53 / 127
三 : 萌芽 - (17) 強右衛門
しおりを挟む
翌日の五月十五日。信忠は伝兵衛を連れて岡崎城内の陣中を視察した。
兵達は戦に備え、準備に追われていた。特に目についたのは、消耗品である矢を作ったり鉄砲で用いる火薬と弾を予め一発分にまとめる“早合”を作る者達の姿だった。割合的には、早合を作っている者が圧倒的に多い。
「……此度は、鉄砲が多いな」
「はい。聞く所では武田との決戦の為に用意された鉄砲の数は、三千挺とも四千挺とも言われております」
伝兵衛から伝えられた数字に、信忠も納得したように一つ頷く。
天文十二年八月二十五日、種子島に漂着した唐船に乗っていた南蛮の商人から伝わった二挺の鉄砲。それから三十年余りが経ち、鉄砲は伝来した種子島から遠く離れた東国の大名も戦で用いるまでになった。ここまで爆発的に普及した要因に挙げられるのは、種子島に鉄砲が渡って程なく、根来寺の僧が鉄砲一挺を地元に持ち帰り、文化最先端の畿内に早い時期に持ち込まれた事だ。
根来寺は真言宗の寺で、紀伊国では高野山と肩を並べる程の一大勢力を誇り、僧兵一万を抱えていた。寺領内の火事場で鉄砲を製造して他国の大名へ販売するのと並行して自軍に配備・強化した。根来寺の僧兵や根来寺に属する土豪は俗に“根来衆”と呼ばれ、傭兵として各地の大名へ派遣されて収入を得ていた。その根来衆はまだあまり世の中に出回ってない鉄砲を逸早く取り入れた事で、まだ馴染みの薄い鉄砲を高い技術で扱える点で需要が次第に高まっていった。根来衆は雑賀荘近在の地侍で構成される“雑賀衆”と共に、鉄砲の専門集団として名を馳せることとなる。
これ以外にも、堺の商人・橘屋又三郎が種子島で鉄砲の製造技術を学び、それを堺に持ち帰り製造販売に乗り出した。又三郎をキッカケに他の商人達も鉄砲の製造販売に参入し、堺は日本有数の鉄砲生産地に発展していった。また、近江国国友村でも天文十三年から鉄砲の生産が始まるなど、畿内及びその近隣に鉄砲の主要な生産地が集中していた。
織田家は、他家に先んじて鉄砲を手に入れていた。まだ量産化されておらず価格は高騰していたが、熱田や津島などから入る運上金もあり財政面でかなり余裕がある背景もあり、信秀が試しに購入していたのだ。それを信長が当主になると鉄砲の所持数を段階的に拡大していき、軍における鉄砲兵の割合を増やした。尾張の兵は周辺諸国と比べて弱かったのもあるが、鉄砲の威力と手軽さを重視し戦力と捉えた信長の考え方が反映されていた。殺傷能力が極めて高く狙いを定めて引き金を引くだけという扱いやすさは強みであるものの、鉄砲単体だけでなく火薬の原材料となる硝石も非常に高価で経費が嵩む上に一発撃った後に再装填まで時間が掛かる欠点もあり、他の大名家では導入に消極的だった。
年数が経つにつれて鉄砲本体の価格も下がり、鉄砲の有用性が認知されるようになると、各地の大名も鉄砲を軍の編成に組み込むようになった。ただ、それは鉄砲の入手が容易な畿内から西の大名ばかりで、畿内から遠く離れた東国ではまだ浸透していなかった。武田信玄や上杉謙信などは自前の兵が元々強いのもあり、鉄砲の所持数は少なく重視していなかった。
信長は上洛を果たして間を置かず堺を支配下に置いたのも、堺が我が国随一の商業都市で莫大な運上金を見込めるのもあったが、鉄砲の一大生産地であるのに加えて南蛮船の入港が多いのも大きかった。鉄砲を撃つのに欠かせない硝石は国内で採取出来ず、海外からの輸入に依存していた。南蛮船は鎮西(九州)にも寄港するが、一番儲けが見込める堺の入港が圧倒的に多かった。信長は畿内の大半を手中に収めており、鉄砲と硝石もほぼ押さえた恰好だ。
潤沢な資金力と豊富な物量を背景に鉄砲をどんどん組み入れていった織田家だが……今回はいつにも増して割合が多い。今回の徳川家救援の為に率いた三万の内、三千から四千が鉄砲を扱う兵。実に一割、これは異例だ。
これだけの量の鉄砲を持ってきたとなれば武田との決戦の切り札に違いないけれど、父はどのように使うのだろうか。先述した通り、鉄砲は殺傷能力が高いが次に撃つまで時間を要する上に装填を完了させる間は反撃が出来ない無防備な状態になる。機動力を武器としている武田家の騎馬隊なら、発射から再装填の間で一気に距離を詰める事も充分に可能だ。その対策はどうするのか。
あれこれ考えながら陣中を歩いていたら、向こうから野々村正成が信忠の姿を見つけると急いで駆け寄ってきた。
「いかがした、三十郎」
野々村“三十郎”正成。信長の馬廻で、黒母衣衆にも選ばれた近臣だ。元は斎藤龍興に仕えていたが、斎藤家が滅亡した後に織田家へ仕官した。生年は不明だが、永禄四年の軽海の戦いにも参加している事から二十代後半から三十代と思われる。
父の側近くに居る筈の正成がやや息を切らして信忠を探していたとなれば、状況に変化があったと考えるのが自然だ。
「勘九郎様……長篠城より、急使が参りました。急ぎ、大広間まで」
正成の言葉に、信忠も一瞬で緊張が走る。
長篠城は、武田勝頼が率いる軍勢の猛攻に晒されている真っ最中。そこから急使が来た事は、何かあったに違いない。
「分かった。すぐに向かう」
答えてすぐに歩き出した信忠。今は来るべき時の事を考えるより、現状を把握するのが先だ。
大広間に到着すると、織田・徳川両家の主立った家臣が続々と集まっていた。真ん中には一人の男が座っており、恐らくはこの者が長篠城からの急使だろう。
服だけでなく顔や髪の毛、肌に至るまで泥や埃で汚れており、武田方の厳しい監視を潜り抜けてきた事の過酷さや大変さを物語っている。
やがて、父と家康が揃って大広間に姿を現した。全員が一斉に頭を垂れる。
「奥平家家臣、鳥居強右衛門にございます」
上座の二人が座るのを待ち、強右衛門が名乗りを上げる。その声には見た目とは裏腹に力強さを感じられた。
鳥居“強右衛門”勝商、天文九年の生まれで、齢三十六。一説には奥平家の直臣ではなく陪臣と言われる。
さらに、強右衛門は続ける。
「我等奥平勢は武田勢を相手に善戦しておりましたが、二日前に敵が放った火矢で兵糧蔵が全焼。兵糧の大半を焼失してしまいました……!!」
口惜しそうに顔を歪める強右衛門の言葉に、居並ぶ家臣達の表情も強張る。防城戦で兵糧は生命線で、食べ物が底を尽けば抗う事は出来なくなる。多くの銃火器を予め運び入れて善戦していた奥平勢だが、兵糧を失った事で一転し窮地に立たされた。
この危機的状況に城主・奥平貞昌は『このままでは保たない』と判断。岡崎城へ救援の密使を送る事を決めた。しかし、長篠城の周りは武田方が厳重に警備を布いており、この包囲網を突破するのは極めて難しかった。失敗すれば命は無い、そんな危険な役目を買って出たのが、強右衛門だった。
五月十四日夜、下水口から城を脱け出した強右衛門は川を潜り泳ぐ事で武田の監視をすり抜けた。翌朝に長篠城からも見える雁峰山から脱出の成功を知らせる狼煙を上げ、それから駆けに駆けて同日午後に岡崎城へ辿り着いた次第である。
「将兵の士気が頗る高いですが、このままでは落城必死。何卒、味方をお助け下され!!」
言うなりガバリと頭を下げる強右衛門。今も猶懸命に戦っている長篠城の将兵の命が懸かっているのだ。何としても『援軍を送る』の言質を取りたいという執念が、信忠もヒシヒシと感じ取っていた。
だが、そう簡単に答えられない事情もある。兵糧を失った以上、長期に渡る抗戦は難しくなった。武田勢にこの情報が洩れれば損害覚悟で猛攻を仕掛けてくるだろう。そうなれば、兵数で元々劣る奥平勢に抗う術はない。そして、長篠城へ救援に向かっている途上で長篠城が落城すれば、徒労に終わるだけでなく奥平勢を救えなかった織田・徳川の評判はさらに落ちる。それならば、いっそ割り切って“無駄足を踏むくらいなら救援に行かない”という選択肢を採っても不思議でない。情だけで動く訳にはいかないのが当主という立場なのだ。
果たして、決断は如何に――皆が固唾を呑んで成り行きを見守る中、沈黙を破るようにある人物が声を上げた。
「――相分かった!!」
力強い声ではっきりと告げたのは、上座に座る父・信長。直後、つかつかと強右衛門の元に歩み寄った父は、その手を取ってさらに続ける。
「強右衛門よ、よくぞ知らせてくれた。感謝致す。其方の頑張り、決して無駄にはしないぞ。明日にはこの岡崎を発ち、四万の兵で長篠の者達を救ってみせよう」
熱く語る父の言葉に、強右衛門も感極まり俯きながら肩を震わせている。この光景を、信忠はやや驚きを持って受け止めた。
普段の父は、家臣達の前だと言葉数が少なく苛立っている時を除けば感情をあまり表に出さない事が多かった。公務の時の顔ばかり見てきた信忠は、普段とあまり落差が大きい今日の父の姿に戸惑いを覚えていた。
そこへ、家康も強右衛門の側に寄ってきて、優しく声を掛ける。
「強右衛門、真に大儀であった。さぞ疲れたことだろう、今日はゆっくり休むがいい」
家康の言葉に、強右衛門は静かに首を振る。
「お気持ちは大変ありがたいですが、某は一刻も早く城へ戻って皆にこの事を伝えとうございます」
昨晩からずっと走り通していた強右衛門は疲れている筈なのに、家康の厚意を固辞した。兵糧を失い救援を心待ちにしている長篠の仲間達に『味方は間もなく来る』の報せは、何物にも代えがたい後押しになると分かっているからだ。
強右衛門の強い希望もあり、家康も無理に引き留める事はしなかった。今この場に居る者の中で長篠までの道のりを最も知っているのは強右衛門の他に居らず、武田方の監視の目がどこにあるかも把握していた。疲れを考慮したとしても、この吉報を届けるのに適任だった。
そして、父は全員を見回してから力強く宣言した。
「皆の者! 明日の出陣に送れないよう、万事支度を怠らぬように!」
「ははっ!!」
父の締めの言葉に、織田・徳川の家臣達が一斉に頭を下げる。信忠も、武田との決戦が近いことを肌で感じ取っていた。
岡崎城で少し休憩をした強右衛門は、来た道を急いで引き返していった。夜通しで駆けた強右衛門は翌十六日早朝に再び雁峰山から狼煙を上げて長篠城の味方に自らの無事を伝えてから、長篠城の西に位置する有海村に移動した。そこで城へ戻る場所を探っていたのだが、周辺を警戒していた武田方の兵に見つかり捕縛されてしまった。雁峰山から連日上がる狼煙を不審に思った武田方が監視を強化していたのだ。
武田方による厳しい取り調べの結果、織田信長率いる織田勢三万が既に岡崎へ到達していること、さらに徳川勢を加えた総勢四万の兵が今日岡崎城を出て長篠へ向かうことが判明した。これを知った武田方の総大将・武田勝頼は、織田・徳川の援軍が来る前に何としても城を落とす必要に迫られ、状況を打開すべく勝頼は一計を案じることにした。
勝頼は強右衛門に対し『「援軍は来ない、諦めて開城すべき」と偽りの情報を長篠城の味方へ伝えれば、命は助けてやる。さらに、武田家に召し抱えてそれなりに処遇する』と持ち掛けた。本来であれば捕まった時点で即刻首を刎ねられてもおかしくないが、裏切れば罪を免じるだけでなく褒美を与えるというのだ。断れば斬られる状況で、強右衛門は勝頼の提案に迷わず応じた。
五月十七日、長篠城の西側の対岸に引き立てられた強右衛門は磔にされた状態でこう叫んだとされる。
「あと二、三日で味方が大軍を率いてやってくる! それまで何としても持ち堪えるのだ!」
言うまでもなく、勝頼との交換条件に反して真実の内容を伝えたのである。強右衛門の意趣返しに激怒した勝頼は見せしめにその場で串刺しにしたが、時既に遅し。強右衛門が命懸けで届けてくれた情報に長篠城の将兵は息を吹き返し、犠牲になった強右衛門の死を無駄にしまいと士気がさらに上がった。
一方で、武田家の内部では命を顧みず忠義を貫いた強右衛門の勇気ある行動に、助命を求める家臣も少なからず存在した。しかし、勝頼はこうした意見が幾つも上がっているのを知りながら、意見を無視する形で処刑してしまった、勝頼の義理に悖る振る舞いに将兵達の士気は低下、長篠城攻めにも悪影響を及ぼした。
戦後、強右衛門の行動を知った信長は、忠義を尽くしてくれた強右衛門の為に立派な墓を建立したとされる。また、家康も強右衛門の遺子を丁重に扱い、奥平家の直臣に取り立てている。
兵達は戦に備え、準備に追われていた。特に目についたのは、消耗品である矢を作ったり鉄砲で用いる火薬と弾を予め一発分にまとめる“早合”を作る者達の姿だった。割合的には、早合を作っている者が圧倒的に多い。
「……此度は、鉄砲が多いな」
「はい。聞く所では武田との決戦の為に用意された鉄砲の数は、三千挺とも四千挺とも言われております」
伝兵衛から伝えられた数字に、信忠も納得したように一つ頷く。
天文十二年八月二十五日、種子島に漂着した唐船に乗っていた南蛮の商人から伝わった二挺の鉄砲。それから三十年余りが経ち、鉄砲は伝来した種子島から遠く離れた東国の大名も戦で用いるまでになった。ここまで爆発的に普及した要因に挙げられるのは、種子島に鉄砲が渡って程なく、根来寺の僧が鉄砲一挺を地元に持ち帰り、文化最先端の畿内に早い時期に持ち込まれた事だ。
根来寺は真言宗の寺で、紀伊国では高野山と肩を並べる程の一大勢力を誇り、僧兵一万を抱えていた。寺領内の火事場で鉄砲を製造して他国の大名へ販売するのと並行して自軍に配備・強化した。根来寺の僧兵や根来寺に属する土豪は俗に“根来衆”と呼ばれ、傭兵として各地の大名へ派遣されて収入を得ていた。その根来衆はまだあまり世の中に出回ってない鉄砲を逸早く取り入れた事で、まだ馴染みの薄い鉄砲を高い技術で扱える点で需要が次第に高まっていった。根来衆は雑賀荘近在の地侍で構成される“雑賀衆”と共に、鉄砲の専門集団として名を馳せることとなる。
これ以外にも、堺の商人・橘屋又三郎が種子島で鉄砲の製造技術を学び、それを堺に持ち帰り製造販売に乗り出した。又三郎をキッカケに他の商人達も鉄砲の製造販売に参入し、堺は日本有数の鉄砲生産地に発展していった。また、近江国国友村でも天文十三年から鉄砲の生産が始まるなど、畿内及びその近隣に鉄砲の主要な生産地が集中していた。
織田家は、他家に先んじて鉄砲を手に入れていた。まだ量産化されておらず価格は高騰していたが、熱田や津島などから入る運上金もあり財政面でかなり余裕がある背景もあり、信秀が試しに購入していたのだ。それを信長が当主になると鉄砲の所持数を段階的に拡大していき、軍における鉄砲兵の割合を増やした。尾張の兵は周辺諸国と比べて弱かったのもあるが、鉄砲の威力と手軽さを重視し戦力と捉えた信長の考え方が反映されていた。殺傷能力が極めて高く狙いを定めて引き金を引くだけという扱いやすさは強みであるものの、鉄砲単体だけでなく火薬の原材料となる硝石も非常に高価で経費が嵩む上に一発撃った後に再装填まで時間が掛かる欠点もあり、他の大名家では導入に消極的だった。
年数が経つにつれて鉄砲本体の価格も下がり、鉄砲の有用性が認知されるようになると、各地の大名も鉄砲を軍の編成に組み込むようになった。ただ、それは鉄砲の入手が容易な畿内から西の大名ばかりで、畿内から遠く離れた東国ではまだ浸透していなかった。武田信玄や上杉謙信などは自前の兵が元々強いのもあり、鉄砲の所持数は少なく重視していなかった。
信長は上洛を果たして間を置かず堺を支配下に置いたのも、堺が我が国随一の商業都市で莫大な運上金を見込めるのもあったが、鉄砲の一大生産地であるのに加えて南蛮船の入港が多いのも大きかった。鉄砲を撃つのに欠かせない硝石は国内で採取出来ず、海外からの輸入に依存していた。南蛮船は鎮西(九州)にも寄港するが、一番儲けが見込める堺の入港が圧倒的に多かった。信長は畿内の大半を手中に収めており、鉄砲と硝石もほぼ押さえた恰好だ。
潤沢な資金力と豊富な物量を背景に鉄砲をどんどん組み入れていった織田家だが……今回はいつにも増して割合が多い。今回の徳川家救援の為に率いた三万の内、三千から四千が鉄砲を扱う兵。実に一割、これは異例だ。
これだけの量の鉄砲を持ってきたとなれば武田との決戦の切り札に違いないけれど、父はどのように使うのだろうか。先述した通り、鉄砲は殺傷能力が高いが次に撃つまで時間を要する上に装填を完了させる間は反撃が出来ない無防備な状態になる。機動力を武器としている武田家の騎馬隊なら、発射から再装填の間で一気に距離を詰める事も充分に可能だ。その対策はどうするのか。
あれこれ考えながら陣中を歩いていたら、向こうから野々村正成が信忠の姿を見つけると急いで駆け寄ってきた。
「いかがした、三十郎」
野々村“三十郎”正成。信長の馬廻で、黒母衣衆にも選ばれた近臣だ。元は斎藤龍興に仕えていたが、斎藤家が滅亡した後に織田家へ仕官した。生年は不明だが、永禄四年の軽海の戦いにも参加している事から二十代後半から三十代と思われる。
父の側近くに居る筈の正成がやや息を切らして信忠を探していたとなれば、状況に変化があったと考えるのが自然だ。
「勘九郎様……長篠城より、急使が参りました。急ぎ、大広間まで」
正成の言葉に、信忠も一瞬で緊張が走る。
長篠城は、武田勝頼が率いる軍勢の猛攻に晒されている真っ最中。そこから急使が来た事は、何かあったに違いない。
「分かった。すぐに向かう」
答えてすぐに歩き出した信忠。今は来るべき時の事を考えるより、現状を把握するのが先だ。
大広間に到着すると、織田・徳川両家の主立った家臣が続々と集まっていた。真ん中には一人の男が座っており、恐らくはこの者が長篠城からの急使だろう。
服だけでなく顔や髪の毛、肌に至るまで泥や埃で汚れており、武田方の厳しい監視を潜り抜けてきた事の過酷さや大変さを物語っている。
やがて、父と家康が揃って大広間に姿を現した。全員が一斉に頭を垂れる。
「奥平家家臣、鳥居強右衛門にございます」
上座の二人が座るのを待ち、強右衛門が名乗りを上げる。その声には見た目とは裏腹に力強さを感じられた。
鳥居“強右衛門”勝商、天文九年の生まれで、齢三十六。一説には奥平家の直臣ではなく陪臣と言われる。
さらに、強右衛門は続ける。
「我等奥平勢は武田勢を相手に善戦しておりましたが、二日前に敵が放った火矢で兵糧蔵が全焼。兵糧の大半を焼失してしまいました……!!」
口惜しそうに顔を歪める強右衛門の言葉に、居並ぶ家臣達の表情も強張る。防城戦で兵糧は生命線で、食べ物が底を尽けば抗う事は出来なくなる。多くの銃火器を予め運び入れて善戦していた奥平勢だが、兵糧を失った事で一転し窮地に立たされた。
この危機的状況に城主・奥平貞昌は『このままでは保たない』と判断。岡崎城へ救援の密使を送る事を決めた。しかし、長篠城の周りは武田方が厳重に警備を布いており、この包囲網を突破するのは極めて難しかった。失敗すれば命は無い、そんな危険な役目を買って出たのが、強右衛門だった。
五月十四日夜、下水口から城を脱け出した強右衛門は川を潜り泳ぐ事で武田の監視をすり抜けた。翌朝に長篠城からも見える雁峰山から脱出の成功を知らせる狼煙を上げ、それから駆けに駆けて同日午後に岡崎城へ辿り着いた次第である。
「将兵の士気が頗る高いですが、このままでは落城必死。何卒、味方をお助け下され!!」
言うなりガバリと頭を下げる強右衛門。今も猶懸命に戦っている長篠城の将兵の命が懸かっているのだ。何としても『援軍を送る』の言質を取りたいという執念が、信忠もヒシヒシと感じ取っていた。
だが、そう簡単に答えられない事情もある。兵糧を失った以上、長期に渡る抗戦は難しくなった。武田勢にこの情報が洩れれば損害覚悟で猛攻を仕掛けてくるだろう。そうなれば、兵数で元々劣る奥平勢に抗う術はない。そして、長篠城へ救援に向かっている途上で長篠城が落城すれば、徒労に終わるだけでなく奥平勢を救えなかった織田・徳川の評判はさらに落ちる。それならば、いっそ割り切って“無駄足を踏むくらいなら救援に行かない”という選択肢を採っても不思議でない。情だけで動く訳にはいかないのが当主という立場なのだ。
果たして、決断は如何に――皆が固唾を呑んで成り行きを見守る中、沈黙を破るようにある人物が声を上げた。
「――相分かった!!」
力強い声ではっきりと告げたのは、上座に座る父・信長。直後、つかつかと強右衛門の元に歩み寄った父は、その手を取ってさらに続ける。
「強右衛門よ、よくぞ知らせてくれた。感謝致す。其方の頑張り、決して無駄にはしないぞ。明日にはこの岡崎を発ち、四万の兵で長篠の者達を救ってみせよう」
熱く語る父の言葉に、強右衛門も感極まり俯きながら肩を震わせている。この光景を、信忠はやや驚きを持って受け止めた。
普段の父は、家臣達の前だと言葉数が少なく苛立っている時を除けば感情をあまり表に出さない事が多かった。公務の時の顔ばかり見てきた信忠は、普段とあまり落差が大きい今日の父の姿に戸惑いを覚えていた。
そこへ、家康も強右衛門の側に寄ってきて、優しく声を掛ける。
「強右衛門、真に大儀であった。さぞ疲れたことだろう、今日はゆっくり休むがいい」
家康の言葉に、強右衛門は静かに首を振る。
「お気持ちは大変ありがたいですが、某は一刻も早く城へ戻って皆にこの事を伝えとうございます」
昨晩からずっと走り通していた強右衛門は疲れている筈なのに、家康の厚意を固辞した。兵糧を失い救援を心待ちにしている長篠の仲間達に『味方は間もなく来る』の報せは、何物にも代えがたい後押しになると分かっているからだ。
強右衛門の強い希望もあり、家康も無理に引き留める事はしなかった。今この場に居る者の中で長篠までの道のりを最も知っているのは強右衛門の他に居らず、武田方の監視の目がどこにあるかも把握していた。疲れを考慮したとしても、この吉報を届けるのに適任だった。
そして、父は全員を見回してから力強く宣言した。
「皆の者! 明日の出陣に送れないよう、万事支度を怠らぬように!」
「ははっ!!」
父の締めの言葉に、織田・徳川の家臣達が一斉に頭を下げる。信忠も、武田との決戦が近いことを肌で感じ取っていた。
岡崎城で少し休憩をした強右衛門は、来た道を急いで引き返していった。夜通しで駆けた強右衛門は翌十六日早朝に再び雁峰山から狼煙を上げて長篠城の味方に自らの無事を伝えてから、長篠城の西に位置する有海村に移動した。そこで城へ戻る場所を探っていたのだが、周辺を警戒していた武田方の兵に見つかり捕縛されてしまった。雁峰山から連日上がる狼煙を不審に思った武田方が監視を強化していたのだ。
武田方による厳しい取り調べの結果、織田信長率いる織田勢三万が既に岡崎へ到達していること、さらに徳川勢を加えた総勢四万の兵が今日岡崎城を出て長篠へ向かうことが判明した。これを知った武田方の総大将・武田勝頼は、織田・徳川の援軍が来る前に何としても城を落とす必要に迫られ、状況を打開すべく勝頼は一計を案じることにした。
勝頼は強右衛門に対し『「援軍は来ない、諦めて開城すべき」と偽りの情報を長篠城の味方へ伝えれば、命は助けてやる。さらに、武田家に召し抱えてそれなりに処遇する』と持ち掛けた。本来であれば捕まった時点で即刻首を刎ねられてもおかしくないが、裏切れば罪を免じるだけでなく褒美を与えるというのだ。断れば斬られる状況で、強右衛門は勝頼の提案に迷わず応じた。
五月十七日、長篠城の西側の対岸に引き立てられた強右衛門は磔にされた状態でこう叫んだとされる。
「あと二、三日で味方が大軍を率いてやってくる! それまで何としても持ち堪えるのだ!」
言うまでもなく、勝頼との交換条件に反して真実の内容を伝えたのである。強右衛門の意趣返しに激怒した勝頼は見せしめにその場で串刺しにしたが、時既に遅し。強右衛門が命懸けで届けてくれた情報に長篠城の将兵は息を吹き返し、犠牲になった強右衛門の死を無駄にしまいと士気がさらに上がった。
一方で、武田家の内部では命を顧みず忠義を貫いた強右衛門の勇気ある行動に、助命を求める家臣も少なからず存在した。しかし、勝頼はこうした意見が幾つも上がっているのを知りながら、意見を無視する形で処刑してしまった、勝頼の義理に悖る振る舞いに将兵達の士気は低下、長篠城攻めにも悪影響を及ぼした。
戦後、強右衛門の行動を知った信長は、忠義を尽くしてくれた強右衛門の為に立派な墓を建立したとされる。また、家康も強右衛門の遺子を丁重に扱い、奥平家の直臣に取り立てている。
0
お気に入りに追加
21
あなたにおすすめの小説

【完結】電を逐う如し(いなづまをおうごとし)――磯野丹波守員昌伝
糸冬
歴史・時代
浅井賢政(のちの長政)の初陣となった野良田の合戦で先陣をつとめた磯野員昌。
その後の働きで浅井家きっての猛将としての地位を確固としていく員昌であるが、浅井家が一度は手を携えた織田信長と手切れとなり、前途には様々な困難が立ちはだかることとなる……。
姉川の合戦において、織田軍十三段構えの陣のうち実に十一段までを突破する「十一段崩し」で勇名を馳せた武将の一代記。
1333
干支ピリカ
歴史・時代
鎌倉幕府末期のエンターテイメントです。
(現在の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』から、100年ちょい後の話です)
鎌倉や京都が舞台となります。心躍る激しい合戦や、ぞくぞくするようなオドロオドロしい話を目指そうと思いましたが、結局政治や謀略の話が多くなりました。
主役は足利尊氏の弟、直義です。エキセントリックな兄と、サイケデリックな執事に振り回される、苦労性のイケメンです。
ご興味を持たれた方は是非どうぞ!

【架空戦記】蒲生の忠
糸冬
歴史・時代
天正十年六月二日、本能寺にて織田信長、死す――。
明智光秀は、腹心の明智秀満の進言を受けて決起当初の腹案を変更し、ごく少勢による奇襲により信長の命を狙う策を敢行する。
その結果、本能寺の信長、そして妙覚寺の織田信忠は、抵抗の暇もなく首級を挙げられる。
両名の首級を四条河原にさらした光秀は、織田政権の崩壊を満天下に明らかとし、畿内にて急速に地歩を固めていく。
一方、近江国日野の所領にいた蒲生賦秀(のちの氏郷)は、信長の悲報を知るや、亡き信長の家族を伊勢国松ヶ島城の織田信雄の元に送り届けるべく安土城に迎えに走る。
だが、瀬田の唐橋を無傷で確保した明智秀満の軍勢が安土城に急速に迫ったため、女子供を連れての逃避行は不可能となる。
かくなる上は、戦うより他に道はなし。
信長の遺した安土城を舞台に、若き闘将・蒲生賦秀の活躍が始まる。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した
若き日の滝川一益と滝川義太夫、
尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として
天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が
からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。


世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる