耳のある影法師

星野響

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第1話 耳のかけた影法師

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 東京駅なる名前らしい建造物を背景に人族が二人立ち話をしていた。どちらも横を向いており、表情はよく見えない。背の高い方の人族がこちらを指差す。

「この猫、どうしてこんなに安いのかね」

「ああこいつかい。まあ元より面白みのない黒猫だから人気がないのとね、何よりこいつの耳を見てみな。右側だけ桜の花びらみたく欠けとる。安くせんと売れんでな。あんさん、どうだね。顔は悪くねえと思うんだが」

「どれどれ」

 そう口にして外套を羽織って蝙蝠にでもなったかのような影は身をかがめ、格子越しに顔をぬうっとボクの目の前に突き出す。ボクにはそれがヒトの男という種族だとわかった。不思議なことに、そののっぺりと毛のない顔に二つ取り付いた目の表面は、金属光りする枠に薄く縁取られた丸い膜のようなものに覆われており、そこにボクの顔が写り込んでいた。いまから思えばそれは眼鏡という視力の芳しくない人族が好んで用いる道具だったのだが、使って何になるのかは、猫のボクはつゆ知らぬ。知りたいとも思わぬ。

「あーナルホドね。ほんとに桜みたいに切れ込みが入ってるんだね。仲間との喧嘩でこうなったのかね」

「さあな、わしの知ったこったあねえ」

 いつもボクに餌を放り投げてくるだけの人間のおっさんが年に相変わらず似合わぬ丸くならない調子でそう言う。

 ふうん、と唸った男はボクの目の前で人差し指を大袈裟な動きで左右に動かす。今はじゃらされる気分ではなかったから脚を頭の下敷きにしたままウトウトしていたら、男は悪びれることなくボクの尻尾をむんずと掴んだ。

 尻から頭まで電流が駆け巡ったような感覚に飛び上がったボクは、本能的に尻尾を引っ込め、取り残された男の手の甲に一発爪を見舞った。

「うわっ。こいつ引っ掻きよったよ」

「ああ、あんま手出さねえでくださいよ。そいつ気まぐれなんでね。俺もろくに触れさせてもらえねえでな」

 人間様が先に手をあげておいて、何が気まぐれであろうか。そんな猫語の抗議は、人間からすれば、ただ気の立った小動物の意味のない騒ぎ声にしか聞こえないのだろう。

「そうですか、お気の毒に。これは商品として出来がいまいちですね。顔はそこそこに可愛いのに、耳がこれで気まぐれとくれば、なかなか厳しいでしょう。まあ、どのみち黒猫なんて好き好んで買う人いますかね。今の流行りはもっぱら舶来の西欧猫ですから。早々に里子に出したほうがいいんじゃないでしょうかね」

「そうよなあ。もう二週間は店先に出しておるが、気に入ってくれた客はいやせん。いやあ、そうさせてもらおうかねえ」

 男はボクの餌やり器のだみ声とお辞儀に送り出されて帰っていく。

 僕は見送る気もなく金属の柵の内側で大欠伸をして眠りにつこうとしていた。もう何日もこうやって鉄格子に遮られた視界の中で眠りにつき、鉄格子に遮られた視界の中で目を覚ましている。何度もボクの前に人間が現れては、好き勝手に眺め回した挙げ句にそっぽを向いて帰っていった。だが、飼い主が見つからないことへの未練はまるでない。このときからボクには人族への思い入れが全くなかったと思う。ああやってボクを無造作に扱っては、気まぐれだの可愛げがないだの好き勝手なことを吐いて帰っていくのが人間であるのならば、ボクは彼らのもとに隷属することを全くもって望みはしない。おじさんはボクの飼い主と言えなくもないかもしれないが、なんだか違う気がした。

 そういったことを考えるならば、日が大正東京の西洋かぶれな町並みに沈みかけ、餌やりおじさんがボクらを連れて帰る時間帯にな
ると、真っ先にボクの首筋が摘まれたのは幸いだったのではないかと今となっては思う。てっきりいつも通りおじさんの『寂れた』ならぬ『』トタン屋根の家へ連れて帰られるものと思っていたボクは、目の前を通り過ぎる景色がいつもと違うことに気がつく。いつの間にやらおじさんは駅前から静かな寂れた路地に分け入り、舗装されていない砂地を下駄を鳴らして歩いていた。

 何かおかしいと子猫ながらに不安に駆られたボクは、えいとおじさんの指の間で暴れた。しかし、どれだけのたうち回り、身体をねじってまで首筋を掴んでくる手首を引っ掻いても、おじさんは足を止めてまでこれまで見せたことのないくらいの力を出してボクにきつく食い込んだ指を離そうとしない。ボクが暴れ疲れて抵抗をやめたところでおじさんは散々悪態をついてから再び歩きだした。これはどれだけ足掻いたところで無駄だと大人しく宙吊りになっていることにした。

 おじさんの歩みに合わせて規則正しく全身が上下する。すぐそばを風車を片手に子どもたちが走り抜けていく。十字路にさしかかったとき、これまで家々に隠れていた太陽が顔を出し、ボクの眼を容赦なく射る。おじさんが階段を登っていく感覚がある。

 そうやって運ばれ、たどり着いた場所はいよいよ正体がわからない。おじさんが立っている地面には砂ではなく大きな石が敷き詰められており、両脇には背を高く高く伸ばし、茎を子猫の胴程も太らせた植物が、そよそよと音を立てつつボクに手を伸ばしていた。それが竹という植物だということを露も知らないくらいに、ボクは生まれてこのかたで、あまりに無知であった。

「おめえは、今日からここで暮らせい。ここじゃあ僧侶たちが慈悲をかけてくれるでなあ。食べるものにゃ困らんさ」

 そう言っておじさんはボクを石の地面に前足から降ろした。体温が前脚と後脚の肉球からすうっと逃げていく感じがした。

 ボクはしばらくの間、夕日を背にして、暗い影にしか見えなくなったおじさんの頭を見つめていたが、おじさんはさっと僕に背中を向けて歩きだした。

 ボクは、ついて行かなかった。

 この光景が意味するところが理解できていなかったのだと思う。だからしつこくついて行くこともしなかった。ボクは、おじさんが階段を降り、街角に消えてはじめて、自分が捨てられたことを曖昧に認識した。

 どうしようにも仕方がなくなってボクはみいみい鳴いた。そうしたらおじさんが戻ってくるかもしれないと僅かに期待していた。はじめは鳴いた回数を数えていたが、途中から煩わしくなって、ただただみいみい声を上げていた。
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