信忠 ~“奇妙”と呼ばれた男~

佐倉伸哉

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五 : 青葉 - (24) 決着と新たなる敵

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 北陸方面では加賀国の平定も目前に迫っていたが、その先にある能登国でも動きがあった。
 天正六年十月に越中国中部を織田方が制すると、越後と分断された能登国内でも変化が現れた。上杉家の影響力が低下したのを好機と捉えた遊佐続光や温井ぬくい景隆かげたか・三宅長盛ながもり兄弟など畠山家旧臣が結託し、天正七年九月に守将の鰺坂あじさか長実ながざねなど上杉勢を七尾城から放逐。能登は再び旧畠山家家臣団のものとなった。
 一方で、ちょう一族の生き残りである孝恩寺こうおんじ宗顒そうぎょうは再起を図るべく天正六年八月に五百の兵を率いて穴水城を奪取すると、ここを拠点に反撃を開始。同年十一月に上杉勢の猛攻に遭い一時越中へ逃れたが、態勢を立て直して再侵攻。天正八年一月十日に名を“長連龍つらたつ”と改めた連龍は五月五日に飯山いいやまで、六月九日には菱脇ひしわきでそれぞれ旧畠山勢を撃破。劣勢に立たされた旧畠山勢は七尾城を差し出して信長に降伏した。一族郎党を皆殺しにされた連龍は戦を続けたかったが、信長から鹿島かしま郡半分と福永城を恩賞として与えられて不承不承ながら矛を収めた。
 こうして能登国は織田家のものとなったが、天正五年の七尾城落城に関わった者達は依然健在だ。元々は反織田派で形勢が悪くなればコロコロと態度を変える向背定まらぬ連中に、信長の心象は極めて悪かった。心を許してない信長は、その者達の対処をどうするか検討していた。

 紀伊国にある高野山は、戦国期にあって特殊な地だった。
 高野山金剛峯寺こんごうぶじは真言宗の開祖・空海(弘法大師こうぼうだいし)が真言密教の道場として建てたのが始まりとされ、以来比叡山延暦寺と双璧を成す仏教の聖地だ。山全体が境内とされ、修行の地であると同時に高野山で暮らす者達が生活する一大拠点として知られた。その一方、高野山は紀伊国内外に寺領を持ち、その石高は十七万石と大名に匹敵する規模を誇った。それに加えて三万を超える僧兵を抱えており、武家勢力も容易に手が出せなかった。
 特殊である所以ゆえんは他にもある。高野山に上った者は、世俗でどんなに罪を重ねていようと捕縛される事はなかった。高野山に上るには“肉食にくじき禁止”“女人禁制”“遊芸にまつわる鳴り物の禁止”“鶏・猫の飼育禁止”の四点を遵守する必要があり、上る行為自体が贖罪しょくざいに等しいと見做みなされた。高野山は帝の意向もあって建立された経緯があり、守護不入の状態が長きに渡り続いた。
 言わば“駆け込み寺”のような位置付けの高野山だが、織田家はここに介入を試みた。
 天正八年七月。有岡城の荒木家残党五名が高野山に逃げ込んだとする情報を掴んだ信長は、前田利家・不破光治を使者に立てて引き渡しを求めた。しかし、高野山側は面会を拒み、已む無く二人は帰った。翌八月、松井友閑配下の者三十二名を高野山に送ったところ、何と全員が高野山の者達によって殺されてしまったのだ! 高野山側は「織田方の者が乱暴狼藉を働いた」として正当防衛を主張するも、明らかな敵対行為に激怒した信長は対抗措置として領内を行き来する高野聖こうやひじりの捕縛を命じた。高野聖は勧進(現代で言う募金)の為に諸国を渡り歩く僧侶であるが、中には高野聖に化けた間者や野盗まがいの行いをする不届き者もり、一部で『高野聖に宿貸すな 娘とられて恥かくな』と注意喚起されていた程である。信長はこの機に乗じて報復も兼ねて不逞の輩を一掃せんと考えた。
 この後も高野山側と荒木家残党の引き渡しについて交渉が行われたが、協議は平行線を辿った。並の大名家を超える戦力と規模を有する高野山の存在は天下布武を目指す信長の障壁になりかねず、今回の一件は高野山の排除を真剣に検討を始めるキッカケとなった。

 顕如が去った後の石山御坊に立て籠もった教如率いる本願寺方だったが、開戦当初から兵糧や弾薬は不足気味で大半の兵は石山から去っていたのもあり、攻勢に出られなかった。そうこうしている間に荒木村重が籠もる花隈城は小競り合いから本格的な城攻めへ発展し、天正八年七月二日に落城。村重は足利義昭が居る備後鞆へ落ち延びた。花隈城の落城により、石山御坊は完全に孤立してしまった。
 これ以上の無益な争いを望まない朝廷は、本願寺と関わりのある近衛前久さきひさを派遣。厳しい状況を理解していた教如は前久の説得に応じ、八月二日に大坂から全ての将兵が退去した。無人となった石山御坊は朝廷の勅使・松井友閑・佐久間信盛に引き渡された。この結果、元亀元年九月から約十年に渡り繰り広げられてきた石山合戦は終結を迎えた。
 しかし……話はこれで終わらない。
 引き渡しが完了して間もなく、石山御坊の建物から突如出火。懸命の消火活動が行われたが火の勢いは衰えず、三日三晩に渡り燃え続けた。八月五日、建物を完全に燃え尽くしてようやく鎮火した。この火事について『信長公記』では“松明たいまつの火が風にあおられて燃え移った”、『多聞院日記』では“教如方による放火”としているが、実際のところは分からない。いずれにせよ、後味の悪い結末だった。
 大坂を出た教如は父・顕如の居る鷺森さぎのもりへ移ったが、法主である顕如の決定に反して抗戦したのもあり教如は鷺森を退去して各地を転々とする事となる。一方、堅牢な石山御坊を明け渡し、加賀の一向一揆勢力も縮小していく中で、本願寺自体の影響力も低下していく。この結果、一向一揆そのものが激減し、宗教勢力が主導して武家に対抗する事は無くなっていくのである。
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