9 / 34
一 : 絡み合う思惑(8)-顕如の方策
しおりを挟む
四月下旬、石山本願寺・阿弥陀堂。
顕如は日が沈んで周りが暗くなっても、読経を続けていた。
自ら唱える念仏の声だけが阿弥陀堂に響く。正信偈を最後まで唱えると、再び最初から……ということを延々と続けていた。
すると、遠くからドタドタと荒々しく廊下を歩く音が近付いてきた。顕如の耳にも届いていたが、気にせず読経を続ける。
やがて足音は部屋の前で止まると、障子がスーッと開けられる音がした。直後、誰かが音を立てずに室内へ入って来る気配がしたが、それでも止めようとはしない。誰かは顕如の少し後ろに座ると、そのまま静かに動かなかった。
それから暫く読経は続き、ようやく正信偈の最後の一句まで読み終えた。鈴の音が響く中で顕如は「南無阿弥陀仏」と唱えながら合掌する。阿弥陀如来に深くお辞儀をして、ようやく振り返った。
「やぁ、お待たせ致しました」
顕如がにこやかに声を掛けると、相手は恐縮したように頭を掻いた。
「いや……たまには仏様に手を合わせるのも悪くないな、と思いまして……」
そう話すのは、孫一。その手には数珠が握られていた。
先日と同じように頭に手拭いを巻き、着ている物はあちこち煤や埃で汚れていた。
傍らには布で巻かれた鉄砲が置かれており、文字通り“肌身離さず”持ち歩いている様子だった。鉄砲自体が大変高価で貴重な品だが、それ以上に愛着を持って大切に扱っているのが伝わってくる。
「今日も、訓練で?」
「えぇ。鉄砲は感覚が命みたいなものですから、日々の鍛錬は欠かせません。お蔭様で、火薬の心配をせずに心置きなく練習に励めます」
そう言った孫一は顕如に頭を下げた。
鉄砲には火薬が欠かせないが、その原材料は主に木炭・硫黄・硝石。その内、硝石は国内で産出されない為に海外からの輸入に頼っていた。鉄砲が普及するに従って硝石の需要も高まり、海外から輸入される硝石は高値で取引されていた。鉄砲は持っているが硝石が少ないので鉄砲の訓練に制限をかける……という大名家も中にはあった。
海外の船が多く入港する堺は織田家が実効支配しており、堺で取り扱われる硝石をほぼ抑えていた。しかし、石山本願寺は協力関係にある西国の毛利家から船を使って運び入れていたので、火薬の心配は無かった。補給もそうだが、高価な硝石を大量に買える潤沢な資金力があるからこそ、強大な織田家と六年に渡り戦い続けられる一つの要因だろう。孫一が連れて来た雑賀衆五千の兵が日常的に鉄砲で訓練に使えるだけの量を賄えるとなれば、石山本願寺には相当数の硝石を抱えていることになる。
「孫一殿を始めとする雑賀衆の皆様は我等にとって切り札のような存在。是非とも存分に腕を磨いて頂きたいです」
「……して、本日お呼びになった理由は?」
孫一が切り出すと、顕如はゆったりとした口調で押し留める。
「その前に、一緒に粗餐などいかがでしょうか?」
顕如が手を叩くと、間を置かず二人の控えの者が膳を運んできた。膳に載せられているのは玄米の屯食(とんじき)に大根の古漬け、汁物と至って簡素な献立だった。本願寺の教主となれば豪勢な食事をしていると思っていた孫一は、少々驚いた。
「……では、有り難く頂戴致します」
訓練後でお腹を空かせた孫一に拒否する気はさらさら無かった。有り難くご相伴に与ることにした。
手を合わせると、孫一は早速屯食にかぶりついた。白米より噛み応えがあるが嚙んでいく内に米本来の甘みと仄かに利かせた塩気が口の中で相まって、これはこれで美味しい。濃い味の古漬けも屯食との相性が良い。あっという間に二つの屯食を平らげてしまった。
豪快な食べっぷりにニコニコと微笑みながら見つめる顕如。やがて、食事が一段落した頃合を見計らって話し始めた。
「細作から『塙直政が南山城・大和の国衆に対して動員を掛けており、自らの手の者も広く兵を募っている』と報告が届きました。塙家の兵の間で『近々大きな動きがある』という噂で持ち切り、とも」
臨時雇いとなれば、戦があるまで日一日と経費が嵩んでいく。それが何百・何千人となれば支払う日当や扶持米も馬鹿にならない。つまり、兵を動かす時期が近いことを示している。
「聞いた所によりますと、此度塙家に参じる者は素性を問わないとか……直政はかなり切羽詰まっている様子」
「まぁ、それはご苦労なことで……しかし、それはこちらにしてみれば好都合」
孫一は人集めに奔走する直政の姿を想像してほくそ笑んだ。
誰彼構わず掻き集めているということは、それだけ間者が紛れ込める可能性が高くなる。自然、相手の情報が筒抜けとなって対策も立てやすくなる。
「集めた情報から考えれば、塙直政が寄せ手の主力となるのは間違いないでしょう。あとは、どのような陣容でいつ何処に攻めるか……ですが、それも追々分かることでしょう」
そこまで言うと顕如は襟を正した。その仕草に釣られて孫一も背筋を伸ばす。
「つきましては、今後の方策についてですが――」
顕如の口から明かされたのは、今後の対織田勢の流れだった。その内容は戦場に立った経験の無い顕如が考えたとは思えない程、実効性のある作戦だった。戦の経験豊富な孫一も思わず目を見張った。
「――といった具合です。いかがでしょうか? 孫一殿の見解を是非とも伺いたいです」
「……大変素晴らしいと思います。ですが、果たして信長が危険を承知でこちらの狙い通りに動くかは分かりませぬぞ」
「信長は来ます、必ず」
はっきりと、力強く断言する顕如。先日『信長を撃って下さい』と言われた時も同じような事を口にしていたが、余程自信があるようだ。
それを差し引いても、顕如が提示した策はなかなか筋が通っている。これならば信長に一泡吹かせることも夢ではない。
「……ですので、孫一殿には思う存分暴れて頂きます。期待しています」
そう言うとニコリと笑みを見せる顕如。
舞台は徐々に整いつつある。あとは役者が揃うだけだが、こればかりはその時にならないと分からない。
しかし……折角設えた舞台だ。筋書き通りにいかないのもまた一興。面白くなるかならないかは演者の腕次第。どうせやるなら面白くしないと。
「……善処します」
出された物を全て綺麗に平らげると、孫一は合掌してから立ち上がった。来るべきその時までオレもじっとしている暇はない。孫一の心は秘かに燃え上がっていた。
顕如は日が沈んで周りが暗くなっても、読経を続けていた。
自ら唱える念仏の声だけが阿弥陀堂に響く。正信偈を最後まで唱えると、再び最初から……ということを延々と続けていた。
すると、遠くからドタドタと荒々しく廊下を歩く音が近付いてきた。顕如の耳にも届いていたが、気にせず読経を続ける。
やがて足音は部屋の前で止まると、障子がスーッと開けられる音がした。直後、誰かが音を立てずに室内へ入って来る気配がしたが、それでも止めようとはしない。誰かは顕如の少し後ろに座ると、そのまま静かに動かなかった。
それから暫く読経は続き、ようやく正信偈の最後の一句まで読み終えた。鈴の音が響く中で顕如は「南無阿弥陀仏」と唱えながら合掌する。阿弥陀如来に深くお辞儀をして、ようやく振り返った。
「やぁ、お待たせ致しました」
顕如がにこやかに声を掛けると、相手は恐縮したように頭を掻いた。
「いや……たまには仏様に手を合わせるのも悪くないな、と思いまして……」
そう話すのは、孫一。その手には数珠が握られていた。
先日と同じように頭に手拭いを巻き、着ている物はあちこち煤や埃で汚れていた。
傍らには布で巻かれた鉄砲が置かれており、文字通り“肌身離さず”持ち歩いている様子だった。鉄砲自体が大変高価で貴重な品だが、それ以上に愛着を持って大切に扱っているのが伝わってくる。
「今日も、訓練で?」
「えぇ。鉄砲は感覚が命みたいなものですから、日々の鍛錬は欠かせません。お蔭様で、火薬の心配をせずに心置きなく練習に励めます」
そう言った孫一は顕如に頭を下げた。
鉄砲には火薬が欠かせないが、その原材料は主に木炭・硫黄・硝石。その内、硝石は国内で産出されない為に海外からの輸入に頼っていた。鉄砲が普及するに従って硝石の需要も高まり、海外から輸入される硝石は高値で取引されていた。鉄砲は持っているが硝石が少ないので鉄砲の訓練に制限をかける……という大名家も中にはあった。
海外の船が多く入港する堺は織田家が実効支配しており、堺で取り扱われる硝石をほぼ抑えていた。しかし、石山本願寺は協力関係にある西国の毛利家から船を使って運び入れていたので、火薬の心配は無かった。補給もそうだが、高価な硝石を大量に買える潤沢な資金力があるからこそ、強大な織田家と六年に渡り戦い続けられる一つの要因だろう。孫一が連れて来た雑賀衆五千の兵が日常的に鉄砲で訓練に使えるだけの量を賄えるとなれば、石山本願寺には相当数の硝石を抱えていることになる。
「孫一殿を始めとする雑賀衆の皆様は我等にとって切り札のような存在。是非とも存分に腕を磨いて頂きたいです」
「……して、本日お呼びになった理由は?」
孫一が切り出すと、顕如はゆったりとした口調で押し留める。
「その前に、一緒に粗餐などいかがでしょうか?」
顕如が手を叩くと、間を置かず二人の控えの者が膳を運んできた。膳に載せられているのは玄米の屯食(とんじき)に大根の古漬け、汁物と至って簡素な献立だった。本願寺の教主となれば豪勢な食事をしていると思っていた孫一は、少々驚いた。
「……では、有り難く頂戴致します」
訓練後でお腹を空かせた孫一に拒否する気はさらさら無かった。有り難くご相伴に与ることにした。
手を合わせると、孫一は早速屯食にかぶりついた。白米より噛み応えがあるが嚙んでいく内に米本来の甘みと仄かに利かせた塩気が口の中で相まって、これはこれで美味しい。濃い味の古漬けも屯食との相性が良い。あっという間に二つの屯食を平らげてしまった。
豪快な食べっぷりにニコニコと微笑みながら見つめる顕如。やがて、食事が一段落した頃合を見計らって話し始めた。
「細作から『塙直政が南山城・大和の国衆に対して動員を掛けており、自らの手の者も広く兵を募っている』と報告が届きました。塙家の兵の間で『近々大きな動きがある』という噂で持ち切り、とも」
臨時雇いとなれば、戦があるまで日一日と経費が嵩んでいく。それが何百・何千人となれば支払う日当や扶持米も馬鹿にならない。つまり、兵を動かす時期が近いことを示している。
「聞いた所によりますと、此度塙家に参じる者は素性を問わないとか……直政はかなり切羽詰まっている様子」
「まぁ、それはご苦労なことで……しかし、それはこちらにしてみれば好都合」
孫一は人集めに奔走する直政の姿を想像してほくそ笑んだ。
誰彼構わず掻き集めているということは、それだけ間者が紛れ込める可能性が高くなる。自然、相手の情報が筒抜けとなって対策も立てやすくなる。
「集めた情報から考えれば、塙直政が寄せ手の主力となるのは間違いないでしょう。あとは、どのような陣容でいつ何処に攻めるか……ですが、それも追々分かることでしょう」
そこまで言うと顕如は襟を正した。その仕草に釣られて孫一も背筋を伸ばす。
「つきましては、今後の方策についてですが――」
顕如の口から明かされたのは、今後の対織田勢の流れだった。その内容は戦場に立った経験の無い顕如が考えたとは思えない程、実効性のある作戦だった。戦の経験豊富な孫一も思わず目を見張った。
「――といった具合です。いかがでしょうか? 孫一殿の見解を是非とも伺いたいです」
「……大変素晴らしいと思います。ですが、果たして信長が危険を承知でこちらの狙い通りに動くかは分かりませぬぞ」
「信長は来ます、必ず」
はっきりと、力強く断言する顕如。先日『信長を撃って下さい』と言われた時も同じような事を口にしていたが、余程自信があるようだ。
それを差し引いても、顕如が提示した策はなかなか筋が通っている。これならば信長に一泡吹かせることも夢ではない。
「……ですので、孫一殿には思う存分暴れて頂きます。期待しています」
そう言うとニコリと笑みを見せる顕如。
舞台は徐々に整いつつある。あとは役者が揃うだけだが、こればかりはその時にならないと分からない。
しかし……折角設えた舞台だ。筋書き通りにいかないのもまた一興。面白くなるかならないかは演者の腕次第。どうせやるなら面白くしないと。
「……善処します」
出された物を全て綺麗に平らげると、孫一は合掌してから立ち上がった。来るべきその時までオレもじっとしている暇はない。孫一の心は秘かに燃え上がっていた。
0
お気に入りに追加
2
あなたにおすすめの小説
信忠 ~“奇妙”と呼ばれた男~
佐倉伸哉
歴史・時代
その男は、幼名を“奇妙丸”という。人の名前につけるような単語ではないが、名付けた父親が父親だけに仕方がないと思われた。
父親の名前は、織田信長。その男の名は――織田信忠。
稀代の英邁を父に持ち、その父から『天下の儀も御与奪なさるべき旨』と認められた。しかし、彼は父と同じ日に命を落としてしまう。
明智勢が本能寺に殺到し、信忠は京から脱出する事も可能だった。それなのに、どうして彼はそれを選ばなかったのか? その決断の裏には、彼の辿って来た道が関係していた――。
◇この作品は『小説家になろう(https://ncode.syosetu.com/n9394ie/)』『カクヨム(https://kakuyomu.jp/works/16818093085367901420)』でも同時掲載しています◇
左義長の火
藤瀬 慶久
歴史・時代
ボーイミーツガールは永遠の物語――
時は江戸時代後期。
少年・中村甚四郎は、近江商人の町として有名な近江八幡町に丁稚奉公にやって来た。一人前の商人を目指して仕事に明け暮れる日々の中、やがて同じ店で働く少女・多恵と将来を誓い合っていく。
歴史に名前を刻んだわけでも無く、世の中を変えるような偉業を成し遂げたわけでも無い。
そんな名も無き少年の、恋と青春と成長の物語。
旧式戦艦はつせ
古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
空蝉
横山美香
歴史・時代
薩摩藩島津家の分家の娘として生まれながら、将軍家御台所となった天璋院篤姫。孝明天皇の妹という高貴な生まれから、第十四代将軍・徳川家定の妻となった和宮親子内親王。
二人の女性と二組の夫婦の恋と人生の物語です。
池田戦記ー池田恒興・青年編ー信長が最も愛した漢
林走涼司(はばしり りょうじ)
歴史・時代
天文5年(1536)尾張国の侍長屋で、産声を上げた池田勝三郎は、戦で重傷を負い余命を待つだけの父、利恒と、勝三郎を生んだばかりの母、お福を囲んで、今後の身の振り方を決めるため利恒の兄、滝川一勝、上役の森寺秀勝が額を付き合わせている。
利恒の上司、森寺秀勝の提案は、お福に、主、織田信秀の嫡男吉法師の乳母になることだった……。
【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原
糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。
慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。
しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。
目指すは徳川家康の首級ただ一つ。
しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。
その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。
政府の支配は受けぬ!日本脱退物語
田中畔道
歴史・時代
自由民権運動が盛り上がる明治時代。国会開設運動を展開してきた自由党員の宮川慎平は、日本政府の管理は受けないとする「日本政府脱管届」を官庁に提出し、世間を驚かせる。卑劣で不誠実な政府が支配するこの世の異常性を訴えたい思いから出た行動も、発想が突飛すぎるゆえ誰の理解も得られず、慎平は深い失意を味わうことになるー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる