一つに想いを乗せて信忠は語る。揺るぎない姿勢に、父も思わず表情が変わる。
 今日、父から天下人になる気概を質されて、気が付いた事がある。例え相手が絶対権力者であっても、引いてはいけない場面はあるのだ。自らが正しいと信じている事は、他人が何と言おうと貫き通さなければならない。芯を持つ事と、貫く事。その大切さを、父から学んだ。いや、受け取ったと表現すべきか。
 信忠の魂が込められた言葉に、父は真剣な表情で黙り込んでしまった。日頃は自らの考えを明らかにせず唯々諾々いいだくだくと父の決定に従うばかりの信忠が、野心を隠そうともせず堂々と振る舞っている。その変貌ぶりにまず驚き、胸の内に秘めていた信念にさらに驚き、父の目には見違えたように映っていることだろう。
 今話した内容は、ずっと前から信忠の中で温めていた腹案だ。フロイスを始めとした宣教師達を介して異国の情報を取り入れ、自分なりに異国との付き合い方を考えてきた。堺を見聞した事で視野が広げられたのも大きかった。武家の凝り固まった概念に囚われず、自らが天下人になった想定で日ノ本について考えるようにしてきた。結果、国力を高める必要性に重きを置くべきだとする結論に達した。
 フーッと細長く息を吐いた父は、納得したような顔つきで訊ねてきた。
「……俺の構想と比べれば一回りも二回りも小さくなった事に対して、他人はお主を“愚か者”“軟弱者”とあざけわらうだろう。それでも良いのか?」
「構いませぬ。国を滅ぼしてみじめな思いをするくらいなら、何も知らぬ者達から汚名を着せられる方がよっぽどマシにございます」
 険しい道のりを歩む覚悟を問うた父に、信忠はきっぱりと返した。
 事業を拡大している時は賛同や応援してくれる者は多いが、逆に縮小する時は非難や誹謗ひぼうする者が続出する。その道が正しいと信じていても大多数に理解されず、いわれのない中傷に晒される可能性もある。それでも、信忠はその道を進む事を決めた。
 この国に暮らす人々が幸せに暮らせるなら、“父親より劣る”“器が小さい”と後ろ指を指されることなど甘んじて受ける。取返しのつかない“国を滅ぼした大罪人”の烙印を押されるより、ずっとずっとマシだから。
 直後、信忠は「僭越ながら……」と前置きを述べた上で続ける。
「例えるなら、上様は“壊す”人、私は“ならす”人。元からある物を壊していくには莫大な気力と確固たる信念が必要となりますが、私にそれがあるとは思いません。しかしながら、壊した後には必ず残骸ざんがい塵芥ちりあくたが散らばるものです。新たに作物を育てたり建物を造るには片付けなければなりませんが、綺麗にするだけなら最後までやり遂げる根気さえあれば充分。それくらいなら凡愚な私も持ち合わせております。従いまして、身の丈をわきまえて自分の器に合わせてやっていく所存」
 この国には、今の時代にそぐわない既存の慣行や仕組みが多くある。それを打ち破るのは当然ながら大きな反発が起きるし、一歩踏み出す勇気も求められる。抵抗に屈しない強い心と失敗を恐れない行動力が必要とされるが、父くらいの傑物でない限り難しい。はっきり言って、凡庸な信忠には出来そうにない。
 だが、何かを壊したら必ず散らかるものだ。新たな価値観や制度をしっかり根付かせる為に、整備して掃除しなければならない。例えるなら、荒れ地から農地に変える場合、開墾しても作物を育てられる土壌になる訳ではない。土をたがやし、栄養を与え、土中の小石や根を取り除き、ようやく農地になるのだ。開墾するには強い気持ちと大変な労力を要するが、土地を整えるのに決意も労力も要らない。地道にコツコツと続ける忍耐力さえあればいいのだ。これなら器量で劣る信忠にも出来る。父・信長が壊して荒れた土地を信忠が綺麗に均し、次代に繋ぐ役割に徹するつもりだ。
 信忠の覚悟をしかと受け止めた父は、満足気に「うむ」と小さく頷く。
「……最後に一つ問う。お主が目指す国の姿は、どう映る?」
「万民が戦に怯えることなく、安心して暮らせる世が見えます」
 訊ねられた信忠は迷わず即答した。
 戦があるのは“当たり前”とする世を終わらせ、人々が生活や仕事に打ち込めるようにする。そうすれば生産性や技術の向上がもっと加速し、暮らしはもっと良くなる筈だ。この国の頂点に立つのが目的でなく、この国で暮らす全ての人々に明るい未来をもたらすのが目指すべき姿だった。
 その答えも父を納得させるだけの内容だったみたいで、一つ二つと頷く。
「良かろう。天下統一を果たした暁には、この国をお主に任せる。自らが目指すべき理想へ向けてしかと励め」
「はっ。うけたまわりました」
 父の言葉に、信忠は深々とこうべを垂れて応じる。
 天下人の資質について、父の中で合格点に達したのだろう。目の前に座る父の顔には、充足感に満ち溢れていた。
 先日の武田攻めの折も『天下人の座をくれてやる』と言及したが、あの時は信忠に天下を委ねていいか確証を持てていなかった。信忠の方も“まだその資格はない”と考え辞退した。しかし、今は違う。互いに胸襟をひらいて天下布武の先について語り合い、父と子の距離が格段に縮まった。それを経て、父は信忠に天下を譲っても大丈夫だと確信を得た。信忠の方も、自らの胸の内に温めていた構想を父に明かした事で、覚悟が生まれた。だからこそ、今回は素直に受け入れられた。信忠の心に、熱い何かがたぎるのを感じ取っていた。
 名残惜しさはあるが、用は済んだのにいつまでも居座るのは父の勘気に触れかねない。父の前から辞そうと立ち上がると、「勘九郎」と声が掛けられた。
「来年、俺は隠居する。天下布武が成るまでは指揮を執るが、それが済めば余生だ」
 満足そうな表情で、外を眺めながら語る父。
「……俺の親父も、そうだった」
 懐かしむようにポツリと漏らした父は、さらに続ける。
「俺が濃を娶ると、親父は『後を任す』と言ってまつりごとの第一線から引いてしまった。あの時の親父はまだ三十九、隠居するような齢ではない。周囲は懸命に諫めたが、親父は『これからはアイツの時代だ』と言って譲らなかった。以降、政に一切口を挟まず、悠々自適に狩りをしたり趣味の歌をんだりして過ごしたが……当時は迷惑と思ったが、今なら親父の凄さが分かる。跡継ぎが居るとは言え、スパッと身を引くのは勇気が要るし、口を挟みたくもなる。国の内外から“うつけ”と馬鹿にされていたから余計にそうだろう。……でも、俺の好きなようにやらせてくれた。親父の度胸と英断には、敵わない」
 天文二十一年に四十二歳の若さで亡くなった信忠の祖父・信秀は、天文十八年二月に信長が濃姫と結婚すると事実上の隠居をしてしまった。西三河から尾張へと手を伸ばし始めた今川家に対抗すべく戦に出たり対策を指示したりと影響力を堅持していたが、政では嫡男である信長に全てを委ねた。まだやんちゃをしたかった信長は政に見向きもしなかったので実際は傅役の平手政秀が代行していた部分も多かったものの、信長もやる時はやった。奔放な行動や奇抜な振る舞いばかり目立つ信長を、信秀は注意したり叱ったりしなかった。やりたいようにやらせたからこそ、今の信長があると言っても過言ではない。
「今日話してみて分かった。お主なら、この国の未来を託しても心配ない、と。余生は俺の好きなようにやらせてもらう。大きな船を仕立てて、海を越えてまだ見た事がない異国に渡る。濃と一緒に、新たな景色を見るのだ」
「……それは、素敵な話ですね」
 思ったことをそのまま伝えると、父は「そうだろ?」と言わんばかりに口角を上げる。こんなに楽しそうな表情をする父を、初めて見たかも知れない。
 父が安心して余生を過ごせるよう、これまで以上に励まないといけないな。認められた嬉しさと責任の自覚を胸に抱え、最上階の部屋から下がっていった。外の景色を眺める父の横顔は、とても満ち足りていた。
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1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

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