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10.五月十七日:中国出征準備
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十七日夜。信長は近臣達に中国出征を内示。各自合戦に備えて支度を整えるよう通達を出した。信長の側近くには優秀な官僚が揃っており、兵站の手配や軍資金の調達などが迅速かつ的確に行えるような体制が確立されていた。
それから具体的な動きについて指示を伝えるべく、居室に蘭丸を招き入れた。信長の一番近くで差配を見てきたこともあり、蘭丸には側近としての資質が備わっていた。
蘭丸は文机に紙と墨を満たした硯を用意して、主君の言葉を一語一句聞き漏らさないよう万全の態勢で待っている。この場で記した内容が順次織田家の家臣へ発給されていくので、責任重大だ。
「まず、光秀」
そう告げると信長は一旦口を閉ざした。普段ならば思いつくままにスラスラと言葉を並べていくのに、珍しく考え込んでいる。暫く逡巡していた末に、ゆっくりと話し始めた。
「接待役を直ちに解く。新たに、秀吉への後詰めとして急ぎ備中へ向けて先行せよ。また、石見・出雲の両国を切り取り次第と致す」
蘭丸は信長の言った通りに書いていく。丹波平定後は各方面への遊撃的位置づけにあった光秀だったが、今回の中国出征によって新たな任務を与えられたこととなる。
直後、信長は一旦言葉を区切ってから「但し」と付け加える。
「近江坂本・丹波は召し上げとする」
衝撃的な内容に、蘭丸は息を呑んだ。
石見も出雲もまだ毛利の支配地域、つまり敵国だ。平定するまである程度の年月を要するのは明々白々。にも関わらず、領地を手に入れる前に今ある領地を没収するとなれば、光秀を始めとする明智軍は帰る場所も兵站の補充も失われてしまう。『生き残りたければ死に物狂いで奪い取れ』と宣告しているも同然で、極めて苛烈な命令であった。
ただ、信長は光秀が憎いから虐めているのではなく、奮起してくれることが狙いだった。
織田家に仕官した当初から光秀の実力を認めていたし、その評価は今現在も揺るぎない。文化や作法に精通し、内政でも優れた才能を発揮し、さらに軍事面でもしっかり成果を残している。惜しむらくは、光秀は最近“守り”の色が濃くなっていることだ。
昔の光秀は、勝算の薄い博奕も平気で打てる思い切りの良さがあった。それを思い出して欲しいと切に願い、敢えて苦境に立たせることにしたのだ。
一方で、信長も光秀が石見・出雲の両国を簡単に取れるとは思っていない。兵が足りなければ秀吉に援護するよう命じるつもりだし、軍資金が足りなければ遠慮なく与えるつもりだった。気力さえ蘇れば、光秀の実力なら必ず成し遂げると信じて疑わなかった。
「……宜しいのですか?」
蘭丸がおずおずと訊ねてきた。常ならば主君の言葉に聞き質すことなど有り得ないことだが、内容が内容だけに確認せずにいられなかった。
「うむ」
短く、そして力強く信長は応えた。蘭丸はそれ以上何も言わず首肯した。
その後も、中国出征に関わる配下の大名や家臣に対して具体的な指示を発していく。蘭丸はそれを一語一句漏らすことなく次々と紙に書き写していく。
明日になれば諸将へ向けて発給され、毛利攻めに向けて家中が動き始める。唯一気掛かりなのは、苛烈とも言える内容を聞いた光秀がどう思うのか。
「蘭丸、明日お主の口から光秀に伝えよ」
最後に、信長は蘭丸に告げた。
例え主君の意向であっても、苛烈な命令を伝える仕事は誰だってやりたくないはずだ。それを敢えて一番のお気に入りである小姓に任せたのは、信長なりの試練であり愛情でもあった。
蘭丸は表情を変えずに「御意」とだけ答えた。その反応に満足して、信長は一つ大きく頷いた。
それから具体的な動きについて指示を伝えるべく、居室に蘭丸を招き入れた。信長の一番近くで差配を見てきたこともあり、蘭丸には側近としての資質が備わっていた。
蘭丸は文机に紙と墨を満たした硯を用意して、主君の言葉を一語一句聞き漏らさないよう万全の態勢で待っている。この場で記した内容が順次織田家の家臣へ発給されていくので、責任重大だ。
「まず、光秀」
そう告げると信長は一旦口を閉ざした。普段ならば思いつくままにスラスラと言葉を並べていくのに、珍しく考え込んでいる。暫く逡巡していた末に、ゆっくりと話し始めた。
「接待役を直ちに解く。新たに、秀吉への後詰めとして急ぎ備中へ向けて先行せよ。また、石見・出雲の両国を切り取り次第と致す」
蘭丸は信長の言った通りに書いていく。丹波平定後は各方面への遊撃的位置づけにあった光秀だったが、今回の中国出征によって新たな任務を与えられたこととなる。
直後、信長は一旦言葉を区切ってから「但し」と付け加える。
「近江坂本・丹波は召し上げとする」
衝撃的な内容に、蘭丸は息を呑んだ。
石見も出雲もまだ毛利の支配地域、つまり敵国だ。平定するまである程度の年月を要するのは明々白々。にも関わらず、領地を手に入れる前に今ある領地を没収するとなれば、光秀を始めとする明智軍は帰る場所も兵站の補充も失われてしまう。『生き残りたければ死に物狂いで奪い取れ』と宣告しているも同然で、極めて苛烈な命令であった。
ただ、信長は光秀が憎いから虐めているのではなく、奮起してくれることが狙いだった。
織田家に仕官した当初から光秀の実力を認めていたし、その評価は今現在も揺るぎない。文化や作法に精通し、内政でも優れた才能を発揮し、さらに軍事面でもしっかり成果を残している。惜しむらくは、光秀は最近“守り”の色が濃くなっていることだ。
昔の光秀は、勝算の薄い博奕も平気で打てる思い切りの良さがあった。それを思い出して欲しいと切に願い、敢えて苦境に立たせることにしたのだ。
一方で、信長も光秀が石見・出雲の両国を簡単に取れるとは思っていない。兵が足りなければ秀吉に援護するよう命じるつもりだし、軍資金が足りなければ遠慮なく与えるつもりだった。気力さえ蘇れば、光秀の実力なら必ず成し遂げると信じて疑わなかった。
「……宜しいのですか?」
蘭丸がおずおずと訊ねてきた。常ならば主君の言葉に聞き質すことなど有り得ないことだが、内容が内容だけに確認せずにいられなかった。
「うむ」
短く、そして力強く信長は応えた。蘭丸はそれ以上何も言わず首肯した。
その後も、中国出征に関わる配下の大名や家臣に対して具体的な指示を発していく。蘭丸はそれを一語一句漏らすことなく次々と紙に書き写していく。
明日になれば諸将へ向けて発給され、毛利攻めに向けて家中が動き始める。唯一気掛かりなのは、苛烈とも言える内容を聞いた光秀がどう思うのか。
「蘭丸、明日お主の口から光秀に伝えよ」
最後に、信長は蘭丸に告げた。
例え主君の意向であっても、苛烈な命令を伝える仕事は誰だってやりたくないはずだ。それを敢えて一番のお気に入りである小姓に任せたのは、信長なりの試練であり愛情でもあった。
蘭丸は表情を変えずに「御意」とだけ答えた。その反応に満足して、信長は一つ大きく頷いた。
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