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四 : 根張 - (9) 謙信西上
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天正五年閏七月中旬。信忠は父に呼ばれて安土に赴いた。
これまで幾度か安土を訪れているが、来る度に景色が変わっている。父が“壮大な”“誰も見た事が無い”と表現していた城の全容が、着工から一年半が経ち少しずつ見え始めてきた。
安土山全体を城に造り替えるべく、山肌は切り開かれて斜面全体に石垣が積まれていた。この当時、城の守りに土塁を築く事はあっても石垣を築くのはまだ極めて稀であった。石を積むだけでも相当な技術が必要で、簡単に崩れない頑丈で人の侵入を阻む程の高さの石垣を組むのは非常に難しかったからだ。信長は山の斜面を覆うように石垣を組む構想を立て、それを実現させたのが“穴太衆”だった。
穴太衆は比叡山の山麓にある穴太を拠点とする石工集団で、延暦寺や日吉大社など寺社を対象に石仏を彫ったり石垣を組んだりしていた。その高い技術力に着目した信長が、今回の事業の為に仕事を依頼したのだ。穴太衆は自然の石を加工せず積んでいき、間に小さい石を挟ませて強度を保たせた。結果、安土山の周りをグルリと囲むように石垣が組まれ、その見た目の美しさは正しく壮観と言えた。
山頂付近にも石垣が組まれ、天主の建築が進められていた。
そもそも“天守”と呼ばれる高層建造物が城に築かれるようになったのは、まだ歴史が浅い。今年六月に解体されたが永禄七年に松永久秀が築いた多聞山城が最初と言われる(摂津の伊丹城が最古とする説もある)。天守は高所から城の内外を見渡せる事から軍事施設の機能を主としているが、遠くからでも天守が見える事から城・大名家の象徴的意味合いも含まれていた。それを信長は天下人に相応しい壮大な規模にし、名前も“天守”ではなく“天主”と呼んで権力的な色合いがより濃いものにしようとした。
あちこちで槌音が聞こえる中、信忠は父が待つ屋敷へ向かう。
部屋に案内されると、上座で脇息に肘を置く父が待っていた。その表情は、やや固い。良い話ではなさそうだ。
信忠が座るなり、父はすぐに本題を切り出した。
「畠山家から遣いが来た。謙信が再び能登へ攻めてきたらしい」
北条家の北関東侵攻で一度は兵を引いた謙信だが、仕置を済ませると閏七月に再び能登へ向け出陣した。この動きを察知した長続連は奪還した城を放棄し、領民を半強制的に七尾城へ収容して徹底抗戦の構えを見せた。そして、畠山家単独で上杉勢に対処するのは困難と判断した続連は三男で僧の孝恩寺宗顒(後の長続龍)を安土へ派遣、織田家に援軍を要請したのだ。
まだ上杉家と直接戦いたくない信長だったが、能登が落ちればその先にある加賀・越前へ版図を拡げるのは明白だ。宗顒の求めに応じ、七尾城へ援軍を送る事を決めた。
「権六(柴田勝家)だけでは足りぬだろうから、五郎左(丹羽長秀)や猿(羽柴秀吉)なども越前へ送る。美濃からも兵を出す。新五郎(斎藤利治)を借りるぞ」
「承知致しました。……私も出陣の支度をした方がよろしいでしょうか?」
信忠が訊ねると、父は「その必要はない」と言い切った。
「上杉も怖いが武田も気になる。上杉が能登へ攻め込んでいる間に武田が美濃へ侵攻してくる事も考えられる。……謙信が越前へ入ったら俺が出る。その時は改めて出陣の下知をするが、それまでは武田の動きを見張れ」
「はっ」
今回の援軍に送られる者は、比較的自由に動ける者ばかりだ。丹波への再出兵に備える明智光秀や石山本願寺の動きを監視している佐久間信盛・荒木村重は外されている。信忠も武田家の動向が分からなかった為に援軍の中に含まれなかった。
ただ、武田勝頼は同時期に徳川家康が攻めた高天神城の救援の為に、閏七月十九日に遠江へ出陣。十月二十五日に撤収するまで約三カ月の間遠江に留まった。信長の懸念は杞憂に終わった形だ。
各将は兵を整え、越前へ向けて順次出立する。全軍が揃った段階で、柴田勝家を総大将とする四万の軍勢は八月八日に北ノ庄から七尾へ向けて出陣した。
しかし……上杉謙信による七尾城攻めを引き金に平穏だった畿内に一石を投じる事件が起こるとは、この時の信忠も信長もまだ知らなかった。
領民を城内に収容して上杉勢に徹底抗戦の姿勢を鮮明にした畠山勢だったが、一つ誤算があった。
将兵だけでなく非戦闘員を含めて約一万五千の人が七尾城に籠もった事で、屎尿処理が追い付かなかったのだ。兵糧も潤沢で飲み水の心配も無かったので籠城戦に自信があったが、糞尿が城内に放置される事態となり、疫病が発生。その影響で病に苦しむ人が続出し、戦で死ぬ者より病で命を落とす者の方が遥かに多い程だった。
この余波は身分の上下に関係なく、畠山家当主の春王丸も襲った。病に侵された春王丸は懸命の治療も空しく閏七月二十三日に病死。春王丸の死去により能登畠山家は十二代で断絶となった。幼君ではあるが畠山家の旗頭だった春王丸の死に、将兵の士気は著しく低下した。
八月八日に織田勢の大軍が北ノ庄を出発したが、翌九日には謙信の元に伝わる事となった。上杉家には“軒猿”と呼ばれる優れた忍び集団を抱えており、情報収集や諜報活動で謙信を支えていた。謙信は協力関係にある加賀の一向一揆勢に織田勢の進軍を妨害するよう要請、自らも七尾城を一刻も早く落とすべく攻勢を強めた。
主君の死に意気消沈する畠山勢だが、それでも『謙信の侵攻さえ無ければ主君は死ななかった』と粘り強く抵抗を続けた。開戦から一月以上が経過してもまだ落ちてないのは、畠山勢の奮闘に他ならない。織田勢の援軍が向かっているという情報はまだ城方の耳に届いていなかったが、四万の軍勢は戦局を大きく変えるだけの価値は十分にあった。
その織田勢は加賀に入ると一向一揆勢の激しい抵抗に遭い、進軍速度がなかなか上がらなかった。七尾城が落ちれば上杉勢は後顧の憂いなく南へ兵を進められる。それだけは何が何でも避けたかった。
北陸方面で今後の行方を占う戦が繰り広げられる中、遠く離れた畿内で突如事件が起きる。
松永久秀・久通父子、造反――上杉勢の動向を注視していた織田家に激震が走った!
これまで幾度か安土を訪れているが、来る度に景色が変わっている。父が“壮大な”“誰も見た事が無い”と表現していた城の全容が、着工から一年半が経ち少しずつ見え始めてきた。
安土山全体を城に造り替えるべく、山肌は切り開かれて斜面全体に石垣が積まれていた。この当時、城の守りに土塁を築く事はあっても石垣を築くのはまだ極めて稀であった。石を積むだけでも相当な技術が必要で、簡単に崩れない頑丈で人の侵入を阻む程の高さの石垣を組むのは非常に難しかったからだ。信長は山の斜面を覆うように石垣を組む構想を立て、それを実現させたのが“穴太衆”だった。
穴太衆は比叡山の山麓にある穴太を拠点とする石工集団で、延暦寺や日吉大社など寺社を対象に石仏を彫ったり石垣を組んだりしていた。その高い技術力に着目した信長が、今回の事業の為に仕事を依頼したのだ。穴太衆は自然の石を加工せず積んでいき、間に小さい石を挟ませて強度を保たせた。結果、安土山の周りをグルリと囲むように石垣が組まれ、その見た目の美しさは正しく壮観と言えた。
山頂付近にも石垣が組まれ、天主の建築が進められていた。
そもそも“天守”と呼ばれる高層建造物が城に築かれるようになったのは、まだ歴史が浅い。今年六月に解体されたが永禄七年に松永久秀が築いた多聞山城が最初と言われる(摂津の伊丹城が最古とする説もある)。天守は高所から城の内外を見渡せる事から軍事施設の機能を主としているが、遠くからでも天守が見える事から城・大名家の象徴的意味合いも含まれていた。それを信長は天下人に相応しい壮大な規模にし、名前も“天守”ではなく“天主”と呼んで権力的な色合いがより濃いものにしようとした。
あちこちで槌音が聞こえる中、信忠は父が待つ屋敷へ向かう。
部屋に案内されると、上座で脇息に肘を置く父が待っていた。その表情は、やや固い。良い話ではなさそうだ。
信忠が座るなり、父はすぐに本題を切り出した。
「畠山家から遣いが来た。謙信が再び能登へ攻めてきたらしい」
北条家の北関東侵攻で一度は兵を引いた謙信だが、仕置を済ませると閏七月に再び能登へ向け出陣した。この動きを察知した長続連は奪還した城を放棄し、領民を半強制的に七尾城へ収容して徹底抗戦の構えを見せた。そして、畠山家単独で上杉勢に対処するのは困難と判断した続連は三男で僧の孝恩寺宗顒(後の長続龍)を安土へ派遣、織田家に援軍を要請したのだ。
まだ上杉家と直接戦いたくない信長だったが、能登が落ちればその先にある加賀・越前へ版図を拡げるのは明白だ。宗顒の求めに応じ、七尾城へ援軍を送る事を決めた。
「権六(柴田勝家)だけでは足りぬだろうから、五郎左(丹羽長秀)や猿(羽柴秀吉)なども越前へ送る。美濃からも兵を出す。新五郎(斎藤利治)を借りるぞ」
「承知致しました。……私も出陣の支度をした方がよろしいでしょうか?」
信忠が訊ねると、父は「その必要はない」と言い切った。
「上杉も怖いが武田も気になる。上杉が能登へ攻め込んでいる間に武田が美濃へ侵攻してくる事も考えられる。……謙信が越前へ入ったら俺が出る。その時は改めて出陣の下知をするが、それまでは武田の動きを見張れ」
「はっ」
今回の援軍に送られる者は、比較的自由に動ける者ばかりだ。丹波への再出兵に備える明智光秀や石山本願寺の動きを監視している佐久間信盛・荒木村重は外されている。信忠も武田家の動向が分からなかった為に援軍の中に含まれなかった。
ただ、武田勝頼は同時期に徳川家康が攻めた高天神城の救援の為に、閏七月十九日に遠江へ出陣。十月二十五日に撤収するまで約三カ月の間遠江に留まった。信長の懸念は杞憂に終わった形だ。
各将は兵を整え、越前へ向けて順次出立する。全軍が揃った段階で、柴田勝家を総大将とする四万の軍勢は八月八日に北ノ庄から七尾へ向けて出陣した。
しかし……上杉謙信による七尾城攻めを引き金に平穏だった畿内に一石を投じる事件が起こるとは、この時の信忠も信長もまだ知らなかった。
領民を城内に収容して上杉勢に徹底抗戦の姿勢を鮮明にした畠山勢だったが、一つ誤算があった。
将兵だけでなく非戦闘員を含めて約一万五千の人が七尾城に籠もった事で、屎尿処理が追い付かなかったのだ。兵糧も潤沢で飲み水の心配も無かったので籠城戦に自信があったが、糞尿が城内に放置される事態となり、疫病が発生。その影響で病に苦しむ人が続出し、戦で死ぬ者より病で命を落とす者の方が遥かに多い程だった。
この余波は身分の上下に関係なく、畠山家当主の春王丸も襲った。病に侵された春王丸は懸命の治療も空しく閏七月二十三日に病死。春王丸の死去により能登畠山家は十二代で断絶となった。幼君ではあるが畠山家の旗頭だった春王丸の死に、将兵の士気は著しく低下した。
八月八日に織田勢の大軍が北ノ庄を出発したが、翌九日には謙信の元に伝わる事となった。上杉家には“軒猿”と呼ばれる優れた忍び集団を抱えており、情報収集や諜報活動で謙信を支えていた。謙信は協力関係にある加賀の一向一揆勢に織田勢の進軍を妨害するよう要請、自らも七尾城を一刻も早く落とすべく攻勢を強めた。
主君の死に意気消沈する畠山勢だが、それでも『謙信の侵攻さえ無ければ主君は死ななかった』と粘り強く抵抗を続けた。開戦から一月以上が経過してもまだ落ちてないのは、畠山勢の奮闘に他ならない。織田勢の援軍が向かっているという情報はまだ城方の耳に届いていなかったが、四万の軍勢は戦局を大きく変えるだけの価値は十分にあった。
その織田勢は加賀に入ると一向一揆勢の激しい抵抗に遭い、進軍速度がなかなか上がらなかった。七尾城が落ちれば上杉勢は後顧の憂いなく南へ兵を進められる。それだけは何が何でも避けたかった。
北陸方面で今後の行方を占う戦が繰り広げられる中、遠く離れた畿内で突如事件が起きる。
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(2022.04.04)
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