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二 : 立志 - (1) 侮れない宗教の力
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伝兵衛が奇妙丸に仕えるようになって半月が経とうとした頃、座学の為に沢彦が岐阜城へ訪ねて来た。
沢彦が見慣れぬ人物に目を留めると、奇妙丸が出会った経緯も含めてあらましを説明した。
「成る程……なかなか辛い思いをされてきたのですな。そのフロイスという南蛮坊主と会えて、本当に良かったです」
人買いによって海外に売り払われる寸前だった身の上を聞かされた沢彦は、心の底から共感する姿勢を見せる。
「沢彦和尚は、南蛮から伝わってきた耶蘇教についてどうお考えですか?」
先日沢彦へ帰国の挨拶をした際、奇妙丸は土産話の一つに畿内で急速に耶蘇教の信者が増えている事を伝えたところ、興味深げに頷いていたのが印象に残っていた。その後どのような教えか尋ねられたので奇妙丸は覚えている範囲で答えると、それきりその話題について触れる事は無かった。もしかすると快く思っていないのかも知れない、と奇妙丸は感じていた。
ただ、それはどうやら思い違いだったみたいだ。
「我々仏教とは成り立ちや考え方に違いはありますが、悩める民を救わんとする事は一緒ですから、拙僧は特に構わないかと」
「……驚きました。以前お会いした際には何も言及されませんでしたので、てっきり好ましくないとばかり思っていました」
「先日に奇妙丸様から耶蘇教の存在について初めて伺いましたが、よく知らない段階で軽々にお答えすべきでないと考え、言葉を控えさせて頂きました。その後、京の知己を頼って耶蘇教にまつわる書物を送ってもらい、どういう教えか知る事が出来ましたので答えたまでです」
仏教勢力の中には、新たに入ってきた耶蘇教を敵対視する者が少なくなかった。耶蘇教への改宗者が増えればその分だけ仏教信者の減少に直結し、既得権益が損なわれると危惧した為だ。一部の僧侶は武家や商人と癒着して富を蓄えて贅を尽くした生活を送っており、寄付やお布施が脅かされるのを特に警戒していた。勿論戒律を守り、貧しい者達への慈善活動を行う僧侶も居たが、割合では善良な方が少ないと言わざるを得なかった。
「それに……拙僧は俗に塗れた生臭坊主共とは違い、金も地位も興味がありませぬ。悩み苦しんでいる者の気持ちを鎮めるのであれば、仏教でも耶蘇教でも構わないです」
キッパリと言い切った沢彦和尚に、奇妙丸は得心した。
沢彦が私利私欲の為に動く人なら、何の見返りも望めない奇妙丸に教授するよりは実入りが見込める商人や武家の相手に勤しむことだろう。小金を稼いだり多くの人に傅かれる事に全く興味を示さない人が居るのは知っていたが、和尚みたいな人なんだろうなと奇妙丸は漠然と思った。
ポンと手を叩いた沢彦が、何かを思いついたような表情を浮かべた。
「……では、本日は宗教についてお話ししましょうか」
沢彦の座学は『孫子』や『論語』などの解説では書物を用いるが、基本的にはある題目に対して討議する事が多いので書物を用いない場合が多い。その題目も雑談から取り上げる事が大半で、書物を読むよりもずっとタメになる。
奇妙丸自身、深く信仰している宗派は無い。父・信長は日蓮宗と近しい関係にあるが、これは妙覚寺の住持である日饒は信長の義父・斎藤道三の四男という間柄だったり、種子島や堺で積極的に布教活動を行っていた本能寺が鉄砲や硝石の入手に影響力を有していたりと、帰依するよりも政治的利用価値が大きい事が要因だった。他にも桶狭間の合戦後に戦勝祈願をした熱田神宮に塀を奉納しているが、特に深い関わりを持っている訳ではない。この事から、奇妙丸は父が神仏に対する信仰は薄い……と捉えていた。奇妙丸も一時耶蘇教に興味を示したものの、どちらかと言えば既存の仏教に嫌気が差したというよりは目新しさに惹かれた部分が大きかった。
武家でも出家する者は少なからず存在するが、理由は大きく分けて二つ挙げられる。一つは、跡目争いを未然に防ぐ目的。病を患ったり後から生まれたりと色々な理由で幼い内から仏門に入れる事で、余計な争いの火種を摘むのが狙いだ。この場合、本来家督を継ぐ筈だった者が思わぬ事態で亡くなった場合には還俗して後継者に名乗りを上げる例もある。現将軍・足利義昭や駿河の今川義元がこれに該当する。もう一つは、出家を契機に何かを変える目的。現状からさらなる高みを目指したい場合やあまり好ましくない状況を打開したい場合などで出家を通じて名を改めるキッカケにするのが狙いだ。こちらは甲斐の武田信玄や越後の上杉謙信が該当する。年齢を重ねて純粋に世俗から離れて仏門に入る例もあるが、何かしらの目論見がある事が殆どだ。
「民草[たみくさ]は、どうして信仰に縋るとお思いですか?」
沢彦から問われた奇妙丸は、まず庶民になったつもりで考えてみることにした。
堺や京で目の当たりにした耶蘇教の勢いもそうだが、庶民と宗教は密接な繋がりがあった。孤児や捨て子を寺で保護して育てたり、食べる物に困っている者達に炊き出しを行ったりと慈善活動を行う僧侶も少なからず存在し、その心意気に感銘を受けて援助を申し出る支援者も多く居た。私腹を肥やす一部の悪者を除けば、大多数の仏教関係者は人々の苦しみや悩みに向き合おうとしていた。
沢彦から問われた奇妙丸は、まず庶民になった気で考えてみることにした。
「……平穏とは程遠い現世での辛苦を少しでも和らげたい、または来世へ希望を託す為、でしょうか」
奇妙丸の答えに、沢彦は「なかなか好い線を行かれてますな」と言って相好を崩した。
「百姓は年貢を搾り取られるだけでなく、戦があれば足軽として徴兵され、普請があれば労役に駆り出され、しかも戦乱があれば田畑は荒らされ乱妨取りに遭う……。百姓だけではありません。町人も敵方の侵攻があれば家々は焼かれ、金目の物は略奪される。これで民が安心して暮らせるでしょうか?」
織田弾正忠家の嫡男として生まれ育った奇妙丸はこれまで何不自由なく暮らしてきたが、伝兵衛のように小さな国人でも乱世の荒波に呑まれれば奴隷まで一気に転落してしまう。武家だからと言って安泰ではないのだ。そんな世の中で人々の不安の受け皿となったのが、宗教だった。
人々は宗教に帰依する事で、神仏の加護を得られる現世利益や苦しみから解き放たれる極楽浄土へ行くのを願い、辛く悲しい出来事が多い現世を生き抜く為の精神的な支えとしていた。
「信仰は、確かにこの荒廃した世を生きる人々にとって心の拠り所となる大切なものです。されど、信仰に因り新たな不幸が生まれているのも、また事実」
浄土真宗(一向宗とも)では、本願寺八世・蓮如が“講”と呼ばれる組織を作って人々に真宗の教えを聴ける場を設けたり、教祖・親鸞の教えを簡単で分かりやすく記された“御文”を制作して頒布したりするなどした結果、人々の間で急速に信者を増やしていった。但し、その一方で同じ真宗の門徒同士が結束する事により、新たな弊害も生まれた。他宗派間との争いや支配階級への一揆を誘発させたのである。
天文五年(一五三六年)二月、法華宗が比叡山延暦寺に対して『どちらの教えが優れているか』対決する宗教問答を行う旨を申し入れ、延暦寺もこれに応じた。異なる宗派間での討論は度々行われてきたので、この事に関しては何の問題も無かった。三月三日、天台宗延暦寺の代表・華王房と法華宗の代表・松本“新左衛門”久吉が問答を重ねた末、久吉が華王房を論破して法華宗側の勝利となった。
だが、“由緒ある延暦寺が法華宗の一般宗徒に負かされた”という噂が広まると、面目を潰されたと解釈した延暦寺側は日蓮宗が名乗っている“法華宗”の使用差し止めを幕府に訴えたが、これも斥けられてしまった。二度も面子を潰された事で、延暦寺側は京の法華宗討伐を決意した。
七月、延暦寺側は京の法華宗寺院二十一本山に対し、延暦寺の末寺になり上納金を支払うよう要求したが、法華宗側は当然ながら拒否。これを受け、延暦寺側は朝廷・幕府に法華宗討伐の許可を求め、周辺の大名や同じく法華宗と敵対する他宗派に協力を仰いだ。近江の六角家はこれに応じ、他の勢力は中立を保つ事を約束した。
七月二十三日、延暦寺の僧兵と志願兵・六角家の手勢合わせて約六万の兵が京の市中に押し寄せ、法華宗の宗徒・僧兵総勢凡そ二万がこれを迎え撃った。法華宗側は延暦寺側の侵攻を想定して事前に堀を掘るなど備えていたのもあり、開戦当初は法華宗側が優勢だった。しかし、数で圧倒する延暦寺側が徐々に優位に立つと、二十七日までに法華宗二十一本山は全て焼け落とされてしまった。
また、延暦寺・六角勢が放った火は洛中に燃え広がり、京の下京全域と上京の三分の一が焼失する程の大火に発展。これはかつて約十年に渡り繰り広げられてきた応仁の乱を上回る規模の被害だった。この一連の戦いは後に“法華一揆”と呼ばれ、隆盛を誇った京の法華宗が一時的とは言えども壊滅させられる事態になった。
他にも、天文元年には京で勢力を伸ばしつつあった浄土真宗の本山・山科本願寺に、法華宗の宗徒・僧兵が襲来。本願寺側も門徒などの兵で応戦したが敗れ、焼き討ちに遭っている。京を追われた本願寺は摂津石山で再建されるのだが、今回の事を教訓として他宗派や武家勢力の侵攻を想定した要害堅固な城塞に生まれ変わっている。
以上の事から、室町時代から戦国時代にかけて異なる宗派間で武家顔負けの抗争が行われていたのが分かるかと思う。
「加賀国では国人と百姓などの一向一揆が守護を倒し、武家の支配を受けない“百姓の持ちたる国”と呼ばれる状態が長らく続いております」
「何と……!?」
沢彦の口から明かされた言葉に、奇妙丸は率直に驚いた。奇妙丸の生まれ育った尾張に当て嵌めれば、尾張国守護の斯波氏が国人達や一向一揆に滅ぼされるのと一緒だ。到底考えられない事ではあるが、沢彦が言うからには事実なのだろう。
文明三年(一四七一年)、蓮如は延暦寺や法華宗等の迫害から逃れ、加賀国境に近い越前吉崎の地に吉崎御坊を建立。ここを拠点に北陸地方で真宗の教えを広める活動に勤しんだ。先述したように、蓮如は誰でも真宗の教えが分かるように工夫を施した成果もあり、越前だけでなく加賀でも急速に門徒の数を増やしていった。
この当時、加賀の守護・富樫家は家中を二分する争いの真っ只中にあった。京で応仁の乱が起きると、兄・政親は東軍に、弟・幸千代は西軍に与し、富樫家の家督を巡る争いが勃発した。当初は浄土真宗高田派や越前守護代・甲斐敏光の支援を受けた幸千代方が優位に立ち、苦戦を強いられていた政親は蓮如に協力を仰いだ。本願寺派の影響力を拡大させる為には高田派の力を削ぎたい思惑を抱いていた蓮如は、この申し出を受諾。門徒や国人に向けて幸千代方と戦うよう呼び掛けた。蓮如の檄に応じた国人勢・一揆勢が蜂起した結果、文明六年(一四七四年)に幸千代を倒した。
蓮如を始めとする本願寺派の支援もあり勝利を収めた政親だったが、その影響力の大きさに『次は自分が倒されるのでは』と危惧を抱き、真宗門徒の弾圧に舵を切った。一方の本願寺方も政親の締め付けに警戒感を募らせ、蓮如の側近である下間蓮崇が密かに『蓮如の意思』と偽り一揆の扇動に走る事態に発展した。こうした状況を憂いた蓮如は文明七年(一四七五年)に吉崎の地を去り、独断で一揆を扇動した蓮崇を破門に処するなど、事態の鎮静化を図った。しかし、蓮如の思いは通じず、守護と本願寺方の溝は深まっていくばかりだった。
長享二年(一四八八年)、積年の真宗弾圧に加えて足利義尚による六角征伐への出征費用捻出の為に政親が重税を課した事で、国人・民衆の怒りが爆発。政親を討つべく国人と一揆が蜂起した。この動きに政親は遠征先の近江から慌てて加賀へ帰国したが、猛火の如く攻め立てる一揆勢の勢いに為す術もなく、本拠・高尾城を囲まれた政親は自害に追い込まれた。一揆・国人勢は政親の次の守護に富樫泰高を据えたが、実権を伴わない傀儡同然で、加賀国は武家の支配を受けない国として戦国の世に君臨していく事となる。
「加賀の近隣に有力な武家勢力が少ないのもありますが、それでも八十年余りも独立しているのは弱肉強食の戦国乱世でも異例の事でしょう。隣国の朝倉家は版図を広げるべく加賀へ幾度も侵攻していますが、一揆勢は撃退するどころか越前へ攻め込む事もあるとか」
「それは……凄まじいな」
弱き者は強き者に喰われる群雄割拠の時代で、他国からの侵攻に屈するどころか撥ね返すのは、即ちそれだけ地力がある証拠。富樫政親を倒してから八十年以上も武家の統治を受けない状態が続いているのは、率直に凄い事だと奇妙丸は思った。商人の合議で運営していた堺も、今年に入って父・信長の下に屈している。長く続いている事自体に意味があるのだ。
「……今の話が本当なら、まるで夢のような話だな」
「ただ、一概にそうとは言えません」
沢彦の思わせぶりな発言に、小首を傾げる奇妙丸。沢彦はさらに続ける。
「政親を倒して暫くは国人達と一揆衆が治めておりましたが、やがて石山本願寺から坊官が派遣されて本願寺が実効支配するようになりました。表向きは“百姓の持ちたる国”と呼ばれ武家の干渉を受けておりませんが、内輪では支配する本願寺方と支配される国人・民衆の間で度々争いも起きております」
「何だ、それでは上に立つ者が武家でなく坊主に変わっただけではないか」
結局は同じではないか、と幻滅する奇妙丸。その分かりやすい反応に沢彦はクスッと笑ったが、すぐに表情を引き締めて言った。
「大事なのは、坊主の呼び掛けに応じて国人だけでなく百姓達が武器を取り、武家を排除出来るだけの大きなうねりを生み出せる点にあります」
沢彦の指摘に、奇妙丸はハッとさせられた。そもそも、武家より百姓や町人の方が圧倒的に多い。もし両者が戦う事になった場合、一対一だと普段から鍛錬を積んでいる武家の方に分があるが、武家一人に対して武家でない者が二人なり三人なりで攻め懸かれば勝負は分からない。おまけに、百姓は足軽として徴発される事もあるので戦闘に関して全くの素人ではない可能性もあり、さらに言えば野盗などに備えて家に武器を置いている者も少なくない。もしも坊主が百姓に一揆を扇動するような事があれば……考えただけで背筋が寒くなる。
「西三河で数年前に起きた一向一揆では、坊主達の檄に応じた大勢の家臣が主君に反旗を翻し、家中を二分する大きな戦となりました。半年程で一揆は鎮圧出来ましたが、一つ間違えば加賀の二の舞になっていてもおかしくありませんでした」
元々、西三河は浄土真宗の信仰が篤い地域で、特に本證寺・上宮寺・勝鬘寺は“三河三ヶ寺”と呼ばれる程に強い影響力を持ち、家康の父・松平広忠から徴税や犯罪者の引き渡しに応じない権利の“守護不入”の特権を与えられる程だった。
桶狭間の合戦以降、今川勢力を一掃して三河国を統一した松平(現・徳川)家康は、体制の強化を図るべく聖域とされてきた三河三ヶ寺にも税を納めるよう迫った。これに対し、既得権益を侵される事を恐れた三ヶ寺側は強く反発。永禄六年、本證寺住職の空誓は反家康の兵を挙げるよう三河全土に檄を飛ばした。この檄に応じた門徒や家康と敵対する国人勢力、さらには徳川家中の浄土真宗を信仰する家臣などが一揆勢に加わり、大きなうねりとなって松平勢に襲い掛かった。一時は松平家の本拠である岡崎城に攻め寄せられる程の窮地に陥った家康だが、家康の元を離反した家臣達が主君に刃を向けなかった事もあり地道に勝利を重ねて少しずつ挽回していった。そして、永禄七年一月十五日の馬頭原合戦に勝利した事で家康は優位に立ち、一揆勢と和議を結ぶに至った。家康は御家の忠義と信仰心の板挟みの末に離反を決めた家臣達に対し、刃向かった事を不問とした上で帰参を認める姿勢を打ち出した事で、多くの家臣が松平家に復帰した。一方で、今回の一揆で主導的役割を果たした三ヶ寺は破却し、三河国内で浄土真宗を禁教にするなど断固とした対応を執った。こうして、半年以上に渡り続いた三河の一向一揆は終息したのである。
「では和尚。一揆を起こさせないようにするには、どうすればよろしいのでしょうか?」
宗教が起因で争いに繋がる事が分かった奇妙丸。しかし、同じ宗教を信仰していても一揆が起きている地域と起きていない地域がある。例えば、尾張国にも浄土真宗の寺はあるが、一揆は起きていない。一方で、隣国の三河国では御家を揺るがす一向一揆が勃発している。この違いは何だろうか。
「手っ取り早いのは、有害な信仰を禁じる事でしょうな」
沢彦の回答に、奇妙丸も思わず“成る程”と頷く。しかし、時間が経つにつれて何か引っかかる感じがした。いつもは理路整然とした話し振りをしている沢彦にしては珍しく、言動が些か荒っぽいというか乱暴というか……。
当惑している奇妙丸に、沢彦は厳しい表情で言った。
「――ただ、安直に禁教を行うのは、愚の骨頂」
いつになく険しい声色で話す沢彦。さらに続ける。
「信仰は個々人の自由です。それを他人から『その教えは有害だから信仰するな、別の教えに改宗しろ』と強制されれば、反発は必至。自由を侵害されると分かれば、人々は『守らねば』と必ず立ち上がります。争いの種を自ら蒔くなど、愚か者のやる事です」
奇妙丸は、自分の事に当て嵌めて考えてみる。仏教を信仰している自分が、誰かから『仏教は危険な思想だ、耶蘇教に改宗しろ』と強要されたら……正直、気分は良くない。自分はこの教えが素晴らしいと思っているから信じているのであって、他人様から変えろと言われて『はい、そうですね』とはならないし、寧ろカチンと来る。棄教しなければ処罰すると通告されようものなら、恐らくは信仰を守る為に戦う事も辞さないだろう。
我が身に置き換えて考えれば考える程に、有り得ない選択だと奇妙丸は思った。
「大切なのは、自分の意に沿わない思想を無理矢理抑え込むのではなく、民に不平不満を抱かせない事です」
「……善政を布く事で、宗教が不満の受け皿となるのを防ぐのですね」
奇妙丸の言葉に沢彦は「然り」と頷く。
浄土真宗や法華宗、他の宗派もそうだが、宗徒同士の結び付きはとても強く、不平不満が鬱積すれば爆発して一揆を引き起こす要因になる。裏を返せば、人々に不平不満を極力抱かせないようにすれば、一揆が起きる可能性は限りなく低くなる。民も好き好んで一揆を起こしている訳ではなく、生きていく為に仕方なく戦う事を選択しているのだ。出来るならば安穏と暮らしていきたい筈で、武器を取って立ち上がるのはあくまで最終手段なのだ。
しかし、善政を布くと簡単に言うけれど、これがまた難しい。年貢の歩合を重くすれば武家は潤うが民は重税に苦しんで不満の温床になる。反面、歩合を軽くすれば民は喜ぶものの武家は実入りが減って財政的に厳しくなる。戦は勿論、普請をするのも銭が掛かる。娘が輿入れするなら豪勢に送り出してあげたいし、御家の為に尽くしてくれた血縁者が亡くなれば荘厳な式をしてあげたい。抱えている家臣や下働きの者への給金もある。民の不満を気にするあまりに困窮してしまっては元も子もないのだ。
民も武家も納得する負担の割合にして、賄賂や不公正な行いをする者を排除していく。一番遠回りな方法ではあるが、民との信頼を築いていく為には最短の道だ。
「但し……」
神妙な面持ちをしている奇妙丸へ、沢彦が声を掛ける。
「奇妙丸様はいずれ織田弾正忠家を継がれる御方。民を思いやる気持ちも大切ですが、民の人気が欲しいと阿るばかりですと御家を傾かせる事にもなりかねません。国の為、民の為に必要とあらば、民の反発を招いても断固とした態度でやり通す事も頭の片隅に留めておいて下され」
武家の当主となれば、民が見えない所の脅威にも気付く事がある。民が良いと思っているものでも、実は後々に厄災となって降り掛かって来る悪いものになるかも知れない。そういう時は、先々の危険を取り除く為に反発覚悟でやり通す必要がある――沢彦はそう説くのだ。
「……分かりました。覚えておきます」
国の舵取りを任される者の自覚と責任に、奇妙丸は無意識の内に背筋を伸ばした。その表情を確かめた沢彦は満足そうに一つ頷いた。
沢彦が見慣れぬ人物に目を留めると、奇妙丸が出会った経緯も含めてあらましを説明した。
「成る程……なかなか辛い思いをされてきたのですな。そのフロイスという南蛮坊主と会えて、本当に良かったです」
人買いによって海外に売り払われる寸前だった身の上を聞かされた沢彦は、心の底から共感する姿勢を見せる。
「沢彦和尚は、南蛮から伝わってきた耶蘇教についてどうお考えですか?」
先日沢彦へ帰国の挨拶をした際、奇妙丸は土産話の一つに畿内で急速に耶蘇教の信者が増えている事を伝えたところ、興味深げに頷いていたのが印象に残っていた。その後どのような教えか尋ねられたので奇妙丸は覚えている範囲で答えると、それきりその話題について触れる事は無かった。もしかすると快く思っていないのかも知れない、と奇妙丸は感じていた。
ただ、それはどうやら思い違いだったみたいだ。
「我々仏教とは成り立ちや考え方に違いはありますが、悩める民を救わんとする事は一緒ですから、拙僧は特に構わないかと」
「……驚きました。以前お会いした際には何も言及されませんでしたので、てっきり好ましくないとばかり思っていました」
「先日に奇妙丸様から耶蘇教の存在について初めて伺いましたが、よく知らない段階で軽々にお答えすべきでないと考え、言葉を控えさせて頂きました。その後、京の知己を頼って耶蘇教にまつわる書物を送ってもらい、どういう教えか知る事が出来ましたので答えたまでです」
仏教勢力の中には、新たに入ってきた耶蘇教を敵対視する者が少なくなかった。耶蘇教への改宗者が増えればその分だけ仏教信者の減少に直結し、既得権益が損なわれると危惧した為だ。一部の僧侶は武家や商人と癒着して富を蓄えて贅を尽くした生活を送っており、寄付やお布施が脅かされるのを特に警戒していた。勿論戒律を守り、貧しい者達への慈善活動を行う僧侶も居たが、割合では善良な方が少ないと言わざるを得なかった。
「それに……拙僧は俗に塗れた生臭坊主共とは違い、金も地位も興味がありませぬ。悩み苦しんでいる者の気持ちを鎮めるのであれば、仏教でも耶蘇教でも構わないです」
キッパリと言い切った沢彦和尚に、奇妙丸は得心した。
沢彦が私利私欲の為に動く人なら、何の見返りも望めない奇妙丸に教授するよりは実入りが見込める商人や武家の相手に勤しむことだろう。小金を稼いだり多くの人に傅かれる事に全く興味を示さない人が居るのは知っていたが、和尚みたいな人なんだろうなと奇妙丸は漠然と思った。
ポンと手を叩いた沢彦が、何かを思いついたような表情を浮かべた。
「……では、本日は宗教についてお話ししましょうか」
沢彦の座学は『孫子』や『論語』などの解説では書物を用いるが、基本的にはある題目に対して討議する事が多いので書物を用いない場合が多い。その題目も雑談から取り上げる事が大半で、書物を読むよりもずっとタメになる。
奇妙丸自身、深く信仰している宗派は無い。父・信長は日蓮宗と近しい関係にあるが、これは妙覚寺の住持である日饒は信長の義父・斎藤道三の四男という間柄だったり、種子島や堺で積極的に布教活動を行っていた本能寺が鉄砲や硝石の入手に影響力を有していたりと、帰依するよりも政治的利用価値が大きい事が要因だった。他にも桶狭間の合戦後に戦勝祈願をした熱田神宮に塀を奉納しているが、特に深い関わりを持っている訳ではない。この事から、奇妙丸は父が神仏に対する信仰は薄い……と捉えていた。奇妙丸も一時耶蘇教に興味を示したものの、どちらかと言えば既存の仏教に嫌気が差したというよりは目新しさに惹かれた部分が大きかった。
武家でも出家する者は少なからず存在するが、理由は大きく分けて二つ挙げられる。一つは、跡目争いを未然に防ぐ目的。病を患ったり後から生まれたりと色々な理由で幼い内から仏門に入れる事で、余計な争いの火種を摘むのが狙いだ。この場合、本来家督を継ぐ筈だった者が思わぬ事態で亡くなった場合には還俗して後継者に名乗りを上げる例もある。現将軍・足利義昭や駿河の今川義元がこれに該当する。もう一つは、出家を契機に何かを変える目的。現状からさらなる高みを目指したい場合やあまり好ましくない状況を打開したい場合などで出家を通じて名を改めるキッカケにするのが狙いだ。こちらは甲斐の武田信玄や越後の上杉謙信が該当する。年齢を重ねて純粋に世俗から離れて仏門に入る例もあるが、何かしらの目論見がある事が殆どだ。
「民草[たみくさ]は、どうして信仰に縋るとお思いですか?」
沢彦から問われた奇妙丸は、まず庶民になったつもりで考えてみることにした。
堺や京で目の当たりにした耶蘇教の勢いもそうだが、庶民と宗教は密接な繋がりがあった。孤児や捨て子を寺で保護して育てたり、食べる物に困っている者達に炊き出しを行ったりと慈善活動を行う僧侶も少なからず存在し、その心意気に感銘を受けて援助を申し出る支援者も多く居た。私腹を肥やす一部の悪者を除けば、大多数の仏教関係者は人々の苦しみや悩みに向き合おうとしていた。
沢彦から問われた奇妙丸は、まず庶民になった気で考えてみることにした。
「……平穏とは程遠い現世での辛苦を少しでも和らげたい、または来世へ希望を託す為、でしょうか」
奇妙丸の答えに、沢彦は「なかなか好い線を行かれてますな」と言って相好を崩した。
「百姓は年貢を搾り取られるだけでなく、戦があれば足軽として徴兵され、普請があれば労役に駆り出され、しかも戦乱があれば田畑は荒らされ乱妨取りに遭う……。百姓だけではありません。町人も敵方の侵攻があれば家々は焼かれ、金目の物は略奪される。これで民が安心して暮らせるでしょうか?」
織田弾正忠家の嫡男として生まれ育った奇妙丸はこれまで何不自由なく暮らしてきたが、伝兵衛のように小さな国人でも乱世の荒波に呑まれれば奴隷まで一気に転落してしまう。武家だからと言って安泰ではないのだ。そんな世の中で人々の不安の受け皿となったのが、宗教だった。
人々は宗教に帰依する事で、神仏の加護を得られる現世利益や苦しみから解き放たれる極楽浄土へ行くのを願い、辛く悲しい出来事が多い現世を生き抜く為の精神的な支えとしていた。
「信仰は、確かにこの荒廃した世を生きる人々にとって心の拠り所となる大切なものです。されど、信仰に因り新たな不幸が生まれているのも、また事実」
浄土真宗(一向宗とも)では、本願寺八世・蓮如が“講”と呼ばれる組織を作って人々に真宗の教えを聴ける場を設けたり、教祖・親鸞の教えを簡単で分かりやすく記された“御文”を制作して頒布したりするなどした結果、人々の間で急速に信者を増やしていった。但し、その一方で同じ真宗の門徒同士が結束する事により、新たな弊害も生まれた。他宗派間との争いや支配階級への一揆を誘発させたのである。
天文五年(一五三六年)二月、法華宗が比叡山延暦寺に対して『どちらの教えが優れているか』対決する宗教問答を行う旨を申し入れ、延暦寺もこれに応じた。異なる宗派間での討論は度々行われてきたので、この事に関しては何の問題も無かった。三月三日、天台宗延暦寺の代表・華王房と法華宗の代表・松本“新左衛門”久吉が問答を重ねた末、久吉が華王房を論破して法華宗側の勝利となった。
だが、“由緒ある延暦寺が法華宗の一般宗徒に負かされた”という噂が広まると、面目を潰されたと解釈した延暦寺側は日蓮宗が名乗っている“法華宗”の使用差し止めを幕府に訴えたが、これも斥けられてしまった。二度も面子を潰された事で、延暦寺側は京の法華宗討伐を決意した。
七月、延暦寺側は京の法華宗寺院二十一本山に対し、延暦寺の末寺になり上納金を支払うよう要求したが、法華宗側は当然ながら拒否。これを受け、延暦寺側は朝廷・幕府に法華宗討伐の許可を求め、周辺の大名や同じく法華宗と敵対する他宗派に協力を仰いだ。近江の六角家はこれに応じ、他の勢力は中立を保つ事を約束した。
七月二十三日、延暦寺の僧兵と志願兵・六角家の手勢合わせて約六万の兵が京の市中に押し寄せ、法華宗の宗徒・僧兵総勢凡そ二万がこれを迎え撃った。法華宗側は延暦寺側の侵攻を想定して事前に堀を掘るなど備えていたのもあり、開戦当初は法華宗側が優勢だった。しかし、数で圧倒する延暦寺側が徐々に優位に立つと、二十七日までに法華宗二十一本山は全て焼け落とされてしまった。
また、延暦寺・六角勢が放った火は洛中に燃え広がり、京の下京全域と上京の三分の一が焼失する程の大火に発展。これはかつて約十年に渡り繰り広げられてきた応仁の乱を上回る規模の被害だった。この一連の戦いは後に“法華一揆”と呼ばれ、隆盛を誇った京の法華宗が一時的とは言えども壊滅させられる事態になった。
他にも、天文元年には京で勢力を伸ばしつつあった浄土真宗の本山・山科本願寺に、法華宗の宗徒・僧兵が襲来。本願寺側も門徒などの兵で応戦したが敗れ、焼き討ちに遭っている。京を追われた本願寺は摂津石山で再建されるのだが、今回の事を教訓として他宗派や武家勢力の侵攻を想定した要害堅固な城塞に生まれ変わっている。
以上の事から、室町時代から戦国時代にかけて異なる宗派間で武家顔負けの抗争が行われていたのが分かるかと思う。
「加賀国では国人と百姓などの一向一揆が守護を倒し、武家の支配を受けない“百姓の持ちたる国”と呼ばれる状態が長らく続いております」
「何と……!?」
沢彦の口から明かされた言葉に、奇妙丸は率直に驚いた。奇妙丸の生まれ育った尾張に当て嵌めれば、尾張国守護の斯波氏が国人達や一向一揆に滅ぼされるのと一緒だ。到底考えられない事ではあるが、沢彦が言うからには事実なのだろう。
文明三年(一四七一年)、蓮如は延暦寺や法華宗等の迫害から逃れ、加賀国境に近い越前吉崎の地に吉崎御坊を建立。ここを拠点に北陸地方で真宗の教えを広める活動に勤しんだ。先述したように、蓮如は誰でも真宗の教えが分かるように工夫を施した成果もあり、越前だけでなく加賀でも急速に門徒の数を増やしていった。
この当時、加賀の守護・富樫家は家中を二分する争いの真っ只中にあった。京で応仁の乱が起きると、兄・政親は東軍に、弟・幸千代は西軍に与し、富樫家の家督を巡る争いが勃発した。当初は浄土真宗高田派や越前守護代・甲斐敏光の支援を受けた幸千代方が優位に立ち、苦戦を強いられていた政親は蓮如に協力を仰いだ。本願寺派の影響力を拡大させる為には高田派の力を削ぎたい思惑を抱いていた蓮如は、この申し出を受諾。門徒や国人に向けて幸千代方と戦うよう呼び掛けた。蓮如の檄に応じた国人勢・一揆勢が蜂起した結果、文明六年(一四七四年)に幸千代を倒した。
蓮如を始めとする本願寺派の支援もあり勝利を収めた政親だったが、その影響力の大きさに『次は自分が倒されるのでは』と危惧を抱き、真宗門徒の弾圧に舵を切った。一方の本願寺方も政親の締め付けに警戒感を募らせ、蓮如の側近である下間蓮崇が密かに『蓮如の意思』と偽り一揆の扇動に走る事態に発展した。こうした状況を憂いた蓮如は文明七年(一四七五年)に吉崎の地を去り、独断で一揆を扇動した蓮崇を破門に処するなど、事態の鎮静化を図った。しかし、蓮如の思いは通じず、守護と本願寺方の溝は深まっていくばかりだった。
長享二年(一四八八年)、積年の真宗弾圧に加えて足利義尚による六角征伐への出征費用捻出の為に政親が重税を課した事で、国人・民衆の怒りが爆発。政親を討つべく国人と一揆が蜂起した。この動きに政親は遠征先の近江から慌てて加賀へ帰国したが、猛火の如く攻め立てる一揆勢の勢いに為す術もなく、本拠・高尾城を囲まれた政親は自害に追い込まれた。一揆・国人勢は政親の次の守護に富樫泰高を据えたが、実権を伴わない傀儡同然で、加賀国は武家の支配を受けない国として戦国の世に君臨していく事となる。
「加賀の近隣に有力な武家勢力が少ないのもありますが、それでも八十年余りも独立しているのは弱肉強食の戦国乱世でも異例の事でしょう。隣国の朝倉家は版図を広げるべく加賀へ幾度も侵攻していますが、一揆勢は撃退するどころか越前へ攻め込む事もあるとか」
「それは……凄まじいな」
弱き者は強き者に喰われる群雄割拠の時代で、他国からの侵攻に屈するどころか撥ね返すのは、即ちそれだけ地力がある証拠。富樫政親を倒してから八十年以上も武家の統治を受けない状態が続いているのは、率直に凄い事だと奇妙丸は思った。商人の合議で運営していた堺も、今年に入って父・信長の下に屈している。長く続いている事自体に意味があるのだ。
「……今の話が本当なら、まるで夢のような話だな」
「ただ、一概にそうとは言えません」
沢彦の思わせぶりな発言に、小首を傾げる奇妙丸。沢彦はさらに続ける。
「政親を倒して暫くは国人達と一揆衆が治めておりましたが、やがて石山本願寺から坊官が派遣されて本願寺が実効支配するようになりました。表向きは“百姓の持ちたる国”と呼ばれ武家の干渉を受けておりませんが、内輪では支配する本願寺方と支配される国人・民衆の間で度々争いも起きております」
「何だ、それでは上に立つ者が武家でなく坊主に変わっただけではないか」
結局は同じではないか、と幻滅する奇妙丸。その分かりやすい反応に沢彦はクスッと笑ったが、すぐに表情を引き締めて言った。
「大事なのは、坊主の呼び掛けに応じて国人だけでなく百姓達が武器を取り、武家を排除出来るだけの大きなうねりを生み出せる点にあります」
沢彦の指摘に、奇妙丸はハッとさせられた。そもそも、武家より百姓や町人の方が圧倒的に多い。もし両者が戦う事になった場合、一対一だと普段から鍛錬を積んでいる武家の方に分があるが、武家一人に対して武家でない者が二人なり三人なりで攻め懸かれば勝負は分からない。おまけに、百姓は足軽として徴発される事もあるので戦闘に関して全くの素人ではない可能性もあり、さらに言えば野盗などに備えて家に武器を置いている者も少なくない。もしも坊主が百姓に一揆を扇動するような事があれば……考えただけで背筋が寒くなる。
「西三河で数年前に起きた一向一揆では、坊主達の檄に応じた大勢の家臣が主君に反旗を翻し、家中を二分する大きな戦となりました。半年程で一揆は鎮圧出来ましたが、一つ間違えば加賀の二の舞になっていてもおかしくありませんでした」
元々、西三河は浄土真宗の信仰が篤い地域で、特に本證寺・上宮寺・勝鬘寺は“三河三ヶ寺”と呼ばれる程に強い影響力を持ち、家康の父・松平広忠から徴税や犯罪者の引き渡しに応じない権利の“守護不入”の特権を与えられる程だった。
桶狭間の合戦以降、今川勢力を一掃して三河国を統一した松平(現・徳川)家康は、体制の強化を図るべく聖域とされてきた三河三ヶ寺にも税を納めるよう迫った。これに対し、既得権益を侵される事を恐れた三ヶ寺側は強く反発。永禄六年、本證寺住職の空誓は反家康の兵を挙げるよう三河全土に檄を飛ばした。この檄に応じた門徒や家康と敵対する国人勢力、さらには徳川家中の浄土真宗を信仰する家臣などが一揆勢に加わり、大きなうねりとなって松平勢に襲い掛かった。一時は松平家の本拠である岡崎城に攻め寄せられる程の窮地に陥った家康だが、家康の元を離反した家臣達が主君に刃を向けなかった事もあり地道に勝利を重ねて少しずつ挽回していった。そして、永禄七年一月十五日の馬頭原合戦に勝利した事で家康は優位に立ち、一揆勢と和議を結ぶに至った。家康は御家の忠義と信仰心の板挟みの末に離反を決めた家臣達に対し、刃向かった事を不問とした上で帰参を認める姿勢を打ち出した事で、多くの家臣が松平家に復帰した。一方で、今回の一揆で主導的役割を果たした三ヶ寺は破却し、三河国内で浄土真宗を禁教にするなど断固とした対応を執った。こうして、半年以上に渡り続いた三河の一向一揆は終息したのである。
「では和尚。一揆を起こさせないようにするには、どうすればよろしいのでしょうか?」
宗教が起因で争いに繋がる事が分かった奇妙丸。しかし、同じ宗教を信仰していても一揆が起きている地域と起きていない地域がある。例えば、尾張国にも浄土真宗の寺はあるが、一揆は起きていない。一方で、隣国の三河国では御家を揺るがす一向一揆が勃発している。この違いは何だろうか。
「手っ取り早いのは、有害な信仰を禁じる事でしょうな」
沢彦の回答に、奇妙丸も思わず“成る程”と頷く。しかし、時間が経つにつれて何か引っかかる感じがした。いつもは理路整然とした話し振りをしている沢彦にしては珍しく、言動が些か荒っぽいというか乱暴というか……。
当惑している奇妙丸に、沢彦は厳しい表情で言った。
「――ただ、安直に禁教を行うのは、愚の骨頂」
いつになく険しい声色で話す沢彦。さらに続ける。
「信仰は個々人の自由です。それを他人から『その教えは有害だから信仰するな、別の教えに改宗しろ』と強制されれば、反発は必至。自由を侵害されると分かれば、人々は『守らねば』と必ず立ち上がります。争いの種を自ら蒔くなど、愚か者のやる事です」
奇妙丸は、自分の事に当て嵌めて考えてみる。仏教を信仰している自分が、誰かから『仏教は危険な思想だ、耶蘇教に改宗しろ』と強要されたら……正直、気分は良くない。自分はこの教えが素晴らしいと思っているから信じているのであって、他人様から変えろと言われて『はい、そうですね』とはならないし、寧ろカチンと来る。棄教しなければ処罰すると通告されようものなら、恐らくは信仰を守る為に戦う事も辞さないだろう。
我が身に置き換えて考えれば考える程に、有り得ない選択だと奇妙丸は思った。
「大切なのは、自分の意に沿わない思想を無理矢理抑え込むのではなく、民に不平不満を抱かせない事です」
「……善政を布く事で、宗教が不満の受け皿となるのを防ぐのですね」
奇妙丸の言葉に沢彦は「然り」と頷く。
浄土真宗や法華宗、他の宗派もそうだが、宗徒同士の結び付きはとても強く、不平不満が鬱積すれば爆発して一揆を引き起こす要因になる。裏を返せば、人々に不平不満を極力抱かせないようにすれば、一揆が起きる可能性は限りなく低くなる。民も好き好んで一揆を起こしている訳ではなく、生きていく為に仕方なく戦う事を選択しているのだ。出来るならば安穏と暮らしていきたい筈で、武器を取って立ち上がるのはあくまで最終手段なのだ。
しかし、善政を布くと簡単に言うけれど、これがまた難しい。年貢の歩合を重くすれば武家は潤うが民は重税に苦しんで不満の温床になる。反面、歩合を軽くすれば民は喜ぶものの武家は実入りが減って財政的に厳しくなる。戦は勿論、普請をするのも銭が掛かる。娘が輿入れするなら豪勢に送り出してあげたいし、御家の為に尽くしてくれた血縁者が亡くなれば荘厳な式をしてあげたい。抱えている家臣や下働きの者への給金もある。民の不満を気にするあまりに困窮してしまっては元も子もないのだ。
民も武家も納得する負担の割合にして、賄賂や不公正な行いをする者を排除していく。一番遠回りな方法ではあるが、民との信頼を築いていく為には最短の道だ。
「但し……」
神妙な面持ちをしている奇妙丸へ、沢彦が声を掛ける。
「奇妙丸様はいずれ織田弾正忠家を継がれる御方。民を思いやる気持ちも大切ですが、民の人気が欲しいと阿るばかりですと御家を傾かせる事にもなりかねません。国の為、民の為に必要とあらば、民の反発を招いても断固とした態度でやり通す事も頭の片隅に留めておいて下され」
武家の当主となれば、民が見えない所の脅威にも気付く事がある。民が良いと思っているものでも、実は後々に厄災となって降り掛かって来る悪いものになるかも知れない。そういう時は、先々の危険を取り除く為に反発覚悟でやり通す必要がある――沢彦はそう説くのだ。
「……分かりました。覚えておきます」
国の舵取りを任される者の自覚と責任に、奇妙丸は無意識の内に背筋を伸ばした。その表情を確かめた沢彦は満足そうに一つ頷いた。
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