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三 : 萌芽 - (18) 忠次の献策

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 五月十六日に岡崎城を出発した約三万八千の織田・徳川連合軍は、二日後の十八日に長篠城の近くにある設楽原したらがはらに布陣した。設楽原は見通しの良い平たい土地ではなく、小川や起伏のある地形だった。信長は南北に馬防柵を三重に設け、武田勢との決戦に備えて作事を急がせた。
 対する武田勢。落城までもう少しというところまで攻めているものの、強右衛門が自らの命を引き換えにもたらした情報で奮い立った城方の凄まじい抵抗に遭い、攻略の目途が立たなかった。敵の援軍がすぐそこまで迫っている状況に、先代信玄の頃から武田家を支える重臣の山県昌景・馬場信春・内藤昌秀などは形勢が悪いので撤退を進言したが、勝頼は重臣達の意見をしりぞけて戦いを続行する事を決めた。織田・徳川連合軍の数が約二倍でも、精悍な兵に“戦国最強”と謳われた騎馬隊、一騎当千の経験豊富な将が揃っている武田勢なら勝てると勝頼は考えていた。また、勝頼の代になってから東美濃や高天神城の勝利を収めた事が勝頼の判断の後押しになった。
 設楽原に布陣した後も武田勢の動向を探っていた信長だが、引き揚げる様子を見せなかった事から戦になると自信を深めた。引き続き武田勢の動きを注視しつつ、陣地の構築を急がせた。

 五月二十日の夜、極楽寺山に構えた織田家の本陣で、織田・徳川家合同の軍議が開かれた。信忠もこの中に加わっている。
 その席で、徳川家の筆頭家老・酒井忠次が発言を求めた。
「一つ、提案したき儀がございます」
 この申し出に父・信長は黙って頷くと、忠次は持参した絵図を陣卓子じんたくしに広げてから話し始める。
「武田勢は、我等の接近で大半の兵をこちらへ移しております。一方、長篠城には押さえの兵を残しておりますが、物見の調べではそう多くないと報告が上がっております」
 忠次が指摘した内容は、信忠も把握していた。医王寺山に本陣を構えた武田勝頼だが、織田・徳川連合軍が設楽原に布陣するのを確認して城攻めから野戦に変更する動きが見られた。倍以上の相手でも勝てると勝頼は考えているみたいだが、こちらとしては損害が大きくなるのを避けて撤退される方が好ましくなかったので、その点ではホッとしている。
 全員が知っていると判断した忠次は、さらに続ける。
「長篠城は鳶ヶ巣山とびがすやま砦を中心に中山砦・久間山ひさまやま砦・姥ヶ懐うばがふところ砦・君ヶ臥所きみがふしど砦の支砦を含めた五つで包囲する形となっております。しかし、物見の調べでは、それぞれの砦に数百程度の兵しか居ない事が分かりました。そこで――」
 一度そこで言葉を区切った忠次は、持っていた扇子で設楽原を指す。
「別動隊を南から迂回させ、武田方の砦を背後から同時に急襲。鳶ヶ巣山砦を始めとした五つの砦を落とせば、我々の第一目標である長篠城解放が達成されるだけでなく、設楽原に進出した武田勢の退路をおびやかす事も出来ます」
 自信を感じさせるように、はっきりと言い切る忠次。信忠も、提案された策は非常に魅力的と感じた。今回の出兵で目的の一つは武田勢に包囲されている長篠城の救出で、もしも忠次の策が成功すれば武田勢との決戦を前に目的を達成出来る上に、背後に敵が現れた武田勢の動揺を誘えるかも知れない。やってみるだけの価値はあるように、信忠は思えた。
 この場に同席する織田・徳川の家臣達も信忠と同じ考えらしく、うんうんと頷く者も見られる。その反応を確かめてから、忠次は父の方に体を向けた。
「武田勢も我等の動きを注視している事でしょうから、砦への奇襲は頭に入ってない筈。そこで、上総介様にお願いがございます。奇襲の許可と、幾許いくばくかの兵をお貸し願えないでしょうか?」
 長篠城を包囲する五つの砦を同時に攻めるとなれば、ある程度の兵数が必要となる。徳川の軍勢は八千、設楽原の武田本軍と戦う為に一定数の兵を残さなければならず、この作戦を実行するには織田方の協力が不可欠だった。
 ただ、成功する可能性が高い上に、与える影響も大きい。これは忠次の申し出を受けるべきだと信忠は考えたし、他の織田家家臣達も同意見だった。
 しかし――。
「ならん」
 険しい表情で、父は端的に一言。皆は受け入れるとばかり思っていただけに、困惑の色が広がる。
「……何故なにゆえしりぞけられたか、訳をお聞かせ願えないでしょうか」
 自らの策に絶対の自信があった忠次が、父に食い下がる。
 これが織田家内の軍議なら「黙って俺の言う通りにしろ」と封じるか、食い下がろうとした者へ鉄拳や物が飛んでくるだろう。しかし、相手は同盟関係にある徳川家の筆頭家老。邪険に扱う訳にもいかず、眉間をややひくつかせながら答えた。
「今回の戦は、宿敵武田と雌雄を決する為に行われるものだ。そのような小細工をろうする必要など、ない」
 けんもほろろに切って捨てる父の言葉に、場の雰囲気は重苦しいものになる。
 確かに、武田家との決戦を前に奇襲が失敗すれば、兵を損じる以上に心象が悪くなる。ただでさえ武田勢の強さは末端の兵まで知れ渡っているのに奇襲を仕掛けて負けるような事があれば、その印象はより深めてしまう。実体以上に強い印象を抱いた場合、通常よりも恐怖や緊張を招くなど弊害しか生まない。前哨戦で負けて本戦の士気を低下させては元も子もない、という父の考え方も分からなくもない。
 でも、忠次が自信を持って薦めてきた策を父が“小細工”と一刀両断したのはいかがなものか、と信忠は思う。忠次は徳川家を長年支えてきた功臣で、今回の策を提案してきたのも成功する可能性が極めて高いと踏んだから進言してきたに違いない。却下するにしても、もっとマシな言い方が出来ないものかと思う。あれでは忠次の面子は丸潰れだ。
「……軍議は以上だ」
 誰からも発言が上がらず、父はそう告げると席を立った。家康も複雑な表情を浮かべながら父の後を続く。
 主君二人が退席したのを見届け、両家の家臣達も次々と去っていく。その表情は皆一様に、固い。提案を斥けられた忠次は、自らの席に腰掛けて顔を落としている。ただ一人異なるのは……信忠の向かいに座る信康。歯をグッと噛み締め、怒りを懸命に押し殺していた。織田家と徳川家は対等である筈なのに、父・信長の態度は明らかに冷たく礼節に欠けていた。加えて、そのような振る舞いを見せた父・信長に対して家康は批判も抗議もしなかった事に、信康は苛立ちを覚えたのだろう。日頃から織田家へ物申さない家康の姿勢に少なからず不満を抱いている信康からすれば、自らの父を“織田の腰巾着”と思っていても不思議でない。
 信忠はやや気まずい思いをしながら、席を立った。場を離れた後、背後から床机しょうぎを蹴り飛ばしたと思われる音が聞こえてきた。

 自らの陣に戻ってからも、信忠はモヤモヤとした感じが続いていた。どれだけ考えても、忠次の策は試すだけの価値があるとしか思えない。悩んだ末、信忠は父に再考を求めるべく直談判しようと決めた。あの父が他人から何か言われて一度決めた事を変えるとは思えないが、一言言わないと自分の中で気が収まらなかった。
 夜更け、父の陣を訪ねたが、近習から会談中である旨を伝えられた。それを聞いた信忠は「家中にも同じ考えの者が居たか」程度にしか思わなかった。先客が居るので信忠も待つことにした。
 暫くして、会談が終わったみたいで中から誰か出てきた。その顔を見た信忠は、思わずギョッとした。
(左衛門尉殿――!?)
 驚きで目を剥く信忠に、やや強張った顔で軽く会釈した忠次はそのまま人目を気にするように去って行った。同盟相手の徳川家の筆頭家老、しかも先程の軍議では自らの策を斥けられた忠次が、どうしてこんな夜更けに織田の本陣に? 訳が分からないまま、父の前へ通された。
「……勘九郎か」
 信忠の顔を見た父は、少し意外そうな表情をした。
 対面する形で座った信忠は、まず気になった事について切り出した。
「上様。たった今、左衛門尉様とすれ違いましたが、一体どういう話をなされたのですか?」
 やはり聞くべきは、忠次についてだ。先程の軍議で取り付く島もなく忠次の策を却下しており、その当事者が人目を憚るように織田の本陣へ現れたとなれば、忠次が直談判に来たと普通なら考える。回答次第では織田・徳川の同盟関係に亀裂が入りかねず、信忠としては訊ねておかなければならなかった。
 信忠の問いに対し、父の表情に変化は見られない。少しの間無言だったが、やがて観念したように一つ息を吐いた。
「……近う」
 手招きされて体を寄せた信忠に、父は声を落として「他言無用ぞ」と前置きしてから明かしてくれた。
「この後、武田方の砦へ奇襲を仕掛ける。大将は、左衛門尉」
 父の言葉に、信忠は仰天した。『小細工を弄する必要はない』と断じた策を、前言を翻してまで採用するとは思ってもいなかった。
「では、我が方からも兵を出すのですか?」
「うむ。五郎八ごろはちを目付に、二千の兵をつける段取りを今している。この手勢には五百の鉄砲も持たせる」
 金森“五郎八”可近ありちか。大永四年(一五二四年)生まれで五十二歳。天文十年に織田信秀に仕官し、その跡を継いだ信長にも引き続き仕えた。比較的若い年齢の多い織田家の家臣団にあって可近はかなりの年長者で、永禄二年に信長が八十名という少人数で上洛した折にも同行者の一人に選ばれている。美濃攻めで武功を挙げたことから赤母衣衆に抜擢された。以後、信長の近臣として支えていた。
「徳川家の方でも精鋭二千の兵がいつでも出れるよう準備していると言っていた。成功は、まず間違いない」
 総勢八千から四分の一の兵をこの奇襲作戦に割いたのは、長篠城を是が非でも救いたい家康の強い思いが透けて見える。そして、父も虎の子の鉄砲を五百挺もこの作戦に投入する辺り、奇襲の本気度が窺い知れる。
 これは信忠の推測だが、父は当初から忠次の策に乗り気だったのではないか。そうでなければ、軍議が終わってから短時間で四千の兵が出撃出来る準備を整えるなんて、有り得ない。
 こちらの考えを察した父は、さらに付け加えた。
「最初にあの策を聞いた時から、理に適っていると思っていた。が、武田の間者がどこに潜んでいるか分からん。だからあのような形で突っ撥ねて、軍議が終わってから秘かに呼び寄せて真意を明かした次第だ」
 岡崎城での軍議もそうだったが、武田の間者が紛れ込んでいる可能性があるのを前提に父は行動し発言していた。徹頭徹尾敵に情報を与えない姿勢を貫く為なら、味方をあざむく事を厭わない。信忠は内心舌を巻く思いだ。
 そこまで話すと、父は用が済んだとばかりに立ち上がった。去り際、信忠へポツリと漏らした。
「……そういう訳だから、早く帰って休むがよい。明日は新たな戦になるから、しかと目に焼きつけよ」
 言い終わるなり父はサッと下がっていった。ただ、信忠は父が珍しく口数が多かった事から、顔には出さないが気持ちはたかぶっているのかも知れない、と思った。

 酒井忠次を大将とする手勢四千の奇襲部隊は、南へ迂回し翌二十一日の夜明けと共に鳶ヶ巣山砦を始めとする五つの砦へ一斉に襲い掛かった。ほぼ同時に開始された攻撃に人数で劣る武田方も対処の仕様がなく、五つの砦は全て陥落した。さらに、砦を落とした勢いのまま奇襲部隊は有海原に居た武田の別動隊にも攻め掛かった。この動きに長篠城の奥平勢も門を開いて打って出たことから武田勢は挟み撃ちとなり、長篠城に押さえで残されていた武田勢の掃討に成功した。
 これにより、武田勢に包囲されていた長篠城の奥平勢を救出するという当初の目的を達成しただけでなく、設楽原に進出した勝頼率いる武田本軍の退路をおびやかす事が出来た。対する武田方は砦を守っていた勝頼の叔父・河窪信実のぶざねを始めとする多くの将兵が討死、有海原に滞陣していた高坂こうさか昌澄まさずみ(重臣・春日虎綱の嫡男)が討たれるなど、大打撃を受けた。勝頼としては目の前に陣取る織田・徳川連合軍に勝つ以外に活路を見出せない状況に追い込まれた。
 戦後、この奇襲戦で功が大きかったと信長は忠次を褒め讃え、目付として戦に加わった可近も武功があったとして信長の“長”の字を与えられて“長近”と名を改めた。決戦を前に目的を果たした別動隊の役割を信長が高く評価していたことが、この対応から伝わってくると思う。
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