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三 : 萌芽 - (1) 逆鱗

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 元亀年間は織田家にとって“試練”の月日だったが、改元されると流れも変わった。
 天正元年八月二日、淀古城よどこじょう(後年、豊臣秀吉が茶々の為に築いた淀城とは別の城)に籠もっていた三好三人衆の一人・岩成友通が家臣の裏切りで城外に出るよう誘導され、敵中で奮闘した末に長岡(旧姓細川)藤孝の家臣で下津しもつ権内ごんないに討ち取られた。
 八月八日、浅井家の阿閉あつじ貞征さだゆきが調略に応じて織田方に転じると、これを好機と捉えた信長は三万の兵を率いて岐阜から出陣。浅井長政は小谷城に籠城し、朝倉家へ救援を求めた。朝倉義景は浅井家の求めに応じる形で近江へ出兵しようとしたものの、度重なる出征しゅっせいで国内は疲弊し切っていた為に一門衆の朝倉景鏡を始めとした家臣達がこれを拒んだ。家中の結束が乱れる状況に、義景はむ無く求めに応じた家臣達を率いて義景は近江へ向かった。家中で一致結束した行動が取れなくても二万の兵を率いた朝倉勢は、腐っても名門の底力を窺い知れた。
 信忠も今回の出陣に同行していたが、ここである事件が起きた。

 八月十二日。この日は未明から暴風雨が吹き荒れていた。地面を激しく叩きつける雨に加えて木々を大きく揺らす暴風と、信忠も戦の経験の浅い信忠を補佐する家臣達もこの天候では戦どころではないと考えていた。
 そんな時――信忠の本陣に、濡れねずみとなった新左が転がり込んできた。
「申し上げます。上様が、僅かばかりの手勢を率いて大嶽おおづく砦を急襲致しました」
「何だと!?」
 新左の口から明かされた内容に、驚愕きょうがくする信忠。
 誰もが動かないと信じて疑わない状況を逆手に取り、馬廻など自らの手勢一千で朝倉方の要衝・大嶽砦を急襲。守る朝倉勢もまさかこんな日に攻めて来るとは誰も思っておらず、不意を突かれた格好となり敢え無く降伏してしまった。信長は一計を案じ、捕虜となった朝倉方の兵を解放して義景の陣へ逃げ込むように仕向けた。
 信忠は大急ぎで大嶽砦に向かうと、腕組みをして床几しょうぎに腰掛けながらも明らかにイライラしている父が待ち構えていた。信忠の姿を確かめた父は、何も言わず顎で空いている席に座るよう促してきたので、素直に従う。その後も、信忠と同じようににわかの奇襲を聞いて駆け付けた家臣達が続々と現れ、空いている席に座っていく。普段ならおくれを取らない木下藤吉郎や明智光秀もバツが悪そうな顔で入ってくるのが信忠の印象に残った。
 大方の面々が揃い、父はおもむろに口を開いた。
「……いつ何時なんどき事が起きるとも限らぬから、警戒をおこたるな。常日頃からそう言ってるよな?」
 父の言葉に、反論する者は居ない。皆、この天候だから戦は無いとばかり思っていた。
 一つ大きな溜め息をいてから、父は仕方ないといった顔で話し始める。
「この砦を守っていた朝倉の将兵は逃しておいた。明日、必ず臆病風を吹かせた義景は兵を退く。そこを、一気に叩く」
 それから、何人かの名前を父は挙げていく。佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀、滝川一益、木下藤吉郎……。いずれも一軍を任される将ばかりだ。
「今、名を呼んだ奴は明日の先手だ。今日の失態を取り返す活躍を期待しているぞ」
 言い終わるなり、父は床几から立ち上がって陣を後にした。軍議が終わってからも残された面々は、一様に暗い面持ちだった。
 この日は叱責だけで済んだが、話はこれで終わらない。
 翌十三日。要衝である大嶽砦が呆気なく陥落した事を知った朝倉義景は、激しく動揺。重臣を欠き将兵の士気も上がらない面もあり、勝ち目が薄いと悟った義景はその場で越前へ引き揚げる事を決断した。正しく、前日信長が述べていた通りの展開になった。
 物見からの報告を受けた信長は直ちに本隊へ追撃を命じ、総大将の信長自ら陣頭で指揮を執った。信忠も本隊と共に行動していたのもあり、今回は遅れずに追撃戦に加われた。
 しかし……問題は、昨日名前を挙げられた家臣達だ。叱責を受けたにも関わらず、朝倉勢の撤退へ即座に対応出来なかった。その結果、腰が引けている朝倉勢の追撃に間に合わずに二日続けて失態を侵してしまったのだ。各将も見張りの兵を出したりいつ命令が来ても出られる準備をしていたが、信長率いる本隊の動きがあまりに速かったので乗り遅れてしまったのである。
 ようやく追いついてきた味方を前に、信長の怒りは頂点に達しようとしていた。
「……お前達、昨日の俺の話を聞いていなかったのか?」
 青ざめた顔の家臣達に問い掛ける信長の額に青筋がくっきりと浮き出ているのを、傍らに控える信忠の目にもはっきりと見て取れる。ここまで怒りをあらわにする父を初めて見たかも知れない。
 京で反織田勢力の火付け役だった将軍・足利義昭を追放し、懸念していた武田家も偉大な当主を失い他国を侵攻している余裕は無くなった。京を含めた畿内で織田家をおびやかす勢力が存在しない今こそ、近江まで出張でばってきた弱り目の朝倉家を叩く絶好の機会だった。北近江の浅井家は朝倉家の支えがあり辛うじて存続している状態で、先に朝倉家を倒してしまえば浅井家も滅亡のを辿る。だからこそ、多少の危険を冒してでも退却する朝倉勢を徹底的に叩きたいと信長は考えていた。ある程度の余力がある状態で領国の越前まで戻られては。家中の分断も織田家の侵攻に結束して戦おうという雰囲気になってしまう。一気呵成いっきかせいに片をつけたい信長としては、それだけは何としても避けたかった。
 朝倉勢の士気が上がらない中での撤退途上を狙って叩けるだけ叩いておきたい信長の思いが伝わらず、動きの鈍い家臣達に激しい怒りを覚えたのだ。
 すると、筆頭家老の佐久間信盛がおずおずと声を発した。
おそれながら……そう仰られますが、我々程の優れた家臣団は他にありませんぞ」
 先述したように、佐久間信盛を始めとする将達も決して怠けていた訳ではない。朝倉方の動向を掴むべくいつもより多くの斥候せっこうを放ち、いつ攻撃の命令が出ても対処出来るだけの支度は整えていた。それだけでなく、織田家の家臣は尾張国にあった頃から酷使され続けてきており、自分達の支えがあるからこそ今の織田家の繁栄があるという自負を持っていた。その思いを信盛が代弁した形だったが……この抗弁とも受け取れる発言は、信長の逆鱗に触れた。
「何だと……?」
 腰に下げた刀のつかに手をかけた信長が、信盛の方へつかつかと歩いて行く。その剣幕を目にした明智光秀が反射的に二人の間に割って入り、それとほぼ同時に側で控えていた前田利家が信長の体を抱える。
「大した働きもしていない分際ぶんざいで、どの口が言うか! そんなに俺の下で働くのが嫌ならば、どこへなりとも行くがいい!」
 光秀や利家に制止されながらも、怒りの収まらない信長は信盛に向かってえる。対する信盛も、自らの発言の過ちに気付いた様子で、その場で地面に額を付けて平伏した。その体は恐怖から小刻みに震えていた。
 信盛は筆頭家老の座についているが、群を抜いた武功や功績があった訳ではない。柴田勝家は敵を一蹴するだけの武力があり、明智光秀は幕府や朝廷との折衝役を務め、木下藤吉郎や丹羽長秀は調略で敵を切り崩したり作事面で貢献したりしている。信盛は織田家全体や他の将と共同で動く時はそれなりに働くものの、単独では大きな事を成し遂げた実績が他の家臣と比べて乏しかった。ただ年長で信長に仕える期間が長いというだけで筆頭家老になったのに、事あるごとにしたり顔で諫言かんげんを繰り返す信盛の態度に信長は我慢ならなかった。
「上様、お気持ちは分かりますが、どうかお許し下さい」
「佐久間様も上様のことを思っての発言ですから、平にご容赦を」
 光秀や利家、さらに柴田勝家や丹羽長秀らが懸命に宥め、信長も柄から手を離した。これで斬り捨てられる事態は何とか回避された。信長は頭に血が上って感情を抑えきれず過去に何人も斬り捨てており、歳を重ねた現在ではそうした激情に任せた手荒な事は少なくなったが、信盛の今回の発言は抑制が利かないくらいに腹が立ったのだろう。
「……皆がそこまで言うなら今回は見逃してやる」
 やや怒りが静まった信長が平身低頭している信盛に声を掛ける。一先ひとまずは許された事に胸を撫で下ろした一同だったが、信長は険しい声で「だが」と続ける。
「今年中に俺を納得させるだけの成果を挙げろ。さもなければ所領は没収だ」
 許されたと思い顔を上げた信盛の表情が、一瞬にして真っ青になる。残り四カ月の猶予が与えられただけと知り、他の家臣達の表情も沈む。
 これまで、信長は優れた才能のある者は身分や家柄を問わず積極的に登用してきた。尾張中村の水呑み百姓の生まれで草履ぞうり取りの身から家老にまで成り上がった木下藤吉郎を始めとして、甲賀出身の浪人・滝川一益、一応は幕臣ながら朝倉家で冷遇されていた明智光秀などがそれである。対して、織田家で重きを成す者の中には代々仕えてきたという家柄だけが取り柄の譜代の者も少なくなかった。その地位に見合うだけの能力が無い者を主君は淘汰するのではないか――その可能性に、家臣達は戦慄せんりつを覚えた。
 話は終わりだ、と言わんばかりに信長はサッとその場から去っていった。残された家臣達の間に重苦しい雰囲気が流れる。それは嫡男である信忠もまた同じ思いだった。
 父・信長は何人もの側室を抱え、多くの男子が居た。今は信忠が嫡男として扱われているが、その器量が疑わしいと父が判断すれば躊躇ためらいなく信忠は廃嫡はいちゃくされるだろう。それこそ信忠より具豊・信孝が優れているとなれば、織田家へ復帰させた上で嫡男に据える事も十分に考えられる。嫡男だから安泰という訳ではないのだ。
 がっくりと項垂うなだれる信盛の姿が、信忠は他人事のように思えなかった。

 信盛の一件があった織田勢だったが、戦況は圧倒的優位に進んだ。元々戦意に乏しい朝倉勢は猛追してくる織田勢に死を覚悟で食い止めようとする気概きがいのある勇士は極少数で、大半は逃げる事に手一杯という有様だった。織田勢が越前へ入るのを阻止すべく国境の刀根とね坂に勇気ある将兵が待ち構えたが、戦力差は埋めがたく激戦の末に突破された。この刀根坂の攻防で朝倉家を長年支えてきた重臣・山崎吉家、本圀寺襲撃や野田・福島の戦いに加わり織田家と対峙してきた斎藤龍興などが討死している。
 朝倉勢を追いかけるように越前へ雪崩れ込んだ織田勢は、無人の野を行くが如く南部を席巻。この追撃戦は十四日まで続き、近江から越前南部にかけておびただしい数の朝倉方の兵の死体で埋め尽くされたとされる。
 天正元年八月十五日、朝倉家の本拠地である一乗谷に辿り着いた義景だったが、出兵前から求心力が低下していた上に敗走同然で戻って来たのもあり、御家存亡の危機に駆け付ける者は居なかった。また、退却途中で離脱者が相次ぎ、一乗谷を出陣した際には二万あった兵数は約五百まで減っていた。この状況に義景は一乗谷で織田勢を迎え撃つのは困難と判断、一門衆の朝倉景鏡の助言もあり大野郡で再起を図る事を決めた。
 怒涛の勢いで進軍を続けてきた織田勢は十五・十六日と休養し、十七日から北上を再開。十八日には一乗谷に到達した。この時既に朝倉義景は大野郡へ落ち延びていたが、一乗谷に残っていた朝倉勢数百名が織田勢を入れまいと抗戦。圧倒的兵力差の前には敵わず、栄華えいがを極めた朝倉家の象徴たる一乗谷は焼き尽くされてしまった。
 八月二十日、義景が潜伏していた六坊賢松寺けんしょうじに、織田方へ寝返った景鏡が二百の手勢を率いて包囲した。数少ない近臣が奮闘する中、義景は自刃。享年四十一。これにより、約百年に渡り越前国を支配していた朝倉家は滅亡した。景鏡は義景の首を手土産に、信長へ降伏している。
 義景の自刃で幕を閉じた朝倉攻めだが、信長は明智光秀や滝川一益など一部の将を戦後処理の為に残すと返す刀で北近江に向かった。朝倉家の次は、浅井家との積年の戦いに決着をつけようとしていた。
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