春を照らすカクテル光線

佐倉伸哉

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10. 六回裏

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 五回裏の攻撃は四番の新藤から始まる好打順だったが、ここまで一人も出塁を許していない長瀬の前に沈黙。ノーアウト二三塁の大ピンチを切り抜けて流れを引き寄せたと思っていたが、現実はそんなに甘くなかった。それでも六回表はこの日初めて三者凡退に抑え、掴んだ流れを相手に渡すことはなかった。
 スローカーブを使い始めたことで緩急が活きるようになり、それによって投球に幅が広がって抑えられるという好循環が生まれた。大阪東雲もスローカーブへの対応に苦慮しているらしく、まだ芯で捉えることが出来ていない。この調子で抑え続けることが出来れば、逆転の目もきっと見えてくるはずだ。
(……まぁ、その前にランナーを出さないことには話にならないけど)
 岡野はヘルメットを被りながら心の中で自嘲気味にぼやく。
 先にも触れた通り、泉野高は相手の先発投手である長瀬の前に一人のランナーも出せておらず、攻撃の糸口さえ掴めてない。頼みの新藤も長瀬本気の投球を前に成す術なく二つの三振に抑え込まれている。他の野手陣も同じように三振の山を築いている有様だ。この惨憺[さんさん]たる結果を不甲斐ないとは思わない。元々地力のないチームなのだから致し方ないと割り切っていた。
 この回も七番の松田が三球三振、続く八番の野沢もどん詰まりのピッチャーゴロと呆気なく二アウトとなってしまった。アウトになったのを見届けた岡野はゆっくりとバッターボックスへ向かう。
 高校野球では、エースピッチャーが主軸を打つというケースは意外と多い。プロ野球で活躍する一流のバッターでも、高校時代に四番を任されていた投手や元投手という人は少なくない。
 それに対して岡野はどうかと言われると……打順が示している通り、バッティングに期待はされていない。非公式戦も含めた通算でもヒットは数える程度しか打っていない。その代わり、本職の投球では十二分にチームの勝利に貢献しているので誰からも文句は言われない。
 岡野自身、漫画やドラマに出てくるような“エースで四番”という姿に憧れを抱いている。しかし、空想の世界の“エースで四番”と呼ばれる人は、唸るような豪速球か魔球と表現される決め球の変化球を必ず持っているのがお決まりのパターンだ。一方で岡野はそのどちらも有していない。前提条件の段階で資格から外れていた。現実は非情である。
 一方で、今マウンドに立っている長瀬は最速一五六キロのストレートと切れ味鋭いフォークが武器の本格派。さらに打順は六番ながらホームランが期待できるロマン砲。“エースで四番”を体現するなら長瀬のような人を指すのだろう。
 そんなことを考えていると、不意に岡野の中で反骨心がふつふつと湧き上がってきた。
(……どうせ三振するなら、全部全力で振ってやる)
 到底敵[かな]わないとは思うが、それでも何の抵抗もせず見逃し三振でアウト一つを相手に渡すのはやっぱり面白くない。ならば、当たらないのを承知で振ってやろうじゃないか。バットに当たる可能性は限りなくゼロに近いが、当たれば“もしかすると?”が起きるかも知れない。一寸の虫にも五分の魂と言うじゃないか。当たって砕けろの精神でぶつかってやる!
 そう心に固く誓い勇んで臨んだものの……初球、二球目と全くタイミングが合わず空振り。マウンドに立つ長瀬からは闘争心というものが微塵も感じられない。『さっさとアウトになればいいのに』とでも思っているのか、はたまた『無駄な足掻きを』と呆れているのか。そんなの知ったことか。こっちはこっちで一生懸命やってるんだ!
 二ストライクと簡単に追い込まれてしまったが、それでも挫けることなく岡野はバットを握る両手に力を込める。
 三球目。岡野が「今だ!」と思いバットを出した瞬間、ボールが視界から消えた。長瀬の決め球、フォークボールだった。ストレートのタイミングで待っていた岡野のバットは落差にも球速差にも対応することが出来ず、無常にも空を切った。
(やっぱりダメだったか……)
 諦めかけたその時―――予想外の事態が起きた。
 岡野のバットをすり抜けていったボールは、城島が構えたミットにも収まらずに股の下を通り抜けていってしまった。岡野はその状況を頭で理解するよりも先に駆け出した。
「「走れー!!」」
 反射的に走り出した岡野に向けて、一塁ベンチからチームメイトの檄[げき]が幾つも飛んできた。内心「マジか」と思いながら全速力で駆ける。普段気にすることのない一塁ベースまでの距離が、今は物凄く遠いもののように感じた。
 日々の練習メニューの中にはベースランや短距離走も組み込まれていたが、どちらかと言えば瞬発的な速さより持久力のある走りのタイプである岡野はチーム内でも下位に沈んでいた。それでも「まぁピッチャーだから」と大目に見てもらってきたが、まさかこんな事になるとは。今までも決して手を抜いていた訳ではないが、もう少し足が速くなる努力をしておくべきだったと悔やんだ。
 後ろの状況がとても気になるが、振り返っている余裕なんか無い。そんな暇があるなら足を前へ出すことに注力すべきだ。万一これでアウトになろうものなら、後からみんなに吊るし上げられるのは明白だ。
 ようやく転がり込んできたチャンス、絶対に手放してなるものか―――!! 後先考えずガムシャラになって疾駆[しっく]する。歯を食い縛り、息が荒くなって胸が苦しくなっても懸命に堪え、すぐ先にある一塁へ全力で走る。
 頼むからアウトになってくれるな―――!! その一心ですぐそこまで迫った一塁ベースだけ眼中に入れてひたすらに足を前へ前へ繰り出す。
 あと二歩……―――あと一歩……―――踏んだ!!
 それまでの猛烈な勢いそのままに一塁ベースを駆け抜ける。これまでの人生で一番真剣に走ってきた反動からか、胸が張り裂けそうなくらいに苦しい。ペースをゆっくり落として止まってから呼吸を整えると、ようやく苦しさから解放された。
 さぁ、判定は……!? 走ることで頭が一杯だったので判定にまで気が回らなかった。これでアウトだったらショックで立ち直れそうにない。岡野は恐る恐る後ろを振り返る。
 そう言えば一塁塁審の人はセーフともアウトともコールしていなかった。これは一体どういう事なのか? 整然と立っている塁審からさらに後方へ目を向ける。
 その先に広がっていたのは……バックネットの前で諦めたように立ち尽くすキャッチャー城島の姿。その右手には白球がしっかりと握られていた。マウンド上の長瀬は大記録を逃した悔しさからか顔を歪め、ファーストの草薙も腰に手を当てて俯[うつむ]いていた。
 と、いうことは……
「セー……フ?」
 全力疾走した直後の疲労感で頭がぼんやりする中、岡野は半信半疑の心境で漏らした。
 ふと一塁側ベンチに目を向けると、チームメイトのみんなが手を叩いたり歓喜の雄叫びを挙げたりして自分の出塁を心の底から喜んでいる姿があちこちで見られた。その様を眺めて、初めて自分が間に合ったんだと実感が湧いた。
 記録は振り逃げ。胸を張って成果を誇れるような形ではないが、結果的に完全試合を阻止することが出来た。この際、不恰好は置いておこう。
 岡野はベースコーチを務める仲間からジャンパーを渡されるとそれを羽織った。ランナーとして役目を果たすのは勿論だが、体を冷やしてパフォーマンスを落とさないようにするのも大切なことだ。そうこうしている間に一番打者の樫野が打席に入ってきた。
 マウンド上の長瀬はこちらが気になるらしく、頻[しき]りにチラチラと目を向けてくる。大して足の速くない一塁ランナーなんか思い切ってランナーは居ないと割り切れば良いのに、と岡野は思った。
 長瀬は余程ランナーが目障りなのか、牽制球を投げてきた。大して足の速くない自分が単独で走る気などさらさら無い岡野は、リードも大きく取ってないこともあって悠々と一塁に戻れた。
 それでも長瀬は間を挟んでから再び牽制球を入れてきた。些[いささ]か盗塁を警戒し過ぎている感があった。
(……もしかして、クイックが苦手なのか?)
 一塁から長瀬の様子を観察した岡野は一つの仮定を立てたが、何か違うとすぐに頭を振った。
(それか、初めて出したランナーが気になって仕方ないのか)
 こちらの理由の方がしっくり来る。自分もピッチャーだから分かるが、それまで一人のランナーも出さない完璧なピッチングを続けてきて、それが不意にパタリと途切れると途端にランナーのことが気になってしまうのだ。それに加えて、伸び伸びと自分のペースで投げてきたのにセットポジションやクイックなど投球でも変化が起きるので、調子やリズムが乱れて一気に崩れてしまうケースも少なくない。神経質になっていると思うかも知れないが、それだけピッチャーは繊細な生き物でもある裏返しだ。
 初球。長瀬の投球は外に大きく外れた。城島が構えた位置からかなり離れており、腕を大きく伸ばして捕る程だった。元々長瀬は制球は良くない方ではあるが、今日初めてのクイックに体がまだ対応出来ていないみたいだ。
 二球目、今度はフォークがベースの手前から落ちてしまった。城島が咄嗟に体を張ってボールを止めたので後ろに逸らすことは無かったが、もし止めていなければ岡野は二塁へ進んでいたかも知れない。岡野もまた盗塁する気は無いが、次の塁への意識は常に持っていた。今のケースでは刺されると思って動かなかったのだが。
 ここまで二球続けてボールがかなり荒れている。目に見えて制球に苦しんでおり、もしかしたら四球で自滅というのも有り得る。
 すると、城島が右の拳で左胸を数回叩いて「自分を信じろ」と送った。長瀬も一度プレートから足を外して間合いを取る。自滅しない術[すべ]を知っているようで、この辺りは甲子園を制した覇者の貫禄を感じさせる。
 少しだけ落ち着きを取り戻した長瀬が投じた三球目。ここで打席に立つ樫野が相手の意表を突く行動に出た。
(―――セーフティ!?)
 ベンチからそのような指示は出ておらず、味方である岡野も寝耳に水の奇襲だった。もしかすると樫野なりの揺さぶりかも知れないが、既に二アウトなので失敗すればその時点で攻撃が終了となる場面でこの選択は、少々ギャンブルが過ぎる。
 真ん中高めに投じられたストレートは、先程と比べて球威も球速も劣っていた。ボール先行でストライクを早く取りたくて置きに行ったのだろうが、その狙いは樫野にとって好都合だった。
 真っ直ぐ突き進んできた白球はバットに当たると三塁方向へ転がった。それと同時に樫野は弾かれたように一塁へスタートを切る。岡野もボールの行方を確認してから二塁へ走り出した。
 勢いを完全に殺し切れず、コロコロと転がっていく。ただ、見た感じでは三塁線を切れる可能性は低く、このまま行けばフェアゾーンの中で止まりそうだ。
 完全に裏をかかれた大阪東雲守備陣だったが、サードの松岡は出足が遅れた分を挽回するように猛チャージをかけてくる。チームナンバーワンの速さを誇る樫野も快足を飛ばすが、松岡のフィールディングも決して悪くない。今の段階だと勝負は五分五分。いや、松岡の方が僅かに上回ってアウトになるか。かなり際どいタイミングだ。
 ―――その時だった。
 捕ろうと差し出した松岡のグラブだったが、打球はグラブの下を掠[かす]めるように通り過ぎていった。まさかの捕り損ねに松岡は慌ててブレーキをかけてボールを素手で掴んだが、既に樫野は一塁ベースを駆け抜けた後だった。一塁ランナーの岡野も二塁に達していた。
 記録は、松岡のエラー。アウトを取り損ねてしまった責任を痛感しているのか、松岡は長瀬に向かって申し訳なさそうに頭を下げた。
(……まさか、ウチに流れが来ているのか!?)
 二塁ベース上から俯[うつむ]く長瀬の背中を眺めながら、岡野は半信半疑の気持ちでそう思った。
 振り逃げで今日初めてのランナーが出た直後、一か八かの賭けだったセーフティバントはエラーを誘った。ここまで付け入る隙が全く無かった大阪東雲だったが、ここに来て異変が起きている。あまりに都合の良い展開に、狐につままれるような気分だった。
 蟻の一穴という言葉がある。『どんなに堅固な堤[つつみ]であっても、蟻が開けたほんの小さな穴一つが原因で崩壊してしまう』という意味だ。岡野の振り逃げは大阪東雲からすれば取るに足らないアクシデントだったかも知れないが、それをキッカケに歯車が狂ったとも考えられる。
 予想外の事態に未だ信じられないという顔のまま、西脇が右打席に入ろうとしていた。急に巡ってきたチャンスに心の準備が整っていない様子だ。岡野自身もまた夢なのかと疑っている部分があった。六回ツーアウトまで完全試合ペースで封じられてきたのに、失策絡みではあるが二者連続で出塁しているなんて俄[にわ]かに受け容れられない。
 味方のエラーも絡んで一二塁となった場面。ここまで快投を続けてきた長瀬は依然としてランナーが気になる様子で、二塁の岡野や一塁の樫野の方を何度もチラチラと見てきた。一塁ランナーの樫野は警戒に値する俊足の持ち主かも知れないが、そもそも前を走る岡野の足は樫野と比べれば遥かに劣るのだから樫野の足は事実上封じられているも同然なのだが、長瀬はそう感じないらしい。
 西脇は右打者ながら樫野に次ぐ俊足で、これまでも内野安打を幾つも重ねてきた。遠くへ飛ばすパワーは無いが左右へ巧みに打ち分けることが出来るバッターだ。
 注目の初球。カットボールが外角へ大きく外れた。まだコントロールは荒れているようだ。特に、変化球に関しては岡野が出塁して以降はまだ一度もストライクが入っていない。
 チラチラとそれぞれの塁に視線を送って釘を刺してから、長瀬はセットポジションに入る。クイックで投じたボールが高めに浮いたのを、西脇は見逃さなかった。
 甘いコースに入ってきたボールを、西脇はコンパクトに振り抜いた。ジャストミートした打球は痛烈な勢いで三遊間に飛んでいった。今日初めてとなるヒット性の当たりに、岡野も樫野も即座にスタートを切る。
 これは間違いなく抜ける……!! 場合によっては三塁を回って本塁突入も十分に考えられるので、岡野は心の準備を固めて走る。
 しかし―――!!
 大阪東雲のショート稲垣はボールがバットに当たった瞬間から動き出し、三塁方向へ弾かれるように走り出した。刻一刻と打球との距離を詰めていき、遂に追いついて白球をグラブに収めた。三遊間の深い位置で逆シングルの体勢でキャッチした稲垣はそれだけで凄いプレーだが、そこからさらに流れるような動きで華麗にファーストへ送球。西脇自身も決して足が遅い方ではなく、寧ろ一生懸命に走っていたが、それ以上に稲垣の送球はずば抜けて素晴らしかった。
 西脇は一縷の望みを託して頭から滑り込んだが……それよりも先に稲垣の投じたボールが稲垣の元に届いていた。
 三塁ベースの上から西脇が渾身のヘッドスライディングする様を見届けた岡野は、がっくりと肩を落とした。
(……まぁ、仕方ないか)
 ツーアウトから振り逃げという締まらない形ながら完全試合を阻止し、続く樫野のセーフティバントで相手のエラーを誘い、か細い糸を手繰り寄せた結果一二塁まで攻め立てた。振って湧いたチャンスだったが、稲垣のファインプレーに関しては率直に「凄い」と褒めるしかなかった。相手は夏の覇者・大阪東雲。無名の弱小公立校の意地を示したと捉えれば満足か―――
「―――セーフ!!」
 誰もが三つ目のアウトが成立した、泉野高の攻撃が終わったと思っていたに違いない。その予想を覆したのは、一塁の塁審の一声だった。
 一塁塁審は両手を横に大きく広げ、高らかにセーフを宣告した。
 稲垣の送球がファーストの草薙に送られたのを最後まで見届けた長瀬も、稲垣から送られたボールを受け取った草薙も、間に合わなかった悔しさから地面に突っ伏していた西脇も、思いがけない判定に困惑しているのか皆揃って信じられないという顔をしていた。岡野もまた「何で? どうして?」と無意識に呟いており、まるでキツネに抓[つま]まれた気分だった。
 全員の視線が一点に集まる中、注目の一塁塁審は両腕を大きく横に振る仕草を見せた。
(……ベースの踏み忘れ、だと!?)
 塁審のジェスチャーは、ファーストの足がベースから離れていた時に示されるもの。俄[にわ]かには信じ難い話だが、完全にアウトのタイミングだったにも関わらずセーフの判定が出ている以上は、草薙の足が一塁ベースに触れていなかったと考えるしかない。
 チェンジになったと思い込んでいた草薙は、三塁ベンチに戻る途中で呆然と立ち尽くしてしまった。ほぼほぼ手中に収めていたアウトを取り零[こぼ]してしまった責任を痛感しているのか、その顔から血の気は失せていた。
 一方で、万事休すと肩を落としていた泉野高ナインだったが、一転してセーフの判定に息を吹き返した。望みが繋がったことで攻撃の機運が急速に高まっていくのがヒシヒシと伝わってきた。
 二アウトとなってから怒涛の三連続出塁で、全ての塁が埋まった。振り逃げをきっかけに生じた綻びは広がりを見せ、大阪東雲は負の連鎖を断ち切れずにいた。四死球で一点、ヒットが出れば二塁に居る俊足の樫野も生還する確率が高いから二点、長打が飛び出せばランナー一掃で一挙三点も入る。ここまで泉野高を完璧に封じ込めてきた難攻不落の強敵・長瀬を遂に捉えるチャンスが到来した。
 この流れ、どこかデジャビュを感じる。岡野はどうしてそう感じたのか考えてみると、あっさりと答えを導き出すことが出来た。
(……そうか、さっきのイニングと似ているんだ)
 多少異なるが、不運な形で全ての塁が埋まった流れは重なる部分が多かった。決定的に異なるのは、アウトカウントの違いだ。
 先程の自分の場面では、ノーアウト満塁で三振か内野フライ以外ならアウトになっても失点してしまう状況だった。アウトを稼ぐことも大切だが、得点を与えない方法も同時に模索しなければならず、相当プレッシャーがかかるケースだった。
 それに対して現在は、塁が全て埋まっている条件は同じだが決定的に違うのはアウトカウントだ。二アウトなのでバッターが一塁に到達する前にアウトとなれば、どれだけの人数がそれよりも前に生還していても得点としてカウントされない。どんな形であれ、打者をアウトにしてしまえば無失点で切り抜けられるのだ。
 僅かなミスも許されない状況だった自分と比べれば、今の状況はバッターを打ち取ることだけ考えればいいので精神的な負担は少ないように感じるが、長瀬は相当追い詰められている表情をしていた。
 これが同点で九回裏ならば一打サヨナラの可能性もあるので全く気が抜けないだろうが、今は六回でおまけに四点のリードがある。しかも泉野高は岡野が振り逃げで出塁するまで一人のランナーも出せなかった貧打線だ。恐るるに足らない相手なので必要以上に警戒することもないと思うのだが……長瀬はそう感じてないらしい。
 頻[しき]りにスパイクでマウンドを均したりボールを両手で捏[こ]ねたりと、落ち着きを失っているのがはっきりと分かる。想定外の連続で動揺を隠しきれていなかった。
 それまで静まり返っていた一塁側のアルプススタンドからは今日一番の歓声が沸き起こっていた。その声援に背中を押されるように三番の大本が打席に向かう。
 大本は公立中学で四番を任されていた経験があり、最後の大会では主軸としてチームを地区ベスト十六に導いた。一発は無いが外野の深くまで飛ばすことが出来る上に、選球眼も優れている。ここまで二打席は完全にやり込められていたが、ペースを乱されている今なら捉えられる可能性は充分にある!
 土壇場で繋がったチャンスに、未だ信じられないといった風の大本だったが、打席に立つと一転して眼光が鋭くなった。満塁の絶好機ながら微塵も気負いが感じられない。プレッシャーの圧かる場面でも自然体を貫ける大本は得点圏で新藤に次ぐ好成績を残している、頼りになる男なのだ。
(『ピンチの後に、チャンスあり』とはよく聞くけど、本当にそうなんだな)
 使い古された表現ではあるけれど、野球に限らず様々な場面でその表現が正しいことを強く実感する。ピンチとチャンスが入れ替わったことも含めて、神様はどちらかに偏ることはしないらしい。
 神様で思い出したが、『グラウンドには野球の神様が居る』と聞く。ただ、一方で『グラウンドには魔物が棲んでいる』とも言われている。どちらも信憑性が高いことで有名だ。もしかすると、神様と魔物は表裏一体の存在なのかも知れない。
 岡野が考えを巡らせている間も、観衆のどよめきは収まっていなかった。その中で、長瀬は投球動作に入る。
(―――あっ!?)
 ボールが長瀬の手元から離れた瞬間、岡野はマズイと直感した。
 異様な雰囲気に呑まれたためか、不安定なメンタルが影響したか、白球は大本の体の方向に向かっていく。大本も咄嗟に体を引いてボールから避[よ]けようとする。間一髪のところで避けられたが、もし負傷退場となれば、ただでさえ貧打に泣く泉野高にとって計り知れない痛手になっていたことだろう。危ないボールに球場内あちこちからどよめきが立つ。
「―――デッドボール!!」
 ざわつきが収まらない中で、主審がデッドボールを宣告した。その判定に岡野は当初「何故?」と疑問を抱いたが、すぐさま主審は二の腕付近を指差した。見た目には分からなかったが、恐らくボールを躱[かわ]そうとした際にユニフォームの袖を掠めていったのだろう。
 大本が一塁に向かって歩き出すのと共に、岡野もホームへとゆっくり歩みを進める。突然の乱調で押し出しという最悪の結果を招いてしまって愕然と立ち尽くす長瀬を尻目に、岡野は誰にも阻まれることなくホームを踏んだ。自らの振り逃げがきっかけで繋がった流れに乗じる形で、遂に一点を返した。まだ三点差あるが、この一点は泉野高にとって意義のある大きな一点だった。
 ベンチに戻ってきた岡野を控えのメンバーが盛大に歓迎してくれた。別に自分の手で叩き出した訳ではないけれど、みんなが頬を紅潮させて次々とハイタッチを求めて来られると何だか嬉しい気分になった。
 岡野が祝福を受けている一方で、大阪東雲の方でも動きがあった。喜多川監督がこのタイミングで伝令の山口を送り出してきた。まだヒットを許していないのに失点を喫するという前代未聞の事態に動揺するナインを一度落ち着かせようとする監督の意図が読み取れる。
「岡野、肩つくるぞ」
 メンバー達からの祝福が一段落すると柳井が声を掛けてきた。既に柳井はレガースなどの装備も着けていて準備万端な状態だった。
 怒涛の展開ですっかり忘れていたが、まだまだ試合は続いていくのだ。あと三イニング、泣いても笑っても九つのアウトを取らなければならない。止められない限り投げるつもりだった岡野はすぐさま羽織っていたジャンパーを脱ぐと、グラブを掴んでベンチ前に出て行く。
 次のバッターは、四番の新藤。ここまで全力投球の長瀬を前に二打数二三振と完璧に封じ込まれている。それでも、貧打に喘[あえ]ぐ泉野高にあって唯一頼れる主砲なのだ(スラッガータイプではなくアベレージタイプのバッターだが)。
 その新藤はと言えば……大阪東雲が守備のタイムを取っている間も表情を変えず黙々とバットを振っていた。チームの命運を背負っていることは重々承知している筈だ。巡り巡ってきた千載一遇の大チャンスにも動じることなく普段通りの姿であることに、頼もしさを覚えた。
 岡野が体を動かす準備が整う頃にはマウンドに出来ていた輪が散って、各々が守備位置に戻っていく。
『四番 キャッチャー 新藤君』
 アナウンスがコールされると、一塁側から今日一番の歓声が上がる。歓声の大きさが新藤に対する期待値の高さを表している。その声を背中で受けながら、打席に立つ。マウンドの長瀬は先程の忙[せわ]しなさが消え、堂々とした姿で君臨していた。
 柳井を相手に軽めのキャッチボールを開始した岡野も、この対決の行方を注視していた。ここでさらに追加点を奪えれば同点、もしかすると逆転の可能性も出てくる。反対に、前二打席と同じように圧倒的な力で捻じ伏せられた場合は、ここまで膨らんだ反逆の機運が一瞬で萎んでしまう。この試合の今後を左右するターニングポイントと言っても過言ではない。
 注目の初球。長瀬は―――セットポジションではなく、ワインドアップを選択した。直後、糸を引くようなストレートが外角低めに決まり、一ストライク。その素晴らしいボールに新藤は全く手が出せなかった。
 満塁という状況ではランナーが盗塁を仕掛けてくることは皆無。ならば、制球が定まらないセットポジションではなく、これまで快投を続けてきたワインドアップで投げる方が良い。開き直ったことで長瀬は復活の兆しを見せていた。
 二球目。今度は内角高めへ再びストレートが投げ込まれる。唸る豪速球に新藤のバットはビクとも動かなかった。二ストライク。球速表示は一五五キロを計測した。たった二球で追い込まれてしまった。
 ワインドアップに戻ったことで、長瀬は完全に立ち直ったようだ。それは即ち、泉野高にここまで吹いていた風が止んだことを意味した。
 ここまで新藤は、前の二打席から数えて八球連続でバットに掠らせることすら出来ていない。全力の長瀬を前に、赤子の手を捻るようにあしらわれている状態だった。
(……ここまで、かな)
 本来の調子を取り戻した長瀬のピッチングを見せられて、岡野は完全に流れが止まったと悟った。決して新藤のことを信じていない訳ではないが、二打席連続で三球三振に抑えられており、今の打席でも全くバットを振らせてもらえていない。吹いている風もいつかは止む。寧[むし]ろ、ここまで夢を見させてもらえた方だ。泉野高の実力から考えれば、ノーヒットで一点返せただけでも奇蹟に等しい。
 次のイニングに備えて気持ちを切り替えるべく展望を描きながら肩を温めていた、その時。
 ―――キーン!!
 柳井に向けて投じたボールが指先から離れた瞬間、クリアな高音が岡野の耳に飛び込んできた。聞こえたのと同時に、音のした方へ反射的に顔を向ける。
 聞き間違えるはずがない。これまで何千何万回とその音に触れてきたのだ。金属バットの芯で白球を捉えた時に発せられる、野球を知らない人が聞いても爽快さや清々しさを感じる、あの特徴的な高音。
 瞬時に目を向けた先にあったのは、バッターボックスの中でバットを振り切った姿で固まる新藤の姿。その視線はある方向一点に向けられていた。
 ボール。そうだ、ボールは。次のイニングに向けて意識を集中させていたので、ボールの行方が分からなかった。新藤の視線の方角を頼りに、自分もその先を追いかける。
 白球は―――低空をやや弧を描きながら一直線に飛んでいき、勢いを落とすことなくレフトスタンドに突き刺さった。その軌道はさながら、夜空を切り裂く一筋の彗星のようだった。
 満塁、ホームラン……?
 目の前で起きた出来事があまりに衝撃が大きすぎて、岡野は息を呑んだ。比喩[ひゆ]でも例えでもなく、一瞬世界から音が消えた。
 一拍の間を挟んで……今度は球場が揺れた。地面が、空気が、建物が、震えた。この場に立ち会った全員の予想を遥かに超えるドラマチックな展開に、魂を揺さぶられた人々の発した叫びが共鳴することで振動しているのだ。
 文字に表せない大多数の声に背中を押されるように一歩を踏み出す新藤。起死回生の逆転満塁ホームランを叩き出したヒーローも当初こそ何が何だか分からないような表情を浮かべていたが、歩みを進めていくにつれて自分のした事の凄さを実感したらしく、一塁を回ったと同時に新藤は雄叫びを挙げると会心の笑みで右腕を天に向かって突き上げた。
 あの新藤が、常に冷静さを失わず感情を表に出すことがあまり無い新藤が、こんなにも喜びを爆発させるなんて。それくらいに今のホームランを打てたことが嬉しいのだろう。
 岡野も「ここで打ってくれたら」と微かな期待は抱いていた。でも、それは「センター返しで一・二点入ったらいいなぁ」という程度の願望で、スラッガータイプではない新藤にホームランまで求めていなかった。第一、この場面で一発が出れば試合がひっくり返ることに気付いてすらいなかった。それがまさか二ストライクから逆転のグランドスラムが飛び出すなんて……新藤の才能は重々承知していたつもりだったけど、今回の一発で改めて“凄い奴”だと思い知らされた。
 目を爛々[らんらん]と輝かせて弾けた笑顔を浮かべながら、新藤はダイヤモンドを周る。
 水を打ったように静まり返る三塁側のアルプススタンドを除けば―――観衆は歴史の一ページに立ち会った感動から、割れんばかりの拍手と歓声で新藤を称[たた]えた。完全アウェーだった雰囲気は新藤の一発によってガラリと変わっていた。
 ふと気が付けば、岡野の体は小刻みに震えていた。人は魂を揺さぶられるような場面に遭遇した時や心を打たれるような感動に触れた時には体が震えると聞いていたが、今の自分が正にそれだと実感した。
 そうこうしている間に、興奮の収まらない新藤が三塁コーチャーとタッチを交わす、珍しい光景が見られた。前の三人は既にホームを踏んでおりしており、ホームベースの周りでヒーローの帰還を今か今かと待っていた。ペースを落とすことなく、しっかりとした足取りでホームベースとの距離を縮め……遂に凱旋のホームを踏んだ。その瞬間、絶望的だった点差は霧散して王者相手に勝ち越した。
 ハイテンションの三人から手荒い祝福を浴びた新藤は、弾けんばかりの笑顔を湛[たた]えながらベンチに向かう。そこには、一振りで試合を引っくり返したヒーローの帰りを待ち侘びる仲間達の姿。新藤は一人一人にハイタッチを交わし、熱い抱擁を交わし、喜びを共有していった。
 そして―――ベンチ前で立っていた岡野の番がやってきた。
 何と言えば良いか、何を言えば良いか。言いたい単語が幾つも浮かんでは消えてを繰り返し、内容がまとまらない。
「―――ナイスホームラン」
 悩みに悩んで口に出した言葉は、ありきたりな一言だった。余計な言葉を付け加えなくても、これだけで伝わると思ったからだ。
 すると、新藤から思いがけない言葉が返ってきた。
「……君の為に、打った」
「え……?」
 あまりに似つかわしくない言葉に、岡野は思わず言葉が洩れてしまった。
 いつもの新藤ならば、爽やかな笑顔を見せながら「ありがとう」と軽く返すだけなのに。それに“チームの為に”とは言うけれど、特定の誰かに対して肩入れするような発言はこれまで聞いたことが無い。言葉の真意を図りかねてポカンと立ち尽くしていると、畳み掛けるように新藤が続けた。
「いつもいつも抑えてくれるのに、俺達が不甲斐ないせいで負けてばかり。今日だって俺の読み違いのせいで満塁ホームランを打たれてしまった。それでも君は文句一つ零[こぼ]さず淡々と投げてくれる。だからこそ、この打席だけは何が何でもホームランを打ちたかった。いつも頑張ってくれる君の為に!」
 熱っぽく語る新藤の姿を、岡野は初めて目の当たりにした。素面[しらふ]だったら照れ臭い台詞も平然と言ってしまう辺り、大仕事をやってのけた興奮冷めやらないようだ。その暑苦しさを嫌に感じなかった。むしろ、嬉しかった。
 勝負に対してこだわりや執念を持たない自分は、他人と比べれば必死さやガムシャラさに欠けると思う。誤解しないで欲しいが、別に『負けても良い』とは思っていない。勝ったら嬉しいし、負ければ悔しい。強打者と対峙すれば“三振を奪いたい”“凡打に仕留めたい”と発奮することだってある。ただ、“限界を超えてやろう!”とか“石に齧[かじ]り付いてでも抑えたい”という感覚が薄いだけだ。勝ちたい一心で怪我をしたら元も子もないし、何より楽しくない。だから“身の丈に合った範囲で頑張る”という考えの持ち主……と、自分は捉えている。
 援護に恵まれず勝てないことに関しても、仕方ないと割り切っていた。そもそも公立校の泉野高で新藤のような才能に恵まれたサラブレッドは極めて稀な存在であり、大半の部員は平々凡々な能力なのだ。新藤一人でかなり底上げされているが、元々は万年初戦敗退の弱小校である。似たようなレベルの学校が相手でない限り、大量得点は望めない……というのが岡野の認識だった。それ以前に、自分もちょっとコントロールが良いだけで大したことのないピッチャーなのだ。自分の実力を棚に上げて人様に多くを求めるのは間違いだ……と思っていた。
 ただ、それも自分の思い込みに過ぎなかった。
 投手である自分が“抑えたい”と思うのと同じように、野手のみんなも“打ちたい”と思っていた。打てなくてもしょうがないと諦めるのではなく、“何が何でも打ってやる”と心の内で反骨心を燃やしていたのだ。樫野の意表を突くセーフティバントも、西脇渾身のヘッドスライディングも、泥臭くても不恰好でも繋ごうとした執念が実った結果だった。その積み重ねが無ければ、新藤の逆転満塁弾は生まれなかった。
 その新藤が今日一番悔しい思いをしていたのだろう。打撃では成す術なく二打席連続で三球三振、守備でも勝負所で痛恨の満塁弾を献上。人一倍責任感が強い性格もあり、不甲斐ないと感じていたことだろう。
 だからこそ、巡ってきた満塁の場面で並々ならぬ決意で臨んだに違いない。自身のプライドと野球人生を賭けて打席に立ち、そして結果で応えた。
 逆境を一振りで覆す。少々おとぎ話のように出来すぎた展開ではあるが、それを体現するからスターと呼ばれるのではないか。
 新藤は言い終えると急に恥ずかしさが込み上げてきたのか、目線を外した。心なしか顔がさらに赤くなっているようにも見える。この辺りの人間味が感じられるポイントに好感が持てる。
「……あと三イニング、頼んだぞ」
 バツの悪そうに告げると、そそくさとベンチへ入っていった。直後、原はレフトフライに倒れて三アウト。長かった泉野高の攻撃が遂に終わりを迎えた。
 岡野はスコアボードに目をやる。六回裏の場所に“5”の数字が刻み込まれた。あまりに都合の良い展開だったので一瞬「夢でも見ているのか」と錯覚を抱いたが、確かに刻まれた数字を確かめたことで今起きた事が現実のものだと再認識出来た。自分の振り逃げから始まった流れは、最終的に試合を引っくり返してしまった。逆転した事実がようやく浸透すると共に、喜びがせり上がってくるのをヒシヒシと感じた。
 一方で、味方が一生懸命に繋いで勝ち越してくれた事にプレッシャーを覚えた。この一点しかないリードを最後まで守り通さなければならないという責務に、背筋が自然と伸びた。
(みんながやってくれたんだ……だったら俺だって)
 重圧はあるが、それ以上に仲間から託された思いに応えたいと意気に感じる気持ちの方が強かった。
 あと三イニング、九つのアウト、これを取るまで絶対に一点もやらない。強い決意を胸に固め、岡野はいざ七回のマウンドへ向かった。
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