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1. 若葉マークの晴継君
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金沢・ひがし茶屋街。兼六園・近江町市場と並んで、金沢を代表する観光地の一つである。
加賀百万石の城下町として栄えてきた歴史があり、江戸・京・大坂に次ぐ第四の都市として独自の文化が醸成されてきた。第二次世界大戦では空襲を免れた事から、古くからの街並みが残されており、そうした歴史ある建物が多く残されている場所の一つがひがし茶屋街であった。花街と言えば京都・祇園が有名だが、ここ金沢の花街は武家文化の影響を色濃く受けたお茶屋文化が発展してきた。
30年程前まではひがし茶屋街の一角を除いて周囲は普通の閑静な住宅街で、観光客の姿はまばらであった。しかし、北陸新幹線が金沢まで延伸する計画が決まったのを機に金沢市が整備を進め、町屋の保存や電柱の地中埋設などに力を入れた。
そして――2015年、地元待望の北陸新幹線が金沢まで開通。この直前からメディアが盛んに金沢を取り上げた事もあり、主に関東圏から多くの観光客が訪れるようになった。
多くの観光客が訪れる事となり、商機と捉えた個人事業主・企業が積極的にひがし茶屋街へ出店。近隣の住宅を買い上げて商店や飲食店を開業したりと、新幹線ブームに乗ろうとする動きが顕著に出てきた。ここ数年は新幹線開業のビックウェーブは収まったものの、人気観光地としてイメージが定着した現在でも新規出店は衰える事なく続いていた。
ただ、人気が沸騰する影で、弊害も出てきた。静かな住宅地から不特定多数が訪れる場所へと変貌を遂げた事で、生活環境が悪化。昔から住んでいた人が引っ越すケースが何例も出てきた。また、飲食店は続々とオープンしているものの観光客をターゲットとした高級レストランやお酒をメインにしたお店などばかりで、“気軽にご飯を食べる”というお店が殆ど無いので地元の人はすぐ近くの茶屋街ではなく別の場所へ行かざるを得ない……という事態に陥っていた。
そんな状況下で数年前にオープンしたのが、“Trattoria・Gatto・Bianca”だった。ひがし茶屋街のメインストリートから一本入った路地にある洋食店で、コンセプトは“観光で来た人も、地元で来た人も、気軽に入れるご飯屋さん”。古くからのお茶屋さんを改装した内装はモダンでオシャレな雰囲気ではあるが、本格的な味を楽しめながらお値段は庶民的。ご近所さんやひがし茶屋街で働く人もランチにディナーに利用出来る、敷居が高くないご飯屋さんとして親しまれていた。
このお店で4月からカメリエーレ(イタリア語で“男性ホールスタッフ”の意味)として新しく働き始めたのが、この春から大学生になった新田晴継だった。
3月に卒業旅行と新生活の下見を兼ねて訪れた金沢で、ふとしたキッカケでこのお店と出逢い、スタッフ募集の話を耳にして即座に働きたいと申し出た。智美さんも「人柄が信頼できそう」と即決、晴れて4月からスタッフの仲間入りが決まった。
お店の定休日は水曜日、それ以外の平日は午前中に講義が無い日はバイトに出て、夕方まで講義が入っていない日は夕方にもバイトに入っている。休日は基本的に昼・夜の両方働く。少しでも生活費を稼ぎたい晴継としてはありがたかった。智美さんは「あくまで学業最優先、バイトもいいけど息抜きも大事だよ」と、どんなに忙しくても連休以外は週5日の勤務としていた。
5月中旬の土曜日。12時を過ぎた店内は半分程の席が埋まり、観光で訪れた一人客や地元の人と思われる家族連れで賑わっていた。
「晴ちゃーん、注文いいけー?」
「はい、今お伺いします」
テーブル席の常連さんから呼ばれた晴継は、お客様の食べ終えたお皿を洗い場へ運びながら返事をする。
このお店で、カメリエーレなんて小洒落た呼び方をする人は滅多に居ない。一見さんは“店員さん”、常連さんは“晴ちゃん”と呼ばれている。胸に“新田”と名前の入ったネームを付けているが、名前の下には若葉マークのシールが貼られている。これは店長である智美さんのアイデアで、新人さんだと一目で分かるよう配慮してくれた。ちなみに、若葉マークは付いているので試用期間みたいな扱いだが、時給が引かれる事は無い。「お金を貰っているのだからプロの意識を持ってしっかり働いてもらう」のが智美さんの考えらしい。
「お待たせしました。ご注文をお伺い致します」
「今日のランチって、何やったっけ?」
「今日は“ポークピカタ”……薄い豚肉に玉子の衣をつけて焼いたものになります」
晴継はメニューの内容を、さらに簡単に説明する。年配のお客様は特にそうだが、メニュー名を聞いてもイメージが出来にくい方もいらっしゃるので、分かりやすいように説明するように心がけていた。
常連のお客様も、メニューを耳にした時は一瞬怪訝な表情を浮かべたが、晴継の説明を聞いて何となくイメージが湧いた様子。
「ほーけ。なら、それにするわ。ご飯は少な目でお願いね」
「畏まりました」
注文を受けた晴継は一礼してからキッチンの智美さんの方へ向かう。
「智美さん、1番さん今日のランチ、ご飯少な目です」
「はーい……晴継君、かなり慣れてきたね」
伝票にメニュー名とテーブル番号を書いていた晴継に、智美さんから声を掛けられた。
「あの大型連休でかなり揉まれましたからね。あれを経験したら怖いものなしです。……あんまり経験したくないですけど」
晴継が指摘するのは、4月の終わりから始まったゴールデンウィークの話だ。この期間は通常の三連休とは比べ物にならない程の観光客が訪れるので、それに比例してお店を利用するお客さんもかなり多かった。ピーク時は常に満席状態で、テーブル席に相席をお願いする程だった。目の回るような忙しさで、働き始めて1ヶ月の晴継も大型連休が終わった後には接客スキルが格段に上がったように感じていた。
ふと、カウンター席に座るお客様が身支度を整えているのが目に入ってきた。あのお客様はそろそろお会計かな。チラっとキッチンの方を見ると料理が出来上がるまではまだ時間がありそうなので、レジに向かう準備をしておく。ついでに、カウンターに座るお客様のグラスを確認。7分目以上はあるので問題なさそう。
そうこうしている間に、先程のお客様が荷物を持って立ち上がった。「ありがとうございます」と言って、晴継はレジに向かう。
あの地獄のような連休中で鍛えられた晴継は、お客様を観察するようになった。お客様の仕草や動作、皿やグラスの状態、お客様の構成、等々。小さな子ども連れなら子ども用の取り皿が必要か訊ねる必要があるし、空になったお皿が机の上にあるなら手が空いている時なら下げる事も頭に入れなければならない。そうした小さなサインを見つけるよう意識していた。
大変な事や小さなミス、優先順位の違いや読みを間違えたりと失敗は尽きないし凹む事はあるけれど、晴継はこの仕事の楽しさを感じ始めていた。
「晴継君、ちょっといい?」
ランチ営業が終わり賄いを食べ終えて皿を洗い場に持って行くと、智美さんに声を掛けられた。
智美さんは夜の営業に向けて仕込みをする作業の手を止めずに、こう問い掛けてきた。
「少し先の話になるんだけど、来月の1週目の土曜日って何か予定とかある?」
「ちょっと待って下さいね……」
晴継はズボンのポケットに入れてあったスマホを取り出して、カレンダーを確認する。
「……何も予定は入っていませんね。もしかしてシフトの話ですか?」
「そうなの。その日は“金沢百万石まつり”の行列の日だから、晴継君の予定が空いていたらお昼も営業しようかと考えていたの。晴継君はこっちに来てから初めてだし、もしかしたら見に行きたいかな~? って」
智美さんの口から出てきた“百万石まつり”という単語は、初耳だった。智美さんの話では、金沢で年に一回行われる大きなお祭りでその日は市内の主要幹線道路を交通規制して武者行列などのパレードが行われるらしい。
昔はひがし茶屋街から程近い橋場町の交差点もパレードが通っていたのだが、ルートが変わってしまい今は武蔵ヶ辻まで行かないと見れないとのこと。橋場を通っていた頃は、橋場町交差点から東山交差点までの道路は歩行者天国として開放され、子どもがチョークで道路にお絵描きをした……と智美さんは懐かしそうに語っていた。
話を聞いていて、晴継はちょっと興味が湧いてきた。折角金沢に住む事になったのだから、一回見てみてもいいかなと思えてきた。しかし――。
「大丈夫ですよ。友達から誘われてもいませんし、昼も夜も出ます」
「そう? 晴継君がそう言ってくれると助かるわ。ありがとう」
お金がない学生の身。お祭りを見に行くとなれば盛り上がった雰囲気に釣られてあれこれ出費が嵩むかも知れない。それを考えれば、一緒の時間だけ稼いでいた方が得と晴継は判断した。
ちょっと後ろ髪は引かれるけれど……後でネットで調べてみよう。晴継は東京に居た時には知らなかったお祭りについて、少しだけ興味を抱いた。
加賀百万石の城下町として栄えてきた歴史があり、江戸・京・大坂に次ぐ第四の都市として独自の文化が醸成されてきた。第二次世界大戦では空襲を免れた事から、古くからの街並みが残されており、そうした歴史ある建物が多く残されている場所の一つがひがし茶屋街であった。花街と言えば京都・祇園が有名だが、ここ金沢の花街は武家文化の影響を色濃く受けたお茶屋文化が発展してきた。
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そして――2015年、地元待望の北陸新幹線が金沢まで開通。この直前からメディアが盛んに金沢を取り上げた事もあり、主に関東圏から多くの観光客が訪れるようになった。
多くの観光客が訪れる事となり、商機と捉えた個人事業主・企業が積極的にひがし茶屋街へ出店。近隣の住宅を買い上げて商店や飲食店を開業したりと、新幹線ブームに乗ろうとする動きが顕著に出てきた。ここ数年は新幹線開業のビックウェーブは収まったものの、人気観光地としてイメージが定着した現在でも新規出店は衰える事なく続いていた。
ただ、人気が沸騰する影で、弊害も出てきた。静かな住宅地から不特定多数が訪れる場所へと変貌を遂げた事で、生活環境が悪化。昔から住んでいた人が引っ越すケースが何例も出てきた。また、飲食店は続々とオープンしているものの観光客をターゲットとした高級レストランやお酒をメインにしたお店などばかりで、“気軽にご飯を食べる”というお店が殆ど無いので地元の人はすぐ近くの茶屋街ではなく別の場所へ行かざるを得ない……という事態に陥っていた。
そんな状況下で数年前にオープンしたのが、“Trattoria・Gatto・Bianca”だった。ひがし茶屋街のメインストリートから一本入った路地にある洋食店で、コンセプトは“観光で来た人も、地元で来た人も、気軽に入れるご飯屋さん”。古くからのお茶屋さんを改装した内装はモダンでオシャレな雰囲気ではあるが、本格的な味を楽しめながらお値段は庶民的。ご近所さんやひがし茶屋街で働く人もランチにディナーに利用出来る、敷居が高くないご飯屋さんとして親しまれていた。
このお店で4月からカメリエーレ(イタリア語で“男性ホールスタッフ”の意味)として新しく働き始めたのが、この春から大学生になった新田晴継だった。
3月に卒業旅行と新生活の下見を兼ねて訪れた金沢で、ふとしたキッカケでこのお店と出逢い、スタッフ募集の話を耳にして即座に働きたいと申し出た。智美さんも「人柄が信頼できそう」と即決、晴れて4月からスタッフの仲間入りが決まった。
お店の定休日は水曜日、それ以外の平日は午前中に講義が無い日はバイトに出て、夕方まで講義が入っていない日は夕方にもバイトに入っている。休日は基本的に昼・夜の両方働く。少しでも生活費を稼ぎたい晴継としてはありがたかった。智美さんは「あくまで学業最優先、バイトもいいけど息抜きも大事だよ」と、どんなに忙しくても連休以外は週5日の勤務としていた。
5月中旬の土曜日。12時を過ぎた店内は半分程の席が埋まり、観光で訪れた一人客や地元の人と思われる家族連れで賑わっていた。
「晴ちゃーん、注文いいけー?」
「はい、今お伺いします」
テーブル席の常連さんから呼ばれた晴継は、お客様の食べ終えたお皿を洗い場へ運びながら返事をする。
このお店で、カメリエーレなんて小洒落た呼び方をする人は滅多に居ない。一見さんは“店員さん”、常連さんは“晴ちゃん”と呼ばれている。胸に“新田”と名前の入ったネームを付けているが、名前の下には若葉マークのシールが貼られている。これは店長である智美さんのアイデアで、新人さんだと一目で分かるよう配慮してくれた。ちなみに、若葉マークは付いているので試用期間みたいな扱いだが、時給が引かれる事は無い。「お金を貰っているのだからプロの意識を持ってしっかり働いてもらう」のが智美さんの考えらしい。
「お待たせしました。ご注文をお伺い致します」
「今日のランチって、何やったっけ?」
「今日は“ポークピカタ”……薄い豚肉に玉子の衣をつけて焼いたものになります」
晴継はメニューの内容を、さらに簡単に説明する。年配のお客様は特にそうだが、メニュー名を聞いてもイメージが出来にくい方もいらっしゃるので、分かりやすいように説明するように心がけていた。
常連のお客様も、メニューを耳にした時は一瞬怪訝な表情を浮かべたが、晴継の説明を聞いて何となくイメージが湧いた様子。
「ほーけ。なら、それにするわ。ご飯は少な目でお願いね」
「畏まりました」
注文を受けた晴継は一礼してからキッチンの智美さんの方へ向かう。
「智美さん、1番さん今日のランチ、ご飯少な目です」
「はーい……晴継君、かなり慣れてきたね」
伝票にメニュー名とテーブル番号を書いていた晴継に、智美さんから声を掛けられた。
「あの大型連休でかなり揉まれましたからね。あれを経験したら怖いものなしです。……あんまり経験したくないですけど」
晴継が指摘するのは、4月の終わりから始まったゴールデンウィークの話だ。この期間は通常の三連休とは比べ物にならない程の観光客が訪れるので、それに比例してお店を利用するお客さんもかなり多かった。ピーク時は常に満席状態で、テーブル席に相席をお願いする程だった。目の回るような忙しさで、働き始めて1ヶ月の晴継も大型連休が終わった後には接客スキルが格段に上がったように感じていた。
ふと、カウンター席に座るお客様が身支度を整えているのが目に入ってきた。あのお客様はそろそろお会計かな。チラっとキッチンの方を見ると料理が出来上がるまではまだ時間がありそうなので、レジに向かう準備をしておく。ついでに、カウンターに座るお客様のグラスを確認。7分目以上はあるので問題なさそう。
そうこうしている間に、先程のお客様が荷物を持って立ち上がった。「ありがとうございます」と言って、晴継はレジに向かう。
あの地獄のような連休中で鍛えられた晴継は、お客様を観察するようになった。お客様の仕草や動作、皿やグラスの状態、お客様の構成、等々。小さな子ども連れなら子ども用の取り皿が必要か訊ねる必要があるし、空になったお皿が机の上にあるなら手が空いている時なら下げる事も頭に入れなければならない。そうした小さなサインを見つけるよう意識していた。
大変な事や小さなミス、優先順位の違いや読みを間違えたりと失敗は尽きないし凹む事はあるけれど、晴継はこの仕事の楽しさを感じ始めていた。
「晴継君、ちょっといい?」
ランチ営業が終わり賄いを食べ終えて皿を洗い場に持って行くと、智美さんに声を掛けられた。
智美さんは夜の営業に向けて仕込みをする作業の手を止めずに、こう問い掛けてきた。
「少し先の話になるんだけど、来月の1週目の土曜日って何か予定とかある?」
「ちょっと待って下さいね……」
晴継はズボンのポケットに入れてあったスマホを取り出して、カレンダーを確認する。
「……何も予定は入っていませんね。もしかしてシフトの話ですか?」
「そうなの。その日は“金沢百万石まつり”の行列の日だから、晴継君の予定が空いていたらお昼も営業しようかと考えていたの。晴継君はこっちに来てから初めてだし、もしかしたら見に行きたいかな~? って」
智美さんの口から出てきた“百万石まつり”という単語は、初耳だった。智美さんの話では、金沢で年に一回行われる大きなお祭りでその日は市内の主要幹線道路を交通規制して武者行列などのパレードが行われるらしい。
昔はひがし茶屋街から程近い橋場町の交差点もパレードが通っていたのだが、ルートが変わってしまい今は武蔵ヶ辻まで行かないと見れないとのこと。橋場を通っていた頃は、橋場町交差点から東山交差点までの道路は歩行者天国として開放され、子どもがチョークで道路にお絵描きをした……と智美さんは懐かしそうに語っていた。
話を聞いていて、晴継はちょっと興味が湧いてきた。折角金沢に住む事になったのだから、一回見てみてもいいかなと思えてきた。しかし――。
「大丈夫ですよ。友達から誘われてもいませんし、昼も夜も出ます」
「そう? 晴継君がそう言ってくれると助かるわ。ありがとう」
お金がない学生の身。お祭りを見に行くとなれば盛り上がった雰囲気に釣られてあれこれ出費が嵩むかも知れない。それを考えれば、一緒の時間だけ稼いでいた方が得と晴継は判断した。
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