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五 : 青葉 - (25) 筆頭家老追放
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天正八年八月二十五日。織田家に激震が走った。
その日、岐阜城に居た信忠の元へ、父からある命令が出された。
『佐久間信盛を放逐した。その所領を接収せよ』
安土から早馬で知らされた父の命に、信忠は困惑した。追放される理由に全く心当たりがないからだ。
佐久間“右衛門尉”信盛と言えば信忠の祖父・信秀の代から織田家を支える重臣で、筆頭家老だ。信秀の死後、多くの有力な家臣が信行の側に付いたが信盛は一貫して信長を支えた。徳川家の折衝役を務めながら尾張衆を率いて各地を転戦。天正四年五月には原田直政の討死に伴い本願寺攻め担当の後任に据えられた。“退き佐久間”の異名を持ち、苦しい状況でも粘り強く戦う事に定評があった。
つい先日の石山御坊の明け渡しでも引き渡し役を任され、その恩賞があって然るべきと皆が考えていただけに、今回の処置は正しく青天の霹靂と言わざるを得ない。
添えられた書状を読んで、信忠はさらに驚かされた。父が信盛に宛てた折檻状の写しで、その内容は以下の通りだ。
曰く『信盛・信栄父子は本願寺攻めで目立った成果を挙げていない』『戦もしなければ調略もしない、包囲していれば何れ降るだろうと工夫をしなかった』『やり方がないなら自分(信長)に聞きに来ればいいのに、それすら怠った』『知行地を増やしてやったのに、自らの懐に溜め込むばかりで新たに人を雇ったり家臣に配ったりしなかった。言葉が出ない』『元亀三年の三方ヶ原の戦いでは、増援として派遣されながら一人の死者も出していない。平手汎秀は討死している事を思えば、家康殿に対して面目が立たない』との叱責の言葉が並ぶ。『光秀は丹波を平らげた、秀吉も比類なき働きをしている、(池田)恒興は短期間で花隈城を落とした、勝家も越前一国の大身ながらその地位に甘んじることなく加賀へ攻め入った』と家臣達を引き合いに出しながら信盛の不甲斐なさを糾弾、『汚名を雪ぐ為に目覚ましい成果を挙げるか、潔く討死すべきだ』『それも出来ないなら父子共々高野山に入り赦しを乞うべきだろう』と断罪した。全て合わせて十九ヶ条にも及ぶ折檻状からは、父の怒りが相当なものであることが窺える。
折檻状を読み終えた信忠は嘆息を漏らした。
確かに、信盛は本願寺攻めで積極的な攻勢に出ず調略を仕掛けるなど早期の決着に持っていく工夫を凝らさなかった。信盛の実績と実力を考えればもっと早く本願寺が降伏してきたと思う父の気持ちも分からなくもない。しかし、そもそも本願寺は堅牢な造りで力攻めをすれば相当数の死傷者を出すのは明白で、信仰という強い結び付きのある門徒や坊主達を内部から切り崩すのは困難だ。力攻めも調略も通じないのであれば、兵糧攻めで音を上げるのを根気強く待つしかないとする信盛の方針は自然だ。
文中で『三十年の奉公で、“比類ない活躍をした”と思わせた事は一度もない』と非難しているが、他の重臣達と比べて信盛の働きが劣っていた訳ではない。元亀元年に浅井長政の離反により京と岐阜を繋ぐ南近江で旧六角勢が蜂起した際も、六月四日に野洲川流域にある落窪で信盛は柴田勝家と共に旧六角勢を打ち破っている。この勝利は金ヶ崎の敗走で情勢不安定になりかけていた南近江を落ち着かせるのに大きく寄与し、後の姉川の戦いにおける勝利に繋がった。他にも比叡山焼き討ちや伊勢長島・設楽原にも参加し、頭一つ抜けた活躍こそないが勝利に貢献している。出世頭の光秀や秀吉だって毎回目覚ましい働きをしている訳ではないので、“印象に残ってない”から“活躍してない”と断ずるのは違うと思う。
信忠から見て、信盛は目に見えた成果こそ挙げていないが、縁の下の力持ちのように織田家を支えている認識だった。他の家臣達も同じように思っていることだろう。それにも関わらず追放の憂き目に遭ったのは……。
(……使えなくなった。または、目障りになった、か)
父・信長は出自や門閥を問わず有能であれば積極的に登用してきた。言い換えれば、譜代の臣であろうと過去に輝かしい実績があろうと、使えないと判断すれば容赦なく切り捨てる。それこそ、弊履のように。
加えて、信盛は何かと父に諫言する事が多かった。元亀二年九月の比叡山焼き討ちの直前にも中止するよう訴えたし、恐らくは尾張にあった頃から無茶と思える戦を止めるよう進言してきたに違いない。積もり積もった鬱憤が天正元年八月の折に爆発して“今年中に成果を挙げなければ所領没収”の最後通牒を言い渡したのだろうが……七年が経っても父は許していなかった訳だ。吝嗇だの何だの理由を挙げているが、結局のところは“大した働きもしてないにに意見ばかりしてくる図々しさに我慢の限界が来た”、そう捉えるのが一番しっくりくる。
今回の仕置に、信忠は改めて首筋が寒くなる思いがした。
長年織田家を支えてきた功労者にすらこの仕打ちなのだから、替わりが幾らでも居る自らの立場はもっと危うい。嫡男であっても常に成果を挙げ続けなければ廃嫡される。何より、あの父ならやりかねない。
武田攻めに関して、父へ逐次報告し方針を確認しているので『進展が見られないから解任』と突然言われる事は今のところないだろう。しかし、問題なのは本格的に着手した時だ。少しでももたついたり思っていた成果を挙げられなかったらどうなるか……考えるだけでも恐ろしい。
明日は我が身。そう肝に銘じる信忠だった。
織田家から追放されてしまった信盛は、嫡男・信栄と数名の郎党を連れて高野山に上った。二年後の一月十六日、失意の内に信盛はこの世を去る。享年五十五。信盛の死後、信栄は織田家への帰参が許されて信忠付の家臣となっている。
信盛の旧領は、三河刈谷城を含む旧水野信元領を信元の異母弟である水野忠重に与えられた他は信忠のものとなった。
さらに、信盛の追放劇から数日と経たぬ内にさらなる衝撃が織田家に走る。重臣の林秀貞、家臣の丹羽氏勝、そして嘗ては“西美濃三人衆”の一人に挙げられた美濃の有力者である安藤守就も織田家から追放されたのだ。追放された理由は三人揃って『逆心を抱いたから』だが、秀貞に関しては“信行擁立に加担した”という三十年近く前の出来事を咎められたのは家中を震撼させた。古参の家臣の大半はあの当時信行方に属しており、それが追放理由に挙げられたのは恐怖でしかなかった。
上記三名の旧領は全て信忠の領地となり、信盛の分と合わせて信忠は尾張・美濃国内で直轄領が増える結果となった。
石山合戦の終結から暫くが経ち、論功行賞が行われた。
丹波一国は明智光秀、播磨・但馬は羽柴秀吉(但し、播磨二郡・但馬七郡は秀吉の弟・秀長名義)、丹後半国は長岡藤孝、摂津は池田恒興にそれぞれ与えられた。また、八月に追放された家臣達の旧領は一部を除いて信忠に与えられている。
畿内をほぼ掌握した織田家だが、天下布武に向けた歩みは止めない。
まず、武田方面。同盟を結ぶ徳川家では遠江国内で唯一残っている武田方の高天神城を攻略すべく、五つの砦を新たに築き一つの砦を改修して八月までに計六つの砦で包囲。武田方の動きを監視すると共に、人や物の移動を厳しく制限した。
天正八年十月、家康は五千の兵を率いて高天神城攻めに出陣。城は今川家旧臣・岡部元信が守っており、今川家を裏切った家康に恨みを抱いており戦意は極めて高かった。要害堅固な城に士気も高く勇猛な将兵が籠もっている事から、柵や鹿垣を設けた上で兵糧攻めにする事を決めた。
城を徳川勢に囲まれた元信は直ちに甲斐の武田勝頼へ救援を求めたが、北条家との関係悪化で勝頼が大軍を率いて領地から離れた留守を突いて北条勢が侵攻してくる恐れがあった為、すぐには向かえなかった。また、元信の軍監。横田尹松(“ただまつ”の説もあり)が秘かに『形勢は圧倒的不利、出兵は止めるべき』とする内容の書状を送った事や、織田家と同盟を結ぶ交渉に支障を来す恐れがあると勝頼の判断に影響を及ぼした可能性もあった。
また、北陸方面でも動きがあった。天正八年十一月十七日。柴田勝家は一向一揆方と講和を結ぶべく、主導者である鈴木出羽守や若林長門守を松任城へ招いた。一向一揆方も本願寺の降伏で後ろ盾を失っており、閏三月には最大拠点である尾山御坊を失い白山麓の鳥越・二曲の二城に追い詰められていたのもあり、抵抗を続けるよりも良い条件で講和した方が得策と判断した。
しかし――講和は偽りで、松任城を訪れた鈴木出羽守・若林長門守以下十九名は謀殺。それと時を同じくして織田勢が鳥越・二曲城を急襲、指揮を執る者を欠いた一向一揆勢は織田勢の敵ではなく、二城は落城した。これにより、約百年に渡り続いた“百姓の持ちたる国”は終焉を迎えたのだ。戦後、加賀二郡は佐久間盛政に与えられ、尾山御坊の跡地に金沢城を築いて居城とした。
勝家が加賀平定を急いだ背景には、佐久間信盛や林秀貞の追放が絡んでいた。譜代の臣であろうと働きが鈍れば容赦なく捨てられ、おまけに勝家は元々信行の傅役を務め信長に刃を向けた過去がある。信盛追放で筆頭家老の座についた勝家だが、安穏としていられなかった。“次は自分だ”と捉えていてもおかしくない。
信忠自身、喜びと緊張を味わった天正八年は、ゆっくりと暮れ行くのであった……。
その日、岐阜城に居た信忠の元へ、父からある命令が出された。
『佐久間信盛を放逐した。その所領を接収せよ』
安土から早馬で知らされた父の命に、信忠は困惑した。追放される理由に全く心当たりがないからだ。
佐久間“右衛門尉”信盛と言えば信忠の祖父・信秀の代から織田家を支える重臣で、筆頭家老だ。信秀の死後、多くの有力な家臣が信行の側に付いたが信盛は一貫して信長を支えた。徳川家の折衝役を務めながら尾張衆を率いて各地を転戦。天正四年五月には原田直政の討死に伴い本願寺攻め担当の後任に据えられた。“退き佐久間”の異名を持ち、苦しい状況でも粘り強く戦う事に定評があった。
つい先日の石山御坊の明け渡しでも引き渡し役を任され、その恩賞があって然るべきと皆が考えていただけに、今回の処置は正しく青天の霹靂と言わざるを得ない。
添えられた書状を読んで、信忠はさらに驚かされた。父が信盛に宛てた折檻状の写しで、その内容は以下の通りだ。
曰く『信盛・信栄父子は本願寺攻めで目立った成果を挙げていない』『戦もしなければ調略もしない、包囲していれば何れ降るだろうと工夫をしなかった』『やり方がないなら自分(信長)に聞きに来ればいいのに、それすら怠った』『知行地を増やしてやったのに、自らの懐に溜め込むばかりで新たに人を雇ったり家臣に配ったりしなかった。言葉が出ない』『元亀三年の三方ヶ原の戦いでは、増援として派遣されながら一人の死者も出していない。平手汎秀は討死している事を思えば、家康殿に対して面目が立たない』との叱責の言葉が並ぶ。『光秀は丹波を平らげた、秀吉も比類なき働きをしている、(池田)恒興は短期間で花隈城を落とした、勝家も越前一国の大身ながらその地位に甘んじることなく加賀へ攻め入った』と家臣達を引き合いに出しながら信盛の不甲斐なさを糾弾、『汚名を雪ぐ為に目覚ましい成果を挙げるか、潔く討死すべきだ』『それも出来ないなら父子共々高野山に入り赦しを乞うべきだろう』と断罪した。全て合わせて十九ヶ条にも及ぶ折檻状からは、父の怒りが相当なものであることが窺える。
折檻状を読み終えた信忠は嘆息を漏らした。
確かに、信盛は本願寺攻めで積極的な攻勢に出ず調略を仕掛けるなど早期の決着に持っていく工夫を凝らさなかった。信盛の実績と実力を考えればもっと早く本願寺が降伏してきたと思う父の気持ちも分からなくもない。しかし、そもそも本願寺は堅牢な造りで力攻めをすれば相当数の死傷者を出すのは明白で、信仰という強い結び付きのある門徒や坊主達を内部から切り崩すのは困難だ。力攻めも調略も通じないのであれば、兵糧攻めで音を上げるのを根気強く待つしかないとする信盛の方針は自然だ。
文中で『三十年の奉公で、“比類ない活躍をした”と思わせた事は一度もない』と非難しているが、他の重臣達と比べて信盛の働きが劣っていた訳ではない。元亀元年に浅井長政の離反により京と岐阜を繋ぐ南近江で旧六角勢が蜂起した際も、六月四日に野洲川流域にある落窪で信盛は柴田勝家と共に旧六角勢を打ち破っている。この勝利は金ヶ崎の敗走で情勢不安定になりかけていた南近江を落ち着かせるのに大きく寄与し、後の姉川の戦いにおける勝利に繋がった。他にも比叡山焼き討ちや伊勢長島・設楽原にも参加し、頭一つ抜けた活躍こそないが勝利に貢献している。出世頭の光秀や秀吉だって毎回目覚ましい働きをしている訳ではないので、“印象に残ってない”から“活躍してない”と断ずるのは違うと思う。
信忠から見て、信盛は目に見えた成果こそ挙げていないが、縁の下の力持ちのように織田家を支えている認識だった。他の家臣達も同じように思っていることだろう。それにも関わらず追放の憂き目に遭ったのは……。
(……使えなくなった。または、目障りになった、か)
父・信長は出自や門閥を問わず有能であれば積極的に登用してきた。言い換えれば、譜代の臣であろうと過去に輝かしい実績があろうと、使えないと判断すれば容赦なく切り捨てる。それこそ、弊履のように。
加えて、信盛は何かと父に諫言する事が多かった。元亀二年九月の比叡山焼き討ちの直前にも中止するよう訴えたし、恐らくは尾張にあった頃から無茶と思える戦を止めるよう進言してきたに違いない。積もり積もった鬱憤が天正元年八月の折に爆発して“今年中に成果を挙げなければ所領没収”の最後通牒を言い渡したのだろうが……七年が経っても父は許していなかった訳だ。吝嗇だの何だの理由を挙げているが、結局のところは“大した働きもしてないにに意見ばかりしてくる図々しさに我慢の限界が来た”、そう捉えるのが一番しっくりくる。
今回の仕置に、信忠は改めて首筋が寒くなる思いがした。
長年織田家を支えてきた功労者にすらこの仕打ちなのだから、替わりが幾らでも居る自らの立場はもっと危うい。嫡男であっても常に成果を挙げ続けなければ廃嫡される。何より、あの父ならやりかねない。
武田攻めに関して、父へ逐次報告し方針を確認しているので『進展が見られないから解任』と突然言われる事は今のところないだろう。しかし、問題なのは本格的に着手した時だ。少しでももたついたり思っていた成果を挙げられなかったらどうなるか……考えるだけでも恐ろしい。
明日は我が身。そう肝に銘じる信忠だった。
織田家から追放されてしまった信盛は、嫡男・信栄と数名の郎党を連れて高野山に上った。二年後の一月十六日、失意の内に信盛はこの世を去る。享年五十五。信盛の死後、信栄は織田家への帰参が許されて信忠付の家臣となっている。
信盛の旧領は、三河刈谷城を含む旧水野信元領を信元の異母弟である水野忠重に与えられた他は信忠のものとなった。
さらに、信盛の追放劇から数日と経たぬ内にさらなる衝撃が織田家に走る。重臣の林秀貞、家臣の丹羽氏勝、そして嘗ては“西美濃三人衆”の一人に挙げられた美濃の有力者である安藤守就も織田家から追放されたのだ。追放された理由は三人揃って『逆心を抱いたから』だが、秀貞に関しては“信行擁立に加担した”という三十年近く前の出来事を咎められたのは家中を震撼させた。古参の家臣の大半はあの当時信行方に属しており、それが追放理由に挙げられたのは恐怖でしかなかった。
上記三名の旧領は全て信忠の領地となり、信盛の分と合わせて信忠は尾張・美濃国内で直轄領が増える結果となった。
石山合戦の終結から暫くが経ち、論功行賞が行われた。
丹波一国は明智光秀、播磨・但馬は羽柴秀吉(但し、播磨二郡・但馬七郡は秀吉の弟・秀長名義)、丹後半国は長岡藤孝、摂津は池田恒興にそれぞれ与えられた。また、八月に追放された家臣達の旧領は一部を除いて信忠に与えられている。
畿内をほぼ掌握した織田家だが、天下布武に向けた歩みは止めない。
まず、武田方面。同盟を結ぶ徳川家では遠江国内で唯一残っている武田方の高天神城を攻略すべく、五つの砦を新たに築き一つの砦を改修して八月までに計六つの砦で包囲。武田方の動きを監視すると共に、人や物の移動を厳しく制限した。
天正八年十月、家康は五千の兵を率いて高天神城攻めに出陣。城は今川家旧臣・岡部元信が守っており、今川家を裏切った家康に恨みを抱いており戦意は極めて高かった。要害堅固な城に士気も高く勇猛な将兵が籠もっている事から、柵や鹿垣を設けた上で兵糧攻めにする事を決めた。
城を徳川勢に囲まれた元信は直ちに甲斐の武田勝頼へ救援を求めたが、北条家との関係悪化で勝頼が大軍を率いて領地から離れた留守を突いて北条勢が侵攻してくる恐れがあった為、すぐには向かえなかった。また、元信の軍監。横田尹松(“ただまつ”の説もあり)が秘かに『形勢は圧倒的不利、出兵は止めるべき』とする内容の書状を送った事や、織田家と同盟を結ぶ交渉に支障を来す恐れがあると勝頼の判断に影響を及ぼした可能性もあった。
また、北陸方面でも動きがあった。天正八年十一月十七日。柴田勝家は一向一揆方と講和を結ぶべく、主導者である鈴木出羽守や若林長門守を松任城へ招いた。一向一揆方も本願寺の降伏で後ろ盾を失っており、閏三月には最大拠点である尾山御坊を失い白山麓の鳥越・二曲の二城に追い詰められていたのもあり、抵抗を続けるよりも良い条件で講和した方が得策と判断した。
しかし――講和は偽りで、松任城を訪れた鈴木出羽守・若林長門守以下十九名は謀殺。それと時を同じくして織田勢が鳥越・二曲城を急襲、指揮を執る者を欠いた一向一揆勢は織田勢の敵ではなく、二城は落城した。これにより、約百年に渡り続いた“百姓の持ちたる国”は終焉を迎えたのだ。戦後、加賀二郡は佐久間盛政に与えられ、尾山御坊の跡地に金沢城を築いて居城とした。
勝家が加賀平定を急いだ背景には、佐久間信盛や林秀貞の追放が絡んでいた。譜代の臣であろうと働きが鈍れば容赦なく捨てられ、おまけに勝家は元々信行の傅役を務め信長に刃を向けた過去がある。信盛追放で筆頭家老の座についた勝家だが、安穏としていられなかった。“次は自分だ”と捉えていてもおかしくない。
信忠自身、喜びと緊張を味わった天正八年は、ゆっくりと暮れ行くのであった……。
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