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三 : 孤立無援(6)-夢
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五月六日、夜。
孫一は木に背中を預けるように座り、愛用の鉄砲を抱える形で眠りに就いた。いつ何時、状況が変わるか分からない戦地で、いち早く動けるよう寝る時も準備を怠らなかった。
その日、孫一は珍しく夢を見ていた。
***
あれは、いつの頃だったか。孫一の姿は岐阜城の広場にあった。
孫一の元に、織田家から文が届いた。『鉄砲の名手と評判の孫一殿の腕前、是非とも拝見したい』という内容で、岐阜までの往復の路銀は勿論のこと、報酬もたんまり弾むと書いてあった。孫一はこの仕事を受ける事に決め、岐阜城を訪れた次第だ。
広場には的が五つ、等間隔に並んで立てられている。距離はおよそ五十間(約九〇メートル)。このくらいの距離なら孫一には朝飯前だ。あとは、どれだけ早く撃てるか、だ。
孫一の後ろには織田家の近習達が孫一の腕前がどれ程のものかと見物している。その中には先日討ち取った塙直政の姿もある。
まぁ、別に観衆が何人居てもやる事に変わりはないのだが。愛用の鉄砲を一番左の的に照準を定める。
ゆっくりと、細く長く息を吐く。心穏やかに、意識を集中する。いつもと同じ、習慣。
そして――孫一は静かに引き金を引いた。瞬間、轟音が響き筒口から煙が立ち上る。
発射を終えた孫一は脇に控えていた泰三に鉄砲を渡し、替わりの鉄砲を受け取る。すぐに隣の的に狙いを定め、撃つ。撃ち終える頃には泰三が先程の鉄砲を再装填した状態に準備しているので、また交換。ここまで孫一は一切顔を下げておらず、ずっと前を見据えていた。一々確かめなくても受け渡し出来る程に呼吸がピッタリだった。
息をつかせぬ速さで次々と的を撃ち抜いていく孫一。あっという間に全ての的を撃ち抜いてしまった。
「早い……」
「これが噂の“雑賀撃ち”か……」
想像以上の速さに近習達は口々に驚きの声を上げる。そんな中、孫一がおもむろに口を開いた。
「速さだけではございません。的をご覧下さい」
孫一から指摘されて、小姓が撃ち抜かれた的を確認しに行く。五つの的全てを確認した小姓が驚きで目を剥いた。
「す……全て、正中でございます!!」
孫一が撃った弾は五発全てが的のどこかに当たった“命中”ではなく、的のど真ん中を貫く“正中”だった。目にも留まらぬ速さだけでなく正確無比な命中精度に、居並ぶ近習達も言葉を失ってしまった。
「この程度のことは我等雑賀衆の者からしてみれば、ほんの小手調べに過ぎません。動かない的を寸分違わず撃ち抜けぬようでは、動く物を正確に仕留めるなど到底出来ません」
孫一が自信たっぷりに説明すると、不意に背後から拍手の音が聞こえてきた。
「見事である。これまで鉄砲撃ちは数多見てきたが、やはり天下無双の評判は本物だな」
「お褒めの言葉、ありがとうございます」
体を半回転させて、声の主に頭を下げる孫一。そこには色白で長身の男が扇子を扇ぎながら立っていた。
「俺も鉄砲を撃った事はあるが、これより短い距離でも的に当てるのが精一杯だったわ。雑賀の者は皆これくらいの腕前なのか?」
「流石にこの距離で同じように早く正確に撃てる者は雑賀の中でもほんの一握りでございます。……なれど、大名家の鉄砲衆が二つ撃つ間に我等は三つ撃てるくらいの腕前はあると思って頂ければ」
「ほう……それは凄いな」
織田家は鉄砲を積極的に取り入れており、鉄砲衆の練度も鉄砲の所持数も他の大名家を凌ぐとされるが、それでも孫一の目から見れば足元にも及ばないと断言出来た。
雑賀衆は鉄砲に特化した傭兵集団、その実力を買われて大名家から雇われるのだ。もし鉄砲で他の者に劣るようなら、それは雑賀衆の名折れである。期待に副えるよう、そして自分の身を守る為に、雑賀衆の者は日夜腕を磨くのだ。
「だが……これでは参考にならぬな」
扇子で肩を叩きながら男が漏らすと、孫一も同意するように首肯した。
「仰る通りで。このやり方は撃ち手と助手が流れるように動作をこなせるように行うだけでなく、双方の呼吸を合わせる必要がございます。我等雑賀のやり方は一朝一夕に真似が出来るとは到底思いません」
孫一の率直な意見を述べると、男は「うむ」と言ったきり腕組みをして黙り込んだ。
雑賀衆は数百から一千程度と比較的少ない人数だからこそ鉄砲に特化した戦闘集団になれたが、数万の大人数を抱える織田家で同じ事が出来るとは思えなかった。早合の支度、受け渡しの練習、双方が各々の役割を滞りなく行えるよう特訓、実戦形式の練習で用いる弾丸と火薬も桁が違えば馬鹿にならない。掛ける時間と費やす金額を考えれば割に合わないのは明々白々だ。
「残念ながら上総守様のご希望に沿えず、申し訳ありません」
ペコリと頭を下げる孫一に、男は「ほう」と驚きの声が上げた。
「対面した覚えはない筈なのに存じているとは……驚いたな」
「まぁ、上総守様とは戦場で何度か遠目で拝見しておりますので。敵方の大将を確認するのも仕事の一つですから」
「成る程、違いない」
納得した様子で一つ二つと頷く。
目の前に立っている男こそ、織田家当主の織田“上総守”信長本人であった。天文三年(一五三四年)の生まれで壮年に差し掛かる年齢の筈だが、年齢の割に若さを保っていた。織田弾正忠家は美形揃いの家系であるが、信長もご多分に漏れず眉目秀麗な顔立ちで独特の色気を醸し出していた。
「これ程の才覚を持ちながら傭兵風情に甘んじているとは、天下にとって大きな損失だ。どうだ、織田家に仕えてみぬか? 一国を預けても構わないぞ」
「ははは……有り難い申し出なれど、平に御免蒙ります」
信長の誘いに孫一は笑って受け流した。
孫一自身、乱世に生きる者として国持ち大名になりたいと思わなくもない。しかし、どうせ国持ち大名になるなら気難しい宮仕えに耐えながら最短の道を歩むより、困難でも独力で掴み取りたいという気持ちが強かった。それに、のんびりとした雑賀荘での暮らしも孫一の性に合っていた。
信長の方も本気で引き抜こうと思っていない様子で、「で、あるか」と呟くに留まった。
それから信長は暫く孫一の持っている鉄砲を見つめると、周囲の者に声を掛けた。
「皆の者、下がっていいぞ。俺は孫一と二人きりで話がしたい」
「殿、それは……」
思いがけない言葉に、近習や小姓達が止めようとした。今は敵ではないが、今後敵方に与する可能性のある危険人物と二人きりになるのは不用心過ぎる。
周囲の心配にも信長は動じることなく、はっきりと言い放った。
「心配するな。戦場ならいざ知らず、天下にその名を轟かせる雑賀孫一がこのような場で騙し討ちのような振る舞いをする筈が無い」
堂々と宣言した信長に、孫一は苦笑いするしかなかった。
(これはこれは、買い被られたものだ。目的を果たす為なら綺麗とか汚いとか関係なくやる奴だぞ。尤も、今のオレにはそんな気なんか無いが)
孫一の腕前を見物に来ていた近習や信長付きの小姓、それに孫一の付き添いの泰三が下がっていく間も、信長は孫一の手にしている鉄砲をじっと見つめていた。
やがて、全員が居なくなった頃合を見計らって、信長が切り出してきた。
「孫一、ちと頼みがあるのだが」
「何でしょうか?」
二人きりなのに信長は誰にも聞かれたくないのか、声を潜めて話し掛けてくる。余人を遠ざけた上での頼み事となると厄介な内容の場合が多い。気に入らない人物の暗殺か、それとも先程は冗談のように話していた仕官の話か。信長の口からどんな難題が飛び出すか孫一は気が気でなかった。
緊張で顔が強張る孫一を余所に、キョロキョロと周囲を再度確認してから小声で言った。
「――お主の鉄砲、俺に撃たせてもらえぬか?」
どんな無理難題が来るかと身構えていた孫一だったが、思いがけない頼み事に一瞬目が点になった。
「それは構いませぬが……」
「そうか!! 撃たせてくれるか!!」
拍子抜けする孫一とは対照的に、無邪気に喜ぶ信長。その姿はまるで新しいおもちゃを与えられた子どものようであった。
「これくらいの事でしたらわざわざ人払いしなくても……」
「いやなに、家臣達の前で『面白そうだから試し撃ちさせてくれ』とはなかなか言いにくいからな」
やや照れ臭そうに頬を掻く信長。若かりし頃は奇抜な恰好で奔放な振る舞いをしていた為に“うつけ”と呼ばれ蔑まれていたらしいが、もしかすると好奇心旺盛な性分なのかも知れない。
「それに――」
フッと真面目な顔つきになった信長は続けた。
「その鉄砲、片時も離そうとしない辺り、相当大切な物なのだろ? それ程に大切に扱っている物を赤の他人が軽々しく使わせて欲しいと言うのは失礼だと思う」
信長の洞察力の高さに、孫一は舌を巻く思いだった。『金を払っているから』とオレ達を物や家畜同然に扱う輩を嫌という程見てきたが、信長は対等どころか敬意を示して接してくれた。こんな経験、初めてだ。
孫一が恭しく鉄砲を差し出すと、信長は両手でしっかりと受け取る。
「……重たいな」
「巷で出回っている大量に生産された物と比べて銃身が長い分、爆発力に耐えられるよう頑丈な造りとなっております」
「で、あるか。ならば丁重に扱わねばならぬな」
そう言った信長は手にした鉄砲をしげしげと見つめ、遠くの的に照準を合わせる。その構える姿はなかなか様になっていた。
「懐かしいな。清州に居た頃は時折気晴らしに撃っていたものだ」
「ほう、左様でしたか」
この時代、剣術や槍術を極めることは一騎駆けの端武者がやることとされ、一軍を率いる身分の者達から嫌厭されていた。鉄砲も同様で、触れた事すらない大将も少なくなかった。鉄砲を撃つのに必要な硝石が外国からの輸入に頼っていた為、維持費が高く手軽に撃てなかった側面もあった。
その点、津島や熱田など商いが盛んな港町を抱え、入ってくる運上金で財政面に余裕のあった織田家では気兼ねなく鉄砲を撃てる環境が整っていた。
「さて、孫一。お主、南蛮船を見た事はあるか?」
「いえ……」
突然の質問に、首を振る孫一。
「俺は堺で見た事がある」
銃身の先端にある照星を的に合わせながら信長は言う。
「それはそれは大層な物で、安宅船より一回りも二回りも大きい。南蛮の者達はそんな船に何ヶ月も揺られて海を渡って来ると言う。その気概は率直に認めねばなるまい」
話の展開が読めずやや困惑する孫一を尻目に、信長はさらに続ける。
「天文十二年、種子島に初めて鉄砲が渡ってきてからおよそ三十年。鉄砲鍛冶師の頑張りもあり鉄砲の性能も向上してきた。なれど……南蛮の鉄砲は我が国で出回っている物を遥かに凌駕している筈だ」
「まさか……そんな事が……」
「種子島に渡ってきた物が南蛮で最新鋭の物であるとは言い切れまい。南蛮から我が国まで来るのに数カ月は掛かるのだ。それに、例え最新かつ最強だったとしても、それが敵の手に渡るような事になれば――」
言うなり信長は的に向けていた銃口を自分の体につける。
「……とまぁ、このように自分の方に危害が及ぶかも知れん。一番強い武器は安直に譲らぬと考える方が自然ぞ」
そう言うと信長は自らに向けていた銃口を一旦下ろし、再び持ち直して的の方に向ける。
孫一自身、鉄砲に関して人並み以上の知識を持っていると自負していたが、信長の話に少なからず衝撃を受けていた。鉄砲で生計を立てる事が当たり前となっていたが、そのように考えた事は一度も無かった。
「今はまだ良い。我が国に来るのは交易で一儲けしたい商人か、布教目的の宣教師くらいで害は無い。だが……我が国を侵略せんと企む兵が乗り込んできたら、如何する?」
「まさか……南蛮の国々は船で何ヶ月も掛かる先にあるのでしょう。大挙して押し寄せない限り心配ないでしょう」
「ところが、南蛮の者達は既に呂栄や馬尼刺を手中に収めたと聞いている。そこを足掛かりにすれば大量の兵を送り込む事も難しくあるまい」
「…………」
「南蛮の船は何ヶ月にも渡る航海に耐えられる頑丈さと、百人を超える人数を乗せられる大きさを併せ持ち、さらに海賊の襲撃に応戦出来るよう大砲を幾つも積んでいる。商人の船でさえそれだけの装備を積んでいるのだから、軍船となればもっと沢山積んでいるに違いない。武装した兵を満載した何百艘の船が、明日にも押し寄せてくるかも知れない」
南蛮の船が海を埋め尽くす光景を想像しただけで、背筋が凍る孫一。確かに、信長の言う通りだ。南蛮が本気で我が国に乗り込んでくれば、太刀打ちする事も出来ないだろう。
「顧みて、我が国はどうか。目先の利にばかり目が眩んで合戦に明け暮れる阿呆ばかり。南蛮の者達が隣国に押し寄せても高みの見物を決め込むだろう。その矛先が次は自分達に向けられるとも知らずに」
信長心底軽蔑するような表情で吐き捨てる。
「俺は自分の生まれ育った国が異国の者共に蹂躙されるのは真っ平御免だ。まずはこの国を天下布武の名の下に統一する。俺の行く手に立ちはだかる者は容赦せぬ。……全てはこの国を守る為だ」
はっきりとした口調で言い切ると、信長は火縄に火を点じた。真剣な眼差しで五十間先の的を見据えている。
一つ二つと呼吸を挟み、静かに引き金を引いた。
轟音と共に放たれた弾は――五十間離れた先の的を捉えた。
「おぉ!! 当たった!! 当たったぞ!!」
命中した事に対して子どものようにはしゃぐ信長。その姿は大名家の主には到底見えなかった。
「お見事に御座います。我等雑賀の者でも、初めてでこれ程離れた的に当てられる者はそう多くおりませぬ」
「真か! それは嬉しいな!!」
阿諛追従ではなく、偽らざる本心から出た言葉だった。世間に広く流通している小筒を撃ち慣れている者でも鉄砲本体の重量や火薬の量、発砲時の反動等が異なる士筒だと勝手が違う為に外す事も珍しくない。まぐれ当たりだったとしても命中した事自体が凄いのだ。
孫一から称賛の言葉を掛けられ、信長は飛び上がらんばかりに喜びを爆発させる。先程までこの国の未来を憂いていた時から一転して純粋に喜びを表している姿を見せて、孫一は素直に好感を抱いた。
「久しぶりに心躍る瞬間を味わう事が出来た。礼を申すぞ」
落ち着いてきた信長が孫一へ丁重に鉄砲を返してきた。その顔には充足感に満ち満ちていた。孫一も思わず畏まって鉄砲を受け取る。無意識の内に臣下の礼を執っていることに孫一は少々驚いていた。
撃ち終えた筒内を槊杖で掃除していると、信長から再び声が掛けられた。
「孫一。気が向いたら織田家に来い。俺はいつでも待ってるからな」
そう言うと信長はニカッと笑った。そのあどけない笑顔が、何故か孫一の心に深く刺さった。
***
「――うりょう、頭領!!」
誰かが、俺を呼んでいる。その声で孫一は夢から覚めた。
瞼を上げると、血相を変えた様子の泰三が孫一の顔を覗き込んでいた。
「……何だ、騒々しい。どうしたんだ?」
「お休みのところ申し訳ありません。何分急を要することでして……」
「御託はいい。用件は何だ?」
泰三の持って回った物言いに、寝起きである事も加わって若干苛立ちを含んだ声で先を促す孫一。泰三は唾をゴクリと飲み込んでから言った。
「河内方面に放っていた斥候がたった今、駆け込んできました。織田方三千、若江城を出てこちら向かっているとのこと!」
「……何だと!?」
泰三の口から告げられた内容に、眠気が一気に吹き飛んだ。
「……間違いないのだな」
「へい。金塗りの唐傘も確認済みです」
金塗りの唐傘は信長の馬標で、即ち総大将・信長の出陣を意味する。
まさか本当に信長が出てくるとは。慎重居士の信長のことだから万全を期す為にもう少し兵が揃うまで動かないと思っていたが。逆に考えれば、他の兵を待てない程に天王寺砦の状況が逼迫しているということか。
(顕如上人の仰っていた『天王寺砦を囮に信長を釣り出す』策が、遂に実現する……!!)
孫一も聞かされた当初はやや半信半疑だったが、信長が手の届く場所まで現れる動きを見せたことで顕如上人の勘が証明されようとしていた。
「馬の支度をしろ!! 今から信長を迎え撃つ!! 急げ!!」
「承知しました!」
鬼気迫る勢いで命じられて泰三は弾かれるように走っていった。孫一も急いで身支度を整える。
舞台は整った。あとは、最高の結果の為に最善を尽くすのみ。
愛用の鉄砲を調整しながら、気持ちが昂っていくのを孫一は肌でヒシヒシと感じていた。
孫一は木に背中を預けるように座り、愛用の鉄砲を抱える形で眠りに就いた。いつ何時、状況が変わるか分からない戦地で、いち早く動けるよう寝る時も準備を怠らなかった。
その日、孫一は珍しく夢を見ていた。
***
あれは、いつの頃だったか。孫一の姿は岐阜城の広場にあった。
孫一の元に、織田家から文が届いた。『鉄砲の名手と評判の孫一殿の腕前、是非とも拝見したい』という内容で、岐阜までの往復の路銀は勿論のこと、報酬もたんまり弾むと書いてあった。孫一はこの仕事を受ける事に決め、岐阜城を訪れた次第だ。
広場には的が五つ、等間隔に並んで立てられている。距離はおよそ五十間(約九〇メートル)。このくらいの距離なら孫一には朝飯前だ。あとは、どれだけ早く撃てるか、だ。
孫一の後ろには織田家の近習達が孫一の腕前がどれ程のものかと見物している。その中には先日討ち取った塙直政の姿もある。
まぁ、別に観衆が何人居てもやる事に変わりはないのだが。愛用の鉄砲を一番左の的に照準を定める。
ゆっくりと、細く長く息を吐く。心穏やかに、意識を集中する。いつもと同じ、習慣。
そして――孫一は静かに引き金を引いた。瞬間、轟音が響き筒口から煙が立ち上る。
発射を終えた孫一は脇に控えていた泰三に鉄砲を渡し、替わりの鉄砲を受け取る。すぐに隣の的に狙いを定め、撃つ。撃ち終える頃には泰三が先程の鉄砲を再装填した状態に準備しているので、また交換。ここまで孫一は一切顔を下げておらず、ずっと前を見据えていた。一々確かめなくても受け渡し出来る程に呼吸がピッタリだった。
息をつかせぬ速さで次々と的を撃ち抜いていく孫一。あっという間に全ての的を撃ち抜いてしまった。
「早い……」
「これが噂の“雑賀撃ち”か……」
想像以上の速さに近習達は口々に驚きの声を上げる。そんな中、孫一がおもむろに口を開いた。
「速さだけではございません。的をご覧下さい」
孫一から指摘されて、小姓が撃ち抜かれた的を確認しに行く。五つの的全てを確認した小姓が驚きで目を剥いた。
「す……全て、正中でございます!!」
孫一が撃った弾は五発全てが的のどこかに当たった“命中”ではなく、的のど真ん中を貫く“正中”だった。目にも留まらぬ速さだけでなく正確無比な命中精度に、居並ぶ近習達も言葉を失ってしまった。
「この程度のことは我等雑賀衆の者からしてみれば、ほんの小手調べに過ぎません。動かない的を寸分違わず撃ち抜けぬようでは、動く物を正確に仕留めるなど到底出来ません」
孫一が自信たっぷりに説明すると、不意に背後から拍手の音が聞こえてきた。
「見事である。これまで鉄砲撃ちは数多見てきたが、やはり天下無双の評判は本物だな」
「お褒めの言葉、ありがとうございます」
体を半回転させて、声の主に頭を下げる孫一。そこには色白で長身の男が扇子を扇ぎながら立っていた。
「俺も鉄砲を撃った事はあるが、これより短い距離でも的に当てるのが精一杯だったわ。雑賀の者は皆これくらいの腕前なのか?」
「流石にこの距離で同じように早く正確に撃てる者は雑賀の中でもほんの一握りでございます。……なれど、大名家の鉄砲衆が二つ撃つ間に我等は三つ撃てるくらいの腕前はあると思って頂ければ」
「ほう……それは凄いな」
織田家は鉄砲を積極的に取り入れており、鉄砲衆の練度も鉄砲の所持数も他の大名家を凌ぐとされるが、それでも孫一の目から見れば足元にも及ばないと断言出来た。
雑賀衆は鉄砲に特化した傭兵集団、その実力を買われて大名家から雇われるのだ。もし鉄砲で他の者に劣るようなら、それは雑賀衆の名折れである。期待に副えるよう、そして自分の身を守る為に、雑賀衆の者は日夜腕を磨くのだ。
「だが……これでは参考にならぬな」
扇子で肩を叩きながら男が漏らすと、孫一も同意するように首肯した。
「仰る通りで。このやり方は撃ち手と助手が流れるように動作をこなせるように行うだけでなく、双方の呼吸を合わせる必要がございます。我等雑賀のやり方は一朝一夕に真似が出来るとは到底思いません」
孫一の率直な意見を述べると、男は「うむ」と言ったきり腕組みをして黙り込んだ。
雑賀衆は数百から一千程度と比較的少ない人数だからこそ鉄砲に特化した戦闘集団になれたが、数万の大人数を抱える織田家で同じ事が出来るとは思えなかった。早合の支度、受け渡しの練習、双方が各々の役割を滞りなく行えるよう特訓、実戦形式の練習で用いる弾丸と火薬も桁が違えば馬鹿にならない。掛ける時間と費やす金額を考えれば割に合わないのは明々白々だ。
「残念ながら上総守様のご希望に沿えず、申し訳ありません」
ペコリと頭を下げる孫一に、男は「ほう」と驚きの声が上げた。
「対面した覚えはない筈なのに存じているとは……驚いたな」
「まぁ、上総守様とは戦場で何度か遠目で拝見しておりますので。敵方の大将を確認するのも仕事の一つですから」
「成る程、違いない」
納得した様子で一つ二つと頷く。
目の前に立っている男こそ、織田家当主の織田“上総守”信長本人であった。天文三年(一五三四年)の生まれで壮年に差し掛かる年齢の筈だが、年齢の割に若さを保っていた。織田弾正忠家は美形揃いの家系であるが、信長もご多分に漏れず眉目秀麗な顔立ちで独特の色気を醸し出していた。
「これ程の才覚を持ちながら傭兵風情に甘んじているとは、天下にとって大きな損失だ。どうだ、織田家に仕えてみぬか? 一国を預けても構わないぞ」
「ははは……有り難い申し出なれど、平に御免蒙ります」
信長の誘いに孫一は笑って受け流した。
孫一自身、乱世に生きる者として国持ち大名になりたいと思わなくもない。しかし、どうせ国持ち大名になるなら気難しい宮仕えに耐えながら最短の道を歩むより、困難でも独力で掴み取りたいという気持ちが強かった。それに、のんびりとした雑賀荘での暮らしも孫一の性に合っていた。
信長の方も本気で引き抜こうと思っていない様子で、「で、あるか」と呟くに留まった。
それから信長は暫く孫一の持っている鉄砲を見つめると、周囲の者に声を掛けた。
「皆の者、下がっていいぞ。俺は孫一と二人きりで話がしたい」
「殿、それは……」
思いがけない言葉に、近習や小姓達が止めようとした。今は敵ではないが、今後敵方に与する可能性のある危険人物と二人きりになるのは不用心過ぎる。
周囲の心配にも信長は動じることなく、はっきりと言い放った。
「心配するな。戦場ならいざ知らず、天下にその名を轟かせる雑賀孫一がこのような場で騙し討ちのような振る舞いをする筈が無い」
堂々と宣言した信長に、孫一は苦笑いするしかなかった。
(これはこれは、買い被られたものだ。目的を果たす為なら綺麗とか汚いとか関係なくやる奴だぞ。尤も、今のオレにはそんな気なんか無いが)
孫一の腕前を見物に来ていた近習や信長付きの小姓、それに孫一の付き添いの泰三が下がっていく間も、信長は孫一の手にしている鉄砲をじっと見つめていた。
やがて、全員が居なくなった頃合を見計らって、信長が切り出してきた。
「孫一、ちと頼みがあるのだが」
「何でしょうか?」
二人きりなのに信長は誰にも聞かれたくないのか、声を潜めて話し掛けてくる。余人を遠ざけた上での頼み事となると厄介な内容の場合が多い。気に入らない人物の暗殺か、それとも先程は冗談のように話していた仕官の話か。信長の口からどんな難題が飛び出すか孫一は気が気でなかった。
緊張で顔が強張る孫一を余所に、キョロキョロと周囲を再度確認してから小声で言った。
「――お主の鉄砲、俺に撃たせてもらえぬか?」
どんな無理難題が来るかと身構えていた孫一だったが、思いがけない頼み事に一瞬目が点になった。
「それは構いませぬが……」
「そうか!! 撃たせてくれるか!!」
拍子抜けする孫一とは対照的に、無邪気に喜ぶ信長。その姿はまるで新しいおもちゃを与えられた子どものようであった。
「これくらいの事でしたらわざわざ人払いしなくても……」
「いやなに、家臣達の前で『面白そうだから試し撃ちさせてくれ』とはなかなか言いにくいからな」
やや照れ臭そうに頬を掻く信長。若かりし頃は奇抜な恰好で奔放な振る舞いをしていた為に“うつけ”と呼ばれ蔑まれていたらしいが、もしかすると好奇心旺盛な性分なのかも知れない。
「それに――」
フッと真面目な顔つきになった信長は続けた。
「その鉄砲、片時も離そうとしない辺り、相当大切な物なのだろ? それ程に大切に扱っている物を赤の他人が軽々しく使わせて欲しいと言うのは失礼だと思う」
信長の洞察力の高さに、孫一は舌を巻く思いだった。『金を払っているから』とオレ達を物や家畜同然に扱う輩を嫌という程見てきたが、信長は対等どころか敬意を示して接してくれた。こんな経験、初めてだ。
孫一が恭しく鉄砲を差し出すと、信長は両手でしっかりと受け取る。
「……重たいな」
「巷で出回っている大量に生産された物と比べて銃身が長い分、爆発力に耐えられるよう頑丈な造りとなっております」
「で、あるか。ならば丁重に扱わねばならぬな」
そう言った信長は手にした鉄砲をしげしげと見つめ、遠くの的に照準を合わせる。その構える姿はなかなか様になっていた。
「懐かしいな。清州に居た頃は時折気晴らしに撃っていたものだ」
「ほう、左様でしたか」
この時代、剣術や槍術を極めることは一騎駆けの端武者がやることとされ、一軍を率いる身分の者達から嫌厭されていた。鉄砲も同様で、触れた事すらない大将も少なくなかった。鉄砲を撃つのに必要な硝石が外国からの輸入に頼っていた為、維持費が高く手軽に撃てなかった側面もあった。
その点、津島や熱田など商いが盛んな港町を抱え、入ってくる運上金で財政面に余裕のあった織田家では気兼ねなく鉄砲を撃てる環境が整っていた。
「さて、孫一。お主、南蛮船を見た事はあるか?」
「いえ……」
突然の質問に、首を振る孫一。
「俺は堺で見た事がある」
銃身の先端にある照星を的に合わせながら信長は言う。
「それはそれは大層な物で、安宅船より一回りも二回りも大きい。南蛮の者達はそんな船に何ヶ月も揺られて海を渡って来ると言う。その気概は率直に認めねばなるまい」
話の展開が読めずやや困惑する孫一を尻目に、信長はさらに続ける。
「天文十二年、種子島に初めて鉄砲が渡ってきてからおよそ三十年。鉄砲鍛冶師の頑張りもあり鉄砲の性能も向上してきた。なれど……南蛮の鉄砲は我が国で出回っている物を遥かに凌駕している筈だ」
「まさか……そんな事が……」
「種子島に渡ってきた物が南蛮で最新鋭の物であるとは言い切れまい。南蛮から我が国まで来るのに数カ月は掛かるのだ。それに、例え最新かつ最強だったとしても、それが敵の手に渡るような事になれば――」
言うなり信長は的に向けていた銃口を自分の体につける。
「……とまぁ、このように自分の方に危害が及ぶかも知れん。一番強い武器は安直に譲らぬと考える方が自然ぞ」
そう言うと信長は自らに向けていた銃口を一旦下ろし、再び持ち直して的の方に向ける。
孫一自身、鉄砲に関して人並み以上の知識を持っていると自負していたが、信長の話に少なからず衝撃を受けていた。鉄砲で生計を立てる事が当たり前となっていたが、そのように考えた事は一度も無かった。
「今はまだ良い。我が国に来るのは交易で一儲けしたい商人か、布教目的の宣教師くらいで害は無い。だが……我が国を侵略せんと企む兵が乗り込んできたら、如何する?」
「まさか……南蛮の国々は船で何ヶ月も掛かる先にあるのでしょう。大挙して押し寄せない限り心配ないでしょう」
「ところが、南蛮の者達は既に呂栄や馬尼刺を手中に収めたと聞いている。そこを足掛かりにすれば大量の兵を送り込む事も難しくあるまい」
「…………」
「南蛮の船は何ヶ月にも渡る航海に耐えられる頑丈さと、百人を超える人数を乗せられる大きさを併せ持ち、さらに海賊の襲撃に応戦出来るよう大砲を幾つも積んでいる。商人の船でさえそれだけの装備を積んでいるのだから、軍船となればもっと沢山積んでいるに違いない。武装した兵を満載した何百艘の船が、明日にも押し寄せてくるかも知れない」
南蛮の船が海を埋め尽くす光景を想像しただけで、背筋が凍る孫一。確かに、信長の言う通りだ。南蛮が本気で我が国に乗り込んでくれば、太刀打ちする事も出来ないだろう。
「顧みて、我が国はどうか。目先の利にばかり目が眩んで合戦に明け暮れる阿呆ばかり。南蛮の者達が隣国に押し寄せても高みの見物を決め込むだろう。その矛先が次は自分達に向けられるとも知らずに」
信長心底軽蔑するような表情で吐き捨てる。
「俺は自分の生まれ育った国が異国の者共に蹂躙されるのは真っ平御免だ。まずはこの国を天下布武の名の下に統一する。俺の行く手に立ちはだかる者は容赦せぬ。……全てはこの国を守る為だ」
はっきりとした口調で言い切ると、信長は火縄に火を点じた。真剣な眼差しで五十間先の的を見据えている。
一つ二つと呼吸を挟み、静かに引き金を引いた。
轟音と共に放たれた弾は――五十間離れた先の的を捉えた。
「おぉ!! 当たった!! 当たったぞ!!」
命中した事に対して子どものようにはしゃぐ信長。その姿は大名家の主には到底見えなかった。
「お見事に御座います。我等雑賀の者でも、初めてでこれ程離れた的に当てられる者はそう多くおりませぬ」
「真か! それは嬉しいな!!」
阿諛追従ではなく、偽らざる本心から出た言葉だった。世間に広く流通している小筒を撃ち慣れている者でも鉄砲本体の重量や火薬の量、発砲時の反動等が異なる士筒だと勝手が違う為に外す事も珍しくない。まぐれ当たりだったとしても命中した事自体が凄いのだ。
孫一から称賛の言葉を掛けられ、信長は飛び上がらんばかりに喜びを爆発させる。先程までこの国の未来を憂いていた時から一転して純粋に喜びを表している姿を見せて、孫一は素直に好感を抱いた。
「久しぶりに心躍る瞬間を味わう事が出来た。礼を申すぞ」
落ち着いてきた信長が孫一へ丁重に鉄砲を返してきた。その顔には充足感に満ち満ちていた。孫一も思わず畏まって鉄砲を受け取る。無意識の内に臣下の礼を執っていることに孫一は少々驚いていた。
撃ち終えた筒内を槊杖で掃除していると、信長から再び声が掛けられた。
「孫一。気が向いたら織田家に来い。俺はいつでも待ってるからな」
そう言うと信長はニカッと笑った。そのあどけない笑顔が、何故か孫一の心に深く刺さった。
***
「――うりょう、頭領!!」
誰かが、俺を呼んでいる。その声で孫一は夢から覚めた。
瞼を上げると、血相を変えた様子の泰三が孫一の顔を覗き込んでいた。
「……何だ、騒々しい。どうしたんだ?」
「お休みのところ申し訳ありません。何分急を要することでして……」
「御託はいい。用件は何だ?」
泰三の持って回った物言いに、寝起きである事も加わって若干苛立ちを含んだ声で先を促す孫一。泰三は唾をゴクリと飲み込んでから言った。
「河内方面に放っていた斥候がたった今、駆け込んできました。織田方三千、若江城を出てこちら向かっているとのこと!」
「……何だと!?」
泰三の口から告げられた内容に、眠気が一気に吹き飛んだ。
「……間違いないのだな」
「へい。金塗りの唐傘も確認済みです」
金塗りの唐傘は信長の馬標で、即ち総大将・信長の出陣を意味する。
まさか本当に信長が出てくるとは。慎重居士の信長のことだから万全を期す為にもう少し兵が揃うまで動かないと思っていたが。逆に考えれば、他の兵を待てない程に天王寺砦の状況が逼迫しているということか。
(顕如上人の仰っていた『天王寺砦を囮に信長を釣り出す』策が、遂に実現する……!!)
孫一も聞かされた当初はやや半信半疑だったが、信長が手の届く場所まで現れる動きを見せたことで顕如上人の勘が証明されようとしていた。
「馬の支度をしろ!! 今から信長を迎え撃つ!! 急げ!!」
「承知しました!」
鬼気迫る勢いで命じられて泰三は弾かれるように走っていった。孫一も急いで身支度を整える。
舞台は整った。あとは、最高の結果の為に最善を尽くすのみ。
愛用の鉄砲を調整しながら、気持ちが昂っていくのを孫一は肌でヒシヒシと感じていた。
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