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第176話
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「今日もあっという間に完食しちゃいましたよ」
「そう……こんなこと任せてごめんなさいね」
東から満月の昇り始める頃、美羽は入り口で空を見上げていたアリアへお盆を手渡した。
美羽が彼女と出会ったのは一週間前、フォリアが執務室から姿を現す一時間ほど前のことだ。
その容姿からして親しんだ少女の関係者であることは間違いなく、せっかくだから会ってみては? とういう美羽の言葉へ気不味そうな表情を浮かべるアリアの姿から美羽はおおよそを察した。
時々顔を見せる少女の過去を鑑みれば間違いなく毒親と言われる類の存在。
一年近く交流を深めれば情も沸くというもので、目の前の女性を追い返すことも考えた美羽であったが、しかしどうやら様子がおかしい。
その手の存在にありがちである独善的で身勝手な態度、それが見当たらないものだから困った。
仕方なしに話を聞けば想像以上に複雑な家庭事情。
危うくいろいろ巻き込まれてしまいそうなところを、取りあえず憂慮から顔を蒼くしている彼女にフォリアの様子と食事を届けることを了承することで、何とか回避することに成功した。
流石に気儘な美羽と言えど、他人の家庭事情へ踏み入ることは厳しいものがあったのだ。
「記憶を無くす前の私は、一体あの子に何をしたのかしら……」
美羽がその場を去るのを見送ったアリアは、お盆を傍らに置き、ベンチの上で深々とため息を吐く。
この一週間幾度となく繰り返された自問自答。しかしいくら悩めど記憶が戻ってくるわけもなく、あの子の部屋でも掃除しましょうと帰路に就こうとしたその時。
「アリア……」
互いに想定外の会遇は突然に起こった。
◇
何でアリアがここに……!?
壁際で園崎さんとの会話を眺めていた私は、彼女がその場から去った後でつい言葉を零してしまった。
冬も近い透き通った空気に加え静かな夜の町はよく声が響く。
吹けば消えてしまうような音量であったにもかかわらず、私のつぶやきは彼女に届いてしまったようで、アリアは壁裏に隠れる私へ驚いたように目線を向けた。
「ねえアリア、教えて。全部覚えてて、それを隠して私と暮らしてたの……?」
目を瞑り、緩やかに首を振る彼女。
あくまで未だに何一つ覚えていない、と言いたいらしい。
私にそれが真実か確認する手段はない。所詮人の記憶は個人に由来するものであり、客観的に有無を確かめることなんて出来ないのだから。
「ごめんなさい……記憶はまだ戻っていなくて、でもこれからはっ!」
「これからってなに……? ここに来るまでの今までをアリアは捨ててきたのに、捨てた本人がこれからって言うの?」
いや、もし彼女が全てを思い出していたのなら、わざわざ私へ構うことなんてない。
ここに訪れるわけもなく、わざわざ私のためにご飯を作ってくれるなんて夢のまた夢だ。
あの人が私のために何かをしてくれるなんてあり得ない、だからきっと彼女は本当に何も覚えていない。
「ずっと待ってたんだよ? いつかまた戻ってきてくれるのかなって、でも帰ってこなかったのはママの方なの!」
違う。
私が言いたいのはこんな事じゃない。
こんな事じゃないはずなのに、記憶の奔流は意思を裏切って好き勝手に口から溢れ出してしまう。
まるで壊れた蛇口だ。
七年間塞がれ続けた喉は今までのうっ憤をまさに今晴らすべきだと、澱んだ澱を含む泥水として、鋭い刃となって彼女を傷つけていくのが分かった。
「ごめんなさい……」
「なんでアリアが謝るの? アリアは何も覚えてないんだよね、なのになんでアリアが謝るの? 理由もなく理解もせずただ謝ったの? 怖いから謝っただけの言葉に何の意味もないよね? それともママは本当は全部覚えてて私にまた嘘ついたの? ねえ、どうして謝ったの? そんな言葉のどこに価値があるのか私に教えてよ」
言葉は暴力だ。
私はその意味を知っているはずなのに、他の誰でもないままの言葉で知ったはずなのに。
また、私はこの人の心を傷つけた。
また、私は自分のために何かをしてくれた人を傷つけた。
また、私は自分のためだけに突き放した。
「パパが居なくなってから、ママはずっと家に帰って来なくなった。帰ってきても話してくれなくて、うるさいって怒鳴ってさ。今更帰って来たいって、一緒に暮らしたいってさ……そんなのあんまりだよ」
違う。
「一回私のこと壁に叩きつけたこともあったよね、行かないでって足に抱き着いてみた時のこと。まさかそこまで飛ぶなんて分かってなかったみたいで、随分びっくりしてすぐ家から飛び出して行っちゃったっけ? あれで肩凄い腫れたんだ、保健室の先生にこっそり何日か湿布貰ってたんだよ?」
これじゃない。
「ごはん、全然作ってくれなかったよね。朝ごはん事務の人から菓子パン貰ってたんだ、クラスの皆がまだ寝てる時間に学校に行ってさ。でも夕ご飯はなかったからお水いっぱい飲んだりしてさ」
もっと大事な、伝えたいことがあったはずなのに。
「おばあちゃんから貰った修学旅行費、全部持って行っちゃったよね? 確かに私は友達少なかったけど、これでも結構楽しみにしてたんだよ?」
もっと単純なことのはずなのに。
言葉と共に頬を濡らす。
これは怒り? それとも悲しみ? それとももっと他の感情?
頭を埋め尽くす疑問が疑問を生み出す悪循環。
自分が作り出した感情の海に藻掻き、溺れ、狂おしいまでの吐き気と激情がまた自分を海の底へ引きずり込む。
「もっといっぱいあるんだよアリア、貴女が私にしてきた事がさ! なのに記憶を無くしたから、全部忘れたから一からって、ふざけんなよ……そんなのあんまりにも身勝手すぎるッ! なんで! なんで私を捨てたんだよ! ねえママ!」
彼女からの返答は無言。
存在しない記憶、自身の行為、私が語るそれが真実かどうかを確かめる手段なんてアリアにはない。
しかし目の前で怒り狂う人間がいればそれを否定するのなんて到底不可能だ。
立場としては弱い記憶を失った彼女を、私はどこかそれを理解した上で責め立てている、自分の感情に任せて好き勝手に振るっている。
救いようがないのはどっちだ、身勝手なのはこっちだ。
「ごめんなさい……全部私が悪いの、最低の母親よね……何一つ覚えてないなんて、貴女が怒るのも当然だわ」
違う。
私は、私が本当に言いたいのは……!
「ずっと寂しかった……」
――私はただ、もっとずっと一緒に居たかっただけ。
「私はただアリアとっ、普通に暮らせればよかったのにっ……どうして……どうして……アリアが私のママなの!? なんで昔と同じに振舞ってくれないの!? もっと私を嫌って、憎んで、怒鳴ってよ! なんでそんなに優しくするの……これじゃ、恨めない……っ」
ずっと嫌な親であってくれれば、間違いになんて気付かずに済んだ。
気儘に暴力をふるってくれれば、怒鳴ってくれれば、私はただ最低な親の元に生まれた子供でいられた。
でもアリアはずっと優しかった。
後から気付いても塗りつぶせないほど心地のいい記憶、それは彼女を一方的に恨むにはあまりに暖かすぎるものだった。
だから気付いてしまった。
あの時少しでも話を聞けていればまた違ったんじゃないか?
いきなり変わってしまったママに、一人残った家族の私だけでも話を聞いてあげることが出来たら、最低だと突き放さなければまた違う未来を歩めていたんじゃないのかって。
ただ指をくわえてあの人が去るのを眺めていた私に、今のすべてを恨む資格なんてない。
「ねえ、家に戻りましょ」
「……無理だよ、糸が切れちゃったんだ」
「切れたらまた結べばいいだけよ」
また、アリアは手を伸ばしてくる。
ママが切った糸。
それをアリアは結び直そうとして、今度は私が切ってしまった。
醜い感情をぶつけてしまったこの私に、アリアの差し出した手を握ることなんて出来ない。
いつもそうだ。
きっと自分が気付けていないだけ。結局一番悪いのは私、最後の最後を押し込んでいるのは私。
「ママが自分で切ったの、私が結ぶのを諦めたの」
「自分で切ったからこそ、私達が結び直さないといけないわ」
なのになんで、皆私に手を差し伸べるんだ。
ここ最近出会った人みんなそう。
払っても払っても皆笑って、諦める私に頑張ろうと言い切ってしまう。
こんなの振り払えるわけない。
「今度切ったら、絶対に許せない」
私はもう一度だけ、自分とママを信じていいのだろうか。
「そう……こんなこと任せてごめんなさいね」
東から満月の昇り始める頃、美羽は入り口で空を見上げていたアリアへお盆を手渡した。
美羽が彼女と出会ったのは一週間前、フォリアが執務室から姿を現す一時間ほど前のことだ。
その容姿からして親しんだ少女の関係者であることは間違いなく、せっかくだから会ってみては? とういう美羽の言葉へ気不味そうな表情を浮かべるアリアの姿から美羽はおおよそを察した。
時々顔を見せる少女の過去を鑑みれば間違いなく毒親と言われる類の存在。
一年近く交流を深めれば情も沸くというもので、目の前の女性を追い返すことも考えた美羽であったが、しかしどうやら様子がおかしい。
その手の存在にありがちである独善的で身勝手な態度、それが見当たらないものだから困った。
仕方なしに話を聞けば想像以上に複雑な家庭事情。
危うくいろいろ巻き込まれてしまいそうなところを、取りあえず憂慮から顔を蒼くしている彼女にフォリアの様子と食事を届けることを了承することで、何とか回避することに成功した。
流石に気儘な美羽と言えど、他人の家庭事情へ踏み入ることは厳しいものがあったのだ。
「記憶を無くす前の私は、一体あの子に何をしたのかしら……」
美羽がその場を去るのを見送ったアリアは、お盆を傍らに置き、ベンチの上で深々とため息を吐く。
この一週間幾度となく繰り返された自問自答。しかしいくら悩めど記憶が戻ってくるわけもなく、あの子の部屋でも掃除しましょうと帰路に就こうとしたその時。
「アリア……」
互いに想定外の会遇は突然に起こった。
◇
何でアリアがここに……!?
壁際で園崎さんとの会話を眺めていた私は、彼女がその場から去った後でつい言葉を零してしまった。
冬も近い透き通った空気に加え静かな夜の町はよく声が響く。
吹けば消えてしまうような音量であったにもかかわらず、私のつぶやきは彼女に届いてしまったようで、アリアは壁裏に隠れる私へ驚いたように目線を向けた。
「ねえアリア、教えて。全部覚えてて、それを隠して私と暮らしてたの……?」
目を瞑り、緩やかに首を振る彼女。
あくまで未だに何一つ覚えていない、と言いたいらしい。
私にそれが真実か確認する手段はない。所詮人の記憶は個人に由来するものであり、客観的に有無を確かめることなんて出来ないのだから。
「ごめんなさい……記憶はまだ戻っていなくて、でもこれからはっ!」
「これからってなに……? ここに来るまでの今までをアリアは捨ててきたのに、捨てた本人がこれからって言うの?」
いや、もし彼女が全てを思い出していたのなら、わざわざ私へ構うことなんてない。
ここに訪れるわけもなく、わざわざ私のためにご飯を作ってくれるなんて夢のまた夢だ。
あの人が私のために何かをしてくれるなんてあり得ない、だからきっと彼女は本当に何も覚えていない。
「ずっと待ってたんだよ? いつかまた戻ってきてくれるのかなって、でも帰ってこなかったのはママの方なの!」
違う。
私が言いたいのはこんな事じゃない。
こんな事じゃないはずなのに、記憶の奔流は意思を裏切って好き勝手に口から溢れ出してしまう。
まるで壊れた蛇口だ。
七年間塞がれ続けた喉は今までのうっ憤をまさに今晴らすべきだと、澱んだ澱を含む泥水として、鋭い刃となって彼女を傷つけていくのが分かった。
「ごめんなさい……」
「なんでアリアが謝るの? アリアは何も覚えてないんだよね、なのになんでアリアが謝るの? 理由もなく理解もせずただ謝ったの? 怖いから謝っただけの言葉に何の意味もないよね? それともママは本当は全部覚えてて私にまた嘘ついたの? ねえ、どうして謝ったの? そんな言葉のどこに価値があるのか私に教えてよ」
言葉は暴力だ。
私はその意味を知っているはずなのに、他の誰でもないままの言葉で知ったはずなのに。
また、私はこの人の心を傷つけた。
また、私は自分のために何かをしてくれた人を傷つけた。
また、私は自分のためだけに突き放した。
「パパが居なくなってから、ママはずっと家に帰って来なくなった。帰ってきても話してくれなくて、うるさいって怒鳴ってさ。今更帰って来たいって、一緒に暮らしたいってさ……そんなのあんまりだよ」
違う。
「一回私のこと壁に叩きつけたこともあったよね、行かないでって足に抱き着いてみた時のこと。まさかそこまで飛ぶなんて分かってなかったみたいで、随分びっくりしてすぐ家から飛び出して行っちゃったっけ? あれで肩凄い腫れたんだ、保健室の先生にこっそり何日か湿布貰ってたんだよ?」
これじゃない。
「ごはん、全然作ってくれなかったよね。朝ごはん事務の人から菓子パン貰ってたんだ、クラスの皆がまだ寝てる時間に学校に行ってさ。でも夕ご飯はなかったからお水いっぱい飲んだりしてさ」
もっと大事な、伝えたいことがあったはずなのに。
「おばあちゃんから貰った修学旅行費、全部持って行っちゃったよね? 確かに私は友達少なかったけど、これでも結構楽しみにしてたんだよ?」
もっと単純なことのはずなのに。
言葉と共に頬を濡らす。
これは怒り? それとも悲しみ? それとももっと他の感情?
頭を埋め尽くす疑問が疑問を生み出す悪循環。
自分が作り出した感情の海に藻掻き、溺れ、狂おしいまでの吐き気と激情がまた自分を海の底へ引きずり込む。
「もっといっぱいあるんだよアリア、貴女が私にしてきた事がさ! なのに記憶を無くしたから、全部忘れたから一からって、ふざけんなよ……そんなのあんまりにも身勝手すぎるッ! なんで! なんで私を捨てたんだよ! ねえママ!」
彼女からの返答は無言。
存在しない記憶、自身の行為、私が語るそれが真実かどうかを確かめる手段なんてアリアにはない。
しかし目の前で怒り狂う人間がいればそれを否定するのなんて到底不可能だ。
立場としては弱い記憶を失った彼女を、私はどこかそれを理解した上で責め立てている、自分の感情に任せて好き勝手に振るっている。
救いようがないのはどっちだ、身勝手なのはこっちだ。
「ごめんなさい……全部私が悪いの、最低の母親よね……何一つ覚えてないなんて、貴女が怒るのも当然だわ」
違う。
私は、私が本当に言いたいのは……!
「ずっと寂しかった……」
――私はただ、もっとずっと一緒に居たかっただけ。
「私はただアリアとっ、普通に暮らせればよかったのにっ……どうして……どうして……アリアが私のママなの!? なんで昔と同じに振舞ってくれないの!? もっと私を嫌って、憎んで、怒鳴ってよ! なんでそんなに優しくするの……これじゃ、恨めない……っ」
ずっと嫌な親であってくれれば、間違いになんて気付かずに済んだ。
気儘に暴力をふるってくれれば、怒鳴ってくれれば、私はただ最低な親の元に生まれた子供でいられた。
でもアリアはずっと優しかった。
後から気付いても塗りつぶせないほど心地のいい記憶、それは彼女を一方的に恨むにはあまりに暖かすぎるものだった。
だから気付いてしまった。
あの時少しでも話を聞けていればまた違ったんじゃないか?
いきなり変わってしまったママに、一人残った家族の私だけでも話を聞いてあげることが出来たら、最低だと突き放さなければまた違う未来を歩めていたんじゃないのかって。
ただ指をくわえてあの人が去るのを眺めていた私に、今のすべてを恨む資格なんてない。
「ねえ、家に戻りましょ」
「……無理だよ、糸が切れちゃったんだ」
「切れたらまた結べばいいだけよ」
また、アリアは手を伸ばしてくる。
ママが切った糸。
それをアリアは結び直そうとして、今度は私が切ってしまった。
醜い感情をぶつけてしまったこの私に、アリアの差し出した手を握ることなんて出来ない。
いつもそうだ。
きっと自分が気付けていないだけ。結局一番悪いのは私、最後の最後を押し込んでいるのは私。
「ママが自分で切ったの、私が結ぶのを諦めたの」
「自分で切ったからこそ、私達が結び直さないといけないわ」
なのになんで、皆私に手を差し伸べるんだ。
ここ最近出会った人みんなそう。
払っても払っても皆笑って、諦める私に頑張ろうと言い切ってしまう。
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