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第三章
5話
しおりを挟むとにかくもしばらくはお互い休息が必要だろう、と結論づけて帰っていった二人を見送り、忍は疲れを滲ませた吐息をつく。忍自身も折り合いをつけたと思ってはいてもすべてをなかったことにはできるわけもなく、知らず知らずのうちに気が張っていたのだ。瞬と違ってそれを表に出すことをしないでいられるのは、ただ単なる年の功であって、きっと瞬と同じ年頃に秋平と再会していたら忍だってどんな醜態を晒していたかわからない。
「勝手なものだな」
自分は避け続けたそれを──いや、忍が逃げ続けていたのは秋平からだけではない。本家からも己の過去からも、全てから目を逸らして生きてきたようなものなのに、瞬に容赦なくそれを突きつけている自分にやや自己嫌悪が募る。忍のような遠回りをしてほしくない、苦しむ時間は短時間にしてやりたい、そうは思っても、その代わりに今という時間を瞬にとって猛毒にしてしまっている。そばについていてやらなくてはいけない。覚えがあるのだ。あまりにも苦しい現実に直面した時、人はあっさりと死を選ぼうとするのだと……。
コンコン、と瞬の部屋をノックする。
「瞬、二人は帰ったよ。大丈夫かな?」
「…………」
静かすぎる室内に違和感を抱いて、慎重にドアを開ける。獣人化したまま手首を強く噛み締めているその牙が、確実に動脈を断ち切ろうとしているのを見て血の気が引いた。一瞬凍りついた体が次の瞬間瞬の口から手首を引き剥がす。本気で死ぬほどの気はなかったのか、軽い痣がついているだけの手首を守るように両手で包み、頭ごなしに叱りつけてしまいそうになるのを堪えて、今までで一番苦労をしているのではないかと思うほどの集中力で口元になんとか笑みを貼り付ける。
「……大丈夫? 辛かったね」
「死ぬ気なんてないから心配すんなよ……これ以上強く噛んだことなんてない。これからもしないから」
掠れた声でそう言った瞬の口元もぎこちない笑みを作る。
「自殺なんてしない。ただこうしてると少し落ち着くから……癖みたいなもんだよ。子供がぬいぐるみ抱いてんのと同じ。心配すんな」
逆に宥められてしまい、忍がほっと息を吐く。それが本当なのか、実際は自殺寸前だったのかは分からないが……とにかく今はどうでもいい。ぎゅっと抱きしめて、そのまま抱き上げる。
「半日くらいは僕たちだけで過ごせるよ。何をしようか? 何がしたい?」
空気を切り替えるように明るく尋ね、瞬の部屋から連れ出す。リビングのソファから庭を見れば、二人がやってくれたのか瞬が嘔吐したシーツや忍たちの汗だくだった部屋着などが綺麗に干されている。どちらの性格かわからないが、皺が入らないようにきちんと伸ばされているのはもちろん、シーツも几帳面に角を合わせるように干されている。
「ああ、あれ? あれやるのは透だよ。最初の頃洗濯教えられた時に干す時はああしろって言われた」
忍の疑問が顔に出たのか、瞬が何気なくそう言う。
そう言われると瞬と秋平は同棲中どんな関係だったのだろう。罰が苛烈だったことは聞いているが、それ以外は何も知らない。忍本人の心象も悪いせいで、秋平の醜悪な面にばかり意識が向いていたと些か反省をする。
「君と先輩は同棲中はどんな感じだったの? いや、話したくなかったらそう言ってね」
忍の問いに、瞬はうーん、とやや上に視線を向けて、そのまま視線を戻して忍の瞳を見据える。
「……笑わないか?」
「うん?」
瞬の問いかけの真意を測り損ねたまま曖昧に頷く。
長い足を膝を折ってソファの上に引き上げ、腕をその上にもたれかけさせるように投げ出したまま瞬は何とも言えない笑みを作った。自虐のような、羞恥のような、とかく己を否定する笑みだ。
「……透は、悪い飼い主じゃなかった。最初に拾ってくれた時も、そのあと……どうだろ、一年半くらいかな。それくらいの間はすげえ優しかった。できることなんてセックスくらいしかなかった俺に家事を一通り教えてくれたのも、初めてお前の作る飯はうまいって言ってくれたのも透だ。……ほんと優しかったんだ。俺はお前の本当の親でもないし、養子縁組できるほどの歳でも収入でもないから、お前のことを簡単に褒めたりして懐かせるのはお前のためにならないからって言ってた。初めの頃は罰だってお前と同じだったよ」
スパンキングは嫌いじゃなかった。性的なものではなかったし、親から与えられる罰のようで、ミュリアルからはなまじ体罰は受けたこともなかったので愛されているからだなどと勘違いさえした。もちろん痛かったし、泣きもしたが……終われば大きな手で頭を撫でて「もうするなよ」と言ってくれるのが嬉しかった。初めて拾われた飼い主のように気まぐれに汚い欲を口に突っ込んで腰を振るような真似をしないだけでも、いつのまにか瞬は秋平のことを心底好きになっていたほどだった。
「お前に、最初の頃にさ。悪い飼い主がほとんどだったけど、いい飼い主もいたって話しただろ。あれは透だよ。俺にとっては信じられないくらいいい飼い主だった。最初の飼い主が毎朝フェラで起こせとかクソみたいな躾してたせいで当然そういうのもしようとしたけど、透はその度にお前はまだ子供だろうがってとめてくれた」
だから、嫌いじゃなかった。むしろ好きだった。初恋だったかもしれない。
「俺が悪かったんだ。懐きすぎた。あいつのいうことなら俺は何でも聞いた。そんな関係が続いて、12歳になった時、朝起きたら夢精してたことがあった。多分その頃に俺にもSub性が出てきてたんだと思う……透の行動が少しずつおかしくなっていったのもその頃だったから」
なるほど、と忍は内心納得する。自分にどこまでも懐く身寄りのない子供、精通してSubとしてのフェロモンが滲んできたら、それまでは優しい保護者として接していられた秋平も無意識なDom性が向き始めてしまったのだろう。そして、秋平のDom性はカウンセラーから忍も聞いた。相手の何もかもを掌握し、縛り付けて、己のいうがままにさせねば気が済まない。瞬と秋平の間に歪んだ上下関係が生まれていったのは想像に難くない。
「でも、俺は耐えた。何を言われても何をされても、俺が耐えれば、俺がいうことを聞いていれば昔の優しい透に戻ってくれるってずっと信じて──それこそ火傷させられようが。でも、結局俺がおかしくなった。昨日もあんな……あんな反応して、あれは俺がしようと思ってしてることじゃないんだ。いつからか止められなくなった。透が近寄るたびにあんなパニック起こして、14歳になった時に透がもう俺から逃げろって俺を車ですげえ遠くに連れてきて置き去りにしていったんだ。俺は、俺は透を憎んでなんかない。許してなくなんかない……好きだったんだ、一度でいいから抱きしめて欲しかった。最初の頃みたいに優しくして欲しかった。昨日も今日も、透の態度はその頃の透そのもので、俺……見ていられなかったんだ……お前に透がしたことは許せない。でも、でも多分俺はもう俺にあいつがしたことは……怒ってない、のに、体が勝手に、こんな俺にしたあいつのことが許せないんだ。ただそれだけだ……こんなこと認めたくなかった……」
忍がそっとその俯いた頭を抱き寄せた。瞬の瞳は乾いているが、忍は知っている。本当に認めたくないことに気づいてしまった時、人間は涙など流せない。
「俺が悪……」
「違うよ」
そっと遮る。それは瞬も秋平も悪くない。どちらもどうしようもない本能に翻弄されて起きた悲しい関係性というだけだ。物理的に暴力に及んだ秋平に非があるのはもちろんだが、簡単にそれだけで片付けていい話ではない。それでもこうして、瞬がもつれにもつれた己の中の葛藤の糸を解いて見せたことは……どれだけ褒めてやっても褒め足りない。本当に強い子だ。
そう言ってやると、初めてその赤銅色の瞳が涙で揺れた。
「捨てないで欲しかった……俺を見捨てないで欲しかったんだ。なのに俺が、俺が透にそうさせた……っ、いつも怖いんだ、俺は相手に縋るばっかりで……いつも最後は捨てられる。お前ともいつかそうなるかもって怖くて怖くて仕方ない、今あるものが明日も必ずあるなんて、そんなの誰にもわからない……」
「君には、今はまだ僕がどれだけ言葉を尽くしても信じることはできないと思う。それは君のせいじゃない」
おそらく余程の覚悟をして内心の葛藤を打ち明けてくれた瞬の髪をくしゃくしゃと指先でかき混ぜ、そのままそっと指先で額を押して視線が正面から絡むように覗き込む。伺うような上目遣いをやめさせてやる。
「ある程度それは仕方のないことなんだよ。だって過去は人を形作る全てなんだ。君という人格には君の過去全てが絡んでいる。その過去が君に教えてくれるシグナルを見ないふりできないというのは悪いことでもなんでもない、むしろ君が君の人生を大切に生きてきた証だ。僕なら褒めてあげるところだ」
優しい瞳で瞬を肯定してくれる忍の甘さに溺れてしまえば、また全てに蓋をしてしまうこともできるのだろう、けれど……。
「でも……お前だって透だって……俺みたいな中途半端なことしてない。佑だってそうだ……いつまでも逆恨みみたいに透に露骨な態度で酷いことしてるの俺だけだ……俺は透に怒ってるわけじゃない、透のこれからを全部ぶち壊すなんて、そんなの俺だってしたくない。なのに、勝手に……体も心も全然俺のいうこと聞いてくれない……」
うん、と頷いて忍はその後頭部を引き寄せて己の肩にもたれかけさせた。抱きしめるわけではない。ただそっと寄り添うように軽く引き寄せて、その首筋を軽く撫でる。シャツの裾を握りしめてくる瞬の手を振り解くことはできないまま、忍自身にも言い聞かせるように綺麗事を吐く。
「分かるよ。そうだね……感情と理性はそんなに簡単に同じ方向を向いてくれないからね。君のペースで向き合えばいい。僕は君を見離さない。君が不安になるたびに何度でもそう言ってあげる。大丈夫、人は強い生き物だ。君ならいつかちゃんと乗り越えられる。僕はずっとそばでそれを見ていてあげる。人は変われるっていうあの言葉は先輩にだけ向けたものじゃないよ。君だって変わっていける。僕はちゃんと知っているよ」
落ち着いた忍の声が耳に、心に染み渡る。身も心も溶けていくように忍に溺れていく。何度繰り返してもその依存をやめられない己に自己嫌悪を抱いていると、不意に忍がからかうように呟いた。
「それにしても今の恋人の前で堂々と初恋の話をしちゃうなんて。人に嫉妬を覚えるなんて生まれて初めてだな」
ん? と一瞬固まった瞬がばっと顔を上げる。
「いや、ちが、そうじゃない! 俺が今好きなのは忍だけだからっ……!!」
くすっと笑って忍が唇を塞いだ。唇を割って前歯を軽く舐めてやると、瞬がおずおずと口を開く。差し込んだ舌で瞬がすぐに蕩けてしまう上顎や、頬の内側を丹念になぞり、歯茎に沿って歯列を舐め上げて嘔付かない程度の深さまで喉をくすぐる。くちゅ、ちゅっ、とわざと水音を立ててやれば、力が抜けてしまった体が倒れ掛かる。腕で支えてやりながらソファに押し倒し、指先をシャツの下に潜り込ませてすでに芯をもって尖っている乳首を撫で、転がし、押し潰しては指先で扱く。キスの合間に甘い声が鼻から抜けて、誤魔化せない昂りが忍の太ももに当たる。
「まだ勃つ余裕はあったか。昨日散々イかせたからもう無理かと思ってたけど」
唇を開放して意地悪な笑みを浮かべた忍に、瞬が切ない視線を向ける。
「今日はお仕置きじゃないし。ここでもいいよね?」
シャツを脱ぎ捨てた忍に有無を言わさず確認され、しなやかな体と顔を交互に見た瞬が他に選択肢もないまま頷く。
明るい日中に、初恋の相手の気配も残る室内で愛でられるというなんとも言えない高揚感に酔いしれている瞬を攻めながら、忍はいつか自分も秋平のように瞬に対して酷いトラウマを与えてしまうのではと危惧を拭えずにいた。
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