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一 : 絡み合う思惑(8)-顕如の方策

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 四月下旬、石山本願寺・阿弥陀堂。
 顕如は日が沈んで周りが暗くなっても、読経を続けていた。
 自ら唱える念仏の声だけが阿弥陀堂に響く。正信偈しょうしんげを最後まで唱えると、再び最初から……ということを延々と続けていた。
 すると、遠くからドタドタと荒々しく廊下を歩く音が近付いてきた。顕如の耳にも届いていたが、気にせず読経を続ける。
 やがて足音は部屋の前で止まると、障子がスーッと開けられる音がした。直後、誰かが音を立てずに室内へ入って来る気配がしたが、それでも止めようとはしない。誰かは顕如の少し後ろに座ると、そのまま静かに動かなかった。
 それから暫く読経は続き、ようやく正信偈の最後の一句まで読み終えた。りんの音が響く中で顕如は「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」と唱えながら合掌する。阿弥陀如来に深くお辞儀をして、ようやく振り返った。
「やぁ、お待たせ致しました」
 顕如がにこやかに声を掛けると、相手は恐縮したように頭を掻いた。
「いや……たまには仏様に手を合わせるのも悪くないな、と思いまして……」
 そう話すのは、孫一。その手には数珠が握られていた。
 先日と同じように頭に手拭いを巻き、着ている物はあちこちすすほこりで汚れていた。
 傍らには布で巻かれた鉄砲が置かれており、文字通り“肌身離さず”持ち歩いている様子だった。鉄砲自体が大変高価で貴重な品だが、それ以上に愛着を持って大切に扱っているのが伝わってくる。
「今日も、訓練で?」
「えぇ。鉄砲は感覚が命みたいなものですから、日々の鍛錬は欠かせません。お蔭様で、火薬の心配をせずに心置きなく練習に励めます」
 そう言った孫一は顕如に頭を下げた。
 鉄砲には火薬が欠かせないが、その原材料は主に木炭・硫黄いおう・硝石。その内、硝石は国内で産出されない為に海外からの輸入に頼っていた。鉄砲が普及するに従って硝石の需要も高まり、海外から輸入される硝石は高値で取引されていた。鉄砲は持っているが硝石が少ないので鉄砲の訓練に制限をかける……という大名家も中にはあった。
 海外の船が多く入港する堺は織田家が実効支配しており、堺で取り扱われる硝石をほぼ抑えていた。しかし、石山本願寺は協力関係にある西国の毛利家から船を使って運び入れていたので、火薬の心配は無かった。補給もそうだが、高価な硝石を大量に買える潤沢な資金力があるからこそ、強大な織田家と六年に渡り戦い続けられる一つの要因だろう。孫一が連れて来た雑賀衆五千の兵が日常的に鉄砲で訓練に使えるだけの量をまかなえるとなれば、石山本願寺には相当数の硝石を抱えていることになる。
「孫一殿を始めとする雑賀衆の皆様は我等にとって切り札のような存在。是非とも存分に腕を磨いて頂きたいです」
「……して、本日お呼びになった理由は?」
 孫一が切り出すと、顕如はゆったりとした口調で押し留める。
「その前に、一緒に粗餐そさんなどいかがでしょうか?」
 顕如が手を叩くと、間を置かず二人の控えの者が膳を運んできた。膳に載せられているのは玄米の屯食(とんじき)に大根の古漬け、汁物と至って簡素な献立だった。本願寺の教主となれば豪勢な食事をしていると思っていた孫一は、少々驚いた。
「……では、有り難く頂戴致します」
 訓練後でお腹を空かせた孫一に拒否する気はさらさら無かった。有り難くご相伴に与ることにした。
 手を合わせると、孫一は早速屯食にかぶりついた。白米より噛み応えがあるが嚙んでいく内に米本来の甘みとほのかに利かせた塩気が口の中で相まって、これはこれで美味しい。濃い味の古漬けも屯食との相性が良い。あっという間に二つの屯食を平らげてしまった。
 豪快な食べっぷりにニコニコと微笑みながら見つめる顕如。やがて、食事が一段落した頃合を見計らって話し始めた。
「細作から『塙直政が南山城・大和の国衆に対して動員を掛けており、自らの手の者も広く兵を募っている』と報告が届きました。塙家の兵の間で『近々大きな動きがある』という噂で持ち切り、とも」
 臨時雇いとなれば、戦があるまで日一日と経費がかさんでいく。それが何百・何千人となれば支払う日当や扶持米も馬鹿にならない。つまり、兵を動かす時期が近いことを示している。
「聞いた所によりますと、此度塙家に参じる者は素性を問わないとか……直政はかなり切羽詰まっている様子」
「まぁ、それはご苦労なことで……しかし、それはこちらにしてみれば好都合」
 孫一は人集めに奔走する直政の姿を想像してほくそ笑んだ。
 誰彼構わずき集めているということは、それだけ間者が紛れ込める可能性が高くなる。自然、相手の情報が筒抜けとなって対策も立てやすくなる。
「集めた情報から考えれば、塙直政が寄せ手の主力となるのは間違いないでしょう。あとは、どのような陣容でいつ何処に攻めるか……ですが、それも追々分かることでしょう」
 そこまで言うと顕如はえりを正した。その仕草に釣られて孫一も背筋を伸ばす。
「つきましては、今後の方策についてですが――」
 顕如の口から明かされたのは、今後の対織田勢の流れだった。その内容は戦場に立った経験の無い顕如が考えたとは思えない程、実効性のある作戦だった。戦の経験豊富な孫一も思わず目を見張った。
「――といった具合です。いかがでしょうか? 孫一殿の見解を是非とも伺いたいです」
「……大変素晴らしいと思います。ですが、果たして信長が危険を承知でこちらの狙い通りに動くかは分かりませぬぞ」
「信長は来ます、必ず」
 はっきりと、力強く断言する顕如。先日『信長を撃って下さい』と言われた時も同じような事を口にしていたが、余程自信があるようだ。
 それを差し引いても、顕如が提示した策はなかなか筋が通っている。これならば信長に一泡吹かせることも夢ではない。
「……ですので、孫一殿には思う存分暴れて頂きます。期待しています」
 そう言うとニコリと笑みを見せる顕如。
 舞台は徐々に整いつつある。あとは役者が揃うだけだが、こればかりはその時にならないと分からない。
しかし……折角しつらえた舞台だ。筋書き通りにいかないのもまた一興。面白くなるかならないかは演者の腕次第。どうせやるなら面白くしないと。
「……善処します」
出された物を全て綺麗に平らげると、孫一は合掌してから立ち上がった。きたるべきその時までオレもじっとしている暇はない。孫一の心は秘かに燃え上がっていた。
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