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第百九十七話

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 枯草など、辺り一面に茶色が蔓延り、全く整備されていないのが分かる扉。
 やはりというべきか、山奥入ったダム近くのB級ダンジョンは立地、難易度などの点から全く人の手が入っていないのが分かる。
 きっとここが崩壊しダムごと消えたところで、誰一人として犠牲者が生まれることはないのだろう。

 ダムが無くなったらそれはそれで大変なことになりそうだけど。

 だが奇妙な点があった。
 恐らく長年植物が栄枯したせいだろう、扉の下の方は土に埋まっていて、下から人差し指ほどの高さにコケが生えていた形跡・・がある。

 そう、形跡だ。
 今は下の部分まで落ち葉や土がどかされていて、押せば普通に開くだろう。
 扉が開くよう綺麗にどかされた痕、そこらに広がる落ち葉と色の異なるそれらは、間違いなくここ数日のもの。

 いた。

 長年封を閉ざされてきた、日本でも一部のみしか生きて帰れないこのダンジョンに、ごく最近誰かが足を踏み入れた跡がある。

 ここへ来たのはほぼ賭けであった。
 琉希がたった一晩で調べ上げた三つの候補はどれも彼女が向かいうるもので、その中であえて確率の低いここを選んだのは、ただ私の経験と勘が囁いていたから。
 時間が経つほど彼女の足取りを追うことは難しくなる。それでも握った選択肢は、どうやら正解だったらしい。

 既に彼女がここを発ってしまった可能性もある。
 だが少なくとも、行先不明な幻影の背中を追いここを離れるより、この『沈黙の雪原』を捜索した方が可能性はあるだろう。

「フォリアちゃん……今なら引き返せますよ」
「……琉希、ビビってんの?」
「は、はあ? まさか! 超余裕ですし!?」

 コートの袖から覗く彼女の指先は先ほどから、何かを誤魔化す様に何度も指同士をこすり合わせている。
 だがきっと、私たちが感じている恐怖は同じようで別の物。

 本当に彼女がいるのか、彼女がいて話すことが出来たとして、私に何が出来るのか。
 無駄だ、無理だ、意味なんてない、もう進みたくない……心の中で震える私は、そんな幼稚で情けない雑言ばかり叫んでいる。

 どれだけ科学や魔法が発達しようと台風や地震を抑えられないように、ダンジョンの崩壊と消滅は淡々と起こり続けて、きっといつかは世界そのものが消えてしまうのだろう。
 そしてそのいつかは一年だとか十年だとか、そんなのんびり構えていられるほど先じゃなくて、もう聞くのも恐ろしいほど間近まで迫っているのだろう。

 どちらが幸せなのだろう。
 いつ死ぬのか分かっている私と、いつ死ぬのか分からない皆。
 直前まで恐怖を感じないと言えば皆が幸せな気もするし、その時までに覚悟を決めれる私の方が幸せな気もする。

 ……いや、結局どっちも変わらないのだろう。
 長く少しずつ味わうか、一瞬で全てを詰め込まれるか。
 皆、目の前に置かれた、『絶望』という毒で満たされた杯を拾い上げ、最期には飲み干さなくてはいけないのは変わらないのだ。

 だが、私は一つだけ皆より幸せだと言えることがある。
 その時が来るまでに『後悔』を残さないよう動ける、あれやこれをやっておけば良かったと思うことを、事前に終わらせておける。
 
 筋肉は死んだ。
 アホネコは私が殺した。
 ママは何も言わず家を出た。

 だからもう後悔したくない。
 死んだアホネコや筋肉はこの世におらず、もうなにも言葉を掛けることは出来ないけれど、ママだけはまだ生きている。
 会って話すことが出来る。

 緊張で手は恐ろしいほどに濡れているというのに、少し黙っただけで乾いて張り付いてしまった唇を舌でなぞり、私は前を向いた。
 
「……開けるよ」
「はい、大丈夫です」

 二人目を合わせ頷き、石で出来た扉の真ん中へ手を当て、ぐっと力を籠める。

『せーのっ……!』

 重い。
 きっと雪が向こう側で張り付いているのだろう。ポキピキと氷が砕ける音と共に抵抗が小さくなり、ゆっくりと扉が開かれていく。

 漸く開いた小さな隙間へ二人体を滑り込ませる。

 縺れる様に中へ転がり込んだ私たち。
 やはりというべきか、雪に埋もれた体を起こすため共に手を取り、どうにか立ち上がる。

「こっ、これは……っ!?」
「おぉ……?」

 一歩踏み出した私の、目の前に広がっていた景色は――

『さっ……寒っ!?』

 顔面すら張り付くほどの暴風雪であった。



「どうしましょう……」
「どうしようもないでしょ……雪止むまで待つ?」

 薄暗く狭い空間の中、二人の声が響く。

 しばらく雪の中を行軍したはいいものの、暴風によって視界一面が白に染まっていて何も見えない。
 その上服の隙間から無理やり入り込んでくる風は恐ろしく冷たいもので、体中にカイロを滑り込ませているはずなのに震える程寒く、凄まじい勢いで私たちの体力を削っていった。

 結局、このまま無闇に歩いていても、何の意味もないだろうという琉希の提案で、カリバーを雪へ突き立て巨大化させることで、私たち二人が座って入れるほどの穴を作り出し中へ滑り込むことになった。
 押し固められた雪は結構頑丈なようで、寄っかかる程度ではびくともしない。

 一応何があるか分からないから持って来たと琉希が取り出した、巨大なビニールシートで屋根を作ったその竪穴は即興の物とは思えないほど快適だ。
 体に叩きつけられる風がないだけでここまで楽になるとは。

 地面に敷いたビニールシートの上、肩を寄せ天を見上げる。
 吹き続ける風はビニールシートの下からでも分かるほどの音を響かせ、空気を入れるためあえてずらした隙間から見える空は、買ったばかりのキャンバスのように無機質で冷たい表情だった。

 しかし何といえばいいのだろう、こうやって時間が出来ると話すことがない。
 いや、きっといつもの私たちならいくらでも話すことが生まれてくるのだろうが、鬱々とした気持ちが積み重なっている今、何を話せばいいのか分からなくなってきた。

 こんな危ない場所に琉希連れてきて、私本当に何やってるんだろ。

 そんな私の手に、一つの紙コップが手渡される。

「これどうぞ!」
「え?」

 中になみなみと注がれていたのは、琥珀色の若干とろみを持った熱い液体だった。
 ほとんど準備もせず家を飛び出し、道中のコンビニで弁当を買い占めた私とは対照に、彼女はしっかりと準備をしてきたようだ。

 紅茶特有のえもいえぬ甘く爽やかな香りが漂い、知らず知らず凝り固まっていた額が緩むのが自分でも分かった。

「ぐいっと!」
「お酒じゃないんだから……んじゃ……っ!?」

 温かな紅茶だと思っていた私の身体が、衝撃にバカみたいに飛び跳ねる。
 喉が焼ける。
 強烈なその感覚は脳裏をぞりぞりと絶え間なくこすっては、ごくわずか、それこそ小指の爪の白い所くらいほんのちょっとの渋みや苦みが、一応これが紅茶なんだとアピールをして消えた。

 口内を占める驚愕すべき感覚。
 これが甘みだと理解したのは、口をつけてから数秒後であった。
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