上 下
100 / 127

五 : 青葉 - (25) 筆頭家老追放

しおりを挟む
 天正八年八月二十五日。織田家に激震が走った。
 その日、岐阜城に居た信忠の元へ、父からある命令が出された。
『佐久間信盛を放逐した。その所領を接収せよ』
 安土から早馬で知らされた父の命に、信忠は困惑した。追放される理由に全く心当たりがないからだ。
 佐久間“右衛門尉うえもんのじょう”信盛と言えば信忠の祖父・信秀の代から織田家を支える重臣で、筆頭家老だ。信秀の死後、多くの有力な家臣が信行の側に付いたが信盛は一貫して信長を支えた。徳川家の折衝役を務めながら尾張衆を率いて各地を転戦。天正四年五月には原田直政の討死に伴い本願寺攻め担当の後任に据えられた。“退き佐久間”の異名を持ち、苦しい状況でも粘り強く戦う事に定評があった。
 つい先日の石山御坊の明け渡しでも引き渡し役を任され、その恩賞があってしかるべきと皆が考えていただけに、今回の処置は正しく青天の霹靂へきれきと言わざるを得ない。
 添えられた書状を読んで、信忠はさらに驚かされた。父が信盛に宛てた折檻せっかん状の写しで、その内容は以下の通りだ。
 いわく『信盛・信栄のぶひで父子は本願寺攻めで目立った成果を挙げていない』『戦もしなければ調略もしない、包囲していればいずくだるだろうと工夫をしなかった』『やり方がないなら自分(信長)に聞きに来ればいいのに、それすら怠った』『知行地を増やしてやったのに、自らの懐に溜め込むばかりで新たに人を雇ったり家臣に配ったりしなかった。言葉が出ない』『元亀三年の三方ヶ原の戦いでは、増援として派遣されながら一人の死者も出していない。平手汎秀ひろひでは討死している事を思えば、家康殿に対して面目が立たない』との叱責の言葉が並ぶ。『光秀は丹波を平らげた、秀吉も比類なき働きをしている、(池田)恒興は短期間で花隈城を落とした、勝家も越前一国の大身ながらその地位に甘んじることなく加賀へ攻め入った』と家臣達を引き合いに出しながら信盛の不甲斐なさを糾弾、『汚名をすすぐ為に目覚ましい成果を挙げるか、潔く討死すべきだ』『それも出来ないなら父子共々高野山に入り赦しを乞うべきだろう』と断罪した。全て合わせて十九ヶ条にも及ぶ折檻状からは、父の怒りが相当なものであることが窺える。
 折檻状を読み終えた信忠は嘆息たんそくを漏らした。
 確かに、信盛は本願寺攻めで積極的な攻勢に出ず調略を仕掛けるなど早期の決着に持っていく工夫を凝らさなかった。信盛の実績と実力を考えればもっと早く本願寺が降伏してきたと思う父の気持ちも分からなくもない。しかし、そもそも本願寺は堅牢な造りで力攻めをすれば相当数の死傷者を出すのは明白で、信仰という強い結び付きのある門徒や坊主達を内部から切り崩すのは困難だ。力攻めも調略も通じないのであれば、兵糧攻めで音を上げるのを根気強く待つしかないとする信盛の方針は自然だ。
 文中で『三十年の奉公で、“比類ない活躍をした”と思わせた事は一度もない』と非難しているが、他の重臣達と比べて信盛の働きが劣っていた訳ではない。元亀元年に浅井長政の離反により京と岐阜を繋ぐ南近江で旧六角勢が蜂起した際も、六月四日に野洲川流域にある落窪で信盛は柴田勝家と共に旧六角勢を打ち破っている。この勝利は金ヶ崎の敗走で情勢不安定になりかけていた南近江を落ち着かせるのに大きく寄与し、後の姉川の戦いにおける勝利に繋がった。他にも比叡山焼き討ちや伊勢長島・設楽原にも参加し、頭一つ抜けた活躍こそないが勝利に貢献している。出世頭しゅっせがしらの光秀や秀吉だって毎回目覚ましい働きをしている訳ではないので、“印象に残ってない”から“活躍してない”と断ずるのは違うと思う。
 信忠から見て、信盛は目に見えた成果こそ挙げていないが、縁の下の力持ちのように織田家を支えている認識だった。他の家臣達も同じように思っていることだろう。それにも関わらず追放の憂き目に遭ったのは……。
(……使えなくなった。または、目障りになった、か)
 父・信長は出自や門閥を問わず有能であれば積極的に登用してきた。言い換えれば、譜代の臣であろうと過去に輝かしい実績があろうと、使えないと判断すれば容赦なく切り捨てる。それこそ、弊履へいりのように。
 加えて、信盛は何かと父に諫言かんげんする事が多かった。元亀二年九月の比叡山焼き討ちの直前にも中止するよう訴えたし、恐らくは尾張にあった頃から無茶と思える戦をめるよう進言してきたに違いない。積もり積もった鬱憤が天正元年八月の折に爆発して“今年中に成果を挙げなければ所領没収”の最後通牒つうちょうを言い渡したのだろうが……七年が経っても父は許していなかった訳だ。吝嗇ケチだの何だの理由を挙げているが、結局のところは“大した働きもしてないにに意見ばかりしてくる図々しさに我慢の限界が来た”、そう捉えるのが一番しっくりくる。
 今回の仕置に、信忠は改めて首筋が寒くなる思いがした。
 長年織田家を支えてきた功労者にすらこの仕打ちなのだから、替わりが幾らでも居る自らの立場はもっと危うい。嫡男であっても常に成果を挙げ続けなければ廃嫡される。何より、あの父ならやりかねない。
 武田攻めに関して、父へ逐次報告し方針を確認しているので『進展が見られないから解任』と突然言われる事は今のところないだろう。しかし、問題なのは本格的に着手した時だ。少しでももたついたり思っていた成果を挙げられなかったらどうなるか……考えるだけでも恐ろしい。
 明日は我が身。そう肝に銘じる信忠だった。

 織田家から追放されてしまった信盛は、嫡男・信栄と数名の郎党を連れて高野山に上った。二年後の一月十六日、失意の内に信盛はこの世を去る。享年五十五。信盛の死後、信栄は織田家への帰参が許されて信忠付の家臣となっている。
 信盛の旧領は、三河刈谷城を含む旧水野信元領を信元の異母弟である水野忠重ただしげに与えられた他は信忠のものとなった。
 さらに、信盛の追放劇から数日と経たぬ内にさらなる衝撃が織田家に走る。重臣の林秀貞、家臣の丹羽氏勝、そして嘗ては“西美濃三人衆”の一人に挙げられた美濃の有力者である安藤守就もりなりも織田家から追放されたのだ。追放された理由は三人揃って『逆心ぎゃくしんを抱いたから』だが、秀貞に関しては“信行擁立に加担した”という三十年近く前の出来事を咎められたのは家中を震撼させた。古参の家臣の大半はあの当時信行方に属しており、それが追放理由に挙げられたのは恐怖でしかなかった。
 上記三名の旧領は全て信忠の領地となり、信盛の分と合わせて信忠は尾張・美濃国内で直轄領が増える結果となった。

 石山合戦の終結から暫くが経ち、論功行賞が行われた。
 丹波一国は明智光秀、播磨・但馬は羽柴秀吉(但し、播磨二郡・但馬七郡は秀吉の弟・秀長名義)、丹後半国は長岡藤孝、摂津は池田恒興にそれぞれ与えられた。また、八月に追放された家臣達の旧領は一部を除いて信忠に与えられている。
 畿内をほぼ掌握した織田家だが、天下布武に向けた歩みは止めない。
 まず、武田方面。同盟を結ぶ徳川家では遠江国内で唯一残っている武田方の高天神城を攻略すべく、五つの砦を新たに築き一つの砦を改修して八月までに計六つの砦で包囲。武田方の動きを監視すると共に、人や物の移動を厳しく制限した。
 天正八年十月、家康は五千の兵を率いて高天神城攻めに出陣。城は今川家旧臣・岡部元信が守っており、今川家を裏切った家康に恨みを抱いており戦意は極めて高かった。要害堅固な城に士気も高く勇猛な将兵が籠もっている事から、柵や鹿垣ししがきを設けた上で兵糧攻めにする事を決めた。
 城を徳川勢に囲まれた元信は直ちに甲斐の武田勝頼へ救援を求めたが、北条家との関係悪化で勝頼が大軍を率いて領地から離れた留守を突いて北条勢が侵攻してくる恐れがあった為、すぐには向かえなかった。また、元信の軍監。横田尹松ただとし(“ただまつ”の説もあり)が秘かに『形勢は圧倒的不利、出兵は止めるべき』とする内容の書状を送った事や、織田家と同盟を結ぶ交渉に支障をきたす恐れがあると勝頼の判断に影響を及ぼした可能性もあった。
 また、北陸方面でも動きがあった。天正八年十一月十七日。柴田勝家は一向一揆方と講和を結ぶべく、主導者である鈴木出羽守でわのかみや若林長門守を松任まっとう城へ招いた。一向一揆方も本願寺の降伏で後ろ盾を失っており、閏三月には最大拠点である尾山御坊を失い白山麓の鳥越・二曲ふとげの二城に追い詰められていたのもあり、抵抗を続けるよりも良い条件で講和した方が得策と判断した。
 しかし――講和は偽りで、松任城を訪れた鈴木出羽守・若林長門守以下十九名は謀殺。それと時を同じくして織田勢が鳥越・二曲城を急襲、指揮を執る者を欠いた一向一揆勢は織田勢の敵ではなく、二城は落城した。これにより、約百年に渡り続いた“百姓の持ちたる国”は終焉を迎えたのだ。戦後、加賀二郡は佐久間盛政に与えられ、尾山御坊の跡地に金沢城を築いて居城とした。
 勝家が加賀平定を急いだ背景には、佐久間信盛や林秀貞の追放が絡んでいた。譜代の臣であろうと働きが鈍れば容赦なく捨てられ、おまけに勝家は元々信行の傅役を務め信長に刃を向けた過去がある。信盛追放で筆頭家老の座についた勝家だが、安穏あんのんとしていられなかった。“次は自分だ”と捉えていてもおかしくない。
 信忠自身、喜びと緊張を味わった天正八年は、ゆっくりと暮れくのであった……。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

日本列島、時震により転移す!

黄昏人
ファンタジー
2023年(現在)、日本列島が後に時震と呼ばれる現象により、500年以上の時を超え1492年(過去)の世界に転移した。移転したのは本州、四国、九州とその周辺の島々であり、現在の日本は過去の時代に飛ばされ、過去の日本は現在の世界に飛ばされた。飛ばされた現在の日本はその文明を支え、国民を食わせるためには早急に莫大な資源と食料が必要である。過去の日本は現在の世界を意識できないが、取り残された北海道と沖縄は国富の大部分を失い、戦国日本を抱え途方にくれる。人々は、政府は何を思いどうふるまうのか。

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

大日本帝国、アラスカを購入して無双する

雨宮 徹
歴史・時代
1853年、ロシア帝国はクリミア戦争で敗戦し、財政難に悩んでいた。友好国アメリカにアラスカ購入を打診するも、失敗に終わる。1867年、すでに大日本帝国へと生まれ変わっていた日本がアラスカを購入すると金鉱や油田が発見されて……。 大日本帝国VS全世界、ここに開幕! ※架空の日本史・世界史です。 ※分かりやすくするように、領土や登場人物など世界情勢を大きく変えています。 ※ツッコミどころ満載ですが、ご勘弁を。

渡世人飛脚旅(小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品で)

牛馬走
歴史・時代
(小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品で)水呑百姓の平太は、体の不自由な祖母を養いながら、未来に希望を持てずに生きていた。平太は、賭場で無宿(浪人)を鮮やかに斃す。その折、親分に渡世人飛脚に誘われる。渡世人飛脚とは、あちこちを歩き回る渡世人を利用した闇の運送業のことを云う――

三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地~ 家族愛の三国志大河

墨笑
歴史・時代
『家族愛と人の心』『個性と社会性』をテーマにした三国志の大河小説です。 三国志を知らない方も楽しんでいただけるよう意識して書きました。 全体の文量はかなり多いのですが、半分以上は様々な人物を中心にした短編・中編の集まりです。 本編がちょっと長いので、お試しで読まれる方は後ろの方の短編・中編から読んでいただいても良いと思います。 おすすめは『小覇王の暗殺者(ep.216)』『呂布の娘の嫁入り噺(ep.239)』『段煨(ep.285)』あたりです。 本編では蜀において諸葛亮孔明に次ぐ官職を務めた許靖という人物を取り上げています。 戦乱に翻弄され、中国各地を放浪する波乱万丈の人生を送りました。 歴史ものとはいえ軽めに書いていますので、歴史が苦手、三国志を知らないという方でもぜひお気軽にお読みください。 ※人名が分かりづらくなるのを避けるため、アザナは一切使わないことにしました。ご了承ください。 ※切りのいい時には完結設定になっていますが、三国志小説の執筆は私のライフワークです。生きている限り話を追加し続けていくつもりですので、ブックマークしておいていただけると幸いです。

武蔵要塞1945 ~ 戦艦武蔵あらため第34特別根拠地隊、沖縄の地で斯く戦えり

もろこし
歴史・時代
史実ではレイテ湾に向かう途上で沈んだ戦艦武蔵ですが、本作ではからくも生き残り、最終的に沖縄の海岸に座礁します。 海軍からは見捨てられた武蔵でしたが、戦力不足に悩む現地陸軍と手を握り沖縄防衛の中核となります。 無敵の要塞と化した武蔵は沖縄に来襲する連合軍を次々と撃破。その活躍は連合国の戦争計画を徐々に狂わせていきます。

剣客逓信 ―明治剣戟郵便録―

三條すずしろ
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞:痛快! エンタメ剣客賞受賞】 明治6年、警察より早くピストルを装備したのは郵便配達員だった――。 維新の動乱で届くことのなかった手紙や小包。そんな残された思いを配達する「御留郵便御用」の若者と老剣士が、時に不穏な明治の初めをひた走る。 密書や金品を狙う賊を退け大切なものを届ける特命郵便配達人、通称「剣客逓信(けんかくていしん)」。 武装する必要があるほど危険にさらされた初期の郵便時代、二人はやがてさらに大きな動乱に巻き込まれ――。 ※エブリスタでも連載中

土方歳三ら、西南戦争に参戦す

山家
歴史・時代
 榎本艦隊北上せず。  それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。  生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。  また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。  そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。  土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。  そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。 (「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です) 

処理中です...