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第百七十四話

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 なんだか、暖かい。

 ふと気が付いたとき感じたのは、柔らかい毛玉が太ももへぴったりと張り付く感覚だった。

「ねこ……?」

 鍵も閉めたはずなのにいったいどこから入って来たのだろう。

 挨拶代わりに、くぁ、と暢気な欠伸をする黒猫は、音のしない首の鈴を揺らして前足で顔の掃除を始めた。
 なんだか無性に物の暖かさが恋しくて、気儘で横暴な隣人をそっと抱き上げると、体を捩らせつつも仕方ないというように胸元へうずまってくる。

「くさ……」
『ニ゛ィ』

 微かに鼻を突く獣臭。
 思わず漏れてしまった言葉の返答として頬をなぞる爪、だが今はそれが心地よかった。

「猫も犬も別に風呂に入れる必要ないからな、まあ偶に拭いてやるくらいでいいのさ」

 そうか、ここの鍵を開けられる人間なんて数えられる程度しかいない。

 一か月ほど所有者が離れていた革張りの椅子が、本来の重みに喜びの軋みを上げる。
 彼はいつもと変わらない姿で、いつも通り片手をあげ私へと笑った。

「筋肉……」
「おう、久しぶり」



「どうせ一日何も食ってないんだろ。ほら、おにぎりとお茶」
「おなかへってない……」
「それでも食っとけ、今すぐじゃなくていいから」

 コンビニ袋にいくつも詰まったそれを私の傍らに置いた筋肉、そのまま横で胡坐をかいておにぎりをひとつ掴み上げた。

「よっこらせっと。何があったんだ? 出張先で誰かに暴言でも浴びせられたか?」
「……そういうの、よくあるの?」

 今回の戦いではそんな事はなかった。
 
 手に取ったそれを二口で食べきった彼はお茶を半分ほど一気に飲み干し、岩のように硬く太い腕で口元を拭って小さなため息を吐く。

「もちろんある、数えきれないほどな。どうしてもっと早く来てくれなかったんだ、どうして息子は、娘は、父は、母は死んだんだってな」
「そっか……筋肉は死んだ人の名前全員覚えてるのに、頑張ってるこっちの気持ちなんて分かんないんだ」

 他人に責任を押し付けるほうは楽だ。
 自分でも何かできたのかもしれないのに、他にも何かすべきことがあったのかもしれないのに、全部相手が悪いと言えばすべてが済むのだから。

「みんな必死に生きてたんだよ、死ぬのなんて望んじゃいない。だから死んだ後に名前を覚えるなんてのは、ただの俺のエゴに過ぎないんだよ」
「エゴ……」
「自己満足、利己的ってことだ」

 そんなわけない。

 妬みを買って、恨みを背負って、それでも他人のために命を懸けて戦い続ける。
 一体どれだけの人がそんなことできるだろう。
 そして、それを顔色一つ変えずに出来る人間を、どうして利己的な人だと罵ることが出来るだろうか。

 罵る人たちの方が何倍も、何十倍も利己的で自己満足に満ちた人間じゃないか。

「人と人ってのはどこまで行っても他人同士だからなぁ、どんなに必死に戦っても全部伝わる訳じゃない。第一伝わったからっても、それを他人が飲み込めるかもまた別の話だ」
「……結局他人の好き勝手で変わるなら意味ないじゃん」
「意味ないように見えてもやるんだよ、続けてりゃいつか意味は見つかる。でも何もしなけりゃ答えなんて永遠に見つからん、だからお前も何があったのか取りあえず話してみろ」

 誰かに話すことに何かの意味があるのなら……

「ママ、見つかったんだ」
「――っ! アリアさんがか!?」
「あれ、ママのこと話したっけ……? まあそう、アリア、私の……」

 大切な大嫌いな家族。

 偶然拾った女性、成り行きで一緒に暮らすこととなったこの一か月が、探索者になってから……いや、パパが居なくなって、全てが変わったあの日から今までで一番幸せだった。

「思い出したくなかった、ずっと名前なんて記憶から消してた。でも名前なんか憶えてなくても分かっちゃったんだ……私のママなんだって」
「そう、か。それでどうしたらいいのか分からなくなって、この部屋で引き籠ってたんだな」

 薄暗かった部屋も、今は彼によって明かりが付けられている。

「そうか、記憶喪失で……」

 私の話を聞き終わった筋肉は顎を軽く撫で、あまりにあっさりとした答えを返して来た。

「まあそういうことなら暫くは顔合わせなくていいんじゃねえの?」
「……普通仲直りしろとかいうもんじゃないの?」
「今顔合わせたってお前が飲み込み切れてないなら意味ねえだろ。一日でも、二日でも、一か月でも、好きなだけ顔合わせなくていいさ」

 飲み込み、切れるのだろうか。

 あの日から六年……いや、もう七年になる。
 大して生きていない私の人生だけど、少なくともこの七年は私の生きてきた時間の半分を占めていて、その間これっぽっちも飲み込めなかった。
 七年かけて飲み込めなかったものを、この先飲み込み、乗り越えていくことが出来るとは到底思えない。

 怖い。
 怖くて怖くて仕方ない。

 一度思い出してしまえば、彼女の瞳に虚空の憎悪を想起してしまう。
 乗り越えることの出来ない今、再度対峙した時私はきっとあの目に恐怖してしまう。
 そして突き刺すだろう、言葉の刃を、六年間心の奥底に埋めていた怒りの牙を。

 今のアリアにとっては関係のないこと。
 それでも、わたしは……

「結局私も、誰かのせいにしてる側の人間なんだね」

 そう、私も全てをアリアのせいにして目を逸らしてる。
 六年間、なぜ彼女が私を拒絶したのか、何があったのか、全てから目を逸らして責任を彼女に押し付けた。
 単純に私のことが憎いのか? なにかそうせざるを得ない理由があったのか?

 きっとそこには何かがあった。納得できるかは別として、ママが私のことを捨てた理由があった。
 でも見えない答えを受け入れる自信がなくて、正面から受け止めることを逃げているに過ぎない。

「ただまあ、一つ言えることがあるとすれば」
「え……?」
「さっきも言っただろ? 怒りでも何でもいい、心の底からの本音で相手にぶつけなきゃ永遠に分かり合えないぞ。私はこうなんだ、お前はどうなんだって直接言葉で殴り合って、それで漸く理解が始まるってもんだ」

 本音で話すことが常に最良の結果を出すわけじゃない。
 醜い所をさらけ出した言葉は立派な武器だ、相手の心を延々と傷付けることになりえる。

 それでも、それを理解した上で殴り合わないと理解できないなんて……

「――筋肉らしい、脳筋理論だね」
「そうか?」
「そうだよ」

 その一歩を踏み出せる人はそうそういない。
 たとえ壊れかけの関係でも、砕け散る未来が見えたとしても、その一歩を踏み出すくらいなら後回しにするのが大半の人だ。

「後回しにするのはいつでもどれだけでも出来る、ただ先延ばしにした結果なにもできないってことも当然起こる。それなら機会があったらぶつかっていった方が、きっと後悔は少ないんじゃねえかな」
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