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第百八十五話

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「マスターが帰ってくるまで良く磨いておかないと!」

 ここ毎日、赤子が覚えたての言葉を繰り返す様に、園崎さんはその言葉ばかりを口にしていた。

.
.
.

 最初に気付いたのは私からだ。

 印鑑が消えている。
 既に筋肉が確認をしたはずの書類だ、分類されていたはずのそれが何故か机の上に置かれていて、日付がもうギリギリだと催促するウニに首を傾げた。

「いやだから、支部長代理のお前がさねえと出せねえじゃん。ここ支部長いねえんだからさ」

 昨日だだ滑りしたそのネタを、今日になってもまだ続けるのかとため息が出た。
 そんなんだからお前はウニなんだ、たまにはカニに位なってみろと背中を叩いてやりたいほどだ。

 しかしどうにも退く様子がない。

 仕方なしに、黒く重厚な筋肉用の机に仕舞っておいた印鑑を取り出そうと椅子をずらし、鍵を捻ったところでふと、存在すべきものが存在しない違和感に吐きそうになった。

 小物がないのだ。
 当然この机は元々私の物ではない。筋肉のペンだとか小物が色々と入っていたし、私はあくまで代理としてここに座って、隙間に物を置かせてもらっているに過ぎない。
 鍵を持っているのは私だけ、鍵が壊されているわけもなく、はて、それならそこそこたっぷり入っていたはずのそれらは、一体何処に行ってしまったのだろうか?

 しかしまあ、筋肉がどっかで何かをする必要があって持ち出したのだと思ってその時はスルーした。



「あれ、このプロテインデザイン変わったんだ……」

 コンビニ行った時だった。

 書類整備に疲れたし皆に差し入れついでに甘いものでも買い込もうと、ふらふらコンビニの中を歩き回っていたら、小さな違和感がまた喉に引っかかる。
 それは昔ポーションだと思って買ったプロテイン。筋肉が広告に出ていて、うお、あいつCMに出るくらい知名度あるんだなんてちょっと驚愕した覚えもあるアレ。

 確か端っこの方に筋肉いたと思ったんだけどなぁ……

 なにせ半年前のことだ。
 もしかしたら気のせいだったかもしれないけど、なんだか知り合いの姿が消えているのはもの寂しい。
 もしかして在庫に前のデザインの奴まだあるのかも、と店員さんへ聞いてみたが……

「いやぁ、別にデザイン変わってないんじゃないっすかね」
「そう……ですか……」

 と、あまり詳しくない人らしくにべもなく返されてしまった。
 悲しいが所詮はパッケージがちょっと変わった程度。わざわざ延々とそれについて聞き出すのも迷惑がかかると、シュークリームやフルーツサンドを買い占め、その日はおとなしくコンビニを後にした。



 違和感は重なっていった。

 筋肉について書かれていたネットの記事が消えた。
 言及していたブログだとか、スレだとか、或いは小さな呟きすら跡形なく綺麗さっぱりと。
 最強の人物として間違いなく挙げられていたはずなのに、どこにもない。

 どれも一つ一つは薄く、反対側に広がる日常が透けて見えてしまうほど。
 でも一つ一つ丁寧に重ねていくと、くっきり、はっきりとどうしようもない現実が浮かび上がってしまって、私たちはそれから目を逸らしていいのか、それともしっかり見つめるべきなのか決めあぐねていた。

 それでも世界は回り続けていた。
 たった一人が消えたところでなんてことないというように、筋肉が受け持っていた分のBやA級ダンジョンは崩壊し、それも防ぎようのない災害だったとレポーターが絶望に叫び、そして次の日には何もないように日常へ戻る。

 本当にそれは日常なのか? それは私にも分からない。
 多分日常を偽る非日常なのだろうと思うが、今世界に存在するニ十数億人にとっては、昨日と何も変わらないように感じるだろうし、皆の認識がそうだと訴えるのならきっとそれは日常なのだろう。

 消えた、消えた、また消えた。
 あれもこれもどれもそれも、あの人が戦ってきた証拠は消えた。
 あの人が必死に守っていた人たちが、土地が、記憶が、ダンジョンの崩壊によって消えた。
 あの人が守りたいと、もっと守るために協力してほしいと叫んできた痕跡が、何一つ、欠片すら残さずに消えてしまった。

 全部全部消えて行く。
 たった一人が消えただけで、ここまであっけなく状況は悪化していくのかと目を剥くほど、誰も察知することが出来ない世界の変貌は確実に起こっている。
 少なくともこの日本では、筋肉がいなくなってから恐ろしいほど変わってしまった。

「ね、ねえ、園崎さん……」
「……やめて」

 筋肉はきっと、世界の消滅に巻き込まれて死んだ。

 きっともう取り返しはつかない。
 今世界最強と呼ばれている人ですらレベルは六十万らしい。筋肉のレベルはついぞ知ることはなかったけど、その人の名前が上がらなかったのだから、そこには圧倒的な差があったのだろう。

「もう、筋肉は……」

 ――いない。

 はっきり言って私にもあまり現実感がない。

 五万レベルを超す、今の私ですら一対一、頑張っても一体二くらいが限界のモンスターを数匹相手にして、一瞬でかっ飛ばして勝ってしまったような人だ。
 弟子になると勝手に張り付いてから本気になった姿を見たことはないけど、常に余裕に溢れ、怪我一つ負うことなくモンスターをはったおす姿を知っていれば、あの人が死んでしまうとは決して納得が出来るものではなかった。

 今にもひょっこりと現れ

「よっ」

 なんて右手をひらひらしながら、適当な挨拶をして白い歯を見せてくれる、そんな気がずっとしている。

「フォリアちゃんに……一年もあの人と付き合っていないアンタに何がわかるの!? 好きな食べ物すら知らないくせに、どうして死んだって言い切れるの!? 私はずっと見てきた、ずっとずっと子供の頃から傍で見てきた! 怪我して、苦しんで、何度も何度も倒れて、それでも人のためにって立ち上がってここまで戦ってきたのを横でずっと見てきたの! その私が死んでないって言ってるんだから死んでるわけない! そう簡単に、何も言わずに死ぬはずがないの!」

 興奮のまま私の肩を握りしめ絶叫した、彼女の瞳孔は開き切っていた。

「ごめん……そうだよね、帰ってくるよね」

 私がそう頷くと、園崎さんは雑巾を片手に執務室を後にする。
 彼女のことを心配したウニやその幼馴染の橘さんが彼女を休めるよう言ってくるが、私もそういって彼女を止めても勝手にやってくるのだ。
 レベルもそこそこあり下手に閉じ込めても飛び出してくるので、どうしようもなく今はやりたいようにやらせるしかない。

 ウニは筋肉の事を覚えていない。
 アホネコも覚えていない。
 時々執務室に乱入してきて、菓子を貪りながら筋肉と雑談をしていた探索者の人たちも、誰ももう何も覚えていない。

 でも、ふと手を伸ばしたり、何もいない場所で身振りをしては、自分が何をしているのか分かっていない顔をして首を捻る。
 笑顔で部屋に乱入してきては、何しに来たんだっけと私に聞く。

『知らないよ』

 私がそういうと皆笑って、いやーごめんねと扉を閉じ帰っていく。

 確かにそこにいた。
 皆が完全にまるで何もなかったかのように振舞ってくれたら、私ももう少し楽だったのかもしれない。
 でも必ずみんなの心の中には大小彼の存在が根付いていて、忘れているはずなのにかつてのまま振舞い、私に絶対忘れさせない、常に想起させてやると囁いてくる。

 私が座るには大きすぎる革張りの椅子。
 靴を脱ぎ三角座りで太ももに顔を埋めると、どうしようもない感情が溢れ出して来た。

「私だってどうしたらいいのか分かんないよ……」

 筋肉は強い。それに何かするたび豆知識だとか、経験から来る色々なことを教えてくれた。

 強くて頭のいい奴が、組織と協力して世界の消滅に立ち向かう。

 私ごときが何かできると思ってもいないし、そんなすごい奴らが手を組んで対策するって言ってるんだから、きっともう大丈夫だと思っていた。
 私はその間筋肉が防いでいたダンジョンの崩壊を出来る分肩代わりして、そうすればあっという間に解決してしまうと信じていたのに。

 何も言わずに消えてしまった。

 手掛かりは何一つなく、私たちに出来ることもなにもない。
 筋肉ですらどうしようもなかったダンジョンの崩壊と消滅、経験も知識もない私たちで一体どうやって対処できるというのか。
 この先待つのはただ世界の消滅を目の当たりにしながら、根本的な解決方法も分からず、ただひたすら発生したダンジョンの崩壊を食い止めるだけ。

「いっつも俺に任せとけば大丈夫みたいな態度取ってたくせに……」

 やっぱり筋肉は嘘つきじゃないか。
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