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第3話
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6年に渡った戦争が終わったことで、商人たちもかなり浮き足立っていた。恋人が出征した者もいるのだろう、はしゃぐ様はまるで子供のようだった。西の戦争が終わってまだひと月も経っていないが、東に位置するこの領でも、既にお祭り騒ぎだという。通いの使用人が、毎日煩くて眠れないよ、と嬉しそうに笑っていた。
あっという間に1週間が過ぎ、お嬢様たちは首都に向けて出発した。羽目を外すな、と使用人たちに釘を刺していたが、真面目な使用人は兎も角も、よくふざけている使用人に響いてはいなかったようだ。
早速押しつけられた仕事の山に、少女はゲンナリした。
厩番が帰ってきて馬の世話はしなくても良くなったが、掃除に皿洗いに洗濯物に、山のような仕事が課せられた。このうち半分以上は押し付けられたものだから、怠けている使用人がどれほどなまけている怠けているかよくわかるというものだ。
少女は邸宅内を走り回った。仕事が終わらなければ、全て少女の責として罰せられる。必死にもなろうというものだ。
そうして半月が過ぎた頃。
飛ばされた洗濯物を追って、少女は庭を走っていた。最後の一枚だからと油断したのが悪かった。強風は少女の手から洗濯物を掻っ攫い、庭へと運んでいった。
ーどこに行ったかな。
少女は庭をうろつきながら洗濯物を探していた。屋根の上からおおよその場所に見当をつけていたので、大して時間を掛けずに見つけることができた。垣根に引っかかっていた洗濯物を取り、邸宅内を流れる川に向かう。落としたなどと知れたら罰を食らうので、適当に洗って済ませようと画策したのだ。川で適当に洗うと、少女はこっそり裏手から邸内に入り、人目を避けて屋根に登った。洗濯物を干し、満足した少女は、いつものように手摺によじ登り、窓の外を眺めた。春が近づき、彩り豊かになってきた庭園は、見ているだけで楽しい。先程は見つからないように急いでいたから、花を見る暇もなかった。
屋根から景色を眺めて楽しんでいた少女は、遠くに見慣れないものを見つけて目を細めた。
ーあれ、何だろう。
隣領との境となっている森の方に、銀の何かが見えた。少女が目を凝らすと、遠くから咆哮が聞こえた。
ーグゥオォオオオオオ
銀の何かが吠えている様だった。この距離で聞こえるとは、何なのだろうと身を乗り出した途端、手摺が崩れた。
「ひゃ、あっ!?」
手摺だけではなかった。邸そのものが、砂のようにさらさらと消え始めていた。銀の砂の渦の中を落ちていき、少女は思わず目を瞑った。
小さな衝撃と共に、少女は腰から着地した。少々痛かったが、頭から着地しなかった幸運に感謝すべきだろう。
少女は腰を押さえて立ち上がり、辺りを見回した。が、銀の砂が立ち上り、ろくに周りが見えなかった。ひとまず誰か探そう、と歩き出した少女は、すぐに足を止めた。
ーあれは、何。
それは、人のように見えた。
人のよう、とは文字通りで、人には見えなかったが、その姿形が人のようであった。人のようなものからも、銀の砂が立ち上っている。少女がそれを凝視していたら、視線に気付いたのか、それはこちらを向いた。
「たす、けー」
聞いたことのある声だった。以前、少女を助けようとして、けれど魔力なしと知った途端に掌を返した、若い女使用人のものだった。
「ーーっ!」
こちらに伸ばされた手が、蝋のように溶けていった。あ、あ、と声を上げていた女使用人は、やがて空に溶けた。
堪らず、少女は駆け出した。
訳が分からなかった。何が起きたのか、何が起こっているのか。
闇雲に走り、銀の砂の渦から抜け出した。途中で下半身だけの人や顔だけ残った人も見たが、全て見なかったことにして走り抜けた。
「はあっ、はあっ」
膝に手を突いて、荒い息を整える。
訳が分からない、分かりたくない、こんなのは嘘だと、あの日常でもいいから帰りたいと、叫びたかった。
だって、人が消えるなんて、可笑しい。そんな馬鹿なことがあって堪るものか。誰も、昨日まで誰も心配すらしなかった禍わざわいが、こんなにもいきなり起きて堪るものか。
振り仰げば、空に銀の鱗を持つ生き物が浮かんでいた。
ーグゥオォオオオオオ!
鼓膜を割らんばかりの咆哮に思わず耳を押さえたが、風圧で体が吹っ飛んでそれもままならなくなった。ゴロゴロと地面を転がる中で、少女はかつて聞いた童話を思い出していた。
「……黄金の龍は光の龍」
童謡として聞いたものが、歌詞として口を突いて出た。
ー神より遣わされた7の龍。人を見守り、神との橋渡しをするもの。けれど時に龍は牙を剥く。龍を統べる龍の王は、最期に人を戒める。
「ー茶の龍は土の龍、人を支え、けれど時に焦土を齎す……」
銀の龍は、時の龍。異界を齎す龍の王。
ようやく止まって、もう一度空を見上げた。銀の砂が舞い上がる中、確かに龍と目が合った。
それは澄んだ空の色をしていた。
ーグゥオォオオオオオ!
頑張って地面の草を掴んでいたら、何かが飛んできて頬を切った。思わず草を握っていた手の力が緩み、再び吹っ飛ばされる。
起き上がった時には、龍は消えていて、銀の砂が渦巻く中に戻っていた。少女は今度は歩いて銀の砂の渦の中を抜け出しーゆっくりと二度、瞬きをした。
次に、目を擦った。
けれど、何をしても結果は変わらなかった。
「どぅ、して……?」
お嬢様に痛ぶられている時でさえも出ない、歪に震えた声が出た。
「何で……なんで?」
よたよたと庭園の茂みに歩み寄る。先程まで青々と葉を茂らせていたそれは、灰色にしか見えなかった。自分の腕を見下ろしても、それは灰色にしか見えない。
「やだ……やだ、やだやだやだやだやだやだ」
感覚も味覚も嗅覚も触覚も、全て虐めに慣れるために捨ててしまった。耳を塞がれ、熱湯を注ぎ込まれ、聴覚すらも朧だった。
けれど、視覚は、少女だけのものだった。少女だけの。
「……えして」
漏れ出た言葉は、怨嗟のような響きを帯びていた。
「わたしの世界を、返して……!」
全ての音が遠かった。
あっという間に1週間が過ぎ、お嬢様たちは首都に向けて出発した。羽目を外すな、と使用人たちに釘を刺していたが、真面目な使用人は兎も角も、よくふざけている使用人に響いてはいなかったようだ。
早速押しつけられた仕事の山に、少女はゲンナリした。
厩番が帰ってきて馬の世話はしなくても良くなったが、掃除に皿洗いに洗濯物に、山のような仕事が課せられた。このうち半分以上は押し付けられたものだから、怠けている使用人がどれほどなまけている怠けているかよくわかるというものだ。
少女は邸宅内を走り回った。仕事が終わらなければ、全て少女の責として罰せられる。必死にもなろうというものだ。
そうして半月が過ぎた頃。
飛ばされた洗濯物を追って、少女は庭を走っていた。最後の一枚だからと油断したのが悪かった。強風は少女の手から洗濯物を掻っ攫い、庭へと運んでいった。
ーどこに行ったかな。
少女は庭をうろつきながら洗濯物を探していた。屋根の上からおおよその場所に見当をつけていたので、大して時間を掛けずに見つけることができた。垣根に引っかかっていた洗濯物を取り、邸宅内を流れる川に向かう。落としたなどと知れたら罰を食らうので、適当に洗って済ませようと画策したのだ。川で適当に洗うと、少女はこっそり裏手から邸内に入り、人目を避けて屋根に登った。洗濯物を干し、満足した少女は、いつものように手摺によじ登り、窓の外を眺めた。春が近づき、彩り豊かになってきた庭園は、見ているだけで楽しい。先程は見つからないように急いでいたから、花を見る暇もなかった。
屋根から景色を眺めて楽しんでいた少女は、遠くに見慣れないものを見つけて目を細めた。
ーあれ、何だろう。
隣領との境となっている森の方に、銀の何かが見えた。少女が目を凝らすと、遠くから咆哮が聞こえた。
ーグゥオォオオオオオ
銀の何かが吠えている様だった。この距離で聞こえるとは、何なのだろうと身を乗り出した途端、手摺が崩れた。
「ひゃ、あっ!?」
手摺だけではなかった。邸そのものが、砂のようにさらさらと消え始めていた。銀の砂の渦の中を落ちていき、少女は思わず目を瞑った。
小さな衝撃と共に、少女は腰から着地した。少々痛かったが、頭から着地しなかった幸運に感謝すべきだろう。
少女は腰を押さえて立ち上がり、辺りを見回した。が、銀の砂が立ち上り、ろくに周りが見えなかった。ひとまず誰か探そう、と歩き出した少女は、すぐに足を止めた。
ーあれは、何。
それは、人のように見えた。
人のよう、とは文字通りで、人には見えなかったが、その姿形が人のようであった。人のようなものからも、銀の砂が立ち上っている。少女がそれを凝視していたら、視線に気付いたのか、それはこちらを向いた。
「たす、けー」
聞いたことのある声だった。以前、少女を助けようとして、けれど魔力なしと知った途端に掌を返した、若い女使用人のものだった。
「ーーっ!」
こちらに伸ばされた手が、蝋のように溶けていった。あ、あ、と声を上げていた女使用人は、やがて空に溶けた。
堪らず、少女は駆け出した。
訳が分からなかった。何が起きたのか、何が起こっているのか。
闇雲に走り、銀の砂の渦から抜け出した。途中で下半身だけの人や顔だけ残った人も見たが、全て見なかったことにして走り抜けた。
「はあっ、はあっ」
膝に手を突いて、荒い息を整える。
訳が分からない、分かりたくない、こんなのは嘘だと、あの日常でもいいから帰りたいと、叫びたかった。
だって、人が消えるなんて、可笑しい。そんな馬鹿なことがあって堪るものか。誰も、昨日まで誰も心配すらしなかった禍わざわいが、こんなにもいきなり起きて堪るものか。
振り仰げば、空に銀の鱗を持つ生き物が浮かんでいた。
ーグゥオォオオオオオ!
鼓膜を割らんばかりの咆哮に思わず耳を押さえたが、風圧で体が吹っ飛んでそれもままならなくなった。ゴロゴロと地面を転がる中で、少女はかつて聞いた童話を思い出していた。
「……黄金の龍は光の龍」
童謡として聞いたものが、歌詞として口を突いて出た。
ー神より遣わされた7の龍。人を見守り、神との橋渡しをするもの。けれど時に龍は牙を剥く。龍を統べる龍の王は、最期に人を戒める。
「ー茶の龍は土の龍、人を支え、けれど時に焦土を齎す……」
銀の龍は、時の龍。異界を齎す龍の王。
ようやく止まって、もう一度空を見上げた。銀の砂が舞い上がる中、確かに龍と目が合った。
それは澄んだ空の色をしていた。
ーグゥオォオオオオオ!
頑張って地面の草を掴んでいたら、何かが飛んできて頬を切った。思わず草を握っていた手の力が緩み、再び吹っ飛ばされる。
起き上がった時には、龍は消えていて、銀の砂が渦巻く中に戻っていた。少女は今度は歩いて銀の砂の渦の中を抜け出しーゆっくりと二度、瞬きをした。
次に、目を擦った。
けれど、何をしても結果は変わらなかった。
「どぅ、して……?」
お嬢様に痛ぶられている時でさえも出ない、歪に震えた声が出た。
「何で……なんで?」
よたよたと庭園の茂みに歩み寄る。先程まで青々と葉を茂らせていたそれは、灰色にしか見えなかった。自分の腕を見下ろしても、それは灰色にしか見えない。
「やだ……やだ、やだやだやだやだやだやだ」
感覚も味覚も嗅覚も触覚も、全て虐めに慣れるために捨ててしまった。耳を塞がれ、熱湯を注ぎ込まれ、聴覚すらも朧だった。
けれど、視覚は、少女だけのものだった。少女だけの。
「……えして」
漏れ出た言葉は、怨嗟のような響きを帯びていた。
「わたしの世界を、返して……!」
全ての音が遠かった。
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