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第四章
三話
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「東條。何とかならないか? 大学も辞めてしまったどころか、今では家から一歩も出ない。どれだけ俺が怒鳴っても引きこもるばかりで……いい歳をして情けない。社会に出ることもできないような愚息を養っていることを学生にも話せやしない。頼むよ」
訪れた母校の担任に頼み込まれて、忍が困惑を滲ませる。そもそもが二度と足を踏み入れることもないと思っていた中学に突然呼び立てられた挙句に、息子の就職先の斡旋まで頼まれてもと辟易する。
「お言葉ですが、僕の会社もまだ立ち上げて間もないですから……ベンチャーというのは生き残る確率もそれほど高くはありません。息子さんの将来を確実に保証することなんて──」
「分かってるさ。お前も色々あったから必死だったんだろう。あの時は助けてやれなくて済まなかったよ。だがこんな時にまでそんな逆恨みを持ち出すのか?」
勝手な言い分に喉元まで込み上げる苛立ちを飲み込んで嘆息する。そういう問題ではない、大切な息子ではないのかと疑問ばかりが浮かぶ。
「そんなことを言うつもりではありません。言葉の通りなんです。僕は今の会社の前に二つほど会社を立ち上げましたが、一社目は三年を待たずに倒産しました。新事業というのはそういうものです、軌道に乗るまでは何も保証なんてない。息子さんが就職してすぐSTグループの風向きが怪しくなることだって十分にあり得ます。それでもいいんですか?」
教師が乾いた笑い声を上げる。自暴自棄な光を瞳に浮かべて、元生徒──それもいじめを受けてドロップアウト寸前だった忍を舐めるように眺める。
「なんでもいいさ。あれはうちの面汚しだ。家にいるだけで目障りだし、下の妹も妙な影響を受けて引きこもりでもしたら目も当てられない。いなくなるなら何でもいい。お前もドロップアウト寸前だったんだ──社会復帰の方法を教えてやってくれ、ご立派な立場になったんだからな」
そこかしこから成功を手にした忍への粘りつくような嫉妬が見え隠れする。その上、息子に対する扱いはまるで厄介者とでも言わんばかりだ。忍の持ち前の人の良さが、その話題の主に同情を抱く。大学を辞めて一年ということは今せいぜい二十歳かそこらだろう。忍から見ればまだまだ未熟な年頃だ。こんな扱いを受けて毎日のように怒鳴られていては、萎縮してしまって余計に世間から隔絶されてしまう。しばらく考えた後に尋ねる。
「年齢と出身校の経歴を。彼本人は履歴書を書ける状態ではないでしょうから代理で記入してください。面接に来ることは難しいでしょうから、僕が先生の自宅へ迎えに行きます。交換条件として、彼を家から独立させてやってください。僕が面倒を見ます。それでもいいでしょうか?」
ぽんと教師が膝を打った。してやったりと言わんばかりの満面の笑みで忍の背を叩く。
「助かるよ、さすが東條だ。お前は昔から優しい子だったからなぁ。息子の経歴は明日までに書いておく。明日の夜にでも引き取ってくれ。言われなくてもあんなお荷物を家に置いておく気はない」
忍が咳払いをする。釘を刺すように苦言を呈した。
「どのような理由があっても血を分けた息子さんをお荷物だなんて言わないであげてください……先生のその言葉が彼を引き籠らせる理由の一つにもなっていますよ」
「はは、そりゃすまんね。落ちこぼれを落ちこぼれと言ってるだけなんだがな。助かるよ。住所はわかるか? 卒業アルバムにあるが──」
「一応お聞きしておきます。僕は高校から独り立ちしていますから、中学までの荷物は祖母が田舎に持って帰ってしまっていますし」
正直にいえば、卒業式を終えたその足でゴミ収集車に放り込んだ。思い出す必要のないものだと当時は思っていたからだ。教師が走り書きをした住所を手帳にしまい、会釈をして職員室を出る。ちらりと目を走らせた校舎の陰で、13歳の忍が犯されているような気がした。目眩とともに脳裏を襲うフラッシュバックを煙草の煙で肺の奥へと流し込み、暗い校舎を後にした。
「佑、準備はできたか! さっさと出てこい!!」
扉を殴りつけて怒鳴る教師を押し留め、忍が静かにノックをして声をかける。
「佑くん。入っていい? 安心して、何もしない。君を自由にしてあげるから。僕と少し話をしよう?」
穏やかな忍の声に、扉越しに吐き捨てるような暴言が返ってくる。
「出てけよ! どうせクズだとか落ちこぼれだとかそんなことしか言わねーくせに……オヤジだって所詮はただの底辺野郎だろーが、公務員にしがみつけなかったから私立の中学に就職したようなクソが偉そうに……死ね!」
「何だと?!」
問答無用で扉を引き開けようとする反対側から佑が必死にドアノブを押さえている。両側から不自然な力を加えられたノブがバキッと音を立てた。金具が落ち、ドアに穴が開く。
「…………」
予想以上に荒れた家庭環境にため息しか出ない。これは思った以上に難題だ。ノブが外れて開いた穴に片膝をついて瞳を覗かせる。反対側で竦んでいた鳶色の瞳は混乱と恐怖で焦点が定まっていない。
「大丈夫。君は何も悪くない。君は落ちこぼれでもクズでもないよ。おいで。話がしたいだけだから、怖がらないで」
「お優しいことだ、こんな性根の腐った子供はそんなことでは治らない」
舌打ちする教師に忍がやや厳しい瞳を向けた。問題があるのは佑ではない。日常的に息子を否定し続ける父親の方だ。
「少し席を外してください。落ち着かせて話をしてから僕が連れて行きますから」
「俺の息子だ。扱い方は俺が一番わかってるさ。さっさとしろ! これ以上引きこもるなら引き摺り出すぞ!!」
嘆息した忍が教師の手首を掴む。問答無用で捻りあげ、膝をついた教師に冷たい瞳を据えた。
「大人しくしていてください。はっきり申し上げますが、邪魔です。退かないのなら僕は帰りますし、雇用の話も白紙に戻しますよ」
「ぼ、暴力だろう! 警察を呼ぶぞ!」
「あなたが息子さんにかけているその怒鳴り声は精神的な暴力ではないんですか? 毎日のように怒鳴られて、否定され続けていれば誰だって牙を剥く。その必死の抵抗さえも暴力で黙らせたらその先にいるのは意思も感情も失った人形です。もしかしてそれを望んでこんなことをしているんですか?」
手首を捻る力を強める忍の瞳に滲む怒りが教師を黙らせる。小さく毒づいて大人しくなった父親の方をリビングへと帰らせて、佑の部屋の前に腰を下ろす。小さく笑って話しかけた。
「大変な環境を耐え抜いたね。頑張ったじゃないか。きっと小さな頃からこうだったんだろう?」
「…………あんた、誰。何しにきたの……」
小さく訊ね返した佑にドアの穴を通して名刺を見せてやる。
「君の社会復帰だとかのためのケアマネージャーとかではないよ。安心して。僕自身も突然あの人に呼び出されて困惑したけれど、もう十年以上前のあの人の教え子だ。君を僕の会社で雇ってやってくれって言われてね」
「CEO……あ、この会社知ってる。上場しただろ」
佑の言葉に忍が笑う。やはり佑には社会復帰を拒んでいる気配はない。引きこもっていても興味は外の世界に向いている。身を守るために立てこもっているだけだ。
「偉いじゃないか、部屋の中でニュースを見てるの?」
「……怒んない?」
「なにか叱られるようなことをしてるのかな」
「俺、ハッキングができんの。あんたの会社、もう少しサイバーテロに備えたほうがいいんじゃない。社内情報ダダ漏れだったから」
「そうか、それは怖いな。君がきてくれたら百人力だ。ちょうどセキュリティ事業を立ち上げたばかりだから、ホワイトハッカーを探してる」
鷹揚な言葉に佑の緊張が緩む。器用にドアの穴に定規を差し込んで、外れたノブの代わりにして開いてくれる。
「ね、見てみる? 俺の基地」
子供のように忍を誘う佑に悪戯っぽい笑みを返して室内へ入る。きっと元から良いものは買ってもらえなかったのだろう、佑自身が改造を重ねたと思われるメインパソコンのキーボードを叩いて自慢げにさまざまな佑が作り上げたソフトやサイトを見せてくれる。かなりの技術だ。忍が唸る。
「すごいじゃないか。独学?」
「うん。大学、俺の行きたい学部は行かせてもらえなかったしね。最初の一年通ってたのは近くにアキバがあるから。部品買ってた」
その腕を一瞥した忍が沈黙する。つられて目を落とした佑が誤魔化すように袖の中に隠す。
「……やっちゃだめなのはわかってるんだけどさ……怒鳴られた後って落ち着かないから。血ぃ見ると落ち着くんだよね」
幾筋も刻まれたカッターの刃創。怒られるとでも思っているのか、視線を逸らした佑の体を緊張が走る。忍が伸ばした手に咄嗟に両腕が頭を庇った。ゆるいスウェットの袖が落ちて傷が顕になる。深く刻みすぎて、治ってもなお食い込むように皮膚が落ち込んでいる。強張る筋張った腕を緩く掴んで、傷をそっと撫でると佑が驚いたように目を瞬いた。二重のくっきりとした愛らしい童顔だ。芸能人と言われても信じてしまいそうな美貌なのに。忍には一目でわかるSubとしての佑と、Domとしての父の歪んだ上下関係……佑には逆らう術などなかったに違いない。本来褒められなくては成り立たない中で、drop寸前の佑の顔には酷い隈が浮かび、顔色も悪い。もっとケアが必要なのだ。
「よく耐えた。頑張ったね。もう、あんな父親に義理立てをする必要はない。君はどうしたい?」
佑が深く俯いた。伸びたマッシュヘアの前髪が双眸を隠す。押し殺したような声で、忍に助けを求めた。
「もう、こんな家にいたくない。オヤジに怒鳴られんのに怯え続けるのはもう嫌だ……けど、俺には自由になる金もないし……一人暮らしの保証人もいないんだ。大学入った時家を出ようとしたけど……」
骨ばった指が目元を拭うのを見下ろして、忍が提案する。
「君さえ良ければ、僕の会社に就職してごらん。給料の振込先は君が口座を新しく開けるように手伝ってあげるから。家は……しばらくの間は僕の家にいてもいい。知ってる? 大学一年の君は未成年だったから無理だったろうけど、今の君は不動産契約だってできるんだよ。敷金礼金が稼げるまで居ていいから」
「……そんなことしたらまた人に迷惑かけるクズだって言われるし……」
佑の言葉に忍がその髪を撫でる。柔らかな猫っ毛だ。元々栗色なのを黒に染めていたのか、伸びた分だけ明るい色がのぞいている。
「僕はこの先君をこの家に関わらせるつもりはないよ。立派なDVだ。近寄れないようにしてあげるから」
「……ホント?」
頼りない確認の声に頷いて、瞳を覗く。明るい鳶色の瞳が忍を見返す。
「こんなに長い間よく耐えた。もう大丈夫だ。君の意思で出ていくと伝えてごらん。僕が無理やり連れ出したことにしてしまうと君を守れなくなってしまうから」
車の中から20年育ててもらった恩を口にする佑に、気の弱そうな母親が涙を隠す。そっとその耳元に何事か囁いた。佑が俯いて窓を閉める。纏めたんだけど、といいながら持ってきたのはたった一つの小さなラップトップに収まる程度の私物だけ。
車を発進させた忍の隣で佑が振り返らないように苦労しているのがわかる。どんなにひどい環境であっても、幼い頃からお前の居場所はここだけだと刷り込まれてきた佑にとっては離れることが怖いのだろう。忍が静かに赦す。
「いいんだよ。君にとっては大切な記憶だってあるだろう。気が済むまで振り返ればいい。君にとってのただ一つの世界だったんだ。僕はそんなことを咎めたりしないよ」
弾かれたように佑がシートベルトを締めたまま助手席で身を捻る。小さくなる実家を見つめて、初めて涙を見せた。痩せた身体には大きすぎるスウェットパーカーのフードに雫が落ちる。
「俺……捨てられちゃった……そうならないようにずっと頑張ってきたのに……」
佑の泣き声に忍が否定を落とす。
「違うよ、君が君の意思で、歪んだ環境から出てきただけだ。それに生きている限り、君とご両親の絆は消えたりしない。大丈夫だから」
その日から2ヶ月忍の契約したアパートの一室で暮らした佑は、会社に住み着くことを交換条件にSTセキュリティのホワイトハッカーとして正規の就職をした。その間傷ついた佑と幾度か体を重ねたこともある。佑とその先関係を解消せざるを得なかったのは、当の父親が忍が息子を誑かしたせいで落ちこぼれが変質者になったと騒いだためだ。忍を守るために佑自身が馬鹿を言うなと一喝して事を納め、忍にもうそう言う関係にはならないと告げた。
だが、そうは言っても佑の中の傷がそう簡単に癒えるものでもないことも、忍の手を求めていることもわかってしまうからこそ……何も告げずに消えてしまうわけには行かないのだった。
訪れた母校の担任に頼み込まれて、忍が困惑を滲ませる。そもそもが二度と足を踏み入れることもないと思っていた中学に突然呼び立てられた挙句に、息子の就職先の斡旋まで頼まれてもと辟易する。
「お言葉ですが、僕の会社もまだ立ち上げて間もないですから……ベンチャーというのは生き残る確率もそれほど高くはありません。息子さんの将来を確実に保証することなんて──」
「分かってるさ。お前も色々あったから必死だったんだろう。あの時は助けてやれなくて済まなかったよ。だがこんな時にまでそんな逆恨みを持ち出すのか?」
勝手な言い分に喉元まで込み上げる苛立ちを飲み込んで嘆息する。そういう問題ではない、大切な息子ではないのかと疑問ばかりが浮かぶ。
「そんなことを言うつもりではありません。言葉の通りなんです。僕は今の会社の前に二つほど会社を立ち上げましたが、一社目は三年を待たずに倒産しました。新事業というのはそういうものです、軌道に乗るまでは何も保証なんてない。息子さんが就職してすぐSTグループの風向きが怪しくなることだって十分にあり得ます。それでもいいんですか?」
教師が乾いた笑い声を上げる。自暴自棄な光を瞳に浮かべて、元生徒──それもいじめを受けてドロップアウト寸前だった忍を舐めるように眺める。
「なんでもいいさ。あれはうちの面汚しだ。家にいるだけで目障りだし、下の妹も妙な影響を受けて引きこもりでもしたら目も当てられない。いなくなるなら何でもいい。お前もドロップアウト寸前だったんだ──社会復帰の方法を教えてやってくれ、ご立派な立場になったんだからな」
そこかしこから成功を手にした忍への粘りつくような嫉妬が見え隠れする。その上、息子に対する扱いはまるで厄介者とでも言わんばかりだ。忍の持ち前の人の良さが、その話題の主に同情を抱く。大学を辞めて一年ということは今せいぜい二十歳かそこらだろう。忍から見ればまだまだ未熟な年頃だ。こんな扱いを受けて毎日のように怒鳴られていては、萎縮してしまって余計に世間から隔絶されてしまう。しばらく考えた後に尋ねる。
「年齢と出身校の経歴を。彼本人は履歴書を書ける状態ではないでしょうから代理で記入してください。面接に来ることは難しいでしょうから、僕が先生の自宅へ迎えに行きます。交換条件として、彼を家から独立させてやってください。僕が面倒を見ます。それでもいいでしょうか?」
ぽんと教師が膝を打った。してやったりと言わんばかりの満面の笑みで忍の背を叩く。
「助かるよ、さすが東條だ。お前は昔から優しい子だったからなぁ。息子の経歴は明日までに書いておく。明日の夜にでも引き取ってくれ。言われなくてもあんなお荷物を家に置いておく気はない」
忍が咳払いをする。釘を刺すように苦言を呈した。
「どのような理由があっても血を分けた息子さんをお荷物だなんて言わないであげてください……先生のその言葉が彼を引き籠らせる理由の一つにもなっていますよ」
「はは、そりゃすまんね。落ちこぼれを落ちこぼれと言ってるだけなんだがな。助かるよ。住所はわかるか? 卒業アルバムにあるが──」
「一応お聞きしておきます。僕は高校から独り立ちしていますから、中学までの荷物は祖母が田舎に持って帰ってしまっていますし」
正直にいえば、卒業式を終えたその足でゴミ収集車に放り込んだ。思い出す必要のないものだと当時は思っていたからだ。教師が走り書きをした住所を手帳にしまい、会釈をして職員室を出る。ちらりと目を走らせた校舎の陰で、13歳の忍が犯されているような気がした。目眩とともに脳裏を襲うフラッシュバックを煙草の煙で肺の奥へと流し込み、暗い校舎を後にした。
「佑、準備はできたか! さっさと出てこい!!」
扉を殴りつけて怒鳴る教師を押し留め、忍が静かにノックをして声をかける。
「佑くん。入っていい? 安心して、何もしない。君を自由にしてあげるから。僕と少し話をしよう?」
穏やかな忍の声に、扉越しに吐き捨てるような暴言が返ってくる。
「出てけよ! どうせクズだとか落ちこぼれだとかそんなことしか言わねーくせに……オヤジだって所詮はただの底辺野郎だろーが、公務員にしがみつけなかったから私立の中学に就職したようなクソが偉そうに……死ね!」
「何だと?!」
問答無用で扉を引き開けようとする反対側から佑が必死にドアノブを押さえている。両側から不自然な力を加えられたノブがバキッと音を立てた。金具が落ち、ドアに穴が開く。
「…………」
予想以上に荒れた家庭環境にため息しか出ない。これは思った以上に難題だ。ノブが外れて開いた穴に片膝をついて瞳を覗かせる。反対側で竦んでいた鳶色の瞳は混乱と恐怖で焦点が定まっていない。
「大丈夫。君は何も悪くない。君は落ちこぼれでもクズでもないよ。おいで。話がしたいだけだから、怖がらないで」
「お優しいことだ、こんな性根の腐った子供はそんなことでは治らない」
舌打ちする教師に忍がやや厳しい瞳を向けた。問題があるのは佑ではない。日常的に息子を否定し続ける父親の方だ。
「少し席を外してください。落ち着かせて話をしてから僕が連れて行きますから」
「俺の息子だ。扱い方は俺が一番わかってるさ。さっさとしろ! これ以上引きこもるなら引き摺り出すぞ!!」
嘆息した忍が教師の手首を掴む。問答無用で捻りあげ、膝をついた教師に冷たい瞳を据えた。
「大人しくしていてください。はっきり申し上げますが、邪魔です。退かないのなら僕は帰りますし、雇用の話も白紙に戻しますよ」
「ぼ、暴力だろう! 警察を呼ぶぞ!」
「あなたが息子さんにかけているその怒鳴り声は精神的な暴力ではないんですか? 毎日のように怒鳴られて、否定され続けていれば誰だって牙を剥く。その必死の抵抗さえも暴力で黙らせたらその先にいるのは意思も感情も失った人形です。もしかしてそれを望んでこんなことをしているんですか?」
手首を捻る力を強める忍の瞳に滲む怒りが教師を黙らせる。小さく毒づいて大人しくなった父親の方をリビングへと帰らせて、佑の部屋の前に腰を下ろす。小さく笑って話しかけた。
「大変な環境を耐え抜いたね。頑張ったじゃないか。きっと小さな頃からこうだったんだろう?」
「…………あんた、誰。何しにきたの……」
小さく訊ね返した佑にドアの穴を通して名刺を見せてやる。
「君の社会復帰だとかのためのケアマネージャーとかではないよ。安心して。僕自身も突然あの人に呼び出されて困惑したけれど、もう十年以上前のあの人の教え子だ。君を僕の会社で雇ってやってくれって言われてね」
「CEO……あ、この会社知ってる。上場しただろ」
佑の言葉に忍が笑う。やはり佑には社会復帰を拒んでいる気配はない。引きこもっていても興味は外の世界に向いている。身を守るために立てこもっているだけだ。
「偉いじゃないか、部屋の中でニュースを見てるの?」
「……怒んない?」
「なにか叱られるようなことをしてるのかな」
「俺、ハッキングができんの。あんたの会社、もう少しサイバーテロに備えたほうがいいんじゃない。社内情報ダダ漏れだったから」
「そうか、それは怖いな。君がきてくれたら百人力だ。ちょうどセキュリティ事業を立ち上げたばかりだから、ホワイトハッカーを探してる」
鷹揚な言葉に佑の緊張が緩む。器用にドアの穴に定規を差し込んで、外れたノブの代わりにして開いてくれる。
「ね、見てみる? 俺の基地」
子供のように忍を誘う佑に悪戯っぽい笑みを返して室内へ入る。きっと元から良いものは買ってもらえなかったのだろう、佑自身が改造を重ねたと思われるメインパソコンのキーボードを叩いて自慢げにさまざまな佑が作り上げたソフトやサイトを見せてくれる。かなりの技術だ。忍が唸る。
「すごいじゃないか。独学?」
「うん。大学、俺の行きたい学部は行かせてもらえなかったしね。最初の一年通ってたのは近くにアキバがあるから。部品買ってた」
その腕を一瞥した忍が沈黙する。つられて目を落とした佑が誤魔化すように袖の中に隠す。
「……やっちゃだめなのはわかってるんだけどさ……怒鳴られた後って落ち着かないから。血ぃ見ると落ち着くんだよね」
幾筋も刻まれたカッターの刃創。怒られるとでも思っているのか、視線を逸らした佑の体を緊張が走る。忍が伸ばした手に咄嗟に両腕が頭を庇った。ゆるいスウェットの袖が落ちて傷が顕になる。深く刻みすぎて、治ってもなお食い込むように皮膚が落ち込んでいる。強張る筋張った腕を緩く掴んで、傷をそっと撫でると佑が驚いたように目を瞬いた。二重のくっきりとした愛らしい童顔だ。芸能人と言われても信じてしまいそうな美貌なのに。忍には一目でわかるSubとしての佑と、Domとしての父の歪んだ上下関係……佑には逆らう術などなかったに違いない。本来褒められなくては成り立たない中で、drop寸前の佑の顔には酷い隈が浮かび、顔色も悪い。もっとケアが必要なのだ。
「よく耐えた。頑張ったね。もう、あんな父親に義理立てをする必要はない。君はどうしたい?」
佑が深く俯いた。伸びたマッシュヘアの前髪が双眸を隠す。押し殺したような声で、忍に助けを求めた。
「もう、こんな家にいたくない。オヤジに怒鳴られんのに怯え続けるのはもう嫌だ……けど、俺には自由になる金もないし……一人暮らしの保証人もいないんだ。大学入った時家を出ようとしたけど……」
骨ばった指が目元を拭うのを見下ろして、忍が提案する。
「君さえ良ければ、僕の会社に就職してごらん。給料の振込先は君が口座を新しく開けるように手伝ってあげるから。家は……しばらくの間は僕の家にいてもいい。知ってる? 大学一年の君は未成年だったから無理だったろうけど、今の君は不動産契約だってできるんだよ。敷金礼金が稼げるまで居ていいから」
「……そんなことしたらまた人に迷惑かけるクズだって言われるし……」
佑の言葉に忍がその髪を撫でる。柔らかな猫っ毛だ。元々栗色なのを黒に染めていたのか、伸びた分だけ明るい色がのぞいている。
「僕はこの先君をこの家に関わらせるつもりはないよ。立派なDVだ。近寄れないようにしてあげるから」
「……ホント?」
頼りない確認の声に頷いて、瞳を覗く。明るい鳶色の瞳が忍を見返す。
「こんなに長い間よく耐えた。もう大丈夫だ。君の意思で出ていくと伝えてごらん。僕が無理やり連れ出したことにしてしまうと君を守れなくなってしまうから」
車の中から20年育ててもらった恩を口にする佑に、気の弱そうな母親が涙を隠す。そっとその耳元に何事か囁いた。佑が俯いて窓を閉める。纏めたんだけど、といいながら持ってきたのはたった一つの小さなラップトップに収まる程度の私物だけ。
車を発進させた忍の隣で佑が振り返らないように苦労しているのがわかる。どんなにひどい環境であっても、幼い頃からお前の居場所はここだけだと刷り込まれてきた佑にとっては離れることが怖いのだろう。忍が静かに赦す。
「いいんだよ。君にとっては大切な記憶だってあるだろう。気が済むまで振り返ればいい。君にとってのただ一つの世界だったんだ。僕はそんなことを咎めたりしないよ」
弾かれたように佑がシートベルトを締めたまま助手席で身を捻る。小さくなる実家を見つめて、初めて涙を見せた。痩せた身体には大きすぎるスウェットパーカーのフードに雫が落ちる。
「俺……捨てられちゃった……そうならないようにずっと頑張ってきたのに……」
佑の泣き声に忍が否定を落とす。
「違うよ、君が君の意思で、歪んだ環境から出てきただけだ。それに生きている限り、君とご両親の絆は消えたりしない。大丈夫だから」
その日から2ヶ月忍の契約したアパートの一室で暮らした佑は、会社に住み着くことを交換条件にSTセキュリティのホワイトハッカーとして正規の就職をした。その間傷ついた佑と幾度か体を重ねたこともある。佑とその先関係を解消せざるを得なかったのは、当の父親が忍が息子を誑かしたせいで落ちこぼれが変質者になったと騒いだためだ。忍を守るために佑自身が馬鹿を言うなと一喝して事を納め、忍にもうそう言う関係にはならないと告げた。
だが、そうは言っても佑の中の傷がそう簡単に癒えるものでもないことも、忍の手を求めていることもわかってしまうからこそ……何も告げずに消えてしまうわけには行かないのだった。
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