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六 : 大志 - (9) 当主同士

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 武田攻めの戦後処理を終えた信忠は、五月の始めに岐阜へ戻ってきた。約三ヶ月の空白を埋めるように政務を片付ける一方、先日の饗応を大いに喜んだ父が今度は家康を歓待すると知らされ、信忠はその準備に追われた。安土の方からは『織田家の威信に懸けて、気合を入れるように』と注文が入っているので、相応のものにしなければならないと気を引き締めていた。
 天正十年五月十三日。信長の招きに応じた家康一行を出迎えるべく、三河との国境で信忠は待機していた。織田領となる尾張からの警護はこちらが担うが、周辺諸国は全て織田の統治下にある上に領内の治安も良いので野盗などに襲われる不安も無いので、信忠が連れている兵も百名程度と少ない。
 暫くして、三河国側からこちらへ向かって来る集団が見えた。徳川領も外敵から襲われる心配が無いので護衛の兵も多くない。
「お待ちしておりました」
 家康一行が近付いてきたのを確かめ、馬から下りる信忠。それに対し、家康も下馬する。
「遠路遥々はるばるのお出迎え、かたじけい」
 息子程に齢が離れている信忠にも、腰が低い家康。賓客ひんきゃくなのに信忠だけでなくその家臣や下働きの者にも労いの言葉を掛けている。
 家康の同行者は筆頭家老の酒井忠次に次席家老の石川数正、武勇が他家にも知られる実力者の榊原康政に本多忠勝、大久保忠佐にそのおい忠隣ただちか、渡辺“半蔵”守綱もりつななど、人数こそ少ないが徳川家の中枢を支える面々が顔を揃えていた。その武勇が敵の武田信玄からも認められた武辺者・忠勝だけは万一の事態に備えて愛槍“蜻蛉切とんぼきり”を携行しているが、他の者達は大小を帯びているだけの軽装だ。三河から先の費用も全て織田方の負担、しかも移動は全て織田領なので誰かから襲われる危険も皆無で気楽な旅なので武器は護身用で充分だった。
「それでは、ご案内つかまつります」
 そう言ってから、馬に跨り先導する信忠。家康は永禄四年から二十年以上に渡り同盟を結んでいる相手、勢力に大きな開きは出来たが以前と変わらず同格の扱いで接している。粗相そそうなどもってのほか、先日の徳川家を上げた歓待に劣るような事があってはならない。街道は通りやすいようならし、途中には休憩所を設け、茶や菓子も用意している。準備は万端だ。
 一行は、濃尾平野の田園地帯をゆるゆると進んでいく。
「……尾張は長閑のどかですなぁ」
 馬に揺られながら、しみじみと漏らす家康。
「いやいや、三河の方がもっと田舎ですぞ」
 すぐ後ろを移動する忠次が否定するが、家康は「いや」と続ける。
「尾張の民は、戦にも野盗にも怯えずに伸び伸びと暮らしている。だから、顔が活き活きとしている。奪われない、犯されない、生きる事に不安を抱かない、これこそ我等が目指すべき人々の営みよ。……いつか、三河もこうならねばならぬ」
 家康は自らに言い聞かせるように語る。忠次や数正の次を担う康政や忠勝に薫陶を授けているようだが、自分を戒めているようにも信忠は受け止めた。
 徳川家、元は松平家勃興の地である三河は農耕に適した土地が少なく、周辺諸国と比べて貧しい国だった。家康の祖父・清康が三河統一を果たし隣国の尾張に攻め込むだけの実力を持っていたが、その清康が思わぬ形で亡くなると一転して三河は他国の草刈り場となる。西に“尾張の虎”こと織田信秀・東に“海道一の弓取り”こと今川義元と大国に挟まれた不幸もあり、両勢力がしのぎを削る場所に転落してしまった。家康の父・広忠は信秀の圧力に耐え切れず義元に庇護を求めるが、今川の属国に落ちた三河は搾取される立場に置かれる。義元が討たれた後は家康が自立しようとするも、一向一揆で国も家中も二分する争いに発展し、ようやく三河を平定し遠江を手に入れるなど成長軌道に乗り出した頃に、今度は武田家の手が伸びてきた。信玄の死去、設楽原の勝利でようやく三河に平穏が訪れたものの、民達は“またいつか戦があるのでは?”という気持ちがまだ頭の片隅に残っている状態だった。三河や遠江での奪還戦、駿河侵攻で民に何年も負担を掛けてきたのもあり、領民に苦しい思いをさせている思いを家康は自覚していた。
 尾張は肥沃な土地ではあるが、“一銭切り”に代表されるように罪を犯せば厳罰に処されるので治安は他国と比べて段違いに良かった。夜に女性が一人で出歩けるのは勿論、子どもが外で寝ていても無事だった……という逸話があるくらいだ。取り締まりの兵も当然居たが、それくらい安全であるとも言える。だからこそ、民は農耕や商売など仕事に専念する環境が整っていた。
 父から織田弾正忠家の家督を受け継いだ信忠も、祖父・信秀の代から続く良い前例を踏襲。結果、治安の悪化や民の不満もないが、信忠も家康の言葉を聞いて“これが当たり前ではないのだ”と背筋を正した。

 家康一行は順調に尾張国内を移動し、暗くなる前にこの日の宿所である清州城に着いた。夕食は伊勢湾で獲れた新鮮な魚介類を使った豪勢な膳で持て成し、家康一行は舌鼓を打った。
 その日の夜、信忠はふらっと家康の部屋を訪ねた。
「三河守様、よろしいでしょうか」
 部屋でくつろいでいた家康は、不意に現れた信忠に驚いていた。うつ伏せになっていた家康は小姓と思われる若者に腰を揉ませていたが、信忠の姿を目にして飛び起きた。
「これはこれは中将様。いかがされましたか?」
「突然の訪問、すみません。実は、三河守様と二人で飲みたくなりまして……」
 申し訳なさそうに言った信忠が、後ろに控える伝兵衛を示す。徳利に二つの盃を載せた盆を持っていた。
 その姿を見て、家康はニコリと笑って答えた。
「私でよろしければ、喜んでお相手致しましょう。……正直、上方で流行っている茶の湯は堅苦しくて苦手でして。田舎者には酒の方が合っております」
 少し恥ずかしそうに打ち明けた家康に、信忠は好感を抱いた。招かれた立場ながらおごる素振りは一切見せず、常にこちらへの気配りを忘れない。……自分もこうなりたいと思った。
 家康と信忠が、向かい合って座る。互いに相手を上座に勧めたが、こういう形で落ち着いた。廊下には信忠の供・伝兵衛、家康の小姓・井伊“万千代”直政が控えるだけで、他に人は居ない。
 盃を家康に選んでもらい、「毒見を」と断ってから残った盃に酒を注いで一気に飲み干す。毒が入っていない事を確認してもらってから信忠が家康に注ぎ、家康も信忠に注ぐ。
「では」
「乾杯」
 それぞれ、盃を傾ける。一気に呷った家康は息を吐くと、感心したように漏らした。
「中将様、なかなかの飲みっぷりですね」
「いえ、これが精一杯でして……」
 立て続けに盃を空にした信忠だが、既に体がフワフワとし始めていた。返杯は固辞して、肴である大根の古漬けを口に放り込む。
 こうした姿に、家康は小首を傾げた。とても呑兵衛には見えない信忠が、どうして“酒を飲みませんか”と誘ってきたのかを。
 和らぎ水を飲んで一心地ついた信忠は、観念したように明かした。
「……七年前に岡崎へ赴いた折、三郎殿と膝を突き合わせて飲みました。そして『また二人で今宵の続きをしましょう』と約束をしましたが……それは果たせませんでした」
 信忠の口から“三郎”の名が出て、家康も思わず息を呑んだ。暫く沈黙の時間が流れたが、それを破ったのは家康の方だった。
「……あれはまさしく『とびが鷹を生む』、私には過ぎた息子でした」
 盃のふちを指でなぞりながら、小さく漏らす家康。その姿は三遠駿さんえんすんの三国を治める太守ではなく、悩みを抱える凡夫ぼんふにしか見えなかった。
 手酌てじゃくで酒を注いだ家康は、盃の中の水面みなもを見つめながら続ける。
「人を惹き付ける才を持ち、敵を恐れぬ胆力を持ち、それに劣らぬだけの体躯たいくと強さも兼ね備える。心ない者から『種が違うぞ』とそしられる程で、どうして自分からこんな英邁が出たのか時々不思議に思ったものです」
 しみじみと語る家康の言葉に、じっと耳を傾ける信忠。
 少しだけ盃を傾けて喉を湿らせた家康は、さらに言葉を継ぐ。
「三郎には、辛い思いばかりさせました。物心ついた頃は今川の監視下に置かれ、やっと父の元に戻ったかと思えば知り合いの居ない岡崎の地で離れ離れにされ、多感な時期には三河衆の旗頭に担ぎ上げられ。……恨まれても仕方ありません」
「……畏れながら、三河殿は三河守様についてあれこれ申し上げておりましたが、恨むような事は一言も仰っておりませんでした」
 信忠がそう伝えると、家康はフッと息を漏らした。
「そうか……散々に言われていたが恨んではなかった、か。……それを聞けただけでも良かったです」
 救われたような表情を浮かべる家康。ただ、信忠は家康の発言で気に掛かる点があった。
「……三河守様は、三河殿が何と申しておられたかご存知で?」
「えぇ。三郎は自分の思いや感情に正直でしたので、自然と耳に入ってきました。『父上は弱腰だ、軟弱だ』『覇気が無い、頼りない』とボロクソな言いようでした」
 家康の口から出た言葉に、信忠は何も言えない。沈黙が肯定と同義なのは分かっていたが、否定するのは違うような気がした。
 その姿に苦笑いを浮かべた家康は「お気になさらず」と気遣いの言葉を掛けた。
「三郎の気持ちはよく分かります。上総介様や信玄入道、それに瀬名からりし日の治部大輔の話を聞いていれば、周辺諸国の傑物けつぶつ達に翻弄されるばかりの父を尊敬など出来ましょうか。強き者に憧れるのは当然のことです」
 幼い頃から、信康は強者を見て育ってきた。今川家を東海の覇者に押し上げた今川義元、尾張から天下人まで成り上がった織田信長、海千山千の将兵を従わせる武田信玄。それに比べ、遠江・駿河をこそぎ取るように版図を拡げていく父に物足りなさを覚えるのも致し方ないとも言える。
「しかしながら、三河守様も家を潰すどころか大きくなされたではありませんか。私から見れば凄い事だと思いますが……」
 素直な思いを述べる信忠。
 強い者が生き残る戦国乱世で、三ヶ国を治める太守にまでのし上がった家康は紛れもなく強者つわものだ。しかも、今川の属国という立場から脱却し、三河一国を再び徳川の名の下に平定し、乱世の荒波に揉まれながらも他国を自力で奪い取った。家を滅ぼしたり没落していく者の方が圧倒的に多い中で、自らの家を飛躍させるのは並大抵の器量では出来ない事だ。
「お気遣い、ありがとうございます」
 ニコリと微笑む家康。信忠としては本心から出た言葉だったので少々心外ではあるが。
 半分程残っていた中身を飲み干した家康は、顔を落として言った。
「周りの並み居る猛者と比べ、見劣りするのは分かっております。引け目を感じていたからこそ、三郎を好きなようにさせていました。……今思えば、遠慮していたのかも知れません」
「遠慮……」
「父親として、側に居られなかった負い目、と申しましょうか。結局は忙しさを言い訳にして、傅育を瀬名と与七郎に丸投げしてしまった」
 そう言い、盃を置く。空いた手をじっと見つめた家康は、ギュッと握る。
「――それは間違いだった。三郎には、爪を隠す大切さを教えておくべきだった」
 後悔が滲んだ表情で、はっきりと言い切る家康。その姿に、信忠は息を呑んだ。律義者で腰が低い印象が強い家康が、こんな顔を見せるなんて想像もしていなかった。
 握った拳で自らの膝を叩きながら、口惜しそうに続ける。
「美濃を収めた頃ならばまだ構わぬ。だが、京を手に入れ畿内に勢力を伸ばした時点で勝負はあったのだ。四方を敵に囲まれはしたが、京と堺を押さえていれば余程の下手を打たない限りは負ける事はない。上総介様にとって怖いのは外から攻めて来る敵より刃を隠し持っている身内よ。あれだけの高みに上れば、内から刺されるのが一番恐ろしいと考えるのが自然なのに……」
 松平家は家康の祖父・清康の時に三河統一を果たしただけでなく、隣国の尾張に攻め込む程の勢力に押し上げた。当時の尾張は“尾張の虎”こと織田信秀が支配しており、決して弱い相手ではない。しかし、天文四年十二月五日、尾張へ攻め込んでいた清康は陣中で家臣に殺されてしまった。絶頂期で偉大な君主を失った松平勢は潰走かいそう、この“森山(守山とも)崩れ”を境に松平家は没落していくのだが、家康は信長も清康のようになるのを最も恐れていると見ていた。
「徳川が生き残る術はただ一つ。天下を望まず“織田の友好相手”として振る舞うことだ。野心の牙を少しでも見せれば、上総介様は“自らの地位をおびやかす存在”として潰しにかかる。忍従にんじゅうを説いておればもっと命を永らえただろうに……」
 拳を何度も何度も叩く家康の瞳には、涙が浮かんでいた。一方で、向かいに座る家康に信忠は空恐ろしさを覚えた。
 周囲から“何を考えているのか分からない”と困る父の思考を、ピタリと言い当てている。身近で一挙手一投足を目にしてきた秀吉に匹敵するくらいだ。実際に父の口から直接考えや思いを聞いてきたのもあるが、家康もただの友好相手ではないと考えを改めた。
 苦労人も少なくない戦国の世で、家康も相当な苦労を重ねてきた人物だ。六歳の時には今川家へ人質に送られる途中で家臣の裏切りに遭い敵国の織田家へ引き渡され、三年後に人質交換の形で三河に戻ったが再び今川家へ人質に送られ、隷属れいぞくする家の子として今川譜代の子達からしいたげられ、辛い思いをしたのも一度や二度で済まない。人格形成の時期を人質として過ごしてきた事が、今の家康のいしづえとなっていた。
 何も言えずにいた信忠が、ふと頭を下げようとした。が――。
「三郎の件、中将様が罪悪感を抱く必要などありません」
 毅然きぜんとした口調で言い放つ家康に、信忠も思わず固まる。顔を上げると、家康の瞳に浮かんでいた涙は消えていた。
「この乱世で、隙を見せた者は淘汰される運命。三郎も驕りがあったから身を滅ぼしたまで。それ以上でも以下でもありません」
「……はい」
 さとされるように言われ、素直に頷く信忠。息子を失った父が“気にしなくていい”と言っている以上、慰めも謝罪も相応しくなかった。
 絶対的な権力を持つ父が『将来の禍根となる』と断じた段階で、信忠に止める手立てはなかった。道義的に間違っていると思うが、父の言うように信康が将来牙を剥いた時に自分が勝てるかと考えると、強く反対出来なかった。受け入れた結果、信忠は命を永らえている。それを恥じる事か? いや、違う。
 今更謝ったところで、信康が生き返る訳でもない。ただの自己満足に過ぎないのだ。
「……やや、これは失敬。つい説教臭くなってしまいました。お許し下され。ささ、一献いっこん
 打ち沈んだ雰囲気になったのを察した家康が、努めて明るい声で振る舞う。家康が徳利を持ちそれを受ける信忠こそ、接待役の自分がこうせねばならぬのに……と反省する。
 思い返せば、信康も気配りの人だった。器の大きさの違いで沈んでいた信忠の様子を信康は心の底から心配していた。……親子はやっぱり似るものなのだな、とふと思った。
 今は亡き信康は、この光景を見たらどう思うだろうか。案外、羨んでいるかも知れない。「俺もその席に混ぜろ!」と。その必死さを思うと、クスリと笑えた。
「中将様、如何いかがされましたか?」
 突然笑った信忠に、怪訝そうな顔を見せる家康。「いえ、何でもありません」と答える信忠だが、心の中の信康は楽しそうに笑っていた。
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