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第321話

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「……さて」

 この恐らく地下室へと続くであろう階段、足を踏み入れるべきか。
 それとも私は何も見なかったとこの扉を閉じ、カーペットを元に戻してベットに寝転がるべきか。

『ここにあるものは全部好きにしてくれていい』

 この奇妙な同居の初日、ブレイブさんに告げられた言葉を思い出す。
 この小屋には小部屋がいくつか存在しているが、彼はその全てへ好きに出入りして構わないと頷いた。
 事実彼へ何か尋ねたいことがある時は探し回って開けたこともあるし、別に特段おかしいものは無かった。

 だがこの地下室はどうだ?
 もし彼がここの存在を全く持って知らずにその言葉を発したのならともかく、こんなカーペットの下にあるのはどっちだろうか。

 空は青い。
 彼が出てまだ数分、帰ってくるには数時間はあるだろう。
 まさかダンジョン並みの空間が広がっているわけもない、中を観察して戻ってくるのに一時間とかからないはず。

 小さくつばを飲み込み、私は階段へと足をかけた。

 実はブレイブさんに警戒していて、彼が何か企んでいるからここを隠したに違いない……なんて考えているわけではない。
 私の予想が合っているなら、彼に対してそんなことを考えるのはあまりに無駄だから。
 ただの好奇心だ。一度は子供が親の部屋・・・・・・・に忍び込むように、ただ目の前に不思議な入り口があるから足を踏み入れた。
 ただそれだけの話。

 一歩踏み込む度に地下からの風が頬を撫でる。
 階段の材質は石だろう。
 滑らない様に加工されたであろうざらざらした材質が、足裏へと直に無機質な冷たさを与えた。

 三十段はあっただろうか。
 ただの小さな家に備え付けられた地下室に向かう階段にしては随分と多い階段を降り、目前へ露わになったのは木製の扉だ。

 私が近づいた瞬間、周囲がほんのりと明るくなる。
 日本の様に電気……なはずはない、恐らく魔法だ。
 だが侵入者を警戒するための物ではなく、その光は特にドアノブが分かりやすいように集まっていた。

 軽く指先でドアノブを弾いてみるも、反撃などは特にない。

「おじゃましまーす……」

 地下の冷気によく冷やされたノブを握りしめぐるりと捻れば、扉は抵抗すらなく、いともあっさりと開いた。
 
「うっ……」

 くらりとめまいがした。

 もし私が普通の人間だったなら、真っ先に感じていたのは古びたインク特有の鼻をツンと突く、なんとも言えない独特な匂いだっただろう。
 だが今感じているのは甘い匂いだ。痺れるような甘い匂い、石の隙間から僅かに感じたあの匂いはやはりここから漏れだしているのだ。
 扉を開けた瞬間一層明確に、強烈に感じるようになった。

 一体その匂いの元は何なのか。

 本だ。
 私の家だった地下室にあった……いや、それ以上に大量の本が、いくつもの本棚にずらりと並べられている。
 小型の図書館、もしかしたらそれ以上かもしれない。
 恐らくそのどれもが少なからず魔力を蓄えていて、それが数えきれないほど重なり合った結果この強烈な匂いを生み出しているのだ。

「想像以上……だったかも」

 大量の本から甘い魔力の匂いがする、その可能性は二つある。

 まず一つは異世界の物はどれもこれも魔力があるから、ここにある本からも魔力の匂いがするのは当然。
 そしてもう一つはやはり異世界であろうと全ての本から魔力の匂いがするのは異常、つまりここにある本はこちらでも特別な存在……魔法の本、とでも言えばいいのか、そういった部類である。

 まあ間違いなく後者だろう。

 そもそも異世界の物全てに大量の魔力が蓄えられているのなら、あちこちからその匂いがして私の鼻は既に馬鹿になっているはずだ。
 当然本の匂いなぞ嗅ぎ取れるわけもない。
 そしてそんな特別な本をこれだけの量……一年や二年なんて期間じゃない、数十年単位で時間をかけて集めなければならないだろう。
 更にその特別な本を集められる経済力……も、またやはり並大抵じゃない。

 だがそんなことが出来る、可能性がある人を私は一人だけ知っている。

「間違いない……ここはカナリアの家だ、やっぱり」

 これは予想ではない、確信だ。
 最初の時の様に見た目での照合などではない、ここまで物がそろっていたのならそれ以外にはあり得ない。

「……なんて書いてあるのか分かんないな」

 一つ、ざらりとした表紙の本を抜き取り開いてみる。
 だがそこに描かれている文字は笑えるほどに読めない、英語や日本語ではないのだけははっきりと分かるが。

 まあ、そりゃそうだろう。
 なんたって私は日本で生まれ育った、異世界の言葉なぞまるきり学んだことすらない一般人なのだから。
 自慢じゃないが読みも書きも話し・・も一切できない。

 ひたひたと私の歩む音だけが地下室に響く。
 時として気まぐれに目についた本を引っ張り出してみるも、やはり読めるわけがなく直ぐに戻すを繰り返して数分ほど、遂に地下室の端へと私はたどり着いた。

「これ……!?」

 はっ、と喉が引き攣る。

 存在の否定は不可能だった。ブレイブさんが、彼がここにいるのだからありえたのだ。
 それ・・は上巻しか作られておらず、魔導書としては未完成のままだった。
 その製作者本人・・・・・がここにいて生活しているのだ、下巻を作る可能性は高いのなんて分かりきっていたのだ。

 その机に鎮座していたのは一冊の巨大な本だった。
 学校の図書室の、端の方に置かれている辞書たちくらいはある、この地下室ですらこれほどの物はあまりないだろう。
 その横にはペンやインクが置かれていて、どうやらこの本は未だ誰かに書き込まれ続けている……あるいは、つい最近完成したばかりだというのが伺える。 

 大きい、本当に。だが私はそのサイズなんかに驚いたわけじゃない。

「……『アイテムボックス』」

 ぬるりと虚空から一冊の本が飛び出す。

 これは元々私の実家だった家の、地下室で見つけた本だ。
 分厚い表紙、内側には何やら幾何学模様がいくつも描かれていて、ぱっと見た感想では綺麗な落書きの様にも取れる内容。
 私のパパが作っていた本、それがこれだ。

『体内に存在する魔力の波長が一人一人異なるからこそ、固有魔法というものは多種多様な姿を取る。恐ろしいほど繊細な調整が必要だが、一切真似できないというわけではない……理論上は』

『この本はまだ未完成だ、進行度はおおよそ半分程度だろう。いわば上巻とでもいうべきだな』

『奏さんのスキルは……『復元』よ。どんな姿に破壊されてしまったものでも、元の姿へ戻すことが出来たの』


 私の世界から持ってきた本と、この机へ安置されていた本。
 二冊は並べれば瓜二つ、いや、まったく同じ見た目。
 そう……例えるのならば、上巻と下巻とでもいうべき姿をしていた。
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