スパダリ社長の狼くん【2】

soirée

文字の大きさ
上 下
54 / 55
第三章

21話

しおりを挟む
「早く言ってください、隠したところでどうなるものでなし」


 呆れた顔をする槙野に瞬が縮こまる。垂れ切った耳と尾が見えてしまいそうなその姿に槙野の顔が苦笑に転じる。

「そんなに萎縮しなくても。形あるものはいつかは壊れるものです。故意ではないのでしょうし」
「わざとではない、ですけど……でもこれ……」

 俯いた瞬が唇を噛んでいる。白くなるほどに力を込めているその口元を軽く指先でつねってやると、先ほどの傷が痛むのかその顔が歪んだ。

「過ぎたことですよ。そんなに引きずっていては身が持ちませんよ。あなたはただでさえ気持ちの切り替えが下手ですからね。それより随分ひどい傷ですが。何かあったんですか?」

 気遣ってくれる槙野の優しさがじんわりと心に沁みる。本来、瞬にとっても伊南にとっても上司にあたる槙野に瞬が個人的に告げ口のようなことをするのは許されないことなのだろう。それでも忍が完全に私情を抑えた対応に徹したせいか、行き場をなくした誰かに甘えてしまいたいという気持ちばかりが燻ってどうしようもない。何度も言ってはいけないと喉元まで込み上げる声を抑えている様子を眺めて、槙野は不意に立ち上がった。珍しくジャケットも羽織らないまま、瞬を促す。

「少し新鮮な空気が必要ですね」

 戸惑った顔をした瞬を連れて槙野が訪れたのは、屋上の開放ビオトープだった。







「いっ……」
「なるべく早く終えますから我慢していてください」

 以前なら持ち歩いてなどいなかっただろう消毒用のアルコールに感謝しながら、手早く瞬の唇の傷を手当てする。世界規模の感染症も妙なところで役立つものだ。

 痛みで身を引こうとする瞬に小さく「freeze」とコマンドを落とす。ビクッとしながらも素直に動きを止めた瞬を「いい子ですね」と褒めてくれる槙野の声に、瞬の中で張り詰めていた緊張の糸が切れた。滲んだ涙を手のひらで隠す。

「すみません、見なかったことにしてください……」
「私はそれでも構いませんが。あなたの方が限界のようですけどね」
 
 なかなか血が止まらない傷口にハンカチを当ててやりながら、無言で顔を覆う瞬を正面から覗き込んでしまわないよう座り直す。


「私はここで休憩しているだけですから。あなたがそこで独り言を言っていても気にしませんよ。たまたま聞こえてしまったら少しくらいはあなたを褒めたりするかもしれませんが」


 槙野の立ち居振る舞いはどこまでもスマートで優しい。どうして俺の周りはこんなにも出来た人ばかりなのだろうと思いながら、せっかくの粋な計らいを無駄にするのも、と心の中で言い訳をして淀んだ蟠りを辿々しく口にする。


「……どうしてなんですかね。俺の周りに今そう言う人がいないってのも、数年前なら信じられなかったと思うんです。俺はどっちかって言うとずっと殴られる側だったし……だから、今更別にこんな程度でダメージ受けるはずないんです。なのに……」

 言葉にしていると混乱した頭も整理されてくる。伊南の件でなぜこれほど頭を悩ませているのか、不意に視界が開けるように理解が及ぶ。

「……そうか。俺、伊南のこと嫌いじゃねぇんだな……嫌われたくなかったからしんどいのか」
「そうでしょうね。あなたは誰のことも『理解できない』だなんて諦めたくないのでしょう。私にだって、最初の出会いはあんな形だったのに今もこうして頼ってくれる。あなたは周りの人間が優しくしてくれていると思っているようですが、それは違います。あなたの優しさに惹かれて人があなたに集まってくるんです。優しいのはあなたの方なんですよ」


 そんなことないのではと咄嗟に謙遜しようとするものの、こんなふうに言われて嬉しくないはずがない。ただ、と槙野が空を眺める。

「それがどうしても分からない人間もいます。あなたがどれだけ理解しようと譲歩をしても、あなたのことを相手が完全に拒絶していた場合はその壁を突破するのは難しい。例を挙げるなら山岸さんでしょうか。伊南さんは何が原因なのかはわかりませんが、山岸さんの比ではないほどそれが強いのでしょうね」


 結局何が原因なのかは分からないものです、と槙野が瞳を細めた。


「あなたがそうして優しくいられるのは、あなたが何も苦労を知らないからだと誤解する人間もいる。純真でいられるのは無垢だからと思い込むのは未熟な証拠ですが……人は目の前に立っている人間の生きた背景まで推し量ることはできません。長い間言葉を交わしてようやく知ることができるものを初対面で理解することは難しいんです。社長のように常に「もしかしたら」と多角的に考えられる人はほとんどいません。あなたにだって伊南さんの抱えている何かがわからないように、伊南さんにもあなたが酷い目に遭いながらここまで歩いてきたことはわからない。私がアドバイスできるのはこの程度ですが……」




 それまで視線を向けずにいた槙野が横目で瞬に微笑みかけた。

「それはさておき、あなたはよく頑張ったと思いますよ。少し考えるのはやめにして、帰宅したら素直に今日はとても頑張ったのでご褒美が欲しいと社長におねだりしたらいいですよ。Subだからと言うわけではなく人の脳は報酬系ですからね。ご褒美があればまた頑張れます」

 槙野の言葉に頷いて、頭を切り替えようと深く息を吸う。少し冷たくなりはじめた空気が心地良い。


「はい。少しわかった気がします……まだ何かできると思えたので」
「それはよかった。ところで、このカップなんですが」
「……あっ……はい、それは……その、あの……」

 途端にしどろもどろになる瞬に僅かな意地の悪さを滲ませて槙野が問い返す。

「そもそもすぐに話せばよかったんですよ。そうしていたらここまで悩むこともなかった。あなたは社長との暮らしの中でわざとではない失態にまで罰を加えられることなどないともう学んできたのでしょうに」
「う……それは、そうなんですけど……」
「つい怖くなってしまうといったところですか?」


   Subならば多少の説教や仕置きであればむしろ不安な心を払拭できてご褒美になるはずなのだが、基本的に瞬は叱られるのが苦手だ。
 どれだけ謝っても許してくれない主人の元にいた期間が長いので無理もないだろうが、それなりに彼と信頼関係は築けていると思っていた槙野からすれば少々心外な気持ちもある。そう言ってやると瞬の顔が即座に落ち込んだ。あまりに素直に反省モードに入ってしまうので伝え方が難しいなと毎度のことながら苦笑が滲む。傷つけようというつもりはないのだが……。


「あなたに対して必要以上に厳しくしたいと思う人はあまりいませんよ。むしろ叱責というのは隠せば隠すほどひどくなるものです。まぁ、あなたの場合はこれがどういうものなのか分かってしまったからなのかもしれませんが」

 破片の一つを指に取り裏を返すと、日付が記されている。槙野の誕生日を刻印したそのカップは忍から贈られたものだ。どうという関係でもなかったが、ほぼ初めての社会人としての生活の中で会社に馴染むこともなく、毎日のように実父への恨みつらみを吐いていた槙野を見かねて忍はよくプライベートでも声をかけてくれていた。その頃にもらったものだ。あえて忍の休憩時間に目につくように使っていた自分も相当だと今になって愚かさに気が滅入る。


「……いいんです。これは一度割れるべきだった。捨てるつもりはないので楽しみにしていてください。割れてしまったからと言ってそれで終わりではないので」
「……?」


不思議そうな顔をした瞬の背中を軽く叩く。


「さて。戻りましょう。伊南さんに全て仕事を取られてしまっては悔しいでしょうから」


 はい、と頷いて瞬が微笑う。この笑顔がきっと忍も見たいのだろうと思わず魅入ってしまう雪解けのような眩しさに瞳を細めた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

無理やりお仕置きされちゃうsubの話(短編集)

みたらし団子
BL
Dom/subユニバース ★が多くなるほどえろ重視の作品になっていきます。 ぼちぼち更新

スパダリ社長の狼くん

soirée
BL
大手グループ企業の若手社長、東條忍。帰宅途中に偶然立ち寄った路地裏で、彼は一匹の狼を拾う。翌朝にはなぜかリビングに素っ裸の青年が眠っていて──? トラウマだらけの狼が、忍の甘やかしで忠犬へと変わっていく。 甘々シリアスBL小説。

松本先生のハードスパンキング パート5

バンビーノ
BL
「お尻、大丈夫?」  休み時間、きれいなノートをとっていた子が微笑みながら言いました。僕のお仕置きの噂は、休み時間に他のクラスにも伝わり、みんなに知れ渡りました。姉は、何をやっているのと呆れていました。姉も松本先生の教え子でしたが、叱られた記憶はないと言います。教室では素振り用の卓球ラケット、理科室では一メートル定規がお仕置きの定番グッズになりました。  でもいちばん強烈な思い出は、理科室の隣の準備室での平手打ちです。実験中、先生の注意をろくに聞いていなかった僕は、薬品でカーテンを焦がすちょっとしたぼや騒ぎを起こしてしまったのです。放課後、理科室の隣の小部屋に僕は呼びつけられました。そして金縛りにあっているような僕を、力ずくで先生は自分の膝の上に乗せました。体操着の短パンのお尻を上にして。ピシャッ、ピシャッ……。 「先生、ごめんなさい」  さすがに今度ばかりは謝るしかないと思いました。先生は無言でお尻の平手打ちを続けました。だんだんお尻が熱くしびれていきます。松本先生は僕にとって、もうかけがえのない存在でした。最も身近で、最高に容赦がなくて、僕のことを誰よりも気にかけてくれている。その先生の目の前に僕のお尻が。痛いけど、もう僕はお仕置きに酔っていました。 「先生はカーテンが焦げて怒ってるんじゃない。お前の体に燃え移ってたかもしれないんだぞ」  その夜は床に就いても松本先生の言葉が甦り、僕は自分のお尻に両手を当ててつぶやきました。 「先生の手のひらの跡、お尻にまだついてるかな。紅葉みたいに」  6月の修学旅行のとき、僕は足をくじいてその場にうずくまりました。その時近づいてきたのが松本先生でした。体格のいい松本先生は、軽々と僕をおぶって笑いながら言いました。 「お前はほんとに軽いなあ。ちゃんと食わないとダメだぞ」  つい先日さんざん平手打ちされた松本先生の大きな手のひらが、僕のお尻を包み込んでくれている。厚くて、ゴツゴツして、これが大人の男の人の手のひらなんだな。子供はこうやって大人に守られているんだな。宿について、僕はあのお仕置きをされたときにはいていた紺の体操着の短パンにはきかえました。あの時の白衣を着た松本先生が夢の中に出てくる気がしました。

膀胱を虐められる男の子の話

煬帝
BL
常におしがま膀胱プレイ 男に監禁されアブノーマルなプレイにどんどんハマっていってしまうノーマルゲイの男の子の話 膀胱責め.尿道責め.おしっこ我慢.調教.SM.拘束.お仕置き.主従.首輪.軟禁(監禁含む)

首輪 〜性奴隷 律の調教〜

M
BL
※エロ、グロ、スカトロ、ショタ、モロ語、暴力的なセックス、たまに嘔吐など、かなりフェティッシュな内容です。 R18です。 ほとんどの話に男性同士の過激な性表現・暴力表現が含まれますのでご注意下さい。 孤児だった律は飯塚という資産家に拾われた。 幼い子供にしか興味を示さない飯塚は、律が美しい青年に成長するにつれて愛情を失い、性奴隷として調教し客に奉仕させて金儲けの道具として使い続ける。 それでも飯塚への一途な想いを捨てられずにいた律だったが、とうとう新しい飼い主に売り渡す日を告げられてしまう。 新しい飼い主として律の前に現れたのは、桐山という男だった。

マフィアのペットになりました。

かとらり。
BL
 藤谷真緒はごく普通の日本人。  ある時中国に出張している父親に会いに行ったら、チャイニーズマフィアに誘拐されて次期トップの李颯凛(リ・ソンリェン)に飼われることになってしまう。 「お前は俺のペットだ」  真緒は颯凛に夜な夜な抱かれてー…

ご主人様に調教される僕

猫又ササ
BL
借金のカタに買われた男の子がご主人様に調教されます。 調教 玩具 排泄管理 射精管理 等 なんでも許せる人向け

優等生の弟に引きこもりのダメ兄の俺が毎日レイプされている

匿名希望ショタ
BL
優等生の弟に引きこもりのダメ兄が毎日レイプされる。 いじめで引きこもりになってしまった兄は義父の海外出張により弟とマンションで二人暮しを始めることになる。中学1年生から3年外に触れてなかった兄は外の変化に驚きつつも弟との二人暮しが平和に進んでいく...はずだった。

処理中です...