天正十年五月、安土にて

佐倉伸哉

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2. 四月二十一日:安土城最上階にて

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 鎧を脱いで平装に着替えた信長は、天守閣の最上階で一人くつろいでいた。
 襖を開け放ち、はだけた胸元に扇子で風を扇ぐ。南蛮渡来品の椅子に座り一時の涼を味わっていると、階段を上ってくる足音が聞こえてきた。
 足音だけで誰が来るかすぐに分かった。信長は抜群に頭の回転が早く、記憶も鮮明だ。何度か顔を会わせた者ならば名前や年齢だけでなく、生国や家族構成まで覚えていた。
 傍らで控えていた美少年がさり気なく下がると、入れ替わりに階段を上ってきた人物が部屋へ入ってきた。
「お帰りなさいませ、上様」
 柔らかな笑みを湛えながら挨拶する女人。それに対して信長は「うむ」と短く応える。
 信長は若い頃から言葉数が極端に少なく、部下も主君の意向が読み取れず困惑する事も多々あった。おまけに平時は表情の変化に乏しいので、顔色から推察するのも難しい。
 しかし、女人はあまり気にすることなく信長が座る向かいの椅子に腰を下ろした。当時の日本人には少々座高がある椅子だが、女人の足はしっかりと地面に着いていた。
 特に話しかける訳でもなく、向かいに座る信長を眺めるだけ。一方の信長も、無言で窓から吹き抜ける爽やかな風を感じながら、外の景色を眺めていた。
 窓の外には琵琶湖や比叡山、眼下には安土の街並みが見える。雄大な景色は慣れると飽きてくるが、人々の営みは一時も同じ瞬間がないので眺めていても飽きることがない。
 女人は長く艶のある黒髪を風に揺らしながら、信長と同じ方向に視線を送っていた。言葉も視線も交わさないが気にする素振りを見せず、共に居るだけで満足している様子だ。
 暫くその状況が続いていたが、汗も引いて一心地ついた信長は一つ息を吐いてから女人の方を向いた。
「老いたわ」
 吐き捨てるように発した言葉に、女人は小首を傾げた。
「上様が、ですか? あまりお変わりないように思いますが……」
 織田家の血を引く者は、美男美女と評される人が多い。信長の妹・市は周辺諸国にも知られる程に絶世の美女であり、信長もまた美丈夫であった。五十手前となった信長だったが、齢を重ねても肌は透き通るように白く、身体も引き締まって余分な肉は付いていない。若い頃と比べても外見に変化は見られなかった。
「そういう“濃”こそ、変わりないではないか」
 信長から“濃”と呼ばれる女人。正式には“帰蝶”と言う名前で、信長の正室である。
 帰蝶は一代で美濃を手中に収めた斉藤道三の娘で、三十年以上前に織田家と斉藤家の友好の証として嫁いできた。信長は『美濃から来たから“濃姫”』と安直な理由で帰蝶をそう呼んだが、当の本人もその名前が気に入ったのか“帰蝶”ではなく“濃”と名乗る辺り、案外お似合いの夫婦なのかもしれない。
 美濃を手に入れて濃姫の利用価値が薄れても遠ざけられることなく正室として扱われているのは、何かと気難しい信長と相性が特に良かった事が大きい。人を道具のように扱う信長は、利用価値が無いと判断すれば迷いなく斬り捨てることで有名だっただけに、濃姫の存在が如何に特別なのかがこの一点だけでも伺える。
 濃姫は袖を口に当てて、高らかに笑った。
「あら、私もこう見えてお婆に近づいていますよ。髪に白い物が混じるようになりましたし、皺も増えてきました。近くでご覧になります?」
 そう言って誘うと、信長は体を乗り出して自分の息が掛かる程の距離まで近づく。まじまじと見つめると、ゆっくり自分の椅子に戻る。
「……確かに。暫く見ない間に変わってる」
 あまり老けたことを明らかにしたくない女人が大勢を占める中で、濃姫は気に留める素振りを一切見せない。信長も変わっているが、濃姫も負けず劣らず変わり者であった。
 ふう、と溜息を一つついてから信長は話し始めた。
「昔は帰ってきたら戦で昂ぶった血を抑えきれずに誰彼構わず欲するままに抱いたが、今はそんな気にもならん。若い頃は一晩寝れば激戦の疲れも吹き飛んだが、今は眠りが浅いせいか一向に抜けてくれん。今度の戦も物見遊山も同然だったが、それでも体が鉛のように重たい」
 信長は言い終えると左手で右の肩を揉む。その様子を見て濃姫は「ふふっ」と笑みを漏らす。
「巷では“魔王”と呼ばれ恐れられていますけれど、上様も年寄り臭いことを申されるのですね」
「アホウ、俺は魔王でも神でもないわ」
 比叡山焼き討ちや一向一揆への苛烈な仕打ちに対して、人々は信長のことを密かに“魔王”と呼んでいた。織田に仕える者ならば誰もが口にするのも憚られる単語でも遠慮せず言ってしまう濃姫に、周囲の者は幾度もハラハラしてきた。しかし、信長はそうした言動に対して咎めたり気分を損ねたりすることは無く、寧ろ楽しんでいる風にも映った。
「しかし、上様は自らを民衆に拝ませているではありませんか」
「あぁ、盆山か? あれはただの戯れだ。民は何かに頼りたいからな、その対象を設けているに過ぎぬ」
 安土城の一角に社殿が設けられており、民衆が自由に参拝することを許可していた。その中には仏像やご神体は置かれておらず、信長が城の近くで拾った石が据えられていた。信長自身は信仰心が薄いこともあるが、こうした遊びを好む性格でもあった。
 しかし、噂に尾鰭がついて、世間には『あの社殿は信長を奉っている』『自身を神の化身と考えている』という誤解が流布していた。濃姫はそれを指摘したのだ。
「……ところで濃よ、今日は何用で参った?」
「あら? 何か用事が無いと来たらダメなのですか?」
 鋭い切り返しに、思わず言葉に詰まる信長。その反応を見て濃姫は再び笑う。
「冗談ですよ。ただ、久しく上様のご尊顔を拝していなかったので、つい用も無くふらりと参りました。……お邪魔でした?」
 皮肉っぽい言い方ではあるが、言葉に棘は感じられない。釣られて信長も笑みが零れる。
 そういえば、濃とこうしてゆっくり言葉を交わすのはいつ以来のことだろうか。武田征伐で二月安土を留守にしていたが、それ以前も政務に忙殺されて濃と顔を合わせた記憶がない。正月まで遡れば何とかあったような気がする。
 ……思えば、濃から何を言われても不思議と腹が立たない。諫言も素直に聞き入れられる。どうしてだろうか。
 幼い時分より、他人は俺のことを認めてくれなかった。従来あるやり方を変えようとすれば説教され、奇抜な振る舞いをすれば軽蔑の視線を送り、挙げ句には“うつけ”だと影で囁いた。実の母ですら俺を認めてくれなかったのに、敵国から人質同然で嫁いできた赤の他人である濃は俺を理解してくれた。本当はもう一人俺の全てを受け入れ愛してくれた人が存在したが、今はもう居ない。
「申し上げます。中将様、上様にお目通りを願っています」
 先程下がった美少年が来客した旨を伝えてきた。見目麗しい姿は一見すると女のように映るが、立派な男である。一応声変わりは始まっているがまだ幾分高いので、声の低い女人と言われても遜色ないことを本人は内心好ましく思っていないみたいではあるが。
「あらあら、私はお邪魔みたいですね。ではまた、気が向いたら参りますね」
 こういう所は察しが良く、にこやかに笑みを見せて濃姫は立ち上がり去っていった。入れ替わりで部屋に入ってきた男の顔を一瞥すると、先程濃姫と話していた際に思い浮かべた女人の顔が重なった。しかし、それも一瞬のことで、すぐに本来の顔に戻っていた。
「甲信の仕置、固まりました」
 挨拶も世辞も一切挟まず、単刀直入に用件を告げる。仕える主に対して一見無礼な振る舞いではあるが、信長に限れば逆に好印象を抱いた。長々と前説や時節の挨拶を並べられると苛々するし、そういう奴ほど伝えたい事が分かりにくい。
「甲斐は河尻秀隆に、信濃の北四郡を森長可に、信濃伊那を毛利秀頼に任せました。また、甲信の国人衆は多くを本領安堵とした上で、各人の与力として差配しました」
 流れるような説明ではあるが、大半は信長が武田征伐の際に決めた事と変わりがない。不満は無いが面白くない。
「穴山信君に甲斐一国を任せる選択は考えなかったか?」
 試しに今思いついた事を投げかける。もし仮に賛同すれば確たる意見を持たないごますり野郎と斬り捨てられるが、果たしてどういう反応を示すか。
 すると目の前に座る男は眉一つ動かさず即座に反論してきた。
「有り得ないでしょう。あ奴は我等が信濃へ軍勢を進めた途端に躊躇なく主家を捨てて寝返った輩。機を見るに敏くても、信頼の置けぬ食わせ者に過大な褒美を与えては後々面倒なことになりましょう」
 自分の見立てと全く同じで満足したが……やはり面白くない。
 穴山信君は武田の重臣で、武田家当主の勝頼とは親戚関係にある人物だ。先代信玄からの信頼も篤く、駿河の統治を任される程の実力者であった。しかし、勝頼とは折り合いが悪く疎まれていた為に、織田・徳川が侵攻すると即座に勝頼を見切り降伏してしまった。信長が引見した際には秘かに隠し持っていた黄金を差し出し、仲介した家康にも見返りに黄金を渡すという抜け目の無さを発揮していた。
 時勢を見る目があり、自らが生き残る為なら黒い鳥を白と言い放つくらいの従順さを演じられるが、逆に言えばこちらが劣勢になれば簡単に掌を反すということだ。おまけに不平不満を溜め込みやすく、反逆の火種を抱えやすい。適度に抑えておく必要がある、扱いの難しい注意人物であった。
「長可に関しては上様の決裁を待たず、こちらの独断で任地へ先行させました。この後の仕置もありますので、早めに動かした方が上策と思いました故」
 許可を求めながら独断専行したと言い切る。矛盾した行動ではあるが、これも正しい。
 今後、北陸の雄である越後の上杉家を攻めるに当たり信濃は重要な拠点となる。加えて、北国担当の柴田勝家と連携していく必要があり、そうした意味で戦上手の武将である森長可を北信濃へいち早く赴任させるのは、的確な選択であった。
 戦の準備には労力も時間も掛かる。兵糧や秣も揃えなければならないし、徴用した兵を鍛錬する期間も必要、越後へ向けて攻める為に道や地形を下調べも欠かせないし、国人達と信頼関係を築く必要もある。早い内から新地に赴いて損はない。
 万事、恙無く進めている。俺の描いた絵図の通りに、意図や狙いもしっかり把握した上で行動している。これ以上何を望むのかと他人は訝しむだろうが、俺の中ではすっきりしない何かが心の中に引っかかる。
 目の前に座する男の顔をまじまじと眺める。色白な肌、端整な顔立ち、すっと伸びた鼻。どれも俺と瓜二つだが、どこか違う。その違いが気になって懸命に自分の中で探していると、怪訝に感じたのか問いかけてきた。
「……私の顔に何かありましたか?」
 その声で我に返り、平静を装いつつ「別に」と素っ気無く答える。幼少の頃から一度気になり始めると納得する答えが出るか諦めるまでとことん突き詰める癖があるが、これだけはいい歳した大人になっても治らない。
 まぁ、似ていて当然だ。何故なら、目の前に居る男は俺の血を引く嫡男だからだ。
 織田“中将”信忠、齢二十七。先日の武田征伐では総大将として織田勢を率い、危な気なく武田家を滅ぼした。表向き織田家の家督は信忠に譲っており、家中の仕置についても信忠が行っている。天下統一に向けた舵取りは俺が握っているが。
 俺が若い頃には奇抜な行いを散々やってきたのに対して、信忠は一貫して大人しく物静かに過ごしてきた。そんな息子が、どこか気に喰わない。内政も俺が安土に移った後の岐阜や清洲も問題なく治めている。人事も論功行賞も好悪や評判に左右されず、公正公平。家臣からの評価も決して悪くない。ただ、ここで言う“悪くない”は『悪い』と言う者が居ないだけであって、『良い』と言っている者の話も耳にしないから“悪くない”と捉えている。
 俺の眼から見た信忠を言い表すならば、“面白味に欠ける”。それ即ち、個性が薄いということだ。俺はずば抜けた変人と自認しているので別格だとしても、家中を見渡せば特徴的な個性を持っている者が多い。中国攻めを任せている“サル”こと羽柴“筑前守”秀吉は、下賤上がりで知性のカケラも無いが底抜けに陽気で愉快な奴。北陸担当の柴田“修理亮”勝家は、剛直な見た目そのままに思い切りが良い。今は何の役にも就いてないが明智“日向守”光秀は知的な雰囲気を常に漂わせている。
 だが、信忠は俺の血を継いでいる筈なのに、これと当てはまる印象が全く浮かんでこない。それがつまらなく感じるし、面白くない。
 気に喰わないせいか、扇子を小まめに開いたり閉じたりを繰り返す。そんな居心地の悪さなど構うことなく信忠は俺に問いかけてきた。
「……して、上様のお考えは如何に?」
 それが先程求めてきた仕置の判断と咄嗟に分からず言葉に詰まるが、その仕置も元々は俺が土台を造ったものだ。今更になって否応もない。
「構わぬ。そのように致せ」
「承知しました」
 すると信忠は用事が済んだとばかりに無言で一礼すると立ち上がり、さっさと部屋から退出していってしまった。ズルズルと居座って主君の機嫌を伺う者も少なからず存在するが、信忠はそういう姿勢を一切見せない。他の弟達と比べても一線を画していた。
 北伊勢の北畠へ養子に出した次男の信雄は用が済んでも訳もなく長居して俺が「下がれ」と言わないと分からないし、中伊勢の神戸に養子に出した信孝は終始俺を窺い怯えている。信雄は気が回らないし、信孝は気を回し過ぎている。だから養子先から織田家へ戻そうという気にならない。悔しいが、嫡男の信忠と比べれば、一段も二段も劣って映るのだ。
 ちなみに信孝が三男という扱いだが、実は信雄より三日早く生まれている。俺の元に知られた差で次男三男の格がついている。仮に信孝が信雄より明らかに秀でていれば序列を変えようかと考えるが、五十歩百歩の違いではそう思わない。
 信忠が辞して暫く経ってから、それまで信忠に抱いていた何かがようやく掴めた。
「―――どうして濃と似ているのだ、信忠よ」
 誰も居ない対面の間に、自分の声だけが響く。有り得ないのに「俺と濃の子だ」と公表すれば皆違和感を抱かない程に、面影が重なるのだ。
 信忠と信雄の母は生駒家の吉乃で、二十年近く前に亡くなっている。信忠が産まれる際に俺自身が立ち会ったので間違いない。吉乃は濃と性格も外見も全く異なるが、良い女子だった。それなのに、どうして他人に似るのか。
 本当に、世の中は分からないことだらけだ。だからこそ面白くもあり、苛つく。
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