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第二百三十八話

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 異常は味覚だけではなかった。

 何も感じないのだ、味覚を失ったことに。

 勿論ショックではある。
 無味の物質をただ噛み砕くだけの作業は途轍もない虚無感があるし、食べていて楽しくないのならと箸やスプーンを放り投げたくなる気分だ。

 しかし味を感じないことには何も思わない。
 ああ、無くなってしまったのだという漠然とした認知、そして無くなってしまったのなら致し方なしと、自分でも驚くほどすんなり諦めてしまえる。

 あれ、私ってこんなに食べること興味なかったっけ……?

「それでは僭越ながらあたしが、無事帰って来られたこととクリスマスを祝って……」
「おい、さっさとしろ」

 琉希がこほんと咳払いをして立ちあがったが、横に居たカナリアにせっつかれて眉をひそめる。
 しかし長々とするのも待ちきれないだろう、そんな様子でジュースの注がれたグラスを掲げ……

「はぁ……まあいいです、乾杯!」
『かんぱーい!』

 軽くグラスたちがぶつかり合い、軽快な音を立てた。

 しゅわしゅわと弾ける黒い炭酸、しかし付随するはずの甘みや酸味は何もない。
 氷の冷たさだけが口内を満たし、何も味のしない爽やかな香りのする液体を嚥下する。

 つまらない。

 大好きだったはずのママのスープが机に並ぶ。
 しかしスプーンを手にしてもかつての高揚感は何処にもない。熱々の液体を掬っては口の中に掻きこむが、結局温度が変わっただけで炭酸と何ら変わりはなかった。

「フォリアちゃん、おいしいかしら?」
「うん、おいしい」

 虚無、虚無、虚無。
 まるで食欲が湧かない。
 何を目の前にしても、かぐわしいはずの香りを胸に一杯吸い込んでも、決して食べたいという欲望がでてこない。

 言うなれば地面に転がる石ころや、部屋の隅に溜まってしまった埃だ。
 ちょっと目を惹くかもしれないけれど、決してそれをおいしそうだとか、どれ一口と手を伸ばす気になれない。

 このパリッと皮の焼き上がったチキンを掴み、ソースにディップしてから柔らかな肉を口いっぱいに頬張れば、きっと幸せになれるぞと記憶は呼びかける。
 そうだ、その通りだと手に取り食んでみるも、匂いつきの消しゴムや粘土でも噛んでいるかのような感覚に支配され口が止まった。

 どうして私は……今までこんなものを食べていられたんだ?

「やっぱアリアさんの料理はおいしいですね!」
「琉希、それアンタのお母さんが作った奴だぞ」
「えっ!?」

 甘みが分からない。
 塩味が分からない。
 苦みが分からない。
 酸味が分からない。
 油のこってりとしたコクも、お肉やじっくり焼かれた野菜のうまみも、胡椒のピリリとした刺激的な辛さも、何一つ感じない。

 頬張れば頬張るほど、私の記憶の中に存在していた『味』が消えて行く。

 でも、何も感じない。

 食事をするときの高揚感も、お腹いっぱい食べた時の幸福感も、そして味を感じないことに対する絶望もそこにはない。
 絶望がないからこそ絶望する。

 ならば今まで私が食べていたものはなんだったのか?
 おいしいと思ったものは?
 不味いと思ったものは?

 思い返すためにフォークを動かした。
 サラダに掛けられていたフライドオニオンを掻きこんだし、カリカリに炒められたベーコンを噛み締めた。
 でも、やっぱり分からなくて。

 皆が美味しいと笑顔で話し合う中、私は理解の出来ない『味』を褒め称え、皆に合わせて料理の素晴らしさを説いた。
 それは人間の中に馴染もうと、化け物が見よう見まねで振舞っているようで。


 これではまるで――


 じわじわと競り上がってくる恐怖と孤独感。
 しかしそれは味を感じないからではない。皆と私の距離がどんなにあがいても、勝手に離れていく絶望から。

「ごめん、ちょっと食べ過ぎた。外いってくる」
「はいはい、ケーキまでには帰ってきてね」

 ママの言葉には何も返せなかった。

「おいアリア、紅茶を一杯くれ。紙コップに熱いストレートをだ」

 そして私の後を追うように、いそいそと立ち上がったカナリアにも気付かなかった。



 全て終わったと思ったのに。

 変質してしまった私の身体が、またいつか私は怪物になってしまうのではないのか、という恐怖を煽る。
 いや、もしかしたら私の精神は既に変わり果てていて、今はまだ気付いていないだけなのかもしれない。

 ベンチに座り俯く私へ、街灯から伸びる一本の影が差し掛かった。

「カナリア……」
「飲め」

 不愛想に突き出された物を月明かりに照らすと、紙コップの中へ注がれていたのは濃い琥珀色。
 手から伝わるのは温かさ、そして漂う茶葉の爽やかな香り。

 紅茶だ。

 ちらりと上を見るが彼女は無言で私を見つめていて、恐らくこれを飲まなければ話が進まないのだろうということは容易く予想が出来た。
 気は進まないが、渋々言われるがままに一口含めば、じゃりりと口の中に広がる何かの感覚。
 コップの底で揺蕩う透明な欠片がじんわりと溶け出し、紅茶の中で不思議な靄を生み出している。

「ありがと。おいしい……」
「味感じないんだろ」

 あまりに直球な言葉で目を瞑る。

「は? 何の話?」
「そんなたっぷりと塩を入れた紅茶を飲んでよく言う」
「……っ!?」

 無茶苦茶だ、だが一番単純でもある。

 カップの底へ融け残るほどの塩を溶かした紅茶を口にして、平然としているなんてあり得ない。
 普通ならえずく。仮に耐えられたとして、怒ったり、何かしらのアクションを起こす。

 少なくとも『おいしい』、なんて絶対に口にしないだろう。

 もはや隠すことは出来なかった。
 掌の中で握り締められた紙コップから紅茶が溢れ、頬を零れる何かと共に、コンクリートの上へと垂れていく。

「治るのかな……」
「知らん。魔蝕に関しては実例が少なすぎて私にもどう転ぶか予想できん、一か月も経たずに元へ戻るかもしれんし、或いは一生治らん可能性や、或いはさらに他の部位も悪化する場合だってあるかもしれん」

 カナリアとは、出会ってからまだわずか一日だ。

 でもきっと、彼女が淡々と口にする言葉は、つまりそれが真実なのだろう。
 そしてそれは私自身が本能的に察していることとも、憎らしいほどぴったり一致していた。

「皆は分かってるものが私には分からない……皆美味しいって言ってるのに、私には何が美味しいのかさっぱりで……食べるの好きだったはずなんだよ、私。でも全然食べる気になれない、美味しそうなはずなのに全然美味しくない……」

 これじゃまるで――人間ゴッコじゃないか。

「食べれば食べる程『味』が分かんなくなっちゃって……その内また、何もかも分からなくなっちゃうんじゃないかって……!」

 これからまた、私の身体は何かを失う。
 次は触覚か、視覚か、嗅覚か、一体何が無くなるのか分からないのに、間違いなくなくなるって分かってしまう。
 いつなのかすら分からないのに、その日が来るのだけは間違いがなくて。

「また私の身体が元に戻っちゃうんじゃないかって……あの姿になって……っ!」
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