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第190話

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 ようやくたどり着いた家の前、荒っぽい音に顔を上げる。

「まま……」

 昨日までまともに動くことすら出来なかったはずの彼女が、荒々しい足音を立てアパートの階段を駆け下りた。

 その表情は今までのようにゆったりとしたものではなく、遠目からでも分かるほど鬼気迫ったもの。
 苛立ちはそのまま体の動きにも映し出されていて、普段見せてくれていた繊細さ、優しさなどどこにもない。

 一体何があったのだろう……?

 ずんずんとこちらへ一直線に進む彼女の下へ、私もフラフラと寄っていく。
 なにか大変なことがあったのなら、私も協力をして……

「ねえ、どうした……!?」

 だが、伸ばした手に触れるどころか、私に話しかけることもなく彼女はすり抜けて行ってしまった。

「え……?」

 ありえない。
 だって、こんな目の前にいたんだぞ?
 それを何もなかったかのように歩いて、無視して、過ぎ去っていくなんて……まるで赤の他人みたいで。

 呆然とした時間は何秒だったのだろう。
 あっという間に私から距離を開けていく彼女の背中を、息切れする身体で何度も転び、必死に追いかけた。
 転び、妙にふらつくのが気持ち悪いが、それ以上に今話さなければいけないような気がして、たった十数メートルの距離を必死に走った。

「ママ、まって……っ!」

 何度目かの転倒と共に右のブーツへ手がかかり、絶対に逃がさないように全身で抱き着く。

「ねえっ、無視しないでっ! どうしたの……!?」

 激しい舌打ち。
 私を見下す彼女の目は恐ろしく冷たいもので。


「邪魔だ、離せ。第一私は貴様の母親なぞではない」


 私の大嫌いな言葉を、いとも容易く吐き出して見せた。


「……っ!? もしかしてっ、記憶が戻ったの……!?」

 私の言葉に彼女は何一つ返さず、淡々と私を振りほどくため足を振った。

 嫌だ、やめて、そんなこと言わないで。
 胸が苦しい、今すぐにでも耳を抑えて叫びたい。
 でもまだあきらめない。

 一緒に話すって約束したから、あきらめたくない。

「約束覚えてるでしょ!? お話っ、お話ししよ? 私ちゃんと聞くから、だからっ!?」
「知らん」

 どこまでも昏く冷たい声音。

 足を振る程度では離れないと分かったのか、今度は私の側頭部を蹴り始める彼女。
 最初はどこか躊躇いがあったのだろう。しかし私のレベルが無駄に高く大した効果がないと分かると、その力は次第に強烈なものになっていき、最後にはアスファルトが欠けて飛び散るほどのものにまでなった。

 何度も、何度も、何度も何度も。

 頭でダメならお腹を、顔を。
 脳みそが揺さぶられ、体中に鈍くしかし激しい痛みが走り、口の中に鉄臭さが充満する。
 それでもわたしは、ぜったいにはなさなかった。

 ママは、アリアはきっと話せばわかってくれる。
 だっていままでアリアは私にやさしくしてくれて、ぜったい話すって約束したんだ。
 アリアだけはわたしをすてない、筋肉みたいに勝手にどこかにいかない、ねこみたいにいきなり変になったりしない。

「はなし……してよぉ、やくそくしたのに……なんで……?」
「私はそんなこと覚えとらん、くどいぞ」

 けど、やっぱり伸ばした手は踏み潰されて。



 もういやだ。



「なに……?」
「やだ……やだ、もうやだ、もうやだ! もうぜんぶやだっ! どうしてわたしを置いていくの? なんでみんな何も言ってくれないの!?」

 私はただ、普通の幸せが欲しかっただけなのに。
 どうしてこんな事ばっかりわたしに起こるの!? どうしていやなことばっかりわたしに回ってくるの!?
 みんなずるいよ! 普通の家族がいて、普通に毎日を過ごして、普通に生きれて!
 なんでっ、なんで私はただママと一緒に暮らせればよかっただけなのに、ママもいなくなっちゃうの!?

 ずっと頑張ったのに、やっと一緒に暮らせると思ったのに、はなそうとしたのに、約束したのに!

 もう無理だ、限界だ、頑張っても無駄なんだ、何をしたって何の価値もないし何の見返りもない。
 どうせいくら戦ったってそんなのつま楊枝より価値のないゴミ未満のどうしようもなく歪でっ、そうだ、どうせ私がいくら頑張ったところで今生きる人たちにとっては何をしているのか一切理解することの出来ない、認識すら曖昧で存在しえない無駄な行為なんだ。
 どうせ誰にも認められない努力をどうして頑張る必要があるんだ、どうせだれも喜んでくれない戦いに何の価値があるんだ、どうせだれも私へ何もしてくれないのに、どうせ、どうせどうせどうせどうせどうせどうせ!

 限界だった。

 今さら誰かにどう思われるだとか、周囲の目を気にして躊躇うなんて余裕はなかった。
 無様で汚らしく涙とよだれを垂らして、赤黒くなった手で力いっぱいにブーツに抱き着いて、ゆさぶって、愚図って、暴れて、叫んで、泣いて、泣いて、泣いて、泣き叫んで――

「きっ、きかない! 何も言わない! 何もしないからおいていかないで……っ!」
「……っ」

 なりふり構わない私を見た冷たい目の中に、何か小さな迷いが生まれた……そんな気がしたのに。


「あ……」


 鋭い閃光が背後で起こった。

 どこか焦げ臭いような、酸っぱいような、生臭くも感じる臭い。
 最初に感じたそれが、私の膝から出ているんだと分かったのは、衝撃に吹き飛ばされた身体が地面に叩きつけられた時だった。

「あ、ああ、あああああああああああっ!? あ、あしっ、あしっ、ああああっ!?」
「――同じことを言わせるな、私は貴様の母親ではないと言っている。第一貴様に時間を割いている余裕はない」

 痛みはない。
 ただ伝わってくるのは、人の足が二つ無くなると、ここまで体は軽くなるのだということだけ。
 道路上に弾けた私の肉や血が、停滞する雷によって蒸発し焼け焦げていく。断面は既に黒く焼け焦げ、頬を垂れる何かすらも沸騰と蒸発を繰り返した。

 続けざまにおなかへ撃たれた小さな雷撃が下半身の筋肉を痙攣させ、腕にも及ぶそれは私に這いずる余裕も、彼女へ何かを伝えようとする舌も、思考すらも奪っていく。

 動かないと、掴まないと、ママが行っちゃう。
 いやだ、わたしをおいていかないで。

「二度と付いてくるなんて思うなよ」

 最後に見たのは、彼女が私へ何か小瓶の中身を振りかける一瞬だけ。

「なんで……なんでこうなるんだよ……」

 もういやだ。
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