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二 : 立志 - (16) 人質
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武田家が東海地方で快進撃を続けている最中、元亀三年十二月に入り変化が現れた場所があった。
その場所は、北近江。
長らく北近江に滞陣していた朝倉義景だったが、十二月三日に将兵の疲労と積雪を理由に越前へと引き揚げてしまったのだ。この身勝手な振る舞いを知った信玄は怒髪天を衝く勢いで憤慨し、激しい表現で義景を非難した手紙が『伊能文書』に残されている。長年織田家に侵食されている浅井家単独では織田家を牽制する役割は担えず、朝倉家には多少の労苦に目を瞑ってもらい打倒信長の為に働いてもらおうと信玄は期待していた。それを義景は信長を倒す絶好機を自ら手放すような判断に、信玄が激怒するのも無理はない。
年が明けた元亀四年(一五七三年)一月三日、武田勢は進軍を再開、遠江から三河へ入った。奥三河は昨年に別動隊が席巻しているが、信玄率いる本軍は平野部を制圧しようとしたのだ。まず目を付けたのは東三河の野田城で、この城は徳川家の本拠であり三河国における徳川方の最重要拠点である岡崎城やそれに次ぐ位置づけの吉田城とも地理的に近く、野田城が武田家の手に落ちると両城は危機に瀕する。武田方からすれば是が非でも落としたい城だったが……些か様子がおかしかった。野田城は堅固ながら小規模な城で、城内には将兵合わせて約五百名程度しか居なかった。それにも関わらず、二万を超える大軍の武田勢は積極的に攻めようとしなかったのである。遠江では幾つもの城を一日足らずで落としてきており、明らかに攻めが鈍かった。
武田勢は十重二十重と城を囲み、甲斐から金山衆を呼び寄せて地下道を掘り城の水の手を絶つ作戦を採った。これまでの火の出るような勢いで攻めを全く感じさせない、慎重かつ時間を掛けたやり方と言わざるを得ない。
野田城の将兵も圧倒的兵力差ながら懸命に堪えたが、二月十六日に将兵の助命を条件に開城。しかし、城を落とした武田勢はそこから先へ進軍しようとせず、そればかりか正反対の長篠城へ向かい始めた。
年が明けてからの武田勢の動きは、不可解としか言い様がなかった。そんな中、奇妙丸は父から急な呼び出しを受けた。
「人質になってくれ」
開口一番に神妙な面持ちで切り出した父。端的に短い言葉で用件を伝えるのはいつもの事だが、あまりにも脈絡がないので慣れている奇妙丸も困惑する。
そもそも、奇妙丸は織田家嫡男として大切に育てられてきた。その嫡男を突然人質に出すとは、一体どういう事なのか。
「……恐れながら、私にも分かるようご説明願えないでしょうか」
父は水化の発言の真意を質されるのを極度に嫌うが、あまりに言葉数が少な過ぎて奇妙丸には何が何だか分からず、怒られる覚悟で訊ねるしかなかった。父の方もそれを薄々勘付いていたみたいで、やや強張った表情のまま話し始める。
「それもそうだな。……先程、京から早馬が届いた。公方様が挙兵なされた」
義昭が兵を挙げた、という発言に奇妙丸も少なからず衝撃を受けた。
尾張・美濃の二ヶ国を制してさらなる飛躍を目指していた父・信長と、正当な後継者として征夷大将軍職に就きたいものの足踏みが続いていた足利義昭は、互いの利害が一致する形で永禄十一年に上洛を果たした。義昭は将軍職という“名”を、信長は京や堺の支配という“実”を得たが、その関係は長くは続かなかった。将軍の権力を制約したい信長と往年の足利将軍家の威光を復活させたい義昭とでは方向性が明らかに異なり、やがて信長が義昭に対して殿中御掟九ヶ条を突き付けると義昭も全国の大名へ秘かに御内書を送り反信長の兵を起こすよう促し始めるまでになった。浅井家が織田家と袂を分かったのも、石山本願寺が全国の門徒達へ信長に立ち向かうよう檄を飛ばしたのも、全ては義昭の働きかけがあったからだ。
それでも、信長は義昭との間に深い溝が出来たとしても、陰で糸を引いていると知りながらも、将軍として遇し続けた。敵対するより自らの手の内に囲い込んでいた方が得だと信長が判断したのだろう。今もしも義昭を手放せば、信長討伐の大義を敵対勢力に与えかねないからだ。
だが、元亀三年九月末に武田信玄が西上の動きを見せ、先月には三方ヶ原で徳川家康に完勝した事で、義昭の心境に変化があった。義昭や義昭に仕える幕臣は禄が少なく(その禄も元を正せば信長が得た領地から渡されたものだが)兵も少なかったが、武田勢の快進撃を受けて方針を転換。元亀四年二月十三日に『信長、恐るるに足らず!!』と決起したのだ。義昭自らが挙兵する事で、反信長勢力の旗頭になろうとした。
「俺に敵意が無い事を示す為には、質が居る。……それが、お主だ」
この時代、約束事の証として人質を出す(若しくは互いに送り合う)事は決して珍しくなかった。しかし、人質は誰でも良い訳でもない。万一裏切った時には斬られる事になるのだが、斬られた場合には違約した相手に相応の痛手を蒙らなければ抑止効果にならないからだ。それ故に、君主の家族や有力家臣またはその家族などに限定された。信長は嫡男の奇妙丸以外の子や血縁者を養子に出していた事情もあり、人質に出せる者が奇妙丸しか居なかった。
義昭が兵を挙げたのに対して信長は自らの跡継ぎである嫡男を人質に差し出す意思を見せたのは、自らに戦う意思は無い事を内外に示そうとした。言わば、信長の方から下手に出て和睦を乞うたのだ。
「……分かりました。喜んでお受け致します」
事情を理解した奇妙丸は、素直に父の提案を受け入れた。
不安がない訳ではない。一つ間違えれば斬られてしまうのだから、恐怖はある。けれど、自分が人質になる事で戦が収まると捉えれば、已む無しと思う。逆に考えれば、奇妙丸の身に何かあれば非難を浴びるのは義昭の側で、乱暴に扱われる心配はしなくて済みそうだ。
あとは……連れがどこまで許されるか、だ。見知った者は一人でも多いと心細くならないのだが、果たして。
「父上。いつ出立すればよろしいのでしょうか?」
最悪の場合は生きて戻れないと覚悟を決めた奇妙丸は“善は急げ”とばかりに訊ねたが、その言葉を聞いた父は慌てた様子で応えた。
「待て待て、早合点するな。まだ決まった訳ではない」
早口で制した父は、自らを落ち着かせるようにゆったりとした口調で説明を始めた。
獅子身中の虫と化していた義昭が、遂に旗幟を鮮明にした。敵になったから「さぁ、倒そう」という訳にもいかない。何故なら、相手は形骸化こそしているが現役の将軍である。これを倒す為には相当な理由が必要となる。やり方を間違えれば“将軍殺し”の汚名を着せられて没落していった三好家の二の舞になりかねない。そこで、まずは手順を踏もうと考えたのだ。
始めに、“私は公方様と敵対する気はさらさらありません。その証拠に人質を差し出します”と義昭に申し入れる。ここで提案を呑めば、奇妙丸を義昭に渡す。もし仮に人質を受け取りながら翻意すれば『約束を破ったのは公方様の方だ!』と世間に非を鳴らせる。逆に提案を拒んだ場合でも『私はこういう提案をしました、しかし公方様は拒否されました』と世間に訴える材料になる。どちらに転んでも父は損をしない展開になるのだ。
「……そういう訳だから、“もしかすると人質になるくらいの心積もりはしておいてくれ”という話だ。尤も、公方様は武田家が西上しているのを知って舞い上がっておるから、十中八九この話を蹴るだろうが」
戦国最強と謳われる武田勢が昨年十二月に戦巧者で知られる徳川家康を鎧袖一触で破り、義昭は自らの勝利を確信している節があった。そんな状況で窮地に立たされている(と思い込んでいる)信長から和睦を持ちかけられたとしても、わざわざ呑むとは考えにくい。遠くない未来に破滅を迎える筈の相手に慈悲を与える必要など無いからだ。それ故に、奇妙丸が義昭の元に人質として出される可能性は極めて低かった。
その一方で、父の話を聞いていると義昭の挙兵は想定していない様子だが、本気で和睦を乞うているように奇妙丸の目には映らなかった。それはそれで疑問に感じる。義昭の挙兵で織田方は東に武田・西に義昭と浅井に挟まれる構図となるのに、慌てたり脅威に感じたりしている素振りは見られない。義昭が信長と対峙する姿勢を打ち出したことで、信玄は正式に『将軍・義昭の求めに応じる』と大義を掲げて織田家を攻められるから、武田を勢いづかせる事になりかねない――奇妙丸はそれを危惧した。
「でも、よろしいのですか? 公方様が起つ事で武田家は名分を得て、さらに嵩に懸かって押し寄せて来るのではありませんか?」
奇妙丸が懸念を示したが、父はあっさりとした口調で答えた。
「大事ない。武田は当分上洛どころではなくなるからな」
そう言われたものの、合点がいかない奇妙丸。武田家が西上の動きを開始して以降ずっと気が気でない様子だった父が、あれだけ武田家の動向を注視していた父が、今は人が変わったかの如く気にも留めてない。一体どういう事だろうか。
奇妙丸が怪訝な表情を浮かべているのを見た父は、側に寄るよう手招きしてからそっと囁いた。
「ここだけの話だが――信玄坊主は病だ。それも、かなり重篤らしい」
父の口から明かされた衝撃の内容に、奇妙丸は思わず目を大きく見開いた。
昨年十二月に三方ヶ原で徳川勢を打ち破った武田勢は年が明けてから三河へ侵攻したが、進軍速度はそれまでと比べて遥かに遅かった上に決して大きいとは言えない野田城を甲斐から金山衆をわざわざ呼び寄せるなどした結果、この城だけで約二ヶ月も費やした。しかも、野田城を開城させたら来た道を引き返してしまった。
兵農分離が進んでない武田家では戦の度に農民を足軽として徴兵しており、田植えや刈り取りといった農繁期は戦を避けていた。しかし、今は冬の農閑期。一年で最も農作業とは無縁の時期で、軍事行動を起こすには絶好の時だ。それにも関わらず、武田家は兵を退くような動きをしている。……何かあったと考えて、不思議はない。
信玄は情報を重要視しており、“三ツ者”と呼ばれる隠密集団や“ノノウ”と呼ばれる歩き巫女を用いて情報収集と情報攪乱を行う一方、自らの身辺には腕利きの忍びを多く配置して暗殺と機密流出の阻止を担わせていた。その為、信玄の動向は他家に漏れる事は無く、健康状態や思考は謎に包まれていた。
ところが……武田家の絶対的君主である信玄が病に臥すという突発的な出来事で、鉄壁の情報統制に綻びが生じた。その僅かな間隙を突き、信長の元に信玄の容態が伝えられた。徳川家からも同様の情報が齎されており、武田勢の直近の動きも鑑みて信玄の病は真実であると結論付けられた。
昨年九月末から開始された武田家の上洛作戦で窮地に立たされていた織田家だったが、一気に風向きが変わった。脅威が取り除かれただけでなく、内なる敵と化していた義昭を一掃出来る千載一遇の好機が到来したのだ。
「奇妙。俺の留守の間、頼んだぞ。一応、呼んだらすぐに駆け付けられるよう準備はしておいてくれ」
「承知致しました」
それで話は済んだとばかりに、父はサッと立ち上がり部屋を後にした。その足取りは、いつもより軽やかに奇妙丸の目に映った。
二条城で挙兵した足利義昭に対し、信長は家臣の島田秀満・村井貞勝・僧侶の朝山日乗を使者に送り、娘を人質に差し出すから和睦するよう提案した。しかし、義昭はこの申し入れを拒否。この時点で、義昭は頼みの綱である信玄が兵を退いている事をまだ知らなかった。
義昭が突っ撥ねるのは織り込み済みだった信長は、二月二十日に柴田勝家・丹羽長秀・明智光秀・蜂屋頼隆の四将を近江に派遣。まずは義昭の挙兵に呼応して決起した幕臣の討伐に動いた。二十四日、山岡“光浄院”暹慶(後の景友)が籠もる石山砦を攻め、二十六日には暹慶が降伏すると砦を破却した。二十九日、今堅田砦を攻撃。こちらは約二刻(約四時間)の戦闘で陥落した。
石山・今堅田の両砦を落とした織田勢は京を目前に進軍を停止。この段階で信長は義昭へ『こちらの求めに応じなければ兵を出し、都を焼く』と脅しをかけた。これは信長なりの最後通牒で、和睦を考える猶予期間を与えた恰好だ。
これに対して義昭は“信玄が上洛してくるまでの辛抱”と考えていたが、その必死な姿は現職の征夷大将軍とは思えないくらいに滑稽なものだった。
その場所は、北近江。
長らく北近江に滞陣していた朝倉義景だったが、十二月三日に将兵の疲労と積雪を理由に越前へと引き揚げてしまったのだ。この身勝手な振る舞いを知った信玄は怒髪天を衝く勢いで憤慨し、激しい表現で義景を非難した手紙が『伊能文書』に残されている。長年織田家に侵食されている浅井家単独では織田家を牽制する役割は担えず、朝倉家には多少の労苦に目を瞑ってもらい打倒信長の為に働いてもらおうと信玄は期待していた。それを義景は信長を倒す絶好機を自ら手放すような判断に、信玄が激怒するのも無理はない。
年が明けた元亀四年(一五七三年)一月三日、武田勢は進軍を再開、遠江から三河へ入った。奥三河は昨年に別動隊が席巻しているが、信玄率いる本軍は平野部を制圧しようとしたのだ。まず目を付けたのは東三河の野田城で、この城は徳川家の本拠であり三河国における徳川方の最重要拠点である岡崎城やそれに次ぐ位置づけの吉田城とも地理的に近く、野田城が武田家の手に落ちると両城は危機に瀕する。武田方からすれば是が非でも落としたい城だったが……些か様子がおかしかった。野田城は堅固ながら小規模な城で、城内には将兵合わせて約五百名程度しか居なかった。それにも関わらず、二万を超える大軍の武田勢は積極的に攻めようとしなかったのである。遠江では幾つもの城を一日足らずで落としてきており、明らかに攻めが鈍かった。
武田勢は十重二十重と城を囲み、甲斐から金山衆を呼び寄せて地下道を掘り城の水の手を絶つ作戦を採った。これまでの火の出るような勢いで攻めを全く感じさせない、慎重かつ時間を掛けたやり方と言わざるを得ない。
野田城の将兵も圧倒的兵力差ながら懸命に堪えたが、二月十六日に将兵の助命を条件に開城。しかし、城を落とした武田勢はそこから先へ進軍しようとせず、そればかりか正反対の長篠城へ向かい始めた。
年が明けてからの武田勢の動きは、不可解としか言い様がなかった。そんな中、奇妙丸は父から急な呼び出しを受けた。
「人質になってくれ」
開口一番に神妙な面持ちで切り出した父。端的に短い言葉で用件を伝えるのはいつもの事だが、あまりにも脈絡がないので慣れている奇妙丸も困惑する。
そもそも、奇妙丸は織田家嫡男として大切に育てられてきた。その嫡男を突然人質に出すとは、一体どういう事なのか。
「……恐れながら、私にも分かるようご説明願えないでしょうか」
父は水化の発言の真意を質されるのを極度に嫌うが、あまりに言葉数が少な過ぎて奇妙丸には何が何だか分からず、怒られる覚悟で訊ねるしかなかった。父の方もそれを薄々勘付いていたみたいで、やや強張った表情のまま話し始める。
「それもそうだな。……先程、京から早馬が届いた。公方様が挙兵なされた」
義昭が兵を挙げた、という発言に奇妙丸も少なからず衝撃を受けた。
尾張・美濃の二ヶ国を制してさらなる飛躍を目指していた父・信長と、正当な後継者として征夷大将軍職に就きたいものの足踏みが続いていた足利義昭は、互いの利害が一致する形で永禄十一年に上洛を果たした。義昭は将軍職という“名”を、信長は京や堺の支配という“実”を得たが、その関係は長くは続かなかった。将軍の権力を制約したい信長と往年の足利将軍家の威光を復活させたい義昭とでは方向性が明らかに異なり、やがて信長が義昭に対して殿中御掟九ヶ条を突き付けると義昭も全国の大名へ秘かに御内書を送り反信長の兵を起こすよう促し始めるまでになった。浅井家が織田家と袂を分かったのも、石山本願寺が全国の門徒達へ信長に立ち向かうよう檄を飛ばしたのも、全ては義昭の働きかけがあったからだ。
それでも、信長は義昭との間に深い溝が出来たとしても、陰で糸を引いていると知りながらも、将軍として遇し続けた。敵対するより自らの手の内に囲い込んでいた方が得だと信長が判断したのだろう。今もしも義昭を手放せば、信長討伐の大義を敵対勢力に与えかねないからだ。
だが、元亀三年九月末に武田信玄が西上の動きを見せ、先月には三方ヶ原で徳川家康に完勝した事で、義昭の心境に変化があった。義昭や義昭に仕える幕臣は禄が少なく(その禄も元を正せば信長が得た領地から渡されたものだが)兵も少なかったが、武田勢の快進撃を受けて方針を転換。元亀四年二月十三日に『信長、恐るるに足らず!!』と決起したのだ。義昭自らが挙兵する事で、反信長勢力の旗頭になろうとした。
「俺に敵意が無い事を示す為には、質が居る。……それが、お主だ」
この時代、約束事の証として人質を出す(若しくは互いに送り合う)事は決して珍しくなかった。しかし、人質は誰でも良い訳でもない。万一裏切った時には斬られる事になるのだが、斬られた場合には違約した相手に相応の痛手を蒙らなければ抑止効果にならないからだ。それ故に、君主の家族や有力家臣またはその家族などに限定された。信長は嫡男の奇妙丸以外の子や血縁者を養子に出していた事情もあり、人質に出せる者が奇妙丸しか居なかった。
義昭が兵を挙げたのに対して信長は自らの跡継ぎである嫡男を人質に差し出す意思を見せたのは、自らに戦う意思は無い事を内外に示そうとした。言わば、信長の方から下手に出て和睦を乞うたのだ。
「……分かりました。喜んでお受け致します」
事情を理解した奇妙丸は、素直に父の提案を受け入れた。
不安がない訳ではない。一つ間違えれば斬られてしまうのだから、恐怖はある。けれど、自分が人質になる事で戦が収まると捉えれば、已む無しと思う。逆に考えれば、奇妙丸の身に何かあれば非難を浴びるのは義昭の側で、乱暴に扱われる心配はしなくて済みそうだ。
あとは……連れがどこまで許されるか、だ。見知った者は一人でも多いと心細くならないのだが、果たして。
「父上。いつ出立すればよろしいのでしょうか?」
最悪の場合は生きて戻れないと覚悟を決めた奇妙丸は“善は急げ”とばかりに訊ねたが、その言葉を聞いた父は慌てた様子で応えた。
「待て待て、早合点するな。まだ決まった訳ではない」
早口で制した父は、自らを落ち着かせるようにゆったりとした口調で説明を始めた。
獅子身中の虫と化していた義昭が、遂に旗幟を鮮明にした。敵になったから「さぁ、倒そう」という訳にもいかない。何故なら、相手は形骸化こそしているが現役の将軍である。これを倒す為には相当な理由が必要となる。やり方を間違えれば“将軍殺し”の汚名を着せられて没落していった三好家の二の舞になりかねない。そこで、まずは手順を踏もうと考えたのだ。
始めに、“私は公方様と敵対する気はさらさらありません。その証拠に人質を差し出します”と義昭に申し入れる。ここで提案を呑めば、奇妙丸を義昭に渡す。もし仮に人質を受け取りながら翻意すれば『約束を破ったのは公方様の方だ!』と世間に非を鳴らせる。逆に提案を拒んだ場合でも『私はこういう提案をしました、しかし公方様は拒否されました』と世間に訴える材料になる。どちらに転んでも父は損をしない展開になるのだ。
「……そういう訳だから、“もしかすると人質になるくらいの心積もりはしておいてくれ”という話だ。尤も、公方様は武田家が西上しているのを知って舞い上がっておるから、十中八九この話を蹴るだろうが」
戦国最強と謳われる武田勢が昨年十二月に戦巧者で知られる徳川家康を鎧袖一触で破り、義昭は自らの勝利を確信している節があった。そんな状況で窮地に立たされている(と思い込んでいる)信長から和睦を持ちかけられたとしても、わざわざ呑むとは考えにくい。遠くない未来に破滅を迎える筈の相手に慈悲を与える必要など無いからだ。それ故に、奇妙丸が義昭の元に人質として出される可能性は極めて低かった。
その一方で、父の話を聞いていると義昭の挙兵は想定していない様子だが、本気で和睦を乞うているように奇妙丸の目には映らなかった。それはそれで疑問に感じる。義昭の挙兵で織田方は東に武田・西に義昭と浅井に挟まれる構図となるのに、慌てたり脅威に感じたりしている素振りは見られない。義昭が信長と対峙する姿勢を打ち出したことで、信玄は正式に『将軍・義昭の求めに応じる』と大義を掲げて織田家を攻められるから、武田を勢いづかせる事になりかねない――奇妙丸はそれを危惧した。
「でも、よろしいのですか? 公方様が起つ事で武田家は名分を得て、さらに嵩に懸かって押し寄せて来るのではありませんか?」
奇妙丸が懸念を示したが、父はあっさりとした口調で答えた。
「大事ない。武田は当分上洛どころではなくなるからな」
そう言われたものの、合点がいかない奇妙丸。武田家が西上の動きを開始して以降ずっと気が気でない様子だった父が、あれだけ武田家の動向を注視していた父が、今は人が変わったかの如く気にも留めてない。一体どういう事だろうか。
奇妙丸が怪訝な表情を浮かべているのを見た父は、側に寄るよう手招きしてからそっと囁いた。
「ここだけの話だが――信玄坊主は病だ。それも、かなり重篤らしい」
父の口から明かされた衝撃の内容に、奇妙丸は思わず目を大きく見開いた。
昨年十二月に三方ヶ原で徳川勢を打ち破った武田勢は年が明けてから三河へ侵攻したが、進軍速度はそれまでと比べて遥かに遅かった上に決して大きいとは言えない野田城を甲斐から金山衆をわざわざ呼び寄せるなどした結果、この城だけで約二ヶ月も費やした。しかも、野田城を開城させたら来た道を引き返してしまった。
兵農分離が進んでない武田家では戦の度に農民を足軽として徴兵しており、田植えや刈り取りといった農繁期は戦を避けていた。しかし、今は冬の農閑期。一年で最も農作業とは無縁の時期で、軍事行動を起こすには絶好の時だ。それにも関わらず、武田家は兵を退くような動きをしている。……何かあったと考えて、不思議はない。
信玄は情報を重要視しており、“三ツ者”と呼ばれる隠密集団や“ノノウ”と呼ばれる歩き巫女を用いて情報収集と情報攪乱を行う一方、自らの身辺には腕利きの忍びを多く配置して暗殺と機密流出の阻止を担わせていた。その為、信玄の動向は他家に漏れる事は無く、健康状態や思考は謎に包まれていた。
ところが……武田家の絶対的君主である信玄が病に臥すという突発的な出来事で、鉄壁の情報統制に綻びが生じた。その僅かな間隙を突き、信長の元に信玄の容態が伝えられた。徳川家からも同様の情報が齎されており、武田勢の直近の動きも鑑みて信玄の病は真実であると結論付けられた。
昨年九月末から開始された武田家の上洛作戦で窮地に立たされていた織田家だったが、一気に風向きが変わった。脅威が取り除かれただけでなく、内なる敵と化していた義昭を一掃出来る千載一遇の好機が到来したのだ。
「奇妙。俺の留守の間、頼んだぞ。一応、呼んだらすぐに駆け付けられるよう準備はしておいてくれ」
「承知致しました」
それで話は済んだとばかりに、父はサッと立ち上がり部屋を後にした。その足取りは、いつもより軽やかに奇妙丸の目に映った。
二条城で挙兵した足利義昭に対し、信長は家臣の島田秀満・村井貞勝・僧侶の朝山日乗を使者に送り、娘を人質に差し出すから和睦するよう提案した。しかし、義昭はこの申し入れを拒否。この時点で、義昭は頼みの綱である信玄が兵を退いている事をまだ知らなかった。
義昭が突っ撥ねるのは織り込み済みだった信長は、二月二十日に柴田勝家・丹羽長秀・明智光秀・蜂屋頼隆の四将を近江に派遣。まずは義昭の挙兵に呼応して決起した幕臣の討伐に動いた。二十四日、山岡“光浄院”暹慶(後の景友)が籠もる石山砦を攻め、二十六日には暹慶が降伏すると砦を破却した。二十九日、今堅田砦を攻撃。こちらは約二刻(約四時間)の戦闘で陥落した。
石山・今堅田の両砦を落とした織田勢は京を目前に進軍を停止。この段階で信長は義昭へ『こちらの求めに応じなければ兵を出し、都を焼く』と脅しをかけた。これは信長なりの最後通牒で、和睦を考える猶予期間を与えた恰好だ。
これに対して義昭は“信玄が上洛してくるまでの辛抱”と考えていたが、その必死な姿は現職の征夷大将軍とは思えないくらいに滑稽なものだった。
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