スパダリ社長の狼くん

soirée

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第三章

十四話

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「忍」
 すっかり忍の歌声を気に入ってしまった瞬のために口ずさみながら本を読んでいるその腕に、首をもたれかけさせたまま、喉をそらして仰向けに瞳をのぞく。碧玉の瞳が間接照明の光を弾いて緩やかに瞬へと向けられる瞬間がたまらなく好きだ。指先が髪を耳へとかける、そんな仕草さえも見惚れてしまうほどに艶っぽい。R&Bのメロディが止まる。唇が微笑みの形を刻む。
「どうした?」
 髪から離れた指先が喉をくすぐってくるのについ瞼を閉じてしまう。くすっと笑って唇を重ねてくれるその柔らかな弾力までもが、こんな夜にはどうにも甘く、肌を重ねたいと言うわけでもないのについつい首を手のひらで引き寄せてさらに深くねだってしまう。
「甘えん坊だな。でもダメだよ」
 あっさりとはぐらかされて、抗議するように唇をなぞる指を甘噛みする。
「ごめんね。昨日からどうにも熱っぽいんだ。風邪を引いたような気がする。本当はキスだって控えた方がいいんだよ」
「え」
 瞬が身を起こす。その目に浮かぶ心配でたまらないと言う色に忍が笑ってしまう。
「大丈夫だよ、ただの風邪だ。薬を飲めば治るよ」
 コホッ、とかすかな咳が漏れる。小さく微笑んで瞬の髪を撫でた。
「大丈夫。心配しないで」




 同じベッドだと移してしまうかもしれないから、我慢だね。そう言って自室に消えた忍の滅多に起こさない体調不良が心をざわつかせてしまって、なかなか寝付けない。散々苦労してなんとか寝付けた時には1時を回っていた。叱られてしまいそうだと考えていたからか、夢の中までも不安定な情緒が付きまとう。
「お母さん、またお注射するの……?」
 不安げな顔をした小さな子供……それが自分の姿であることに気づけないまま、ぼんやりと眺める。はっきりと姿を捉えることのできない女性の影が言い聞かせている。
「瞬。あなたの体にはこれが必要なの。我慢できるわね?」
「でも……昨日もしたよ……痛いから嫌だ」
 首を振って上目遣いに後ずさる子供の手首を掴んで、女性がリモコンを取り上げる。何もなかった空間にモニターが浮かび上がる。
「気がまぎれるようにビデオを見ましょう。ほら、ちゃんと見ていて。そうしたらすぐに終わるから」
 ざらざらとした画面に、なんとも形容のし難い画像が回り出す。深層心理を脅かすようなモノクロのシュールな動画から、少年が怯えたように目を逸らす。
「ちゃんと見て。Look。そのままstayよ。腕を出して」
 はたで見ていただけの瞬の全身を嫌な汗が流れ始める。だめだ、これは見てはいけないと必死で目を逸らそうとするのに、コマンドに従って目は釘付けになってしまう。右腕に鋭い痛みが走る。何事が行われているのか確認したいのに、画面から目を離したら叱られると強迫観念のように瞳が凍りつく。回り続ける動画に音声が加わる。
「満月の夜には、一番怖いことが起きるの。この世で一番怖いこと。キミの一番怖いことが起きるんだよ。満月の夜には逃げなくちゃいけない」
 甲高い機械音のような性別のない声が繰り返し繰り返し暗示をかける。目眩と吐き気で今にも倒れてしまいそうだ。
 画面の中心に突然目玉が開く。ひっ、と悲鳴が漏れかける。瞬をまっすぐに見据えたその目がニヤリと細められた。
「コワイコトガオキルヨ──コンナコトガ」
 一瞬で画面が切り替わる。呆然としながら、ぬるりとした感触に手のひらを見下ろす。腕の中で力無く身を預けた忍の首に大きな牙の跡が刻まれている。溢れた血液が瞬く間に足元を染める。耳鳴りと動悸で頭が真っ白になる。悲鳴を上げて飛び起き、顔を抑えた。
凄まじい頭痛にこめかみを抑える。吐き気を堪えきれず、よろめきながらベッドを出てトイレに蹲った。内臓ごと吐き戻してしまいそうだ。震えてしまう冷や汗まみれの腕を確認しても、特に何も異変はない。ただの夢だ。そう思うのに、恐怖でその場にいることすら耐えられないほどだった。不意にトイレの個室の狭さに気付いて意識が混濁する。膝を抱えて身を縮め、背中を襲われそうな不安で壁に体を押し付けた。


 瞬の悲鳴で目を覚ました忍が、トイレのドアをノックした。引き攣るような呼吸音が返る。落ち着かせるように穏やかな声で名前を呼んだ。
「瞬。どうした? 僕だよ。忍。出てこれる?」
 小さな声が忍を呼ぶ。開けられないのか、動けないのか。鍵の表示を一瞥し、施錠はされていないことに安堵を覚えながら静かにドアを開いた。膝を抱えたまま座り込んでいる瞬の髪にそっと触れると、ビクッとその体が強張る。吐いてしまったことを確認して大丈夫だよ、と優しく撫でる。
「大丈夫、怒ってないよ。何も怖くない。出ておいで」
 息遣いが早く浅くなっていく。久しぶりに起こしたパニック発作に、どうしたのかと考え込んでしまう。
「怖い夢を見た? もう大丈夫。僕がここにいるからね。一人にしてごめんね」
 震え始める身体に辛抱強く語りかける。
「僕がいるよ。何も怖いことなんてない。ずっと一緒だ。おいで、もう大丈夫。ね?」
 指先が助けを求めるように彷徨うのを握り返してやりながら、そっとその手を引き寄せる。自らの心臓に当てて、鼓動を伝えてやる。
「大丈夫」
 ジリジリと少しずつ忍の方へと進んで、瞬が俯いたままその体にしがみついた。
「怖い……怖いよぉっ……」
 子供のように繰り返す震える身体を忍が抱き上げる。吐瀉物に塗れた瞬の体をトントンと叩いてあやしながら、リビングで照明をつけた。間接照明ではないはっきりとした明るさに、瞬の呼吸が落ち着いていく。離れると取り乱してしまいそうだと、抱き上げたまま買い置きしているミネラルウォーターのペットボトルを取って渡してやる。ソファに座って膝の上で抱え直すと、瞬がその前髪を忍の肩に押し付けた。
「少しでいいから飲んでごらん。そのままだと喉が焼けちゃうし、飲むと落ち着くからね」
そう言い聞かせても怯え切った瞬の指は強く忍の二の腕にしがみついていて、ボトルを受け取れない。仕方なくしがみつかれたまま歯で蓋を開け、口元に飲み口を差し出してやる。大人しく一口含んだ瞬が飲み下す。
「うん、いい子だね。落ち着くまでこうしていてあげるから、何も心配いらない。大丈夫だよ」
「満月の夜には怖いことが起きるんだ……逃げなくちゃいけない、お前を俺が殺すから……一番怖いことが起きるからっ……」
 譫言のように繰り返す瞬の言葉に慎重に耳を傾ける。いつかに安曇が、瞬は洗脳に近い状態で調教されているかもしれないと語っていた。満月に怯えさせることでストレス値をコントロールしていると。瞬の言葉はその裏付けのように思えた。何かのきっかけで、幼い日の記憶が蘇ったのかもしれない。落ち着くと同時に記憶が閉ざされてしまう可能性もなくはない。聞き出すとしたら今なのだが、無理に暴くと瞬に酷い苦痛を与えてしまいそうで、とてもそんな真似はできなかった。瞬の零す言葉の断片から可能な限り拾い上げて記憶に留める。
「大丈夫。君はそんなことしないよ。僕がちゃんと知っている。何も怖くないよ、大丈夫。僕が一緒にいるから」
「昨日も注射したのにどうして毎日するの? 俺、嫌だって言ってるのに──」
 瞬の言葉と安曇の推論からどうしても連想してしまう。薬物の投与を。
「怖いから見たくない。テレビをつけるのやめて……」
 嗚咽が漏れる。記憶が完全に混乱している。今の瞬は紛れもなく子供そのものだ。忍が静かに問う。
「テレビを見ると怖いものが映ってるの?」
「変なのばっかりだよ……すごく怖いのばっかり……」
 指先がさらに強く二の腕に食い込む。冷や汗と汚物で肌に張り付いているシャツの下で、筋肉が緊張のあまり加減を失う。食い込んだ爪が忍の皮膚を裂いた。
 傷口から伝った血を一目見た途端、瞬の瞳がこれ以上ないほど見開かれた。
「血が出てる……俺が……」
 上擦った声でそれだけ呟き、瞬が意識を失う。
 倒れ込みそうになる体を抱き止めて、ソファに寝かせる。血に汚れた指先が震えていた。
 忍が考え込むようにその姿を見下ろした。瞬にとっては酷いトラウマ想起だっただろうが、今の言葉だけでもいくつかのピースが埋まった。汚れた服を替えてやりながら、その首を膝に抱き寄せる。
「大丈夫だよ。何も心配いらない──僕が必ず、君を助けてあげるから」
小さく呟く。コホッ、とその喉が咳き込んだ。
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