スパダリ社長の狼くん【2】

soirée

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第三章

1話

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 桜の木の下で、初めて僕はあの人と口をきいた。
 幼い日にちらりと目にして以来忘れられなかった美しい人は、ボロボロの姿でベンチに座って、魂が抜けたように頭上の桜を見上げていた。
 終わりかけの桜が降り頻るベンチは、確かどこか小さなバス停だった。
 僕たちはどちらもそんなところに用はなかったはずなのに……。

 だから、思い切って声をかけた。痩せてしまった白い頬、虚な瞳の下の濃い隈、艶のなくなってしまった長い黒髪。
 それでも、やはりその人は美しくて……。


 僕は、彼を僕のものにしたかったんだ。








こう、もうすぐお前の役目に終わりが来るかもしれんぞ」
 一筋畳に差し込む強い日光を避けるように、部屋の隅で砂壁に背を押し付けたまま膝に顔を埋めていた男が顔をあげる。ぼうっとして焦点の定まっていない瞳は、何を言われたかを理解できないとでもいうように虚なまま小さく首を傾げた。
「お前の代わりが来ると言うことだ」
 足首と手首に残る縄の跡。ふらつきながら立ち上がり、座敷牢の格子を両手で握りしめる。帯を与えられていないのか、掛けているだけの妙に豪華な振袖から覗く肌は、傷がないところを探す方が難しいほどだった。
「……僕は、どうなるんですか」
 掠れた声で絋と呼ばれた青年が呟く。紅の引かれた唇を清峰が親指で強く拭う。
「お前の働き次第だな。忍をうまく家に連れ戻せたのなら、お前にも外で生きる権利をやる。できなければ用済みのお前は生かしておく価値もない」
 理不尽な物言いにも、絋は何も反抗は見せない。そんな気力もプライドも、随分昔にとっくに捨ててしまった。そんなものを持っていても辛いだけだったのだ。
「お前をここへ幽閉してそろそろ12年になるか。 薹とうがたったお前ではもう悦ぶものもいない。性技だけは念入りに仕込まれているからな。そうした客を取らせてもいいが」
「忍……ああ、菫子すみれこさんの」
 呟くようにそういった絋の喉を格子の間からのびた清峰の手が締め上げた。咽せることもままならないほどに力を込められ、絋の顔が鬱血する。
「2度とその名前を口にするな」
「…………ぃ」
 声を出すことができないので、唇だけで服従の言葉を伝える。この程度の仕打ちには慣れきっている。清峰が手を離すと同時に急に気管が解放され、以前なら咳き込みもしただろうが今となってはこんなときに速やかに息を繋ぐことも覚えてしまって、何事もなかったようにそっと喉に指を触れさせるだけで絋は静かに清峰を見上げた。
「お前を忍の会社に紛れ込ませる。名は決して名乗るな。お前の名前は『伊南 絋いなみ こう』だ。不器用なお前は下の名前も変えてしまうとボロを出すだろうからな……忍の警戒心を煽るな。Subとして振る舞え」
「……はい」
 指示はその都度送る。そう言い置いて、清峰はさっさと背を向けた。代わりに座敷の前に三つ指をついた使用人たちが牢の錠前を外す。

 本当に出られるのか、と今更のように信じられないような──望むことを諦めていた喜びに体が打ち震えるのを感じる。
 座敷から出ることのなかったせいで細くなってしまった脚で、よろめくように牢を出る。手際よく帯を結ばれ、12年ぶりの燦々と降り注ぐ太陽の光の眩しさに目を覆う。その指の隙間から、輝く雫が落ちた。
「出られた……本当に、出られたんだ……」
 静かな嗚咽が漏れる。使用人たちが淡々とそんな絋を促した。
「絋様。支度を整えますので、これからは離れではなく母屋でお過ごしいただきます。怪我が治るまで療養していただいたのち、東京へ。ただし、絋様が失踪されましたら元も子もございませんので……清峰さまも東京のお住まいにご滞在なされます」
 絋が驚きに目を瞠る。未だかつて、清峰が誰かのためにわざわざ本家を離れるようなことがあったろうか。
「くれぐれも、お言葉にはお気をつけなさいませ」
 余計な詮索をするなと暗に言われたことを察し、絋は静かに頷いた。この家において、絋が誰かに歯向かうことは……例えそれが使用人に対してであっても、絋にとってはひどい折檻を受ける理由にしかならなかったのだ。長年置かれた環境で染みついた従順さだった。


 母屋の一室で丁寧に傷を手当てされ、使用人たちが出て行った後も絋は半ば呆然としていた。腹の底から湧き上がるような、箍が外れたような感情の爆発を苦心して抑え込む。それでも、声を漏らさぬよう抑えた口を笑い声がついた。狂ったように笑いながら、涙を流す。
「夢でもいい……夢だとしても」
 瞳孔の開いた瞳が天井の染みを見上げて歪む。
「僕はもう、慰め役じゃない……」
 口を押さえていた手が離れ、畳を掻きむしる。苦しいほどに笑いながら、絋は忍に心底感謝した。己と同じ立場に置かれる新たな慰め役への憐憫などなかった。そんなものを感じられるような域はとうにこえた。


 母屋に響く笑い声に、長老たちが笑う。

「なぜかいつもああなる」
「よほどおかしくなるのじゃろうな」

 前当主……清峰の父に当たる翁が清峰に視線を向けた。
「いいのか、清峰。お前の一番のお気に入りと聞いているが、あのようにして」
 清峰が無表情で答えた。
「いいも何も……私にはもうどうしようもないのだろう」
「ようわかっとる」

 愉快そうに爺たちが湯呑みを傾けているのを眺め、清峰は苦い思いを胸のうちだけにとどめて縁側の外へと視線を送った。

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