3 / 68
第一冊 桜のこより
見えない同居人
しおりを挟む「ただいま」
店内は誰もいないのに、ついついそう言ってしまう。習慣だね。
だけど不思議なことに、私の声に答えるかのようにカタカタと音がした。その音は空耳かと思うほど小さいが、私には「おかえり」と言ってくれてるんだなぁって、いつも思ってる。こういうのを、幸せっていうのかな。心がほんわかと温かくなるし。
だから私は、気にも留めずにもう一度「ただいま」と声を掛けてから、着ていたコートを脱いだ。
店内は暖かくて明るかった。
暖房の切り忘れでも電気の切り忘れでもないよ。いつもそうなんだよね。私がきちんと戸締まりをして出掛けても、帰って来る頃には店内は適温になってるし、電気が付いている。
それにコートを椅子の背に掛けるように置くと、いつの間にかハンガーに掛けられてるし、鞄は定位置にきちんと片付けられている。そして私が椅子に座ると、脇から淹れたてのコーヒーが出てくる。お菓子付きで。
至れり尽くせりだよ、ほんと。同居人さんはとても気が利く。店内には私以外に誰も居ないんだけどね。
でも、居るんだよ。
ただ、見えないだけ。
普通の人間なら、この時点で叫んでるか、腰を抜かして震えてるか、外に飛び出して逃げ出してるだろうね。
コートと鞄のところで絶対アウトだよ。私はもう慣れたけど。元々下地があったからね。まだ、マシだったと思う。属にいう、小さい頃から見える子だったから。
昔はこんな力を持った自分が嫌いだった。憎んでたっていった方が近いかな。
でも……この能力のおかげで、神楽書店に来ることが出来た。今は、この力を持って良かったと思える。愛せるまでは言えないけどね。
でもね、時々想像することがあるの。
もし、私にこの能力がなかったらって。考えてもどうにもならないのにね。馬鹿だよね。
私が神楽書店に来ることになった経緯は追々話すとして、その非常識な光景が、この本屋のいつもの光景だった。
「ありがとう」
いつもと同じ様にお礼を言ってから、コーヒーを飲もうとカップに手を掛けた時だった。ソーサーの下に、四つ折りにされた紙が挟んであるのに気付く。
私はそれを慣れた手で広げる。
【裕樹さん、寒い中お疲れ様です。明日、二時、本の鑑定をして欲しいと、沢木さんから連絡がありました】
紙にはそう書かれてあった。
「して欲しいね……これって決定だよね」
【そうですね。お断りしますか?】
「いいよ。仕事終わったばっかりだし」
【クス。分かりました】
同居人さんとの意思疏通はいつもこの方法だ。
要件の前には、必ず私を気遣う一文が添えられている。角ばった字だが、丁寧に書かれていて綺麗で読みやすい字だ。字から想像すると、同居人さんは元男性かなって勝手に想像してる。
なんせ、私は同居人さんの声を聞いたことがないし、姿を見たこともない。見える子だったけど、同居人さんの姿を捉えることは出来なかった。
同居人さんの名前?
知らない。知ってしまったら、呼んでしまいそうになるから。絶対に呼ばない自信なんてない。だから、始めから訊かない。知らなければ呼べないからね。
彼を見る方法はあるよ。
あるけど、私がしないだけ。したくないんだよ……どうしても。
私の我が儘だって分かってる。皆にも言われるしね。呆れながら。
彼に対して酷いことをしてるって理解しているよ。彼にとって今の状態は中途半端だってのもわかってる。いつまでも、この状態が続くのはいけないってこともわかってる。
酷いことをしているのに、それでも彼(仮定)はここに居てくれる。
神楽さんが出て行ってからも、何かと私の世話をしてくれた。精神的にも助けてくれるし支えてくれてる。
同居人さんとの静かな会話は、私の心をいつも和ませてくれる。時には慰めてくれる。
私はずっと、同居人さんの善意に甘えてるだけ。
すごく感謝しているのに、何故かこの頃、ほんの少しだけど心が波立つ。罪悪感かな……
小さな小さな波。
私はそれに気付かない振りをする。
弱いから……ずるいよね。
思わず出そうになる苦笑を封じ込め、私はいつもと同じように会話を進める。
「明日二時ね。分かった。あいつからの紹介ね……やっぱり、そっち方面だよね?」
めんどくさそうに私が呟けば、
【おそらく、そうだと思います。くれぐれも気を付けて下さい】
と書かれた紙が、スッと差し出される。
「ありがとう」
にっこりと微笑む。
気配だけする、見えない相手に向かって。
人じゃない相手と交わす何気ないその時間が、私は何よりも大切だった。
0
お気に入りに追加
121
あなたにおすすめの小説

【完結】お姉様の婚約者
七瀬菜々
恋愛
姉が失踪した。それは結婚式当日の朝のことだった。
残された私は家族のため、ひいては祖国のため、姉の婚約者と結婚した。
サイズの合わない純白のドレスを身に纏い、すまないと啜り泣く父に手を引かれ、困惑と同情と侮蔑の視線が交差するバージンロードを歩き、彼の手を取る。
誰が見ても哀れで、惨めで、不幸な結婚。
けれど私の心は晴れやかだった。
だって、ずっと片思いを続けていた人の隣に立てるのだから。
ーーーーーそう、だから私は、誰がなんと言おうと、シアワセだ。
貸本屋七本三八の譚めぐり
茶柱まちこ
キャラ文芸
【書籍化しました】
【第4回キャラ文芸大賞 奨励賞受賞】
舞台は東端の大国・大陽本帝国(おおひのもとていこく)。
産業、医療、文化の発展により『本』の進化が叫ばれ、『術本』が急激に発展していく一方で、
人の想い、思想、経験、空想を核とした『譚本』は人々の手から離れつつあった、激動の大昌時代。
『譚本』専門の貸本屋・七本屋を営む、無類の本好き店主・七本三八(ななもとみや)が、本に見いられた人々の『譚』を読み解いていく、幻想ミステリー。
私は心を捨てました 〜「お前なんかどうでもいい」と言ったあなた、どうして今更なのですか?〜
月橋りら
恋愛
私に婚約の打診をしてきたのは、ルイス・フォン・ラグリー侯爵子息。
だが、彼には幼い頃から大切に想う少女がいたーー。
「お前なんかどうでもいい」 そうあなたが言ったから。
私は心を捨てたのに。
あなたはいきなり許しを乞うてきた。
そして優しくしてくるようになった。
ーー私が想いを捨てた後で。
どうして今更なのですかーー。
*この小説はカクヨム様、エブリスタ様でも連載しております。
【完結・ルート分岐あり】オメガ皇后の死に戻り〜二度と思い通りにはなりません〜
ivy
BL
魔術師の家門に生まれながら能力の発現が遅く家族から虐げられて暮らしていたオメガのアリス。
そんな彼を国王陛下であるルドルフが妻にと望み生活は一変する。
幸せになれると思っていたのに生まれた子供共々ルドルフに殺されたアリスは目が覚めると子供の頃に戻っていた。
もう二度と同じ轍は踏まない。
そう決心したアリスの戦いが始まる。
5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?
gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。
そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて
「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」
もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね?
3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。
4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。
1章が書籍になりました。
男装官吏と花散る後宮〜禹国謎解き物語〜
春日あざみ
キャラ文芸
<第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞をいただきました。応援ありがとうございました!>
宮廷で史書編纂事業が立ち上がると聞き、居ても立ってもいられなくなった歴史オタクの柳羅刹(りゅうらせつ)。男と偽り官吏登用試験、科挙を受験し、見事第一等の成績で官吏となった彼女だったが。珍妙な仮面の貴人、雲嵐に女であることがバレてしまう。皇帝の食客であるという彼は、羅刹の秘密を守る代わり、後宮の悪霊によるとされる妃嬪の連続不審死事件の調査を命じる。
しかたなく羅刹は、悪霊について調べ始めるが——?
「歴女×仮面の貴人(奇人?)」が紡ぐ、中華風世界を舞台にしたミステリ開幕!
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
となりの京町家書店にはあやかし黒猫がいる!
葉方萌生
キャラ文芸
★第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞をいただきました。お読みくださった皆様、本当にありがとうございます!!
京都祇園、弥生小路にひっそりと佇む創業百年の老舗そば屋『やよい庵』で働く跡取り娘・月見彩葉。
うららかな春のある日、新しく隣にできた京町家書店『三つ葉書店』から黒猫が出てくるのを目撃する。
夜、月のない日に黒猫が喋り出すのを見てしまう。
「ええええ! 黒猫が喋ったーー!?」
四月、気持ちを新たに始まった彩葉の一年だったが、人語を喋る黒猫との出会いによって、日常が振り回されていく。
京町家書店×あやかし黒猫×イケメン書店員が繰り広げる、心温まる爽快ファンタジー!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる