40 / 127
三 : 萌芽 - (4) “梟雄”の顔
しおりを挟む
天正二年(一五七四年)正月。年賀の挨拶で大勢の家臣が岐阜城へ登城してきた。最前線に配置されている将を除いて、信長に詣でる者が多数詰め掛けた。信忠も織田家一門の一人として来訪者の対応に追われた。
登城してくる者の表情は、皆一様に明るい。元亀年間は周囲の敵対勢力の攻撃を凌ぐのが精一杯で、とても新年を祝う気分になれなかった。特に昨年は武田信玄の西上で御家存亡の危機が差し迫っていたのもあり、父・信長も家臣達も表情は堅く険しいものだった。しかし、最大の脅威である武田信玄は世を去り、頭を悩ませていた足利義昭も追放、一時は京の目前まで迫ってきた朝倉義景も浅井長政も倒し、一年で織田家を取り巻く環境は劇的に改善された。織田家の先行きを反映するかのように表情が明るくなるのも、当然と言えば当然と言える。
ただ、そんな中でも一人だけ浮かない顔をして面会の順番を待つ男が居た。男はどこか肩身が狭そうに、体を縮こまらせている。周囲の者達もその男を目にすると一瞬バツの悪そうな顔をしてから、すぐに目線を逸らす。皆、その男の方を向かずに他の者達と雑談していた。控えの間で、その男は明らかに浮いていた。
大広間で順に来訪者と対面する信長。一段低いところで信忠が控えていた。
奏者を務める近習が、父に耳打ちする。幾つか言葉を交わして近習が下がると、父は信忠の方に向かって楽しそうに声を掛けた。
「勘九郎、次は面白い奴が来るぞ」
何十人と新年の挨拶を受けてきたが、そんな事を言われたのは今日初めてだ。心なしか、父の声も弾んでいるように感じた。
ここまでの父は、挨拶を述べた者に対して一言二言返すだけだった。それでも声を掛けられた者は体を震わさんばかりに喜んで下がって行く。父は事務的に対処しているだけで、合間には時折退屈そうに欠伸をしていた。それが、今は目を輝かせてその者が来るのを待ち侘びている様子だった。
父がここまで会いたい人物とは誰だろうか。信忠は考えてみるが、思い当たらない。そうこうしている間に、奏者の声が大広間に響く。
「松永弾正様がお見えです」
その名を耳にした瞬間、信忠は「あっ!!」となった。直後、物凄い速さで体を屈ませて入ってきた久秀は、信長の前で土下座するように平伏する。
「この度は、身の程も弁えず上様に楯突いた愚か者の某に寛大な処分を下さり、真にありがとうございます!!」
畳に額を付けながら、文字通り平身低頭の態度の久秀。唖然とする信忠とは対照的に、笑いを噛み殺す父。
さらに、久秀の熱弁は続く。
「今後は上様から受けた御厚恩に報いるべく、粉骨砕身で働く所存! 上様の行く手を阻む者は、この弾正が成敗仕ります!」
大見得を切る久秀に、近習達も茫然としている。そもそも約一月前まで敵だった人間が舌の根も乾かぬ内に何を言っているのか、と冷めた目で見る者も居る。織田家では羽柴秀吉が身分に釣り合わない大言壮語を吐いたり大袈裟な挙動をしたりして柴田勝家を筆頭とする譜代の家臣達から疎んじられていたが、今日の久秀は秀吉と同じくらい媚び諂っていた。
見え透いた追従に主君も呆れると周囲の者は思っていたが……予想に反し、楽し気に笑っていた。
「そうか。俺の為に働いてくれると申すか」
「はい! 老骨の身ながら誠心誠意尽くさせて頂きます!」
這い蹲りながら声を大にして答える久秀。その様子に満足したのか、父は機嫌良さそうに声を掛けた。
「弾正の気持ち、よく伝わった。くれぐれも体を労わり、精々励め」
「ははーっ! ありがたき幸せ!!」
平伏している久秀はさらに頭を下げ、感謝の意を体全体で表した。その一方、信忠を始めとする他の者達は主君の久秀の扱いに内心驚いていた。
上洛を果たしてからは降伏してきた者に対して、信長は“(一部を除いて)一言二言形式的な言葉を掛けるだけ”で済ませる事が多かった。年賀の挨拶も同様で、新参の者については淡泊な対応に終始した。久秀は一度味方になりながらも織田家が苦しい立場に置かれている中で反旗を翻した、言わば“裏切者”だ。『どの面下げてやって来たか!!』と痛罵されても不思議でないのに……父は、親しい譜代の臣と接する時のように優しい言葉を掛けている。尾張や美濃に居た頃ならいざ知らず、織田家が上洛を果たして以降では極めて異例の対応だった。
満足気な表情を浮かべる信長。これで対面は終了――と思っていた矢先のこと。
「弾正殿」
ここまで無言を貫いていた信忠が、声を発した。久秀は「ははっ!」と応じるも、顔を上げようとしない。信忠としては世間で“極悪人”と呼ばれる久秀がどのような人相をしているのか一目確かめたかったのだが、ずっと面を伏せたまま動こうとしない。
顔を見たいのは信忠の我が儘なので、自分から呼び掛けるしかなかった。
「……弾正殿、面を上げてくだされ」
信忠に促され、久秀はゆっくりと頭を上げる。さて、どんな悪人面をしているのか――。
半分意地悪な気持ちで待っていた信忠は、久秀の相貌を目の当たりにして思わず面喰らった。
微笑みを湛えたその顔は、正に好々爺そのもの。織田弾正忠家は美形の家系だが、久秀も負けず劣らずの美男子だったことが窺い知れる。とてもではないが、目の前に座る老人が数々の悪業を重ねてきたとは思えなかった。
「どうやら、勘九郎様のご期待に添えなかったみたいで。相済みませぬ」
そう言うなり、いたずらっぽく笑った久秀はペコリと頭を下げる。対して、完全に自分の意図を見抜かれていただけでなく先に謝られてしまい、アタフタとする信忠。一段高い所に座る父もこうした展開になるのは予想していたみたいらしく、くつくつと笑っていた。久秀の方が明らかに一枚上手だったようだ。
父から以前久秀について聞いていたのもあり、信忠の中で“久秀は相当に悪い顔をしている”と勝手な思い込みをしていた。だからこそ、いざ対面してみて驚いた。世間で“梟雄”と呼ばれ、父は“毒”と評した人物とは思えないくらい、久秀は優しい顔つきをしていた。
「弾正。そのくらいにしておけ」
困り顔の信忠に、父から助け船が出された。それを合図に居住まいを正した久秀が、信忠の方に向き直る。
「失礼致しました。……して、某に何用ですかな?」
久秀が訊ねてきた。まさか自分の顔を見たくて声を掛けてきた訳ではないですよね? という意味合いも込められていた。
ただ、信忠も特に理由が無く呼び掛けたのではない。こちらも表情を引き締め、意を決したように告げた。
「私に――茶を指導して頂けませんか?」
登城してくる者の表情は、皆一様に明るい。元亀年間は周囲の敵対勢力の攻撃を凌ぐのが精一杯で、とても新年を祝う気分になれなかった。特に昨年は武田信玄の西上で御家存亡の危機が差し迫っていたのもあり、父・信長も家臣達も表情は堅く険しいものだった。しかし、最大の脅威である武田信玄は世を去り、頭を悩ませていた足利義昭も追放、一時は京の目前まで迫ってきた朝倉義景も浅井長政も倒し、一年で織田家を取り巻く環境は劇的に改善された。織田家の先行きを反映するかのように表情が明るくなるのも、当然と言えば当然と言える。
ただ、そんな中でも一人だけ浮かない顔をして面会の順番を待つ男が居た。男はどこか肩身が狭そうに、体を縮こまらせている。周囲の者達もその男を目にすると一瞬バツの悪そうな顔をしてから、すぐに目線を逸らす。皆、その男の方を向かずに他の者達と雑談していた。控えの間で、その男は明らかに浮いていた。
大広間で順に来訪者と対面する信長。一段低いところで信忠が控えていた。
奏者を務める近習が、父に耳打ちする。幾つか言葉を交わして近習が下がると、父は信忠の方に向かって楽しそうに声を掛けた。
「勘九郎、次は面白い奴が来るぞ」
何十人と新年の挨拶を受けてきたが、そんな事を言われたのは今日初めてだ。心なしか、父の声も弾んでいるように感じた。
ここまでの父は、挨拶を述べた者に対して一言二言返すだけだった。それでも声を掛けられた者は体を震わさんばかりに喜んで下がって行く。父は事務的に対処しているだけで、合間には時折退屈そうに欠伸をしていた。それが、今は目を輝かせてその者が来るのを待ち侘びている様子だった。
父がここまで会いたい人物とは誰だろうか。信忠は考えてみるが、思い当たらない。そうこうしている間に、奏者の声が大広間に響く。
「松永弾正様がお見えです」
その名を耳にした瞬間、信忠は「あっ!!」となった。直後、物凄い速さで体を屈ませて入ってきた久秀は、信長の前で土下座するように平伏する。
「この度は、身の程も弁えず上様に楯突いた愚か者の某に寛大な処分を下さり、真にありがとうございます!!」
畳に額を付けながら、文字通り平身低頭の態度の久秀。唖然とする信忠とは対照的に、笑いを噛み殺す父。
さらに、久秀の熱弁は続く。
「今後は上様から受けた御厚恩に報いるべく、粉骨砕身で働く所存! 上様の行く手を阻む者は、この弾正が成敗仕ります!」
大見得を切る久秀に、近習達も茫然としている。そもそも約一月前まで敵だった人間が舌の根も乾かぬ内に何を言っているのか、と冷めた目で見る者も居る。織田家では羽柴秀吉が身分に釣り合わない大言壮語を吐いたり大袈裟な挙動をしたりして柴田勝家を筆頭とする譜代の家臣達から疎んじられていたが、今日の久秀は秀吉と同じくらい媚び諂っていた。
見え透いた追従に主君も呆れると周囲の者は思っていたが……予想に反し、楽し気に笑っていた。
「そうか。俺の為に働いてくれると申すか」
「はい! 老骨の身ながら誠心誠意尽くさせて頂きます!」
這い蹲りながら声を大にして答える久秀。その様子に満足したのか、父は機嫌良さそうに声を掛けた。
「弾正の気持ち、よく伝わった。くれぐれも体を労わり、精々励め」
「ははーっ! ありがたき幸せ!!」
平伏している久秀はさらに頭を下げ、感謝の意を体全体で表した。その一方、信忠を始めとする他の者達は主君の久秀の扱いに内心驚いていた。
上洛を果たしてからは降伏してきた者に対して、信長は“(一部を除いて)一言二言形式的な言葉を掛けるだけ”で済ませる事が多かった。年賀の挨拶も同様で、新参の者については淡泊な対応に終始した。久秀は一度味方になりながらも織田家が苦しい立場に置かれている中で反旗を翻した、言わば“裏切者”だ。『どの面下げてやって来たか!!』と痛罵されても不思議でないのに……父は、親しい譜代の臣と接する時のように優しい言葉を掛けている。尾張や美濃に居た頃ならいざ知らず、織田家が上洛を果たして以降では極めて異例の対応だった。
満足気な表情を浮かべる信長。これで対面は終了――と思っていた矢先のこと。
「弾正殿」
ここまで無言を貫いていた信忠が、声を発した。久秀は「ははっ!」と応じるも、顔を上げようとしない。信忠としては世間で“極悪人”と呼ばれる久秀がどのような人相をしているのか一目確かめたかったのだが、ずっと面を伏せたまま動こうとしない。
顔を見たいのは信忠の我が儘なので、自分から呼び掛けるしかなかった。
「……弾正殿、面を上げてくだされ」
信忠に促され、久秀はゆっくりと頭を上げる。さて、どんな悪人面をしているのか――。
半分意地悪な気持ちで待っていた信忠は、久秀の相貌を目の当たりにして思わず面喰らった。
微笑みを湛えたその顔は、正に好々爺そのもの。織田弾正忠家は美形の家系だが、久秀も負けず劣らずの美男子だったことが窺い知れる。とてもではないが、目の前に座る老人が数々の悪業を重ねてきたとは思えなかった。
「どうやら、勘九郎様のご期待に添えなかったみたいで。相済みませぬ」
そう言うなり、いたずらっぽく笑った久秀はペコリと頭を下げる。対して、完全に自分の意図を見抜かれていただけでなく先に謝られてしまい、アタフタとする信忠。一段高い所に座る父もこうした展開になるのは予想していたみたいらしく、くつくつと笑っていた。久秀の方が明らかに一枚上手だったようだ。
父から以前久秀について聞いていたのもあり、信忠の中で“久秀は相当に悪い顔をしている”と勝手な思い込みをしていた。だからこそ、いざ対面してみて驚いた。世間で“梟雄”と呼ばれ、父は“毒”と評した人物とは思えないくらい、久秀は優しい顔つきをしていた。
「弾正。そのくらいにしておけ」
困り顔の信忠に、父から助け船が出された。それを合図に居住まいを正した久秀が、信忠の方に向き直る。
「失礼致しました。……して、某に何用ですかな?」
久秀が訊ねてきた。まさか自分の顔を見たくて声を掛けてきた訳ではないですよね? という意味合いも込められていた。
ただ、信忠も特に理由が無く呼び掛けたのではない。こちらも表情を引き締め、意を決したように告げた。
「私に――茶を指導して頂けませんか?」
0
お気に入りに追加
20
あなたにおすすめの小説
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。
日本列島、時震により転移す!
黄昏人
ファンタジー
2023年(現在)、日本列島が後に時震と呼ばれる現象により、500年以上の時を超え1492年(過去)の世界に転移した。移転したのは本州、四国、九州とその周辺の島々であり、現在の日本は過去の時代に飛ばされ、過去の日本は現在の世界に飛ばされた。飛ばされた現在の日本はその文明を支え、国民を食わせるためには早急に莫大な資源と食料が必要である。過去の日本は現在の世界を意識できないが、取り残された北海道と沖縄は国富の大部分を失い、戦国日本を抱え途方にくれる。人々は、政府は何を思いどうふるまうのか。
渡世人飛脚旅(小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品で)
牛馬走
歴史・時代
(小説新人賞最終選考落選歴あり、別名義、別作品で)水呑百姓の平太は、体の不自由な祖母を養いながら、未来に希望を持てずに生きていた。平太は、賭場で無宿(浪人)を鮮やかに斃す。その折、親分に渡世人飛脚に誘われる。渡世人飛脚とは、あちこちを歩き回る渡世人を利用した闇の運送業のことを云う――
大日本帝国、アラスカを購入して無双する
雨宮 徹
歴史・時代
1853年、ロシア帝国はクリミア戦争で敗戦し、財政難に悩んでいた。友好国アメリカにアラスカ購入を打診するも、失敗に終わる。1867年、すでに大日本帝国へと生まれ変わっていた日本がアラスカを購入すると金鉱や油田が発見されて……。
大日本帝国VS全世界、ここに開幕!
※架空の日本史・世界史です。
※分かりやすくするように、領土や登場人物など世界情勢を大きく変えています。
※ツッコミどころ満載ですが、ご勘弁を。
三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地~ 家族愛の三国志大河
墨笑
歴史・時代
『家族愛と人の心』『個性と社会性』をテーマにした三国志の大河小説です。
三国志を知らない方も楽しんでいただけるよう意識して書きました。
全体の文量はかなり多いのですが、半分以上は様々な人物を中心にした短編・中編の集まりです。
本編がちょっと長いので、お試しで読まれる方は後ろの方の短編・中編から読んでいただいても良いと思います。
おすすめは『小覇王の暗殺者(ep.216)』『呂布の娘の嫁入り噺(ep.239)』『段煨(ep.285)』あたりです。
本編では蜀において諸葛亮孔明に次ぐ官職を務めた許靖という人物を取り上げています。
戦乱に翻弄され、中国各地を放浪する波乱万丈の人生を送りました。
歴史ものとはいえ軽めに書いていますので、歴史が苦手、三国志を知らないという方でもぜひお気軽にお読みください。
※人名が分かりづらくなるのを避けるため、アザナは一切使わないことにしました。ご了承ください。
※切りのいい時には完結設定になっていますが、三国志小説の執筆は私のライフワークです。生きている限り話を追加し続けていくつもりですので、ブックマークしておいていただけると幸いです。
剣客逓信 ―明治剣戟郵便録―
三條すずしろ
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞:痛快! エンタメ剣客賞受賞】
明治6年、警察より早くピストルを装備したのは郵便配達員だった――。
維新の動乱で届くことのなかった手紙や小包。そんな残された思いを配達する「御留郵便御用」の若者と老剣士が、時に不穏な明治の初めをひた走る。
密書や金品を狙う賊を退け大切なものを届ける特命郵便配達人、通称「剣客逓信(けんかくていしん)」。
武装する必要があるほど危険にさらされた初期の郵便時代、二人はやがてさらに大きな動乱に巻き込まれ――。
※エブリスタでも連載中
武蔵要塞1945 ~ 戦艦武蔵あらため第34特別根拠地隊、沖縄の地で斯く戦えり
もろこし
歴史・時代
史実ではレイテ湾に向かう途上で沈んだ戦艦武蔵ですが、本作ではからくも生き残り、最終的に沖縄の海岸に座礁します。
海軍からは見捨てられた武蔵でしたが、戦力不足に悩む現地陸軍と手を握り沖縄防衛の中核となります。
無敵の要塞と化した武蔵は沖縄に来襲する連合軍を次々と撃破。その活躍は連合国の戦争計画を徐々に狂わせていきます。
16世紀のオデュッセイア
尾方佐羽
歴史・時代
【第12章を週1回程度更新します】世界の海が人と船で結ばれていく16世紀の遥かな旅の物語です。
12章では16世紀後半のヨーロッパが舞台になります。
※このお話は史実を参考にしたフィクションです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる